11. 使わなかった台詞
目が覚めたとき、部屋はすでに明るかった。
カーテンの隙間から、白い光が細く差し込んでいる。
枕元のスマートフォンを手に取ると、時刻は十時を少し過ぎていた。
月曜日。
起き上がろうとして、すぐにやめた。
ふくらはぎと腰が、ひどく重い。
一日中立ちっぱなしだったせいだろう。
去年も、同じことを思ったはずだった。
それなのに今年も、痛む場所は変わらない。
人間は、なかなか学習しないらしい。
天井を見上げたまま、昨日のことを思い返す。
完売。
二枚並んだ品切れ用紙。
背中合わせで続けた会計。
肩に触れた体温。
それから、「出します」と答えた自分の声。
……思い出すのは、やめよう。
私は布団を頭までかぶった。
けれど、目を閉じても昨日の出来事が遠ざかるわけではない。
布団の中で小さく息を吐く。
顔が少し熱い。
夏のせいにしてしまうことにした。
* * *
ようやくベッドから出て、窓を開けた。
七月の終わりの空気は、朝から湿り気を帯びている。
遠くでは蝉が鳴いていた。
冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注ぐ。
立ったまま一杯飲み干してから、スマートフォンを確認した。
制作班のグループチャットが、いつの間にか賑やかになっている。
桃果が昨日撮った集合写真を送っていた。
『昨日の写真です!保存推奨です!』
その下に、篠田先輩の返信が並んでいる。
『お疲れ。精算書と残部表を共有フォルダに上げた。今夜十八時、大学裏の「とりまる」に集合。全員参加』
『打ち上げですね!』
『ソフトドリンクのみだ。一ノ瀬は未成年で、俺は幹事だ。責任を負う』
『先輩、真面目です……』
『当たり前だ』
私は思わず口元を緩めた。
篠田先輩らしいやり取りだった。
続けて、陽向のメッセージが目に入る。
『了解。早めに行って席を取っておく』
そのあと、少し間を置いて、もう一件。
『紗季の分の席は窓際にしておくね』
居酒屋の窓際。
別に、窓際でなくても構わない。
そう思ったけれど、画面に打ち込んだのは別の言葉だった。
『了解しました。十八時に伺います』
送信して画面を閉じる。
その直後、今度は個人チャットに通知が届いた。
『おはよう。体、大丈夫?』
陽向からだった。
私は少し考えてから返信した。
『筋肉痛です。去年と同じ場所です』
『俺も。階段が怖い』
『お互い、学習能力がありませんね』
『ほんとに。来年も同じこと言ってそう』
来年も。
その言葉に、指が止まった。
昨日の「出します」が、まだ残っている。
『来年は、湿布を先に買っておきましょう』
『それ採用』
少しして、猫の足跡のスタンプが届いた。
陽向のほうから送ってきたのは、初めてだった。
私はしばらく画面を見つめてから、自分の足跡を返した。
並んだ二つの足跡が、トーク画面の下のほうで小さく並んでいる。
それを見ていると、今日が休みでよかったと思った。
少なくとも、午前中は。
* * *
午後三時、私は角教室へ向かった。
夏休み前の最後の週ということもあり、キャンパスの人通りはまばらだった。
並木道に落ちた影を選びながら歩く。
旧校舎の階段を上がると、廊下の窓から強い光が差し込んでいた。
角教室の扉は半分だけ開いている。
中には篠田先輩と桃果がいた。
「あ、御影先輩! おはようございます!」
「もう三時ですよ」
「私にとっては、今日最初の挨拶ですから!」
桃果は机にぐったりと突っ伏していた。
顔だけをこちらに向けている。
「筋肉痛で動けません。でも、動かないと負けた気がして来ました」
「勝ったのでは?」
「勝ったから、足が痛いんです」
「……そういうものですか?」
「そういうものです!」
意味はよくわからない。
けれど、気持ちはなんとなくわかった。
篠田先輩は窓際の長机で、昨日のイベントに関する書類を几帳面に並べていた。
