↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
御影さんの境界線の内側で  作者: 椎名弥生


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/12

9. 誤解と原稿

本入稿を終えたあと、六月は急に速く流れ始めた。


印刷所から正式な確認メールが届き、広報用の告知が公開される。

制作班のグループチャットには、篠田先輩や桃果から「お疲れさま」の言葉が並び、陽向からも短い返信が届いた。


私も、短い言葉だけで返した。

それ以上、個人チャットには何も書けなかった。


表紙決定会議のあと。


合宿で毛布を掛けてもらった朝。


そして、印刷所での、あの二十分。


どれも制作の中で起きた出来事のはずなのに、思い返すと胸の奥に同じ温度の沈黙が残っている。


入稿は終わった。

原稿も完成した。

それなのに私の気持ちだけが、まだあの打ち合わせ室に取り残されているようだった。


恋より先に、原稿を完結させたい。


そう言い続けてきたのに、原稿が先に終わったあとで心だけが置き去りになった気がする。


……追いかける準備をする。


そんなことを、自分で思ったばかりだったのに。


私は角教室で陽向の隣に座る回数を、無意識に数えていた。


入稿の翌日は、向かいの机だった。

その次の日は、彼が早退した。


個人チャットの既読はつく。

けれど、その先の返信は以前より少なくなっていた。


講義のノートには、誤字が一つ増えた。

講師からは集中できていないと注意されてしまった。


放課後、カフェ『ブックマーク』の前を一度通り過ぎた。

ガラス越しに、窓際の席が見える。

いつも陽向が先に来て、私の分のコーヒーを頼んでおいてくれた場所だ。


今日は、入らなかった。


まだ、言葉が準備できていなかった。


* * *


入稿の翌日、水曜日。


角教室の定例は、いつもより静かだった。


桃果が入稿後の保管用リストを広げ、篠田先輩は公開した広報の反応を確認している。

陽向は入稿データのバックアップと、印刷所から届いた工程表のステータスを確認していた。


私は窓際の席で、控え用のPDFを開いていた。

もう修正を加えるためではない。

搬入当日の台詞確認と、広報用の紹介文を照合するための資料だった。


三十六ページ。

表紙。

奥付。


何度も見たものばかりなのに、画面を開くとまだどこかに間違いが残っているような気がする。


「御影先輩、入稿後の控えって、共有フォルダの『確定版』で合っていますよね?」


桃果がノートパソコンをこちらに向けた。


「……はい。ファイル名と日付も確認しました。問題ありません」


「よかった。私、念のため二か所に保存しておいたんですけど、同じものか心配になって」


「元のファイルと照合すれば大丈夫ですよ」


「じゃあ、あとで確認します」


桃果はチェックリストに丸をつけた。


「真壁先輩、バックアップは二系統取れてますか?」


陽向がモニターから顔を上げる。


「うん。印刷所に送った確定データと、ローカルの保存用。どっちも確認済みだよ」


「もう差し替えはできないんですよね?」


「本入稿が終わっているからね。今は保管を徹底する段階。データが消えたら困るから、そこだけは気をつけてる」


「なるほど。完成したあとも、やることはあるんですね」


「本が届くまでは、まだ気が抜けないよ」


陽向はそう言って、再び画面に向き直った。

以前なら、このあたりで私のほうを向き、「紗季、ここどう思う?」と資料を持って隣まで来ていた。

今日は向かいの机の端に座ったまま、モニターを見ている。


机を一つ挟んだ距離。


遠いわけではない。

話しかけようと思えば、すぐに声は届く。

それでも、彼の表情が少し見えにくかった。


休憩に入ると、陽向がキッチンでコーヒーを淹れた。

紙コップが二つ並び、片方が私の机に置かれる。


ブラック、無糖。

いつもと同じだった。


「……ありがとうございます」


「うん」


それだけのやり取りだった。


