9. 誤解と原稿
本入稿を終えたあと、六月は急に速く流れ始めた。
印刷所から正式な確認メールが届き、広報用の告知が公開される。
制作班のグループチャットには、篠田先輩や桃果から「お疲れさま」の言葉が並び、陽向からも短い返信が届いた。
私も、短い言葉だけで返した。
それ以上、個人チャットには何も書けなかった。
表紙決定会議のあと。
合宿で毛布を掛けてもらった朝。
そして、印刷所での、あの二十分。
どれも制作の中で起きた出来事のはずなのに、思い返すと胸の奥に同じ温度の沈黙が残っている。
入稿は終わった。
原稿も完成した。
それなのに私の気持ちだけが、まだあの打ち合わせ室に取り残されているようだった。
恋より先に、原稿を完結させたい。
そう言い続けてきたのに、原稿が先に終わったあとで心だけが置き去りになった気がする。
……追いかける準備をする。
そんなことを、自分で思ったばかりだったのに。
私は角教室で陽向の隣に座る回数を、無意識に数えていた。
入稿の翌日は、向かいの机だった。
その次の日は、彼が早退した。
個人チャットの既読はつく。
けれど、その先の返信は以前より少なくなっていた。
講義のノートには、誤字が一つ増えた。
講師からは集中できていないと注意されてしまった。
放課後、カフェ『ブックマーク』の前を一度通り過ぎた。
ガラス越しに、窓際の席が見える。
いつも陽向が先に来て、私の分のコーヒーを頼んでおいてくれた場所だ。
今日は、入らなかった。
まだ、言葉が準備できていなかった。
* * *
入稿の翌日、水曜日。
角教室の定例は、いつもより静かだった。
桃果が入稿後の保管用リストを広げ、篠田先輩は公開した広報の反応を確認している。
陽向は入稿データのバックアップと、印刷所から届いた工程表のステータスを確認していた。
私は窓際の席で、控え用のPDFを開いていた。
もう修正を加えるためではない。
搬入当日の台詞確認と、広報用の紹介文を照合するための資料だった。
三十六ページ。
表紙。
奥付。
何度も見たものばかりなのに、画面を開くとまだどこかに間違いが残っているような気がする。
「御影先輩、入稿後の控えって、共有フォルダの『確定版』で合っていますよね?」
桃果がノートパソコンをこちらに向けた。
「……はい。ファイル名と日付も確認しました。問題ありません」
「よかった。私、念のため二か所に保存しておいたんですけど、同じものか心配になって」
「元のファイルと照合すれば大丈夫ですよ」
「じゃあ、あとで確認します」
桃果はチェックリストに丸をつけた。
「真壁先輩、バックアップは二系統取れてますか?」
陽向がモニターから顔を上げる。
「うん。印刷所に送った確定データと、ローカルの保存用。どっちも確認済みだよ」
「もう差し替えはできないんですよね?」
「本入稿が終わっているからね。今は保管を徹底する段階。データが消えたら困るから、そこだけは気をつけてる」
「なるほど。完成したあとも、やることはあるんですね」
「本が届くまでは、まだ気が抜けないよ」
陽向はそう言って、再び画面に向き直った。
以前なら、このあたりで私のほうを向き、「紗季、ここどう思う?」と資料を持って隣まで来ていた。
今日は向かいの机の端に座ったまま、モニターを見ている。
机を一つ挟んだ距離。
遠いわけではない。
話しかけようと思えば、すぐに声は届く。
それでも、彼の表情が少し見えにくかった。
休憩に入ると、陽向がキッチンでコーヒーを淹れた。
紙コップが二つ並び、片方が私の机に置かれる。
ブラック、無糖。
いつもと同じだった。
「……ありがとうございます」
「うん」
それだけのやり取りだった。
コーヒーを置く手つきも、カップの向きも、以前と何も変わらない。
けれど、目が合う時間だけが短かった。
陽向はすぐに自分の席へ戻り、タブレットを開いた。