「御影。会計の確認を頼む。誤差はないはずだが、二重で見ておきたい」
私は向かいの席に座り、会計表を受け取った。
数字を一行ずつ追い、電卓を叩いていく。
合っている。
当然のことではあるけれど、改めて確認すると安心した。
「問題ありません。昨日、締めたときと同じです」
「ならいい」
篠田先輩は短く頷き、ファイルを閉じた。
そのとき、扉が開いた。
「お疲れさま。遅くなってごめん」
陽向だった。
肩にリュックをかけ、少しだけ前かがみになって歩いている。
足を引きずるほどではないけれど、歩幅がいつもより小さかった。
「真壁先輩、歩き方がおじいちゃんです!」
「失礼な。ちょっと慎重に歩いてるだけだよ」
「階段が怖いんですよね?」
陽向の足が止まった。
「……なんで知ってるの?」
「今朝、御影先輩とチャットしてましたよね。画面に出ていたので」
「え、桃果、見たの?」
「通知が見えちゃったんです。湿布のくだりまで!」
「一ノ瀬」
篠田先輩が静かに呼んだ。
「手を動かせ。見本誌の保管場所を決めるぞ」
「はい……」
桃果は肩を落とした。
けれど、その口元にはまだ笑みが残っている。
陽向は私の隣の席に腰を下ろした。
背もたれに寄りかかり、小声で尋ねる。
「見られてたって、知ってた?」
「……いえ。今、知りました」
「だよね」
「スマートフォンの置き場所には気をつけたほうがよさそうです」
「うん。俺も気をつける」
陽向が小さく笑った。
その笑い声は、昨日の帰りの電車で聞いたものと同じだった。
私は会計表へ目を落とす。
数字は、きちんと合っている。
合っていないのは、たぶん私の心拍数のほうだった。
* * *
見本誌と品切れ用紙を収めるファイルは、角教室の棚に保管することになった。
昨日、陽向が丁寧に挟んでいた二枚の紙。
並んだ足跡のスタンプが、ファイルのビニール越しに見える。
篠田先輩が棚の奥から去年のファイルを取り出し、その隣に並べた。
『境界線の向こうに缶コーヒー 完売しました』
去年の品切れ用紙には、少し不揃いな文字が並んでいた。
陽向の字だ。
今年の文字と比べると、わずかに違いがある。
一年経って、少しだけ整ったらしい。
「……去年より、字が落ち着いていますね」
「え、そう?」
「はい。文字の間隔が安定しています」
「それ、褒めてる?」
「校正の結果です」
「じゃあ、褒められたことにしておく」
陽向が嬉しそうに笑った。
それから、リュックの中を探り始めた。
取り出したのは、ビニールに包まれた薄い本だった。
『境界線の内側に缶コーヒー』。
「この見本誌は紗季が持ってて」
「……私が、ですか?」
「うん。校正した人が持っているのが、一番いいと思う。俺は入稿データがあるから、いつでも見られるし」
陽向は少しだけ言葉を探すように間を置き、続けた。
「それに、紗季に持っていてほしい」
「……それは、理由になっていません」
「じゃあ、校正者の権利」
「そんな権利は、規約にありません」
「今、作った」
「作らないでください」
そう言いながら、私は本を受け取っていた。
ビニールの端が指先に触れる。
包み越しにも、まだ新しい紙の感触が伝わってくるようだった。
「……大事に保管します」
「うん。お願い」
陽向の声は、とても静かだった。
少し離れたところで、篠田先輩が咳払いをした。
「そこ。保管場所の相談は、あとにしろ」
「はい」
「はい」
二人同時に返事をしてしまい、桃果がまた肩を震わせた。
* * *
打ち上げの会場は、大学の裏門から五分ほど歩いたところにあった。
居酒屋『とりまる』。
鶏料理がおいしいことで、サークルの先輩たちが代々利用している店らしい。
暖簾をくぐると、油と醤油の香ばしい匂いがした。
店内はすでに賑やかで、あちこちから話し声が聞こえてくる。
奥の座敷席で、陽向が手を挙げた。
「紗季、こっち」
窓際の席が、確かに空けてあった。