コーヒーを置く手つきも、カップの向きも、以前と何も変わらない。

けれど、目が合う時間だけが短かった。

陽向はすぐに自分の席へ戻り、タブレットを開いた。


私は紙コップを両手で包んだ。

温かかった。


そのとき、篠田先輩が資料から顔を上げた。


「……お前たち、昨日喧嘩したな」


唐突な言葉に、私はコーヒーを持つ手を止めた。


「……制作上の意見の相違です」


「意見か」


篠田先輩は、私と陽向を順番に見た。


「まあ、そういうことにしておくか」


それ以上は追及されなかった。

陽向も何も言わず、手元の資料へ視線を戻した。


定例が終わるころ、桃果が私の隣に椅子を寄せた。


「御影先輩」


「はい?」


「真壁先輩と、最近、席が遠いですね」


「……席はいつも通りです。私は窓際ですし」


「そうじゃなくて、二人の距離です」


「制作上の配置です」


「はい、配置ですね」


桃果は笑った。


からかうような口調ではなかった。

むしろ、私の反応を確かめるように、少しだけ声を落としている。


「入稿の日、何かあったんですか?」


「……少し言い合いになりました」


「やっぱり」


「でも、もう謝りましたし、真壁さんも謝ってくれました」


「じゃあ、仲直りはしたんですね」


「……そういうことになると思います」


桃果は私の顔を見た。


「思います、ですか」


「一ノ瀬さん」


「はい」


「それ以上は聞かなくていいです」


「わかりました」


彼女はそれ以上何も言わなかった。

ただ、キッチンで洗い物をしている陽向の背中を一度だけ見た。


私も、そちらへ目を向けた。


少し小さく見える背中だった。

配慮するように一歩下がった、あの日のまま。


ありがたいと思う気持ちと、もう少し近くにいてほしいと思う気持ちが、うまく整理できずにいた。


* * *


木曜日。


講義のあいだ、私は何度もスマートフォンを開いた。

陽向からの通知は、制作班のグループチャットだけだった。


個人チャットの最後には、入稿完了のメッセージが残っている。


『入稿、完了。おつかれ、紗季』


その下に、私の返事。


『こちらこそ、お疲れさまでした。表紙、良い色になりました』


既読はついている。

その先に、新しいメッセージはなかった。


私はスマートフォンを伏せ、講義のノートに目を戻した。

教授が説明している内容を、もう一度読み返す。


頭には入ってこなかった。


放課後、角教室に顔を出すと陽向の席は空いていた。

桃果がノートパソコンを閉じながら教えてくれた。


「真壁先輩、今日は早退です。入稿後のデータ整理が一区切りついたので、家で作業するって」


「……そうですか」


「何か伝えておきますか?」


「いえ。大丈夫です」


桃果は少しだけ私の顔を覗き込んだ。


「御影先輩、顔が暗いです」


「……入稿直後ですから。少し疲れているだけです」


「そうですか?」


「そうです」


桃果は納得したような、していないような表情を浮かべた。


「じゃあ、今日は早めに帰って休んでくださいね」


「一ノ瀬さんも。原稿が終わったからといって、夜更かしはしないように」


「はい。先輩もですよ」


私は荷物をまとめ、角教室を出た。

疲れているのは原稿のことよりも、陽向との距離のほうだった。


* * *


金曜日。


大学前の掲示板に、ねこじるしの新作告知が貼られていた。

印刷された表紙には、部室の窓と橙の後ろ姿が描かれている。

窓から差し込む光は、色校正のときに調整した柔らかな色合いになっていた。

その下には、夏のイベントの日程とスペース番号の案内が添えられている。


私は、足を止めた。


表紙は決まった。

データも入稿された。

あとは、本が届くのを待つだけだ。


掲示板の前を通り過ぎる学生が、告知を見て何か話している。


「これ、前に売ってた本の続きかな?」


「別編って書いてあるよ」


そんな声が聞こえた。


私は、少しだけ背筋を伸ばした。

自分たちが作った本を、誰かが見ている。

それは嬉しいことだった。

