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御影さんの境界線の内側で  作者: 椎名弥生


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10/12

10. コミケ、開幕

七月最後の日曜日。


カレンダーに貼った付箋は、今日の日付だけ赤い線で囲まれていた。


夏のイベント当日。

二年目のねこじるしの新作を頒布する日だった。


『境界線の内側に缶コーヒー』。


前作『境界線の向こうに缶コーヒー』と並べて、同じスペースから頒布する。


去年、前作は完売した。

今年は続編ではなく、同じ世界を舞台にした別の話だと広報にも記載している。


そう自分に言い聞かせながら、私は目覚ましを止めた。


恋より先に、原稿を完結させたい。


いつの間にか、そんな言葉が口癖になっていた。


原稿は、もう完結している。

今日は、その本が誰かの手に渡る日だ。


* * *


目覚ましが鳴ったのは、始発の二時間ほど前だった。


窓の外はまだ夜の色を残している。

洗面台の鏡の前で髪を結び直し、動きやすいジャケットを羽織った。


バッグには釣り銭のメモと頒布物のリスト、それから台詞控えの予備。

念のために用意した塩タブレットと、ハンドタオルも三枚入れてある。


去年は暑さを甘く見て、午後には頭が痛くなった。

同じ失敗をしないように、今年は準備を整えていた。


玄関を出る前に、スマートフォンを開く。

制作班のグループチャットとは別に、陽向から個別のメッセージが届いていた。


『改札で待ってる。一緒に行こう』


角教室で約束した言葉と同じだった。

あのとき、私は「……ええ」と答えた。


『わかりました。五分前には着きます』


送信してから、画面をしばらく見つめる。


仕事の連絡。

そう言ってしまえば、それまでだ。


けれど、一緒に行こうという言葉を、私は嫌だとは思わなかった。


スマートフォンをバッグにしまい、玄関の鍵を閉めた。


* * *


始発に近い電車は、思っていたよりも混んでいた。


大きなトートバッグを抱えた人。

キャリーカートを足の間に挟んで立っている人。

薄い鞄を大切そうに胸の前で持っている人。


乗客の多くが同じ方向へ向かっているのだとすぐにわかった。

まだ眠そうな顔をしている人もいれば、すでに楽しそうに会話を弾ませている人もいた。


大学前の駅で降りると、空はまだ薄い青色だった。


改札の外には陽向が立っていた。

肩にはいつものリュック。

足元には折りたたみ式のキャリーカート。

腕には、見慣れた「入稿係」の腕章が巻かれている。


「おはよう、紗季」


「おはようございます。……待たせましたか?」


「ううん。俺も今来たところ」


そう言って笑う彼の手には、ブラックの缶コーヒーがあった。


「……早く来すぎです」


「眠れなくてさ。遠足の前の日みたいな感じ」


「子どもですか」


「紗季は眠れた?」


「……三時間は寝ました」


「それ、眠れたって言わないと思う」


「寝たことには変わりません」


「まあ、そうだけど」


陽向は笑いながら、コーヒーを一口飲んだ。

反論する言葉を探したけれど、うまく見つからなかった。


「御影先輩! 真壁先輩! おはようございます!」


階段のほうから、明るい声が響いた。


桃果が大きなトートバッグを抱え、小走りでやってくる。

その後ろから、篠田先輩が紙カップのコーヒーを片手に歩いてきた。


「一ノ瀬さん、走ると危ないですよ」


「大丈夫です! 今日は気合いが入っていますから!」


「気合いが入っていても、荷物は落ちる。落とすのは不注意だ。行くぞ」


「はい!」


篠田先輩の言葉に、桃果は元気よく返事をした。


私たちは改札を通り、ホームへ向かった。


乗り換えた電車は、さらに混雑していた。


私はドアの横の隅に押し込まれ、バッグを胸の前に抱える。

その前に陽向が立った。

片手でドア上の手すりをつかみ、背中で人の流れを受け止めている。


「……真壁さん。そんなに無理して前に立たなくても大丈夫です」


「無理してないよ」


「でも、ほとんど動けないじゃないですか」


「ここなら紗季の荷物も守れるから」


「……顔が近いです」


「ごめん。向きを変えようか?」


「……いえ。そのままで」


答えてから、私は視線を落とした。


陽向は何も言わなかった。

窓の外へ視線を向けている。

けれど、耳のあたりが少し赤くなっているように見えた。


電車が揺れた。


彼の腕が私の肩に触れ、すぐに離れる。

もう一度揺れる。

今度は、先ほどより少しだけ長く触れた。