「……窓際である必要は、ありません」
「でも、涼しいよ」
「涼しいのは、冷房の風が当たるからでは?」
「そう。だから」
陽向は何でもないことのように答え、自分は一つ内側の席に座った。
私は窓際に腰を下ろす。
真上には冷房の吹き出し口があり、確かに涼しかった。
少し遅れて桃果が入ってくる。
その後ろには篠田先輩が続いた。
全員が揃ったところで、篠田先輩が人数分の飲み物を注文した。
烏龍茶が三つ。
オレンジジュースが一つ。
「一ノ瀬。お前だけオレンジジュースか?」
「違います! 私のも烏龍茶です! オレンジジュースは真壁先輩です!」
「俺です」
陽向が小さく手を挙げた。
「真壁。お前はいつもブラックのくせに、飲み屋では甘いものなのか」
「居酒屋だと、オレンジジュースが一番おいしい気がして……」
「意味がわからん」
「わかってもらえなくていいです」
飲み物が届くと、篠田先輩がグラスを持ち上げた。
「では、乾杯の音頭を取る。……が、長い話は嫌いだ」
「知ってます!」
「だから一言だけ。二冊とも完売した。以上だ。乾杯」
「かんぱーい!」
四つのグラスが、軽く音を立てた。
烏龍茶を一口飲む。
冷たさが喉を通り、身体の奥まで染みていく。
昨日の水もおいしかったけれど、今日の烏龍茶もおいしい。
疲れた身体は、何を飲んでもおいしく感じるのかもしれない。
「それで」
篠田先輩が鞄からクリアファイルを取り出した。
「正式な数字を報告する。前作五十部、新作五十部。完売時刻は、前作が午後一時五分、新作が午後二時十二分」
「おおお……」
桃果が身を乗り出した。
「来年も出る。部数も増やす。ただし、増やしすぎない。去年と今年の完売時間を見て、適正な部数を決める」
篠田先輩は淡々と言った。
けれど、その目はいつもより少し明るく見えた。
桃果が拳を握る。
「蓮先輩、嬉しそうです」
「嬉しくない」
「えっ」
「冷静に評価しているだけだ」
「はい、いつもの先輩です」
私は烏龍茶のグラスで、口元を隠した。
別に嬉しくない。
そんな台詞を思い出して、なぜか少しおかしくなる。
陽向のほうを見ると、彼もこちらを見ていた。
同じことを考えていたのだろうか。
目が合う。
どちらも、すぐには視線を逸らさなかった。
「……何ですか」
「ううん。何でもない」
「何でもない顔ではありません」
「紗季も、何か笑ってたよ」
「笑っていません」
「口の端が、少し上がってた」
「……烏龍茶の温度のせいです」
「冷たいのに?」
「冷たいからです」
自分でも、何を言っているのかわからなくなってきた。
桃果が手元のメニューを顔の前に立てた。
その向こうで、肩が小さく震えている。
「一ノ瀬」
「はい。すみません」
* * *
料理が運ばれてきた。
唐揚げ。
焼き鳥の盛り合わせ。
だし巻き卵。
冷やしトマト。
篠田先輩が取り皿を静かに全員へ配った。
「各自、好きに取れ。大皿は左から回す。取りすぎるな」
「はい!」
桃果がさっそく唐揚げに箸を伸ばした。
陽向はだし巻き卵を二切れ取ると、そのうち一切れを私の皿にそっと置いた。
「……私は、頼んでいません」
「でも、好きでしょ。だし巻き」
「……好きですが」
「じゃあ、どうぞ」
否定する理由が見つからなかった。
私は箸で一切れを割り、口に運んだ。
出汁の香りがほのかに広がる。
卵はふわりと柔らかく、少し甘かった。
「……おいしいです」
「よかった」
陽向は自分の皿に目を落としたまま、嬉しそうに笑った。
向かいの席では、桃果がその様子を観察している。
唐揚げを食べながらも、視線だけは外さない。
「蓮先輩。今の、どう思いますか?」
「班員同士の普通の食事風景だ」
「普通ですか?」
「昨日も似たようなやり取りを見た気がする。事実の確認だ」
「やっぱり!」
私は黙って、だし巻き卵を食べ続けた。
こういうときは、反応しないのが一番いい。
そう学んだはずなのに、頬が少し熱いのは変わらなかった。