私は紙コップを両手で包んだ。
温かかった。
そのとき、篠田先輩が資料から顔を上げた。
「……お前たち、昨日喧嘩したな」
唐突な言葉に、私はコーヒーを持つ手を止めた。
「……制作上の意見の相違です」
「意見か」
篠田先輩は、私と陽向を順番に見た。
「まあ、そういうことにしておくか」
それ以上は追及されなかった。
陽向も何も言わず、手元の資料へ視線を戻した。
定例が終わるころ、桃果が私の隣に椅子を寄せた。
「御影先輩」
「はい?」
「真壁先輩と、最近、席が遠いですね」
「……席はいつも通りです。私は窓際ですし」
「そうじゃなくて、二人の距離です」
「制作上の配置です」
「はい、配置ですね」
桃果は笑った。
からかうような口調ではなかった。
むしろ、私の反応を確かめるように、少しだけ声を落としている。
「入稿の日、何かあったんですか?」
「……少し言い合いになりました」
「やっぱり」
「でも、もう謝りましたし、真壁さんも謝ってくれました」
「じゃあ、仲直りはしたんですね」
「……そういうことになると思います」
桃果は私の顔を見た。
「思います、ですか」
「一ノ瀬さん」
「はい」
「それ以上は聞かなくていいです」
「わかりました」
彼女はそれ以上何も言わなかった。
ただ、キッチンで洗い物をしている陽向の背中を一度だけ見た。
私も、そちらへ目を向けた。
少し小さく見える背中だった。
配慮するように一歩下がった、あの日のまま。
ありがたいと思う気持ちと、もう少し近くにいてほしいと思う気持ちが、うまく整理できずにいた。
* * *
木曜日。
講義のあいだ、私は何度もスマートフォンを開いた。
陽向からの通知は、制作班のグループチャットだけだった。
個人チャットの最後には、入稿完了のメッセージが残っている。
『入稿、完了。おつかれ、紗季』
その下に、私の返事。
『こちらこそ、お疲れさまでした。表紙、良い色になりました』
既読はついている。
その先に、新しいメッセージはなかった。
私はスマートフォンを伏せ、講義のノートに目を戻した。
教授が説明している内容を、もう一度読み返す。
頭には入ってこなかった。
放課後、角教室に顔を出すと陽向の席は空いていた。
桃果がノートパソコンを閉じながら教えてくれた。
「真壁先輩、今日は早退です。入稿後のデータ整理が一区切りついたので、家で作業するって」
「……そうですか」
「何か伝えておきますか?」
「いえ。大丈夫です」
桃果は少しだけ私の顔を覗き込んだ。
「御影先輩、顔が暗いです」
「……入稿直後ですから。少し疲れているだけです」
「そうですか?」
「そうです」
桃果は納得したような、していないような表情を浮かべた。
「じゃあ、今日は早めに帰って休んでくださいね」
「一ノ瀬さんも。原稿が終わったからといって、夜更かしはしないように」
「はい。先輩もですよ」
私は荷物をまとめ、角教室を出た。
疲れているのは原稿のことよりも、陽向との距離のほうだった。
* * *
金曜日。
大学前の掲示板に、ねこじるしの新作告知が貼られていた。
印刷された表紙には、部室の窓と橙の後ろ姿が描かれている。
窓から差し込む光は、色校正のときに調整した柔らかな色合いになっていた。
その下には、夏のイベントの日程とスペース番号の案内が添えられている。
私は、足を止めた。
表紙は決まった。
データも入稿された。
あとは、本が届くのを待つだけだ。
掲示板の前を通り過ぎる学生が、告知を見て何か話している。
「これ、前に売ってた本の続きかな?」
「別編って書いてあるよ」
そんな声が聞こえた。
私は、少しだけ背筋を伸ばした。
自分たちが作った本を、誰かが見ている。
それは嬉しいことだった。
なのに、告知の下に書かれた夏コミの日程を見ていると、入稿の日のことを思い出してしまう。