私は動かなかった。


「……押されているだけですよ」


「うん。わかってる」


笑いを堪えているような声だった。


それ以上、何も言わなかった。

私も、何も言わなかった。


会場の最寄り駅に着いたのは、七時を少し過ぎたころだった。


駅の外に出ると、空気はすでに熱を帯びていた。

朝の七時だというのに、アスファルトから熱が立ち上ってくる。

空は高く、雲はほとんど見当たらない。


「うわ、暑いですね……」


桃果が手で顔を扇いだ。


「今日は三十五度を超えるらしい。水分を切らすなよ」


篠田先輩が、手元のスマートフォンを確認しながら言った。


「俺、塩タブレット買ってきた。紗季が昨日、チャットで言ってたから」


陽向がポケットから小さな袋を取り出した。

中身は柑橘味の塩タブレットだった。


私が好きな味だった。


「……ありがとうございます」


「うん。みんなで食べよう」


偶然なのか、覚えていてくれたのか。

そこまでは聞かなかった。


サークル入場のゲートまでは、シャトルバスで移動する。

停留所には、すでに長い列ができていた。


ようやく乗り込んだバスは冷房が強く、肌に残っていた汗が一気に引いていく。

吊り革につかまって窓の外を見ると、遠くに銀色の大きな屋根が見えてきた。


その周囲には、人の列が蛇のように伸びている。


「来ましたね」


桃果が小さく呟いた。


私は膝の上のバッグを抱え直した。


「紗季。緊張してる?」


陽向が周りに聞こえないように尋ねた。


「……当たり前です」


「俺も。どんなふうに読んでもらえるのか、まだわからないから」


「……わからないから、ここまで来たんです」


思っていたより、はっきりした声が出た。


陽向がこちらを見て、少しだけ笑った。


「そうだね」


バスが停車する。

ドアが開いた瞬間、熱気と人の声が一気に押し寄せてきた。


* * *


本は印刷所から会場へ直接送ってある。

搬入受付で番号を告げると、係の人が台車を押してきた。


「六箱です。こちらで間違いないでしょうか」


箱に貼られた送り状を確認する。


前作の増刷が五十部。

新作も五十部。


二冊分の箱が、台車の上に並んでいた。


陽向と二人で箱の端を持ち上げ、台車に載せる。

重さはそれなりにあったけれど、去年も経験しているおかげか作業は滞りなく進んだ。


台車を押して会場の中へ入る。


外よりは少し涼しい。

とはいえ、人の多さもあって空調はまだ十分に追いついていなかった。


高い天井から鉄骨が格子のように伸び、その下には長机の列が何列も続いている。

台車の音、段ボールが擦れる音、設営を急ぐ人たちの声。

あちこちで、それぞれの準備が始まっていた。


去年は緊張して、周りを見る余裕もなかった。

今年はこうして周囲の景色が見えている。


自分たちのスペースを探し、島の端にある机の前で足を止めた。

白い紙の札には、黒いマジックでこう書かれている。


『ねこじるし』


去年と同じ場所だった。

隣の机にいた女性が顔を上げ、こちらに会釈した。


「ねこじるしさん、今年もよろしくお願いします。前作読ませていただきましたよ。すごくよかったです」


「ありがとうございます」


「今年は別編なんですよね。同じ世界の違う面を描く作品って、私、好きなんです」


その言葉に、私は少しだけ足を止めた。


同じ世界の、違う面。


私たちが作ろうとしていたものを、そんなふうに受け取ってもらえるのは嬉しかった。


「……ありがとうございます。今回も楽しんでいただけたらと思います」


女性は笑顔で頷き、設営の作業に戻っていった。


私たちも白いクロスを机に広げ、見本誌のスタンドと値札を置いていく。

桃果が値札にマジックを走らせた。


『境界線の内側に缶コーヒー 六〇〇円』

『境界線の向こうに缶コーヒー 五〇〇円』

『セット 一〇〇〇円』


私は釣り銭のポーチを開いた。


千円札、五百円玉、百円玉。

小さなトレイに分けて並べ、昨夜確認した数と合っていることをもう一度確かめる。


「紗季、箱を開けるよ」


陽向がカッターを手にしていた。


「お願いします」


ガムテープの切れる音がして、段ボールの蓋が開く。

中には、同じ表紙の本が隙間なく詰まっていた。


B5サイズの薄い本。

夕方の光が差し込む、文芸部の部室の窓。

その窓辺に立つ、後ろ姿だけの二人。


印刷所で何度も紙を重ねて確かめた色が、そのまま形になっている。


「……できてる」


陽向が小さく呟いた。


「本当に、できてるんだ」


「ええ」


私も一冊を手に取った。

表紙を確かめ、ページをめくる。


八ページ。

合宿のあとで、何度も話し合って直した台詞。