しばらくして、篠田先輩がスマートフォンを取り出した。
「感想が届いている」
「えっ」
桃果が身を乗り出す。
「昨日の夜から、SNSに投稿されている。本を買ってくれた人たちの感想だ。まだ数は多くないが、確認しておく価値はある」
篠田先輩は画面をスクロールしながら、淡々と読み上げた。
『ねこじるしさんの新作、買えました。表紙の夕方の光がすごくきれい』
「わあ……」
『前作と並べて読むと、同じ部室が違う季節に見えるのがいいです』
「並べて読んでくれたんですね」
『八ページの台詞が刺さりました。引いた人が守る、って、自分にも言い聞かせたくなる』
私は箸を持つ手を止めた。
八ページ。
昨日、スペースに来てくれた中学生くらいの女の子の顔が浮かんだ。
「その方は、昨日いらした女の子かもしれません」
「どうだろうな。年齢までは書かれていない」
篠田先輩は続けて、別の投稿を表示した。
『最後の部室の場面で泣いた。あれ、作者さんの実体験なのかな。リアルすぎて』
陽向の箸が、ほんの少しだけ止まった。
桃果が勢いよくこちらを向く。
「ほらあ!」
「何ですか」
「みんな気づいてるんですよ! 最後の部室、リアルすぎるって!」
「創作です」
「そうですか?」
桃果はまっすぐな目で私を見た。
「御影先輩。あの最後の部室の場面、リアルな出来事が元になっていたんじゃないですか?」
店内の喧騒が、少し遠のいた。
唐揚げの油が弾ける音。
隣の席の笑い声。
冷房の風が、首元をかすめる。
その全部が、一瞬だけ背景に退いた。
「……何を言っているのかわかりません」
「だって、あの場面、先輩たちにそっくりなんです。柚の話し方も、橙の黙り方も」
「そっくりではありません」
「でも、ネームを切ったのは私です。ずっと見てきたんですから」
桃果は少しだけ声を落とした。
「それに、あそこには本当は、もう一つ台詞がありましたよね」
私は息を止めた。
向かいの席で、篠田先輩が静かにグラスを置いた。
陽向が小さく口を開く。
「……あるよ」
「真壁さん」
「だって、本当のことだから」
「それは、本編にはありません」
「うん。本編には入っていない」
陽向はオレンジジュースのグラスを持ったまま私を見た。
責めるような目ではなかった。
隠すつもりもない、というような目だった。
「俺、入稿係だから。データのバックアップは二系統取ってあるんだ。その中に、紗季が削る前の版も残ってる」
「……見ましたか?」
「見た」
「いつですか」
「ネームの段階で共有されていた版と、入稿前にバックアップを確認したとき」
胸の奥が、すっと冷えた。
「勝手に見てごめん。バックアップの確認をしているとき、ファイルが壊れていないか確かめようと思って開いたんだ。そこで見えた」
「……開く必要はなかったはずです。ファイルの更新日時を確認すれば」
「そうだね」
陽向は言い訳をしなかった。
「でも、開いてしまった。見たことを、紗季に話さなかったのもよくなかったと思ってる」
私は何も言えなかった。
いつも、こういうときは正しいのはどちらなのかを考える。
どちらの言い分に筋が通っているのか。
何をどう説明すれば、納得できるのか。
けれど今は、正しさよりも先に、別のことが浮かんでいた。
読まれていた。
削った言葉まで。
それなのに、胸の奥は思っていたほど痛まなかった。
「……読んだ上で、どう思いましたか」
自分でも驚くほど、小さな声が出た。
陽向はすぐには答えなかった。
一度グラスを置き、それからスマートフォンを取り出す。
「見せていい? 削った台詞のファイル、ここに入ってる」
「……皆さんの前で、ですか?」
「紗季が嫌なら見せない」
陽向はスマートフォンを持ったまま、動かなかった。
それが、彼らしかった。
いつもそうだ。
最後に決めるのは、私のほうだった。
私は桃果を見る。
桃果はいつもの笑顔を消し、真面目な顔で小さく頷いた。