なのに、告知の下に書かれた夏コミの日程を見ていると、入稿の日のことを思い出してしまう。


七月まで、あと少し。

陽向と一緒に作業をしてきた時間は、まだ終わっていない。


そう思うと、少しだけ胸が落ち着いた。


* * *


土曜日。


私はマンションの机で、搬入用のメモを整理していた。


講義のレポートと広報文案の誤字チェック。

イベント当日の持ち物や、会場で確認する事項もノートに書き足していく。

手を動かしていると、余計なことを考えずに済む。


午後、制作班のグループチャットに桃果が写真を投稿した。

印刷所から届いた表紙の試し刷りだった。


『印刷所から届きました! 色、ちゃんと直ってます!』


添付画像には窓の光が柔らかく入った表紙が写っていた。

紙の質感もよく、タイトルの文字がすっきりと収まっている。

陽向からすぐに返信があった。


『うん。良いね』


私は画像を拡大し、細かな部分まで確認した。

柚のリボンも、指定した長さになっている。


『確認しました。色も文字も問題ありません』


送信すると桃果から猫のスタンプが返ってきた。


私は画面を閉じた。


個人チャットは、開かなかった。


* * *


日曜日。


母から小豆の動画が届いた。

クッションの上で丸くなっていた小豆が、母の声に反応して一度だけ顔を上げる。

それから、何事もなかったように、また目を閉じた。

相変わらずのんびりしている。

私は動画を見終えてから、猫の足跡のスタンプを返した。


そのあと、机の上に置いてあった入稿後の台詞控えを開いた。

三十六ページ分の台詞をまとめたものだ。

本番の印刷物が届く前に、もう一度目を通しておこうと思った。


ページを追っていく。


部室の場面。

文化祭の廊下。

柚の独白。


橙の「好き」の前で、また指が止まった。


『俺、柚のことが好きだよ』


何度も読んだ台詞なのに、そこだけ少し違って見える。

私は、ページをめくった。


作品の台詞だ。


そう言い聞かせる。


それでも、陽向の声で再生されてしまうことがあった。


私は台詞控えを閉じ、ノートの下にしまった。


* * *


六月第三週の火曜日。


入稿から一週間が過ぎた。


制作班の仕事は印刷所からの納品に向けた確認と、イベント当日の準備に移っていた。


原稿そのものを直す作業は、もうほとんど残っていない。

搬入用の段ボールのサイズ、サークルスペースの確認、当日の集合時刻、残部の扱い。


去年、前作が完売したあとに篠田先輩がまとめていた項目が、今年もチェックリストに並んでいた。


「去年のメモ、役に立ちますね」


桃果がファイルを見ながら言った。


「経験は残しておくものだ」


篠田先輩は、淡々と答えた。


「前作のときは、売り切れたあとに残部の記録をつけていなかったからな。今年は最初から表にしておく」


「完売したんですよね。すごいです」


「完売したからこそ、次に困らないようにする」


「なるほど。先輩らしいです」


篠田先輩は返事をせずにチェックリストへ目を戻した。


私は搬入用の台詞控えを確認していた。

そのとき、篠田先輩がこちらを向いた。


「御影、当日、台詞にサインを頼まれることもあるかもしれないぞ」


「……作品の話なら、可能です」


「作者カップルだと勘違いされることもあるからな」


「……その場合は、断ります」


「そうか。真壁はどうする?」


陽向が少しだけ笑った。


「俺も断るよ」


「だそうだ。期待していた人には悪いが、そういうことらしい」


「先輩、面白がっていませんか?」


私が言うと、篠田先輩は肩をすくめた。


「イベント当日は、そういう質問も出る。事前に答えを考えておくのも準備のうちだ」


「……答えを考えるような質問ではありません」


「そうだな。聞かれたら、その場で適当に返せばいい」


桃果が私と陽向を見比べた。


「でも、二人で『違います』って言うんですか?」


「言います」


私が即答すると、陽向も頷いた。


「うん。そこは揃えておこう」


その返事が妙に自然で、桃果が小さく笑った。