三十一ページ。

奥付の行間を最後まで調整していたページ。


校正で何度も目にしたはずの文字が、今は本になって私の手の中にある。


私は見本誌用の一冊をビニールに入れ、スタンドに立てた。

その隣に前作を並べる。


背表紙の文字が、きれいに揃った。


『向こう』と『内側』。


二冊が並ぶと、同じ世界の別の面が見えるようだった。


「……並べると、本当にきれいですね」


桃果が小声で言った。


「揃ってよかった」


陽向も並んだ二冊を眺めている。


あの日、印刷所の打ち合わせ室で私たちは何時間も紙を見比べていた。

色の濃さや光の加減、紙の手触りまでひとつずつ確かめた。


その本が今は目の前の机に並んでいる。


胸の奥が、少しだけ熱くなった。


陽向が白紙の品切れ用紙を机の端に置いた。


「これ、使う機会があればいいんだけど」


「祈るより、備えておけ」


篠田先輩が在庫の確認をしながら言った。


桃果は猫の足跡のスタンプを持ち上げ、楽しそうに眺めている。

新作を買ってくれた人に渡すポストカードに押す、ねこじるしのおまけだ。


「汚すなよ」


「はい! ちゃんと大事に使います」


桃果はスタンプを机の端に戻した。


設営は思ったより早く終わった。

机の上は整い、配置も事前に決めた図面どおりに収まっている。

去年よりも、全員の動きが速い。


開場の十五分前、篠田先輩が全員を机の前に集めた。


「最後に確認する。会計は御影。在庫の補充は真壁。袋渡しとポストカードは一ノ瀬。列の整理と全体の確認は俺だ」


「はい」


「釣り銭が足りなくなったら、すぐに報告。見本誌には触らせない。サイン会はやらない。作者カップルかと聞かれたら、制作班だと答える」


桃果がそっと手を挙げた。


「先輩。『まだ付き合ってない』も、セットで言っていいですか?」


「は?」


私が声を上げるより先に、陽向が答えた。


「うん。事実だから、言って大丈夫」


「真壁さん」


「だって、事実でしょ」


「……事実ですが、わざわざ言う必要はありません」


「聞かれたら答えるよ。嘘は言えないからね」


私は何も言い返せなかった。

篠田先輩が小さくため息をつく。


「勝手に余計なことを言うな、と言いたいところだが……事実なら止める理由もない。ただし、客の前で妙なやり取りはするな」


「……はい」


先輩は全員の顔を見回した。


「一冊ずつ、確実に渡せ。慌てず、間違えず。以上だ」


「はい」


四人の声が重なった。

そのとき、会場全体にアナウンスが響いた。


『まもなく開場の時間となります』


遠くのほうで拍手が起こった。

その音は波のように近づき、ホール全体へ広がっていく。


やがて、その向こうから大勢の足音が聞こえ始めた。


* * *


最初に来たのは、前作を持っている女性だった。


二十代半ばくらいだろうか。

髪を後ろで束ね、小さな紙袋を腕にかけている。


「あの、『向こう』の続きですよね?」


「はい。同じシリーズですが、今回は別の話です」


「去年の本も持っています。もう何度も読み返していて、大好きです。新作が出ると聞いて、今日は始発で来ました」


「ありがとうございます」


女性は見本誌の表紙を見つめた。


「表紙もすごくきれいですね。窓から入る夕方の光が、なんだか懐かしくて」


「表紙は真壁が描きました」


私がそう答えると、陽向が少し照れたように頭を下げた。


「ありがとうございます」


「前作は持っているので、新作を一冊お願いします」


「六百円です」


釣り銭を数えて渡す。

受け取る指先が、少しだけ震えていた。


桃果が新作を袋に入れ、ポストカードを両手で差し出した。


「こちらもどうぞ」


「わあ、足跡ですね。かわいい」


女性は嬉しそうに受け取り、軽く会釈して去っていった。


最初の一冊だった。


私は小さく息を吐いた。

思っていたよりも、緊張していたらしい。


少し離れたところから、篠田先輩が静かに声をかけた。


「油断するな。次が来るぞ」


「はい」


その言葉のとおり、客足は途切れなかった。

大学生くらいの二人連れには、「犬と猫のカップルの話ですか」と聞かれた。


「作中では、そういう関係です」


そう答えると、二人は顔を見合わせて笑った。


作者についても尋ねられたので、「制作班で作っています」と答える。

横から陽向が台詞は私が担当し、作画は自分が担当したのだと付け足していた。

二人は前作とのセットを買い、楽しそうに話しながら去っていった。


十時半を過ぎるころには、机の前に人が集まり始めた。


会計、釣り銭、袋、スタンプ。

同じ動作を何度も繰り返す。

一人分が終わるたびに、段ボールの中身が少しずつ減っていった。