七月まで、あと少し。
陽向と一緒に作業をしてきた時間は、まだ終わっていない。
そう思うと、少しだけ胸が落ち着いた。
* * *
土曜日。
私はマンションの机で、搬入用のメモを整理していた。
講義のレポートと広報文案の誤字チェック。
イベント当日の持ち物や、会場で確認する事項もノートに書き足していく。
手を動かしていると、余計なことを考えずに済む。
午後、制作班のグループチャットに桃果が写真を投稿した。
印刷所から届いた表紙の試し刷りだった。
『印刷所から届きました! 色、ちゃんと直ってます!』
添付画像には窓の光が柔らかく入った表紙が写っていた。
紙の質感もよく、タイトルの文字がすっきりと収まっている。
陽向からすぐに返信があった。
『うん。良いね』
私は画像を拡大し、細かな部分まで確認した。
柚のリボンも、指定した長さになっている。
『確認しました。色も文字も問題ありません』
送信すると桃果から猫のスタンプが返ってきた。
私は画面を閉じた。
個人チャットは、開かなかった。
* * *
日曜日。
母から小豆の動画が届いた。
クッションの上で丸くなっていた小豆が、母の声に反応して一度だけ顔を上げる。
それから、何事もなかったように、また目を閉じた。
相変わらずのんびりしている。
私は動画を見終えてから、猫の足跡のスタンプを返した。
そのあと、机の上に置いてあった入稿後の台詞控えを開いた。
三十六ページ分の台詞をまとめたものだ。
本番の印刷物が届く前に、もう一度目を通しておこうと思った。
ページを追っていく。
部室の場面。
文化祭の廊下。
柚の独白。
橙の「好き」の前で、また指が止まった。
『俺、柚のことが好きだよ』
何度も読んだ台詞なのに、そこだけ少し違って見える。
私は、ページをめくった。
作品の台詞だ。
そう言い聞かせる。
それでも、陽向の声で再生されてしまうことがあった。
私は台詞控えを閉じ、ノートの下にしまった。
* * *
六月第三週の火曜日。
入稿から一週間が過ぎた。
制作班の仕事は印刷所からの納品に向けた確認と、イベント当日の準備に移っていた。
原稿そのものを直す作業は、もうほとんど残っていない。
搬入用の段ボールのサイズ、サークルスペースの確認、当日の集合時刻、残部の扱い。
去年、前作が完売したあとに篠田先輩がまとめていた項目が、今年もチェックリストに並んでいた。
「去年のメモ、役に立ちますね」
桃果がファイルを見ながら言った。
「経験は残しておくものだ」
篠田先輩は、淡々と答えた。
「前作のときは、売り切れたあとに残部の記録をつけていなかったからな。今年は最初から表にしておく」
「完売したんですよね。すごいです」
「完売したからこそ、次に困らないようにする」
「なるほど。先輩らしいです」
篠田先輩は返事をせずにチェックリストへ目を戻した。
私は搬入用の台詞控えを確認していた。
そのとき、篠田先輩がこちらを向いた。
「御影、当日、台詞にサインを頼まれることもあるかもしれないぞ」
「……作品の話なら、可能です」
「作者カップルだと勘違いされることもあるからな」
「……その場合は、断ります」
「そうか。真壁はどうする?」
陽向が少しだけ笑った。
「俺も断るよ」
「だそうだ。期待していた人には悪いが、そういうことらしい」
「先輩、面白がっていませんか?」
私が言うと、篠田先輩は肩をすくめた。
「イベント当日は、そういう質問も出る。事前に答えを考えておくのも準備のうちだ」
「……答えを考えるような質問ではありません」
「そうだな。聞かれたら、その場で適当に返せばいい」
桃果が私と陽向を見比べた。
「でも、二人で『違います』って言うんですか?」
「言います」
私が即答すると、陽向も頷いた。
「うん。そこは揃えておこう」
その返事が妙に自然で、桃果が小さく笑った。