次に、篠田先輩を見る。
「俺は見ても見なくても、評価は変わらない。ただ、校正履歴は残す規則だ」
「……規則ですか」
「規則だ」
こういうとき、篠田先輩の言い方は妙に救いになる。
重くしすぎず、軽くしすぎない。
私は小さく息を吐いた。
「……見せてください」
「いいの?」
「ただし、読み上げは禁止です」
「読み上げ?」
「声に出さないでください」
陽向は、少しだけ笑った。
「わかった。声には出さない」
スマートフォンが、テーブルの上に置かれた。
画面にはテキストファイルが表示されている。
ファイル名は、こうだった。
『saki_cut_lines_backup_final2.txt』
「……ファイル名が、ひどいです」
「前に紗季が言ってた、final_final2を参考にした」
「参考にしないでください」
「でも、わかりやすいでしょ」
「わかりやすさの問題ではありません」
私は画面をスクロールした。
最初に出てきたのは、短い一行だった。
『別に、嬉しくない』
ああ、と思った。
陽向のタブレットカバーに貼られていた、あのステッカーの文字だ。
「……やっぱり、そこから来ていたんですね」
「うん。最初に紗季が削ったとき、ちょっと気に入っちゃって」
「気に入らないでください」
「でも、貼ったら会議で一瞬で見つかった」
「見つかりましたね」
桃果が何度も頷く。
「あのステッカー、距離感バグの原因でしたよね」
「一ノ瀬」
「はい。すみません」
私はさらに画面を下へ動かした。
そして、指が止まった。
最後の部室の場面だった。
柚が窓際に立っている。
橙が缶コーヒーを持って入ってくる。
夕方の光。
言葉を交わさないまま、缶が手渡される。
そして、そのあとに。
『橙:柚。……好きだ。ここじゃ言い切れないから、続きは外で言う』
声に出さないでと言ったのに、読んだ私のほうが、頭の中でその台詞を再生してしまった。
陽向の声で。
胸の奥が、静かに鳴った。
私は画面から目を離した。
テーブルの向こうでは、桃果が両手を口元に当てている。
篠田先輩は腕を組んだまま、何も言わなかった。
「……これです」
私はできるだけ事務的な声を出した。
「ネームの段階では入っていました。ですが、最終稿では削りました」
「どうしてですか?」
桃果が尋ねた。
責めるような声ではない。
純粋に理由を知りたい、という声だった。
私は少し考えてから答えた。
「……直接的すぎたからです」
「でも、橙が柚を好きなのは、三十ページですでに伝わっていますよね?」
「はい。『俺、柚のことが好きだよ』は残しました。あれは、柚に向けられた言葉として成立しています」
「じゃあ、この台詞は?」
「……この台詞は」
言葉を探す。
校正の言葉なら、いくらでも出てくる。
けれど、この台詞を削った理由は、それだけではなかった。
「読者に向けた言葉に、見えてしまうんです」
「読者に?」
「『続きは外で言う』という台詞は、作中の人物が、ページの外にまで約束を持ち出しているように見えます。物語の中で完結しない」
私は烏龍茶のグラスに目を落とした。
「それが、嫌だったんです。本を閉じても、その先が続いてしまいそうで」
誰も、何も言わなかった。
「それに……」
少しだけ、声が小さくなる。
「現実に、近すぎました」
言ってしまってから、後悔した。
けれど、もう取り消すことはできない。
篠田先輩がゆっくりと頷いた。
「作品として削る判断は、合理的だ」
「……ありがとうございます」
「ただし」
先輩はグラスを持ち上げた。
「作品から削った台詞が、作者の中から消えたわけではない」
「蓮先輩、かっこいいです」
「評価ではなく、事実だ」
私は顔を上げられなかった。
陽向が静かに口を開いた。
「俺ね」
「はい」
「この台詞、削られてよかったと思ってる」
その言葉に、私は顔を上げた。
陽向は思いのほか穏やかな表情をしていた。