「紗季、残り何冊?」


陽向が段ボールの横から尋ねる。


「……前作が四十一冊、新作が四十五冊です」


「いいペースだね」


陽向が嬉しそうに頷いた。

私も同じ気持ちだったけれど、会計の手を止めるわけにはいかなかった。


そのとき、陽向が冷えたペットボトルを差し出した。


「紗季、さっきから何も飲んでないでしょ」


「……気づきませんでした」


「少し休んで。会計は俺が見てるから」


「大丈夫です。これを渡したら飲みます」


「じゃあ、次の人が終わったらね」


差し出されたボトルの蓋は、すでに少し緩めてあった。


一口飲むと、驚くほどおいしかった。

冷たい水が喉を通り、ようやく自分が喉の渇きを感じていたことに気づく。


篠田先輩が在庫リストを確認し、小さく眉を上げた。


「想定より早いな。午後には尽きるかもしれない」


淡々とした口調だったけれど、いつもより少しだけ声が弾んでいた。


十一時を過ぎたころ、人の流れがさらに太くなった。


「新作を二冊ください」


「セットで一つお願いします」


声があちこちから飛んでくる。


桃果が袋を渡してスタンプを押し、陽向が段ボールの奥から新しい束を取り出す。

篠田先輩は列の最後尾に立ち、周囲に声をかけていた。


「慌てずにお並びください。こちらが最後尾です」


私は会計の手を止められなかった。


千円札。

五百円玉。

百円玉。


金額を確認し、受け取り、釣り銭を渡す。

何度も繰り返しているうちに、指先が少しずつ慣れていく。


「御影。百円玉は足りるか」


「あと二十枚ほどです」


陽向が段ボールの陰から、百円玉の入った小袋を取り出した。


「紗季、ここに置くよ」


「お願いします」


私が手を伸ばすと、陽向も同じ場所へ手を伸ばした。


背中が軽くぶつかった。


机の前は狭い。

私は椅子の前に立ち、陽向は段ボールの横にしゃがんでいた。

お互いの背中が、数センチの距離で並んでいた。


「……すみません」


「いや、こっちこそ」


背中合わせのまま、会計を続ける。

私は釣り銭を数え、袋を渡す。

その後ろで陽向が在庫を確認し、必要な分を取り出している。


同じ方向を向いているわけではないのに、動きが妙に噛み合っていた。


「先輩たち、背中合わせなのに息ぴったりですね」


袋を渡しながら、桃果が言った。


「うん。今、最高に噛み合ってる」


陽向が小声で答える。


私は否定しなかった。


後ろで陽向が小さく笑う気配がした。

その笑いが、背中越しに伝わってくる。


肩が、また触れた。


人の流れのせいだ。

そう言うこともできた。


けれど、私はその場から動かなかった。


* * *


「新作を一冊ください」


顔を上げると、中学生くらいの女の子が立っていた。


「六百円です」


会計を済ませようとしたとき、女の子が少し迷うように口を開いた。


「あの……八ページの台詞が、すごく好きです。告知に載っていたのを、ずっと覚えていて」


小さな声だった。


「『境界線は、引いた人が守る』って。中身は見せてもらえないって書いてあったので、買って読んでみたくて」


胸の奥が、きゅっと縮んだ。


合宿のあとで直した台詞だった。

陽向と背中を向け合いながら、何度も読み直した場所でもある。


「……ありがとうございます」


「わたしも、いつかこういう台詞が書けるようになりたいです」


私は、すぐには返事ができなかった。


自分の書いた言葉が、誰かの中に残っていた。

それだけで、思っていた以上に胸がいっぱいになった。


「……書けると思います」


少しだけ言葉を選んでから、続けた。


「書き続けていれば、きっと」


女の子の表情が、ぱっと明るくなった。


「はい!」


新作を両手で受け取り、胸に抱えるようにして去っていく。


私はしばらく、その後ろ姿を目で追っていた。


「うまく届いたみたいだね」


後ろから、陽向が小声で言った。


「……ええ。届いてくれて、よかったです」


「紗季の書いた言葉だからね」


「……作品の中の台詞です」


「うん。そうだね」


そう答えた陽向の声は、いつもより穏やかだった。


私はもう一度、机の上の本に目を向けた。


この本を読んでくれる人がいる。

その人の中に、私たちの作った言葉が残ってくれる。


そう思うと、次の会計にも自然と力が入った。


* * *


正午を過ぎると、ホールの空気はさらに熱を帯びていた。


冷房は効いているはずなのに、人の熱でむしろ蒸し暑い。

汗が首筋を伝い、私はハンドタオルで額を押さえた。


「次の方、どうぞ」


二人組の女子学生が机の前に進み出る。


「前作と新作を、セットでお願いします」