「息は合ってますね」
「制作班ですから」
「はい。制作班ですね」
桃果はそれ以上は言わなかった。
陽向が久しぶりにこちらを見て笑った。
その笑い方は、入稿前の張り詰めたものではなかった。
ほんの少しだけ、いつもの距離に戻ったような気がした。
* * *
打ち合わせが終わり、私が資料をバッグにしまっていると、篠田先輩に呼び止められた。
「御影、少しいいか」
「はい」
先輩は、陽向が別の資料を片づけているのを確認してから、声を落とした。
「真壁との距離、空きすぎじゃないか」
私は手を止めた。
「……そうでしょうか」
「連携が崩れると、当日困る。必要な確認まで遠慮するなよ」
「仕事の連絡はしています」
「仕事の連絡だけ、だろう」
先輩は私の返事を待たずに続けた。
「入稿の日のことは聞かない。二人の問題だからな。ただ、仕事に支障が出るなら話せ。恋愛相談はしないが、班の連携は見る」
「……ありがとうございます」
先輩の言葉は、少し角が立っていた。
けれど、背中を押されたような気もした。
自分でも、このままではいけないと思っていた。
入稿は終わった。
一緒に作ってきた作品も、形になった。
それなのに、いつまでも同じところで立ち止まっている。
角教室では陽向は入稿後の仕事を片づけながら、私のほうをあまり見ない。
私も、彼に話しかけるのは必要な確認だけにしていた。
避けられているのか。
それとも、気を遣われているのか。
どちらにしても、黙っているだけでは何も変わらない。
私は、机の端に置いた広報用の紹介文を手に取った。
「……真壁さん」
陽向が振り返る。
「ん?」
「広報用の紹介文、最終確認をお願いできますか」
「うん。見るよ」
彼は資料を受け取った。
指先が一瞬だけ触れそうになって、触れなかった。
「ありがとう。あとで修正したところを返すね」
「……お願いします」
仕事の口実。
入稿後の原稿そのものは、もう変更できない。
今、二人で確認できるのは広報の文言くらいだった。
それでも、話す理由が欲しかった。
桃果が向かいの席でノートに何かを書き込んでいる。
私はそちらを見ないようにした。
* * *
六月第三週の水曜日。
私はブックマークへ行く日を決めた。
前日の夜、カレンダーに予定を入れる。
『資料確認』
それだけを書いた。
そのあと、陽向との個人チャットを開いた。
最後のやり取りは入稿完了のメッセージだった。
しばらく入力欄を眺めてから、私は短く打った。
『明日の午後、ブックマークで広報用の紹介文を確認したいです。時間があれば、一緒に見てもらえますか』
送信してからスマートフォンを伏せた。
少しして、通知が鳴った。
『わかった。二時半ごろでいい?』
『大丈夫です』
『じゃあ、明日』
それだけだった。
私は画面を閉じ、机の上の資料を揃えた。
仕事の確認をするためだ。
そういうことにしておけば、明日は自然に話せるかもしれない。
* * *
木曜日の午後。
私は、カフェ『ブックマーク』へ向かった。
角教室で距離を測っているだけでは、何も変わらない。
顔を合わせて言葉にしなければ、誤解は少しずつ厚くなっていく。
……誤解、か。
避けられているのか。
気遣われているのか。
どちらも陽向らしい。
けれどもどちらも、今の私には寂しかった。
ブックマークの扉を開けると、コーヒーの香りに古い紙の匂いが混じっていた。
制作班のみんなと通し読みをしたときと同じ空気だった。
窓際には、いつもの席が空いていた。
コンセントがあり、外の並木道がよく見える。
陽向が先に来て、私の分のコーヒーを頼んでおいてくれたこともある。
今日は、私が先に来た。
カウンターでブラックのホットを注文し、窓際の席に座る。
テーブルに広報用の修正メモと、入稿後の台詞控えを広げた。
仕事の資料という口実ではあるけれど、確認すること自体は本当に残っている。