「だって、橙が先に言っちゃったら、俺の分がなくなっちゃうでしょ」
「……真壁さん」
「うん。ごめん。ここ、居酒屋だった」
「そうです。居酒屋です」
「じゃあ、『続きは外で言う』よ」
陽向は、やわらかく言った。
「本の中じゃ言わないよ。紗季が嫌がるから」
私は何も言い返せなかった。
居酒屋の座敷席に、二人の間の空気だけが静かに残る。
その外側で、桃果が顔を覆い、テーブルに突っ伏した。
「無理です……。ここで言うのは、ずるいです……」
「一ノ瀬。静かにしろ」
「蓮先輩は平気なんですか!」
「居酒屋だ。台詞の続きは、各自の時間にやれ」
「そういう問題じゃないです!」
篠田先輩は、運ばれてきた焼き鳥の皿を淡々と私たちの前へ押し出した。
「冷める。食べろ」
その一言で、全員がようやく箸を動かし始めた。
私は、だし巻き卵の残りを口に運んだ。
味は、少しだけ遠く感じられた。
* * *
デザートの杏仁豆腐が運ばれてくるころには、桃果もようやく落ち着いていた。
「……先輩たち、すごいです」
「何がですか」
「ずっと隣にいるのに、まだ恋人未満なんですよね」
「別におかしくないですよ。告白もありませんから」
「でも、もう半分くらい越えてますよ?」
「越えていません」
私は杏仁豆腐のスプーンを持ったまま、きっぱりと答えた。
「境界線は、まだ引かれています」
「その線、薄くないですか?」
「……一ノ瀬さん」
「はい」
「そういうことは、本に書いてください」
桃果は一瞬ぽかんとした。
それから、顔を輝かせる。
「次の本のネタにしていいってことですか?」
「違います」
「一ノ瀬。企画案は班の会議に出せ。ここで勝手に進めるな」
「はい。すみません」
テーブルの上に、また笑い声が戻ってきた。
陽向も笑っている。
私も、気づけば口元が緩んでいた。
こんなふうに誰かと食事をして、笑って、からかわれて。
去年の私は、きっと想像もしていなかった。
一人でいるのは楽だ。
今でも、そう思う。
けれど、こういう時間も悪くない。
そう思えるようになっていた。
会計は篠田先輩が全員分をまとめて精算した。
「サークルの経費だ。各自、個別に払うなよ」
「ごちそうさまです、経費です!」
桃果が元気よく言い直す。
暖簾をくぐって外に出ると、夜の空気が少しだけ涼しくなっていた。
* * *
店の前で、篠田先輩が全員に向き直った。
「ここで解散する。一ノ瀬は俺と同じ方向だ。送る」
「えっ、送ってくれるんですか?」
「同じ路線だ。ついでだ」
そう言って、先輩は先に歩き出した。
桃果は一瞬だけ私たちのほうを振り返り、片手を小さく振った。
「お疲れさまでした! あの……」
何か言いかけて、桃果は言葉を飲み込んだ。
「……お先に失礼します!」
そのまま篠田先輩のあとを追い、少し早足で歩いていった。
商店街の人混みに、二人の背中が消えていく。
静かになった。
遠くで電車の音が聞こえる。
街灯の光が、アスファルトに丸く落ちていた。
「……帰ろうか」
陽向が控えめに言った。
「はい」
私たちは並んで歩き始めた。
大学の裏門から駅までは、並木道を抜けていく。
昼間は木陰が涼しいけれど、夜になると街灯の明かりだけでは少し心細い。
しばらく、どちらも話さなかった。
昨日の帰り道と、どこか似ている。
けれど、少しだけ違う。
今日は、言っておかなければならないことが一つ増えていた。
「……真壁さん」
「うん」
「あの、削った台詞のことですが」
「うん」
「見たことを黙っていたのは……少し、ずるいと思います」
「うん。ごめん」
陽向は素直に認めた。
「怒ってる?」
「……怒る理由はあります。でも、怒る気持ちは、あまりありません」
自分で言っておきながら、少し不思議な文章だと思った。
陽向は小さく笑った。
「それ、紗季っぽい」
並木道の途中に、自動販売機が立っていた。
白い光が、夜の中にぽつんと浮かんでいる。