「千円です」


会計を済ませようとしたところで、一人が少し遠慮がちに尋ねた。


「あの、突然すみません。作者のお二人って、付き合ってるんですか?」


来た。

当日はそういうことも聞かれるかもしれない。答え方は決めておけ、と。


「……違います。同じ制作班です」


「えっ。でも、ずっとお二人で並んで売っているので」


「同じ作品を作っていますから」


「でも、なんだか距離が近いというか……」


「作業の都合です」


そう答えたところで、横から陽向の声がした。


「まだ付き合ってないよ」


「真壁さん」


「だって、事実だから」


女子学生二人が、そろって目を丸くした。


「えっ。まだ、なんですか?」


「うん。まだ」


「……その『まだ』は余計です」


「でも、嘘は言えないから」


悪びれずに答える陽向の横で、桃果が袋を渡しながら顔を覆った。


「公式見解は『未満』です。ありがとうございます」


「一ノ瀬さん!」


「すみません」


女子学生たちは小さな声を上げて笑いながら去っていった。


私は頬が熱くなるのを感じながら、次の会計に戻った。


「……あとで、お話があります」


「うん。覚悟しておく」


背中越しに、陽向が笑いを堪えているのがわかった。


午後一時ごろ、男性の客が新作を買ったあと、バッグから色紙を取り出した。


「あの、サインをお願いできますか。作者の御影さんですよね」


「……すみません。私は台詞を担当しただけなので、サインは」


「作画を担当された方は?」


「俺です。真壁です」


陽向が手を上げた。


「では、お二人でお願いできますか」


「それは……」


答えに迷っていると、篠田先輩がすぐに間に入った。


「申し訳ありません。当サークルではサインは行っていません」


「あ、そうなんですか」


「ポストカードにスタンプを押していますので、よろしければそちらをどうぞ」


桃果がすかさずスタンプを差し出した。

色紙の端に、黒い小さな足跡が並ぶ。


「かわいいですね。これで十分です」


男性は嬉しそうに色紙をしまい、会釈して去っていった。

そのすぐあと、別の女性が机の前に立った。


「あの、スタンプラリーですか? 押してもらえるって聞いたんですけど」


「新作を買ってくださった方への、おまけです」


桃果が説明すると、女性はすぐに頷いた。


「じゃあ、新作を買います」


「……スタンプ目当てで買ってくださる方もいるんですね」


私が小声で言うと、陽向が笑った。


「いいんじゃない。入口は何でも」


入口は何でもいい。


その言葉を聞いて、少しだけ考えた。


誰かが本を手に取る理由は、人それぞれだ。

表紙が気に入ったからでも、告知で見た台詞が気になったからでも、足跡のスタンプが欲しかったからでもいい。


読んでもらうきっかけは、ひとつではない。

そう思えるようになったのは、去年より少しだけ、この場所に慣れたからかもしれない。


前作の残りが一冊になったのは、午後一時を少し過ぎたころだった。


「……最後の一冊です」


陽向が在庫を確認し、静かに頷いた。


その直後、中年の男性が机の前にやってきた。


「前作、まだありますか。去年買いそびれてしまって、ずっと探していたんです」


「ちょうど、最後の一冊があります」


「よかった。ありがとうございます」


男性は前作を受け取ると、大事そうにバッグへしまった。


陽向が品切れ用紙を取り出し、マジックで書き込む。


『境界線の向こうに缶コーヒー 完売しました』


桃果が足跡のスタンプを押し、陽向がそれを机の端にテープで貼った。


机の左半分が、空になった。


「向こう、なくなっちゃいましたね」


桃果が小さく言った。


「去年に続いて、今年もだな」


篠田先輩が在庫表に目を落としたまま答えた。


私は空いた机の半分を見つめた。

そこには、もう何もない。

けれど、その空白が嬉しかった。


去年の本を覚えていてくれた人がいた。

買い逃して、ずっと探していた人もいた。


一冊ずつ誰かの手に渡っていった。

その最後の一冊も、今、誰かのバッグの中にある。


そう考えると、空いた場所が少し誇らしく見えた。


一時半を過ぎると、列が一度だけ短くなった。

交代で取った昼食のおにぎりは、塩味がいつもより少し優しく感じられた。


午後二時を回るころには、新作の残りも十五冊になっていた。


篠田先輩は何も言わず、手帳に数字を書き込んでいる。

ペンを持つ手が、いつもよりわずかに速かった。


十冊。

八冊。

五冊。


そして、三冊。


桃果がペンを握りしめ、小さく呟いた。


「あと、三冊……」


私はトレイの千円札を、そっと揃えた。