店内は午後の時間帯らしく、学生の客も少なかった。
窓の外では、六月の光を受けた並木の葉が揺れている。
雨が降る前なのか、空気は少し湿っていた。
私は、コーヒーを一口飲んだ。
いつもより、苦みが強く感じられた。
二時半。
店の扉が開いた。
陽向だった。
腕章はもう外している。
肩にはタブレットの入ったバッグを掛け、店内を見回している。
私に気づくと、一瞬だけ足を止めた。
「……紗季」
「……真壁さん」
陽向はすぐには近づいてこなかった。
一つ隣のテーブルを通り過ぎ、私の向かいにある椅子を見てから、少しだけ迷ったように立ち止まる。
「ここ、座っていい?」
「……はい」
彼はゆっくりと椅子を引いた。
以前なら、何も聞かずに向かいへ座っていた。
その小さな違いが、今の私にはよく見えた。
「資料、持ってきたよ」
陽向がタブレットを机に置く。
「ありがとうございます」
「先に広報文案を見る?」
「そうですね。公開する前に、もう一度確認したいところがあります」
私たちはしばらく仕事の話をした。
タイトルの表記。
前作との関連を説明する一文。
イベントの開催日時。
紹介文に使う言葉の選び方。
必要な確認は、きちんと進んでいく。
けれど、資料を一通り見終わったころには、次に何を話せばいいのかわからなくなっていた。
コーヒーの湯気が、二人の間でゆっくりと薄くなる。
陽向がタブレットを閉じた。
「これで、広報の修正は大丈夫そうだね」
「はい。ありがとうございます」
「よかった」
そこで会話が途切れた。
私はカップの縁に指を添えた。
今日はこれを聞くために来たのだ。
仕事の確認だけして帰るつもりはなかった。
「……真壁さん」
「ん?」
「最近、私を避けていますか?」
言葉にすると、思っていたよりも直接的だった。
陽向が、少しだけ眉を上げた。
「避けてないよ」
「でも、角教室でもあまり話しかけてくれませんし、個人チャットも、入稿の日から連絡がありません」
「それは……」
陽向はすぐに答えなかった。
カップを持ち上げ、冷めかけたコーヒーを一口飲む。
それから、ゆっくりと言った。
「紗季が、疲れてると思ったから」
「……疲れていました。入稿前から、ずっと」
「うん。だから、少し距離を置いたほうがいいと思ったんだ。俺が近くにいたら、余計に気を遣うかもしれないし」
彼の言葉に、胸の奥が熱くなった。
気遣いだった。
配慮だった。
私が一人になりたいと言ったときと同じように、陽向は私の様子を見て、少し距離を取ってくれていた。
それは、ありがたいことのはずだ。
わかっている。
けれど、それだけではなかった。
「……それだけじゃないです」
陽向が顔を上げた。
「え?」
私はカップを机に置いた。
「私には、避けられているように感じました」
「そんなつもりはなかったよ」
「そうだとしても、何も言わずに距離を置かれると、どうしていいかわからなくなります」
「……ごめん」
「謝ってほしいわけではなくて」
言いながら、自分でも何を伝えたいのかが曖昧になっていく。
けれど、ここで引き下がったら、また同じことを繰り返す気がした。
「嫌われたのかと思いました」
陽向の表情が変わった。
「そんなことはない!」
「本当ですか?」
「本当だよ。紗季のことを嫌いになるわけない」
その言葉を聞いて、胸の奥に張りつめていたものが少し緩んだ。
それでも、まだ足りなかった。
「……だったら、私だって」
「うん?」
「私だって、真壁さんと話したくないわけじゃありません」
一度口にすると、言葉が少しずつ続いていった。
「友達だからって、何でも平気なわけじゃないです。何も聞かないまま離れられると、私だって……」
そこで、言葉が止まった。
友達。
その言葉を使えば、今の関係を説明できると思っていた。
けれど、口にしてみると、何かが足りない気がした。