「息は合ってますね」


「制作班ですから」


「はい。制作班ですね」


桃果はそれ以上は言わなかった。


陽向が久しぶりにこちらを見て笑った。

その笑い方は、入稿前の張り詰めたものではなかった。


ほんの少しだけ、いつもの距離に戻ったような気がした。


* * *


打ち合わせが終わり、私が資料をバッグにしまっていると、篠田先輩に呼び止められた。


「御影、少しいいか」


「はい」


先輩は、陽向が別の資料を片づけているのを確認してから、声を落とした。


「真壁との距離、空きすぎじゃないか」


私は手を止めた。


「……そうでしょうか」


「連携が崩れると、当日困る。必要な確認まで遠慮するなよ」


「仕事の連絡はしています」


「仕事の連絡だけ、だろう」


先輩は私の返事を待たずに続けた。


「入稿の日のことは聞かない。二人の問題だからな。ただ、仕事に支障が出るなら話せ。恋愛相談はしないが、班の連携は見る」


「……ありがとうございます」


先輩の言葉は、少し角が立っていた。

けれど、背中を押されたような気もした。

自分でも、このままではいけないと思っていた。


入稿は終わった。

一緒に作ってきた作品も、形になった。

それなのに、いつまでも同じところで立ち止まっている。


角教室では陽向は入稿後の仕事を片づけながら、私のほうをあまり見ない。

私も、彼に話しかけるのは必要な確認だけにしていた。


避けられているのか。

それとも、気を遣われているのか。


どちらにしても、黙っているだけでは何も変わらない。


私は、机の端に置いた広報用の紹介文を手に取った。


「……真壁さん」


陽向が振り返る。


「ん?」


「広報用の紹介文、最終確認をお願いできますか」


「うん。見るよ」


彼は資料を受け取った。

指先が一瞬だけ触れそうになって、触れなかった。


「ありがとう。あとで修正したところを返すね」


「……お願いします」


仕事の口実。


入稿後の原稿そのものは、もう変更できない。

今、二人で確認できるのは広報の文言くらいだった。


それでも、話す理由が欲しかった。


桃果が向かいの席でノートに何かを書き込んでいる。

私はそちらを見ないようにした。


* * *


六月第三週の水曜日。


私はブックマークへ行く日を決めた。

前日の夜、カレンダーに予定を入れる。


『資料確認』


それだけを書いた。

そのあと、陽向との個人チャットを開いた。


最後のやり取りは入稿完了のメッセージだった。

しばらく入力欄を眺めてから、私は短く打った。


『明日の午後、ブックマークで広報用の紹介文を確認したいです。時間があれば、一緒に見てもらえますか』


送信してからスマートフォンを伏せた。

少しして、通知が鳴った。


『わかった。二時半ごろでいい?』


『大丈夫です』


『じゃあ、明日』


それだけだった。


私は画面を閉じ、机の上の資料を揃えた。

仕事の確認をするためだ。


そういうことにしておけば、明日は自然に話せるかもしれない。


* * *


木曜日の午後。


私は、カフェ『ブックマーク』へ向かった。


角教室で距離を測っているだけでは、何も変わらない。

顔を合わせて言葉にしなければ、誤解は少しずつ厚くなっていく。


……誤解、か。


避けられているのか。

気遣われているのか。


どちらも陽向らしい。

けれどもどちらも、今の私には寂しかった。


ブックマークの扉を開けると、コーヒーの香りに古い紙の匂いが混じっていた。

制作班のみんなと通し読みをしたときと同じ空気だった。


窓際には、いつもの席が空いていた。

コンセントがあり、外の並木道がよく見える。

陽向が先に来て、私の分のコーヒーを頼んでおいてくれたこともある。


今日は、私が先に来た。

カウンターでブラックのホットを注文し、窓際の席に座る。


テーブルに広報用の修正メモと、入稿後の台詞控えを広げた。

仕事の資料という口実ではあるけれど、確認すること自体は本当に残っている。


店内は午後の時間帯らしく、学生の客も少なかった。