手のひらが少し汗ばんでいる。


心臓の音が、いつもより大きく聞こえた。


「新作、まだありますか?」


若い女性が一冊を買っていく。


残り二冊。


その次に来た二人連れが、それぞれ一冊ずつ手に取った。


会計を済ませ、二冊を袋に入れる。

桃果がポストカードを添え、足跡のスタンプを押した。


「ありがとうございました!」


二人連れは満足そうに笑い、会場の人波へ消えていった。


机の上には、見本誌だけが残った。

段ボールは、どれも空だった。


誰も、すぐには何も言わなかった。


数秒の沈黙のあと、桃果がぽつりと呟いた。


「……売り切れ、ました」


「ああ」


篠田先輩が頷く。


「完売だ」


その言葉が、ゆっくりと胸に落ちてきた。


陽向が新作用の品切れ用紙を取り出し、マジックで書き込んでいく。


『境界線の内側に缶コーヒー 完売しました ありがとうございました』


桃果が足跡のスタンプを押す。

陽向は前作の品切れ用紙の隣に、それを貼った。


二枚の紙が、並んだ。


「勝ちました!」


桃果が小さく拳を握った。


「勝ったな」


篠田先輩も、軽く拳を上げる。


「よっしゃ」


陽向が小声で呟いた。

入稿の日と同じ声だった。


私は、ゆっくりと椅子に座り込んだ。

足が少し震えている。


嬉しいのか、疲れたのか。

自分でも、よくわからなかった。


「お疲れさま、紗季」


陽向がブラックの缶コーヒーを差し出した。

いつの間に用意していたのだろう。


「……ありがとうございます」


受け取った缶は、まだ冷たかった。


「売り切れたね。前作も、新作も」


「……はい」


「二年続けて、ここまで来られた」


陽向の声が、ほんの少しだけ震えていた。


私は頷き、缶を開けた。

一口飲むと、いつもより少しだけ甘く感じた。


* * *


完売のあと、篠田先輩が残部表を開いた。


「在庫はゼロ。ポストカードの余りは十二枚。記録しておく」


先輩は淡々と数字を書き込んでいく。


「来年の部数を決める材料にする。御影、会計の締めは?」


「……合っています。誤差はありません」


「よくやった」


その一言が、少しだけ嬉しかった。


「写真を撮りましょう!」


桃果がスマートフォンを取り出した。


「撤収の前に、記念です」


机の前に四人で並ぶ。

空になった段ボールと、二枚の品切れ用紙が後ろに写るように位置を調整した。


「真壁先輩は真ん中で。入稿係ですから。ほら、腕章も見せてください」


陽向が腕章を指さして笑う。


私は端のほうに立っていた。


「御影先輩も、もっと寄ってください」


「……ここで大丈夫です」


「だめです。もう少し入ってください」


桃果に腕を引かれ、私は一歩だけ中央に近づいた。


陽向の隣に立つ。


肩が触れた。

私は離れなかった。


シャッターの音がした。


桃果が画面を確認し、にっこりと笑う。


「いいのが撮れました。みんな、すごくいい顔です」


画面を覗き込むと、四人が並んで写っていた。


篠田先輩は、いつもより少しだけ口元が緩んでいる。

桃果は満面の笑み。

陽向は腕章を見せながら笑っていた。


そして、私。


写真の中の私は、思っていたよりも柔らかい顔をしていた。


「……疲れているだけです」


「先輩、目が喜んでますよ」


「……撮影対象ではありません」


「はい。背景ですね」


「一ノ瀬さん」


「すみません」


桃果は笑いながら、写真を保存した。


撤収は思っていたよりずっと早く終わった。

空になった段ボールを畳み、見本誌をリュックにしまう。

陽向は二枚の品切れ用紙を丁寧に剥がし、折れないようファイルに挟んだ。


「撤収は完了だ。閉会までは少し時間がある。四時前には、このスペースに戻れ。閉会の拍手は全員でやる」


篠田先輩は私と陽向を見た。


「真壁、御影。周辺のサークルに挨拶を頼む。桃果は俺と来い。荷物を先に預けに行く」


「えっ。私もお二人と一緒に……」


「荷物を預けるのに人手がいる。来い」


いつもより少し強めの声だった。

桃果は一瞬目を丸くしたあと、何かを察したように小さく笑った。


「……はい。行きます」


荷物を持った二人が、人混みの中へ消えていく。


去り際に桃果が小さく振り返った。

声は聞こえなかったけれど、口の形だけで何と言ったのかはわかった。


『がんばって』


私は気づかないふりをした。


* * *


隣のサークルへの挨拶は、短く済んだ。

差し入れの小さなお菓子を渡してお礼を伝えると、隣の女性は笑顔で受け取ってくれた。


「完売、おめでとうございます。うちも、さっき売り切れまして」