「……友達、だけじゃないです」
自分の声が、思ったより小さく聞こえた。
陽向は、何も言わなかった。
私は、急に恥ずかしくなって視線を落とした。
「今のは、その……」
「うん」
「変な意味に取らないでください」
「変な意味って?」
「……聞かないでください」
陽向が少しだけ笑った。
からかうような笑い方ではなかった。
むしろ、何かを大事に受け止めようとしているように見えた。
「わかった。聞かないよ」
私はカップを両手で包んだ。
「ただ、いつも通りに話してほしかったんです。何もなかったみたいにされると、それはそれで落ち着かなくて」
「そっか」
陽向は少し考えるように視線を落とした。
「俺は紗季が一人で考えたいときは、そうさせたほうがいいと思ってた。でも、入稿の日のことまで引きずっているとは思わなかった」
「……私も、こんなに気になるとは思いませんでした」
「じゃあ、これからは、ちゃんと聞くよ。距離を置いたほうがいいのか、話しかけていいのか」
「いちいち聞かなくてもいいです」
「難しいな」
「そうですね」
二人で少しだけ笑った。
そのとき、陽向が静かに尋ねた。
「近くにいていい?」
私は顔を上げた。
いつもならこんな言葉を聞けば、すぐに返事を逸らしていたと思う。
けれど、今日は違った。
私は小さく頷いた。
「……はい」
陽向は向かいの席に座り直した。
それまで一つ空けていたテーブルの距離が、ようやく元に戻った。
「ありがとう」
「……お礼を言われることではありません」
「そうかな」
「そうです」
私は手元の資料を整えた。
指先はまだ少し震えていた。
陽向はタブレットを開き、広報文案の修正履歴を確認した。
「じゃあ、紹介文の最後だけ、もう一度見ておこうか」
「……お願いします」
声が戻った。
ですます調も戻った。
近くにいていい。
そう言われた。
恋人ではない。
それでも、昨日までより少しだけ、境界線が内側に動いた気がした。
私たちは広報文案と台詞控えを確認しながら、しばらく同じ机に向かった。
仕事の言葉で、時間をつなぐ。
今は、それで十分だった。
* * *
ブックマークを出たのは、午後四時ごろだった。
店の外へ出ると、湿った空気の中に、雨の匂いが混じっていた。
空は少し曇り始めている。
駅へ向かう歩道には、傘を手に持った人が増えていた。
陽向は大学まで一緒に歩いてくれた。
「……駅まで送るよ」
「……一人で帰れます」
「うん。わかってる。でも、今日は送りたい」
私はすぐには答えなかった。
いつもなら、ここで断っていたと思う。
けれど、今は少しだけ違った。
「……では、お願いします」
陽向は嬉しそうに頷いた。
「うん」
私たちは並んで歩いた。
大学までの道には街路樹の葉が重なり、歩道に薄い影を落としている。
途中のコンビニから冷たい飲み物を買いに出てきた学生が二人、笑いながら通り過ぎた。
特別な会話はなかった。
それでも、隣に人がいることが、さっきまでより自然に感じられた。
改札前で立ち止まる。
「今日は、ありがとう。紗季」
「……こちらこそ。ありがとうございました」
「うん」
私は少しだけ迷ってから続けた。
「それから、入稿の日のことですけど」
陽向がこちらを見る。
「はい」
「言いすぎました。あのときは、私も焦っていて……でも、真壁さんに当たるような言い方をしてしまいました」
「うん」
「すみませんでした」
陽向は首を横に振った。
「俺も、言い方が悪かった。あのときは、俺も余裕がなかったから。声を荒らげてごめん」
「……はい」
「本入稿が終わって、ほっとしたのに、最後にあんなふうになっちゃったね」
「そうですね」
「でも、ちゃんと入稿できてよかった」
「……本当に」
それだけで、気持ちが完全に元通りになったわけではない。
けれど、二人で同じ出来事を振り返り、謝ることができた。