窓の外では、六月の光を受けた並木の葉が揺れている。

雨が降る前なのか、空気は少し湿っていた。


私は、コーヒーを一口飲んだ。

いつもより、苦みが強く感じられた。


二時半。

店の扉が開いた。

陽向だった。


腕章はもう外している。

肩にはタブレットの入ったバッグを掛け、店内を見回している。


私に気づくと、一瞬だけ足を止めた。


「……紗季」


「……真壁さん」


陽向はすぐには近づいてこなかった。

一つ隣のテーブルを通り過ぎ、私の向かいにある椅子を見てから、少しだけ迷ったように立ち止まる。


「ここ、座っていい?」


「……はい」


彼はゆっくりと椅子を引いた。

以前なら、何も聞かずに向かいへ座っていた。


その小さな違いが、今の私にはよく見えた。


「資料、持ってきたよ」


陽向がタブレットを机に置く。


「ありがとうございます」


「先に広報文案を見る?」


「そうですね。公開する前に、もう一度確認したいところがあります」


私たちはしばらく仕事の話をした。


タイトルの表記。

前作との関連を説明する一文。

イベントの開催日時。

紹介文に使う言葉の選び方。


必要な確認は、きちんと進んでいく。

けれど、資料を一通り見終わったころには、次に何を話せばいいのかわからなくなっていた。


コーヒーの湯気が、二人の間でゆっくりと薄くなる。

陽向がタブレットを閉じた。


「これで、広報の修正は大丈夫そうだね」


「はい。ありがとうございます」


「よかった」


そこで会話が途切れた。


私はカップの縁に指を添えた。

今日はこれを聞くために来たのだ。

仕事の確認だけして帰るつもりはなかった。


「……真壁さん」


「ん?」


「最近、私を避けていますか?」


言葉にすると、思っていたよりも直接的だった。


陽向が、少しだけ眉を上げた。


「避けてないよ」


「でも、角教室でもあまり話しかけてくれませんし、個人チャットも、入稿の日から連絡がありません」


「それは……」


陽向はすぐに答えなかった。


カップを持ち上げ、冷めかけたコーヒーを一口飲む。

それから、ゆっくりと言った。


「紗季が、疲れてると思ったから」


「……疲れていました。入稿前から、ずっと」


「うん。だから、少し距離を置いたほうがいいと思ったんだ。俺が近くにいたら、余計に気を遣うかもしれないし」


彼の言葉に、胸の奥が熱くなった。


気遣いだった。

配慮だった。


私が一人になりたいと言ったときと同じように、陽向は私の様子を見て、少し距離を取ってくれていた。

それは、ありがたいことのはずだ。


わかっている。

けれど、それだけではなかった。


「……それだけじゃないです」


陽向が顔を上げた。


「え?」


私はカップを机に置いた。


「私には、避けられているように感じました」


「そんなつもりはなかったよ」


「そうだとしても、何も言わずに距離を置かれると、どうしていいかわからなくなります」


「……ごめん」


「謝ってほしいわけではなくて」


言いながら、自分でも何を伝えたいのかが曖昧になっていく。

けれど、ここで引き下がったら、また同じことを繰り返す気がした。


「嫌われたのかと思いました」


陽向の表情が変わった。


「そんなことはない!」


「本当ですか?」


「本当だよ。紗季のことを嫌いになるわけない」


その言葉を聞いて、胸の奥に張りつめていたものが少し緩んだ。

それでも、まだ足りなかった。


「……だったら、私だって」


「うん?」


「私だって、真壁さんと話したくないわけじゃありません」


一度口にすると、言葉が少しずつ続いていった。


「友達だからって、何でも平気なわけじゃないです。何も聞かないまま離れられると、私だって……」


そこで、言葉が止まった。


友達。


その言葉を使えば、今の関係を説明できると思っていた。

けれど、口にしてみると、何かが足りない気がした。


「……友達、だけじゃないです」


自分の声が、思ったより小さく聞こえた。


陽向は、何も言わなかった。