「おめでとうございます。来年も隣になれたらいいですね」


「本当ですね。またお会いできるのを楽しみにしています」


女性はそう言ってから、陽向のほうを見てにこりと笑った。


「ところで、お二人は本当に仲がよろしいですね」


「制作班です」


私が答えると、陽向もほとんど同時に口を開いた。


「まだ、付き合ってないです」


「真壁さん」


「うん。だって、事実だから」


女性が、くすくすと笑った。


「そうですか。じゃあ、楽しみにしています」


何を、とは言わなかった。


私はお辞儀をして、その場を離れた。

陽向が自然に横へ並ぶ。


「怒ってる?」


「……怒ってはいません。……でも」


私は足を止めずに答えた。


「嘘ではないので、仕方がありません」


陽向が驚いたようにこちらを見た。


「……紗季。それ、ちょっと嬉しいかも」


「……聞かなかったことにします」


「うん。聞かなかったことにする」


陽向の笑い声が、ホールの喧騒に溶けていった。


撤収が進む時間帯のホールには、朝とは違う空気が流れていた。

私たちは並んで、通路をゆっくり歩く。


ほかのサークルのスペースを通り過ぎる。

机の上に品切れの紙が貼られているところも多かった。


ねこじるしと同じように、今日まで準備してきた本が、誰かの手に渡っていったのだろう。


「全部、誰かが作った本なんだよね」


陽向が小さく言った。


「みんな締切と戦ってきたんだよね。俺たちも」


「……ええ」


「大変だったけど、楽しかった」


「……私も、楽しかったです。忙しかったですけど」


「うん。忙しかった」


お互いに顔を見合わせて、少しだけ笑った。


通路の突き当たりに、小さな休憩スペースがあった。

空いている長椅子を見つけ、二人で並んで座る。


朝からずっと立ちっぱなしだったせいか、足がじんわりと痛んだ。


陽向が背もたれに頭を預ける。

私も同じように、体を後ろへ預けた。


しばらく、会場のざわめきを聞いていた。


「紗季」


「はい」


「今日、一緒に出せてよかった」


陽向は、天井を見上げたまま言った。


「去年も一緒に出したけど、今年はちょっと違った気がする」


「……何が違うんですか?」


彼は少し考えるように目を閉じた。


「去年は、俺が紗季に近づこうとしてた感じだった。けど、今年は……一緒に同じ方向を向いてる感じ」


その言葉が、静かに胸に響いた。


同じ方向を向いている。


さっき、背中合わせで会計をしていたときもそうだった。

お互いに見ているものは違っていても、やることは同じだった。

同じ机に立ち、同じ本を並べて、同じ人たちに届けていた。


「……私も、そう思います」


声が思っていたより小さくなった。


「それは、嬉しいな」


陽向が目を開けて、こちらを見る。


「紗季。次も、一緒に出したい」


とても素直な言葉だった。


胸の奥が、きゅっと縮んだ。


次も。

来年も。

その先も。


私はいつものように、返事をする前に言葉を選ぼうとした。


「……それは、サークルの活動として、でしょうか」


「うん。もちろん」


「それなら、検討を……」


そこまで言って、私は言葉を止めた。


陽向は静かに待っていた。

急かすこともなく、目を逸らすこともない。


私は小さく息を吸った。


「……検討はしません」


陽向の瞳が、わずかに揺れた。


「出します」


言ってしまった。


検討しません、のあとに、出します。

順番が逆だったかもしれない。


けれど、嘘ではなかった。


「……本当に?」


「はい。班として」


「班以外も?」


「……範囲内で」


自分で言って、少し笑ってしまった。


陽向も笑う。


「うん。範囲内で」


「ありがとう、紗季」


その声が、柔らかかった。


しばらく、二人とも何も言わなかった。


遠くの拡声器が、閉会の時間が近いことを告げている。


長椅子の上で、肩が触れていた。

指先もすぐ近くにある。

少し動かせば届く距離だった。


陽向の手は膝の上で軽く握られている。

私の手も、同じように膝の上に置かれていた。


あと数センチ。


私は手を動かしかけて、途中で止めた。


まだ、いい。

今は、まだ。


肩が触れている。

それだけで、十分だった。


陽向も動かなかった。

何も言わず、ただ隣にいる。


その沈黙は、不思議と苦しくなかった。


「……そろそろ、戻りましょうか」


「うん。四時前には戻れって言われたしね」


二人で立ち上がった。


肩が離れた瞬間、少しだけ寂しくなった。

それは、口に出さなかった。


* * *


スペースに戻ると、篠田先輩と桃果がすでに待っていた。