それだけでも、少し違った。
陽向は手を軽く上げた。
「じゃあ、また明日」
「はい。また明日」
私は改札を通り、ホームへ向かった。
振り返ると、陽向はまだそこに立っていた。
手を振るわけでもなく、ただこちらを見ている。
私が小さく会釈すると、彼も同じように返してくれた。
* * *
ホームで電車を待っていると、スマートフォンが震えた。
桃果からだった。
『御影先輩、ブックマークにいましたよね?』
私は画面を見つめた。
『……はい。資料の確認をしていました』
すぐに返事が届いた。
『真壁先輩も、いましたよね?』
『そうですね』
少し間が空いた。
『修復完了ですね!』
私は、思わず小さく笑った。
『……仕事のうちです』
『はい、仕事です(笑)』
桃果らしい返事だった。
続けて、篠田先輩からもメッセージが届いた。
『二人の顔を見た。よかったな』
『……連携が必要とのことですから』
『そういうことにしておく』
私はまた少し笑った。
電車がホームに入ってくる。
乗り込んで空いている席に座ると、陽向との個人チャットに新しい通知が届いていた。
『今日ありがとう。近くにいていいって言ったの、忘れないで』
私はその文章を何度か読み返した。
忘れないで。
それは、ただの確認なのかもしれない。
それでも、今日の会話を覚えていてくれたことが、少し嬉しかった。
返信欄を開く。
『こちらこそ、ありがとうございました。……近くは、仕事の範囲内でお願いします』
送信してから、自分の文章を見つめた。
仕事の言葉。
逃げ道の言葉。
けれど、今日はちゃんと送ることができた。
すぐに返事が届いた。
『うん。範囲内で』
私はスタンプ欄を開いた。
黒い猫の足跡を選ぶ。
指先が、少しだけ止まった。
今度こそ。
送信。
小さな足跡のスタンプが、トーク画面に表示された。
送れた。
それだけのことなのに、胸の奥が少し軽くなった。
* * *
ブックマークで話した翌日、金曜日。
角教室に着くと、陽向はいつもの席に資料を広げていた。
私に気づくと、手元の紙を一枚持ち上げる。
「紗季、搬入メモ、見た?」
「……はい。確認しました。問題ありません」
「よかった。集合時間も、前回と同じで大丈夫そうだね」
「そうですね。あとは当日の持ち物を確認すれば」
「一緒に行こうって話したの、覚えてる?」
私は少しだけ顔を上げた。
「……ええ」
「範囲内で」
陽向が笑った。
私は資料を机に置いた。
「……範囲内でお願いします」
「了解」
今度は私も小さく笑った。
桃果が向かいの席から二人を見ていた。
「修復……いえ、連携確認完了ですね」
「一ノ瀬さん」
私が呼ぶと、桃果はすぐにノートへ視線を戻した。
「はい。仕事の話です」
「そうしてください」
篠田先輩が入稿表を閉じた。
「よし。次は会場だ。搬入の確認をして、当日の役割を決めるぞ」
「はい」
四人の声が重なった。
ようやく、いつもの制作班に戻ってきたようだった。
* * *
六月の終わり。
夏のイベントまで、あと少しになっていた。
その約束どおり、角教室では搬入前の班打ち合わせが行われた。
机の中央には、搬入表と配置図、それから釣り銭の内訳を書いた用紙が並んでいる。
篠田先輩がホワイトボードに大きく時刻を書いた。
「まず前提。本は印刷所から会場へ直接搬入する。大学には届かない。当日、搬入受付で箱を受け取ってから初めて中身を確認する」
桃果が手を挙げた。
「角教室では、触れないんですね?」
「触れない。データと見本刷りの写真で確認済みだ。当日のミスは、現場で潰す」
篠田先輩は搬入番号と集合時刻を指さした。
「集合は去年と同じ改札前。遅刻者は自分で合流する。搬入番号は真壁が主担当、御影が控えを持つ。忘れたら終わりだ」
「了解です」
陽向と私が同時に答えた。
「次、金銭だ」
篠田先輩が釣り銭用紙を配る。