私は、急に恥ずかしくなって視線を落とした。


「今のは、その……」


「うん」


「変な意味に取らないでください」


「変な意味って?」


「……聞かないでください」


陽向が少しだけ笑った。


からかうような笑い方ではなかった。

むしろ、何かを大事に受け止めようとしているように見えた。


「わかった。聞かないよ」


私はカップを両手で包んだ。


「ただ、いつも通りに話してほしかったんです。何もなかったみたいにされると、それはそれで落ち着かなくて」


「そっか」


陽向は少し考えるように視線を落とした。


「俺は紗季が一人で考えたいときは、そうさせたほうがいいと思ってた。でも、入稿の日のことまで引きずっているとは思わなかった」


「……私も、こんなに気になるとは思いませんでした」


「じゃあ、これからは、ちゃんと聞くよ。距離を置いたほうがいいのか、話しかけていいのか」


「いちいち聞かなくてもいいです」


「難しいな」


「そうですね」


二人で少しだけ笑った。


そのとき、陽向が静かに尋ねた。


「近くにいていい?」


私は顔を上げた。


いつもならこんな言葉を聞けば、すぐに返事を逸らしていたと思う。


けれど、今日は違った。

私は小さく頷いた。


「……はい」


陽向は向かいの席に座り直した。

それまで一つ空けていたテーブルの距離が、ようやく元に戻った。


「ありがとう」


「……お礼を言われることではありません」


「そうかな」


「そうです」


私は手元の資料を整えた。

指先はまだ少し震えていた。


陽向はタブレットを開き、広報文案の修正履歴を確認した。


「じゃあ、紹介文の最後だけ、もう一度見ておこうか」


「……お願いします」


声が戻った。

ですます調も戻った。


近くにいていい。

そう言われた。


恋人ではない。

それでも、昨日までより少しだけ、境界線が内側に動いた気がした。


私たちは広報文案と台詞控えを確認しながら、しばらく同じ机に向かった。


仕事の言葉で、時間をつなぐ。


今は、それで十分だった。


* * *


ブックマークを出たのは、午後四時ごろだった。


店の外へ出ると、湿った空気の中に、雨の匂いが混じっていた。

空は少し曇り始めている。

駅へ向かう歩道には、傘を手に持った人が増えていた。


陽向は大学まで一緒に歩いてくれた。


「……駅まで送るよ」


「……一人で帰れます」


「うん。わかってる。でも、今日は送りたい」


私はすぐには答えなかった。


いつもなら、ここで断っていたと思う。

けれど、今は少しだけ違った。


「……では、お願いします」


陽向は嬉しそうに頷いた。


「うん」


私たちは並んで歩いた。


大学までの道には街路樹の葉が重なり、歩道に薄い影を落としている。

途中のコンビニから冷たい飲み物を買いに出てきた学生が二人、笑いながら通り過ぎた。


特別な会話はなかった。

それでも、隣に人がいることが、さっきまでより自然に感じられた。


改札前で立ち止まる。


「今日は、ありがとう。紗季」


「……こちらこそ。ありがとうございました」


「うん」


私は少しだけ迷ってから続けた。


「それから、入稿の日のことですけど」


陽向がこちらを見る。


「はい」


「言いすぎました。あのときは、私も焦っていて……でも、真壁さんに当たるような言い方をしてしまいました」


「うん」


「すみませんでした」


陽向は首を横に振った。


「俺も、言い方が悪かった。あのときは、俺も余裕がなかったから。声を荒らげてごめん」


「……はい」


「本入稿が終わって、ほっとしたのに、最後にあんなふうになっちゃったね」


「そうですね」


「でも、ちゃんと入稿できてよかった」


「……本当に」


それだけで、気持ちが完全に元通りになったわけではない。

けれど、二人で同じ出来事を振り返り、謝ることができた。

それだけでも、少し違った。


陽向は手を軽く上げた。


「じゃあ、また明日」


「はい。また明日」


私は改札を通り、ホームへ向かった。