桃果は私たちの顔を見るなり、にんまりと笑った。


「お帰りなさい。どうでしたか?」


「挨拶と、少し休憩です」


「はい。休憩ですね」


桃果は満足そうに頷いた。


その横で、篠田先輩が腕時計を確認する。


「あと五分で閉会だ。全員、机の前に並べ」


四人で机の前に並んだ。


やがて、アナウンスが静かに響いた。


『これより閉会の時間となります。ご参加の皆さま、ありがとうございました』


どこかで拍手が起こった。

それが波のように、ホール全体へ広がっていく。


私も手を叩いた。

篠田先輩も、桃果も、陽向も。


四人の拍手が重なった。


去年は、ただイベントが終わったという実感だけがあった。

今年は、またここから続いていくのだという感覚があった。


「お疲れさまでした」


篠田先輩が静かに言った。


「全員、よくやった。この経験は来年に活かすぞ。それも制作班の仕事だ」


「はい」


四人の声が重なった。


会場を出るころには、日が傾き始めていた。


空は薄いオレンジ色に染まっている。

昼間の熱が、まだアスファルトに残っていた。


帰りの電車で、篠田先輩と桃果は一つ前の駅で降りた。


「御影先輩、真壁先輩、お疲れさまでした!」


手を振る桃果の後ろで、篠田先輩が振り返った。


「御影。今日はいい仕事だった」


「……ありがとうございます」


先輩はそれだけ言うと、桃果と一緒にドアの向こうへ消えた。


電車が走り出すと、車内は急に静かになった。

残ったのは、陽向と私の二人だけだった。


足元には、空の段ボールをまとめた束がある。

私たちは並んで、空いている席に腰を下ろした。


窓の外では、夜が近づく街の光が流れていく。


「紗季。今日はありがとう」


「何が、ですか?」


「全部」


陽向は窓の外を見たまま言った。


「紗季がいたから、できた」


「……班でやりました」


「うん。班で。あと、さっきの話もちゃんと覚えてる。すごく嬉しかった」


「……忘れてください」


「無理」


私は手元にあった空の缶コーヒーを、指先でゆっくり転がした。


「……班として、です」


「範囲内で、でしょ」


「……そうです」


「うん。それでいい」


電車が揺れた。


肩が触れた。


けれど、私は離れなかった。


今度は、人の流れのせいにはできない。

座席は空いている。

車内も、すいている。


それでも、肩は触れたままだった。


私は何も言わなかった。

陽向も、何も言わなかった。


そのとき、個人チャットに通知が届いた。


陽向からだった。


『次も、一緒に出そう』


隣にいるのに、わざわざ送ってきた。


私は小さく笑って、返信を打った。


『はい。出します』


送信してから、スタンプ欄を開く。

黒い猫の足跡を選び、続けて送った。


陽向が自分のスマートフォンを見て、ふっと笑った。


「……来た」


「何がですか?」


「足跡」


「……送りましたから」


「うん。ありがとう」


嬉しそうに画面を見つめる横顔から、私は窓の外へ視線を戻した。


夜の街が、ゆっくりと流れていく。


原稿は完結した。

本は、人の手に渡った。


けれど、恋はまだ未入稿のままだ。


それでも、次の行は少しずつ見え始めていた。


* * *


家に帰ったのは、夜の九時を過ぎたころだった。


玄関で靴を脱ぎ、バッグを床に置く。

足が重い。

全身が鉛のようだった。


スマートフォンを確認すると、母からメッセージが届いていた。


『今日はお疲れさま。小豆の写真、送っておくね』


その下に、写真が添付されている。


私が以前使っていたクッションの上で、小豆が丸くなっていた。

相変わらず、何も心配していなさそうな寝顔だった。


『ありがとう。今日、売り切れたよ』


そう返信して、写真をもう一度眺めた。


猫はいつも平和だ。


私だけが、まだ少し落ち着いていない。

けれど、それも悪くない気がした。


バッグを片づける気力もなく、ベッドに倒れ込んで目を閉じる。


まぶたの裏に、今日の景色が浮かんだ。


机の上に並んだ二冊。

品切れ用紙に押された足跡。

陽向の笑った顔。

肩に触れた、あの温度。


指先は、まだ届かなかった。


けれど、肩は何度も触れていた。

そして、そのたびに私は離れなかった。


それで、今日は十分だった。


スマートフォンが、小さく震えた。


『おやすみ、紗季』


私は少しだけ迷ってから、返事を打った。


『おやすみなさい。また明日』


送信して、画面を伏せる。


七月の夜は、静かに更けていった。


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