「会計は御影。頒布は新作六百円、前作五百円、セット一千円。釣り銭は昨夜、俺と真壁で確認した内訳どおり入れる。千円札、五百円玉、百円玉の数は、この表と一致しているか」
私はポーチの中身を数え、用紙と照合した。
「……問題ありません」
「売上が一定額を超えたら、すぐに報告。千円札は封筒に移し、小銭はトレイに残す。去年、午後に百円玉が尽きかけたからな。足りなくなったら、在庫補充より先に会計を止めて俺を呼べ」
「わかりました」
「領収書は、個別には出さない。サークルとしてまとめて精算する。当日は売上メモを二系統で取る。御影が表、俺が控え。帰りの電車で数字が合わなかったら、一ノ瀬のせいにする」
「えっ?」
「……冗談だ。合わせるのが班の仕事だ」
桃果が安堵したような、していないような顔をした。
「売り子当番だ」
篠田先輩が時刻表をホワイトボードに貼った。
「設営から開場前までは全員。開場後は三列制だ。前列は会計と客対応、中列は在庫と袋、後列は全体と列整理。前列・御影、中列・真壁、後列・俺。一ノ瀬は前列補助で袋とポストカード、在庫が薄れたら中列へ回る」
桃果がノートに書き込む。
「九時開場から十二時までは、御影先輩が会計固定。真壁先輩が在庫。私が袋とスタンプ」
「その間、俺は巡回して釣り銭と残部を見る。十二時から十二時半は交替休憩。真壁が会計を代行、御影は見本誌と在庫表を確認。一ノ瀬は列の整理を手伝う」
陽向が手を上げた。
「午後は?」
「十二時半から閉会前まで、再び御影が会計。真壁が在庫。休憩は四人で十五分ずつずらす。二人以上同時に離れるな。特に会計と在庫は、必ず一人はスペースに残れ」
「……わかりました」
「客への説明や、変な質問への返し方は、当日の設営が終わってからもう一度確認する。今日決めるのは、搬入と金銭と当番だけだ」
桃果が配置図を指さした。
「去年は途中で見本誌の位置を変えましたよね。今年は最初から決めておきたいです」
「そうだな。人の流れを見ながら、必要なら調整する。ただし、会計の位置だけは動かすな。列が乱れる」
篠田先輩は配置図に小さく印をつけた。
「搬入表、釣り銭表、当番表。三枚とも写真を撮ってグループチャットに上げろ。寝坊した奴がいないか、確認の意味もある」
陽向がスマートフォンを構え、桃果が紙の端を押さえた。
シャッター音のあと、制作班のチャットに三枚が並んだ。
『搬入前打ち合わせ、完了』
篠田先輩の短い一文。
私は釣り銭用紙をファイルに挟み、当番表のコピーをバッグに入れた。
まだ本は手元にない。
それでも、当日の動きだけは、頭の中で一度通せた気がした。
陽向は私の隣に座っていた。
以前のように、一テーブル空けた距離ではない。
資料を一緒に見られるくらいの、自然な距離だった。
「紗季、搬入番号はメモした?」
「……はい。真壁さんも確認しましたか?」
「うん。控えも取ってある」
「それなら大丈夫ですね」
「当日は一緒に行こう」
「……ええ」
自然だった。
その短いやり取りを見て、桃果が小さく拍手した。
「新作、完売祈願です!」
「祈願するな」
篠田先輩がすぐに返した。
「事実は在庫数で決まる」
「はい……」
桃果は少し残念そうに手を下ろした。
私は入稿表を閉じた。
三十六ページ。
表紙。
奥付。
すべて、もう私たちの手を離れている。
あとは、印刷所から会場へ届くのを待ち、当日搬入で初めて箱を開けるだけだ。
原稿は入稿されたが、恋はまだ未入稿。
けれど、心の準備だけは少し整った気がする。
窓際の席で、陽向がいつものように尋ねた。
「……ブラックでいい?」
「……はい。ありがとうございます」
「うん」
その返事を聞きながら、私は紙コップを受け取った。
近くにいていい。
仕事の範囲内で。
今は、それで十分だった。
六月の夜は、まだ長い。
次は、会場だ。