振り返ると、陽向はまだそこに立っていた。

手を振るわけでもなく、ただこちらを見ている。


私が小さく会釈すると、彼も同じように返してくれた。


* * *


ホームで電車を待っていると、スマートフォンが震えた。


桃果からだった。


『御影先輩、ブックマークにいましたよね?』


私は画面を見つめた。


『……はい。資料の確認をしていました』


すぐに返事が届いた。


『真壁先輩も、いましたよね?』


『そうですね』


少し間が空いた。


『修復完了ですね!』


私は、思わず小さく笑った。


『……仕事のうちです』


『はい、仕事です(笑)』


桃果らしい返事だった。

続けて、篠田先輩からもメッセージが届いた。


『二人の顔を見た。よかったな』


『……連携が必要とのことですから』


『そういうことにしておく』


私はまた少し笑った。


電車がホームに入ってくる。

乗り込んで空いている席に座ると、陽向との個人チャットに新しい通知が届いていた。


『今日ありがとう。近くにいていいって言ったの、忘れないで』


私はその文章を何度か読み返した。


忘れないで。


それは、ただの確認なのかもしれない。

それでも、今日の会話を覚えていてくれたことが、少し嬉しかった。


返信欄を開く。


『こちらこそ、ありがとうございました。……近くは、仕事の範囲内でお願いします』


送信してから、自分の文章を見つめた。


仕事の言葉。

逃げ道の言葉。


けれど、今日はちゃんと送ることができた。


すぐに返事が届いた。


『うん。範囲内で』


私はスタンプ欄を開いた。


黒い猫の足跡を選ぶ。


指先が、少しだけ止まった。


今度こそ。


送信。


小さな足跡のスタンプが、トーク画面に表示された。


送れた。


それだけのことなのに、胸の奥が少し軽くなった。


* * *


ブックマークで話した翌日、金曜日。


角教室に着くと、陽向はいつもの席に資料を広げていた。

私に気づくと、手元の紙を一枚持ち上げる。


「紗季、搬入メモ、見た?」


「……はい。確認しました。問題ありません」


「よかった。集合時間も、前回と同じで大丈夫そうだね」


「そうですね。あとは当日の持ち物を確認すれば」


「一緒に行こうって話したの、覚えてる?」


私は少しだけ顔を上げた。


「……ええ」


「範囲内で」


陽向が笑った。

私は資料を机に置いた。


「……範囲内でお願いします」


「了解」


今度は私も小さく笑った。


桃果が向かいの席から二人を見ていた。


「修復……いえ、連携確認完了ですね」


「一ノ瀬さん」


私が呼ぶと、桃果はすぐにノートへ視線を戻した。


「はい。仕事の話です」


「そうしてください」


篠田先輩が入稿表を閉じた。


「よし。次は会場だ。搬入の確認をして、当日の役割を決めるぞ」


「はい」


四人の声が重なった。


ようやく、いつもの制作班に戻ってきたようだった。


* * *


六月の終わり。


夏のイベントまで、あと少しになっていた。


その約束どおり、角教室では搬入前の班打ち合わせが行われた。

机の中央には、搬入表と配置図、それから釣り銭の内訳を書いた用紙が並んでいる。


篠田先輩がホワイトボードに大きく時刻を書いた。


「まず前提。本は印刷所から会場へ直接搬入する。大学には届かない。当日、搬入受付で箱を受け取ってから初めて中身を確認する」


桃果が手を挙げた。


「角教室では、触れないんですね?」


「触れない。データと見本刷りの写真で確認済みだ。当日のミスは、現場で潰す」


篠田先輩は搬入番号と集合時刻を指さした。


「集合は去年と同じ改札前。遅刻者は自分で合流する。搬入番号は真壁が主担当、御影が控えを持つ。忘れたら終わりだ」


「了解です」


陽向と私が同時に答えた。


「次、金銭だ」


篠田先輩が釣り銭用紙を配る。


「会計は御影。頒布は新作六百円、前作五百円、セット一千円。釣り銭は昨夜、俺と真壁で確認した内訳どおり入れる。千円札、五百円玉、百円玉の数は、この表と一致しているか」


私はポーチの中身を数え、用紙と照合した。


「……問題ありません」


「売上が一定額を超えたら、すぐに報告。千円札は封筒に移し、小銭はトレイに残す。去年、午後に百円玉が尽きかけたからな。足りなくなったら、在庫補充より先に会計を止めて俺を呼べ」


「わかりました」


「領収書は、個別には出さない。サークルとしてまとめて精算する。当日は売上メモを二系統で取る。御影が表、俺が控え。帰りの電車で数字が合わなかったら、一ノ瀬のせいにする」


「えっ?」


「……冗談だ。合わせるのが班の仕事だ」


桃果が安堵したような、していないような顔をした。


「売り子当番だ」


篠田先輩が時刻表をホワイトボードに貼った。


「設営から開場前までは全員。開場後は三列制だ。前列は会計と客対応、中列は在庫と袋、後列は全体と列整理。前列・御影、中列・真壁、後列・俺。一ノ瀬は前列補助で袋とポストカード、在庫が薄れたら中列へ回る」


桃果がノートに書き込む。


「九時開場から十二時までは、御影先輩が会計固定。真壁先輩が在庫。私が袋とスタンプ」


「その間、俺は巡回して釣り銭と残部を見る。十二時から十二時半は交替休憩。真壁が会計を代行、御影は見本誌と在庫表を確認。一ノ瀬は列の整理を手伝う」


陽向が手を上げた。


「午後は?」


「十二時半から閉会前まで、再び御影が会計。真壁が在庫。休憩は四人で十五分ずつずらす。二人以上同時に離れるな。特に会計と在庫は、必ず一人はスペースに残れ」


「……わかりました」


「客への説明や、変な質問への返し方は、当日の設営が終わってからもう一度確認する。今日決めるのは、搬入と金銭と当番だけだ」


桃果が配置図を指さした。


「去年は途中で見本誌の位置を変えましたよね。今年は最初から決めておきたいです」


「そうだな。人の流れを見ながら、必要なら調整する。ただし、会計の位置だけは動かすな。列が乱れる」


篠田先輩は配置図に小さく印をつけた。


「搬入表、釣り銭表、当番表。三枚とも写真を撮ってグループチャットに上げろ。寝坊した奴がいないか、確認の意味もある」


陽向がスマートフォンを構え、桃果が紙の端を押さえた。

シャッター音のあと、制作班のチャットに三枚が並んだ。


『搬入前打ち合わせ、完了』


篠田先輩の短い一文。


私は釣り銭用紙をファイルに挟み、当番表のコピーをバッグに入れた。

まだ本は手元にない。

それでも、当日の動きだけは、頭の中で一度通せた気がした。


陽向は私の隣に座っていた。

以前のように、一テーブル空けた距離ではない。

資料を一緒に見られるくらいの、自然な距離だった。


「紗季、搬入番号はメモした?」


「……はい。真壁さんも確認しましたか?」


「うん。控えも取ってある」


「それなら大丈夫ですね」


「当日は一緒に行こう」


「……ええ」


自然だった。

その短いやり取りを見て、桃果が小さく拍手した。


「新作、完売祈願です!」


「祈願するな」


篠田先輩がすぐに返した。


「事実は在庫数で決まる」


「はい……」


桃果は少し残念そうに手を下ろした。

私は入稿表を閉じた。


三十六ページ。

表紙。

奥付。


すべて、もう私たちの手を離れている。

あとは、印刷所から会場へ届くのを待ち、当日搬入で初めて箱を開けるだけだ。


原稿は入稿されたが、恋はまだ未入稿。

けれど、心の準備だけは少し整った気がする。


窓際の席で、陽向がいつものように尋ねた。


「……ブラックでいい?」


「……はい。ありがとうございます」


「うん」


その返事を聞きながら、私は紙コップを受け取った。


近くにいていい。

仕事の範囲内で。


今は、それで十分だった。


六月の夜は、まだ長い。


次は、会場だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。