陽向が足を止めた。
「ちょっと待ってて」
「はい」
彼は財布を取り出し、硬貨を入れた。
がしゃん、と缶が落ちる音がする。
もう一度。
続けて、もう一度。
陽向が戻ってきて、缶を一つ差し出した。
「はい」
ブラックの、無糖。
「……ありがとうございます」
受け取った缶は、まだ少し冷たかった。
店の中で温まった手のひらに、金属の冷たさが心地いい。
陽向も同じ缶を開けた。
プルタブが小さな音を立てる。
「紗季は、開けないの?」
「……もう少し、このままで」
「そっか」
私は缶を両手で包んだ。
表面に浮いた水滴が、一つ、ゆっくりと滑り落ちていく。
しばらく並んで歩いた。
街灯の下を通り過ぎるたびに、二人の影が長くなったり、短くなったりする。
「ねえ、紗季」
「はい」
「さっきの台詞。紗季が書いたのに、俺が読んだとき、変な気持ちになった」
「変、とは?」
「嬉しいのと、くすぐったいのと……あと、ちょっと悔しい」
「悔しい?」
「うん」
陽向は缶を持った手を、少しだけ揺らした。
「だって、紗季が橙に言わせたんでしょ。『続きは外で』って」
「……作中の人物に、です」
「でも、書いたのは紗季でしょ」
私は返事ができなかった。
そのとおりだった。
橙は、私の言葉で話している。
あの台詞を言わせたのは、私自身だ。
「俺は、橙と同じことを言いたいわけじゃないんだ」
陽向は足を止めずに言った。
「橙に言わせた言葉じゃなくて、俺の言葉で伝えたい。紗季が嫌じゃなければ、だけど」
私は缶を持つ指に、少し力を込めた。
冷たい。
けれど、手のひらは熱かった。
「……急かさないんですね」
「うん。急かさない」
「いつまで、ですか」
「紗季が決めるまで」
あまりにもあっさりと言うので、私は思わず足を止めた。
陽向も数歩先で立ち止まる。
振り返った顔は、街灯の光を背にして、少し見えづらかった。
「待つのは、得意だよ」
その言い方が、とても静かだった。
私は、昔のことを思い出した。
中学校の部室の隅で、原稿を抱えていた自分。
言葉にできないものを抱えたまま、俯いていた自分。
その隣に、黙って座っていた誰かの影。
何も言わずに、缶コーヒーを置いていった手。
あの頃から、この人は変わっていない。
変わっていないのに、少しずつ違って見える。
「……真壁さん」
「うん」
「……今日は、これ以上は言えません」
「うん。それでいい」
「でも」
「でも?」
私は缶を握ったまま、少しだけ息を吸った。
「……逃げるわけでは、ありません」
陽向の目が、静かに見開かれた。
それから、ゆっくりと細くなる。
「うん。わかってる」
そう言って、笑った。
私はまた歩き出す。
陽向が横に並んだ。
肩は触れなかった。
けれど、隣を歩く距離は、昨日よりも近い気がした。
駅の改札の手前で、陽向が足を止めた。
「じゃあ、ここで」
「はい」
「紗季、ちゃんと寝てね。昨日は三時間だったでしょ」
「今日は、もう少し寝ます」
「うん。おやすみ」
「……おやすみなさい」
陽向は軽く手を上げ、反対方向のホームへ歩いていった。
私は改札を通る前に、少しだけ振り返った。
彼の背中は、人の流れの中で、すぐに見えなくなった。
手の中の缶は、まだ冷たかった。
私は、開けないまま電車に乗った。
* * *
家に着いたのは、十時を少し過ぎたころだった。
玄関で靴を脱ぎ、荷物を置く。
シャワーを浴びて、髪を乾かした。
机の上に缶コーヒーを置く。
その隣に、陽向から受け取った新作の見本誌を並べた。
それから、本棚の奥から前作を取り出す。
去年の夏に作った、『境界線の向こうに缶コーヒー』。
背表紙の端が、少しだけ日に焼けている。
一年分の時間が、紙の色になっていた。
私は二冊を机の上に並べた。
左に、前作。
右に、新作。
『向こう』と『内側』。
並べると、昨日のスペースの机を思い出す。
去年の本と今年の本が、同じ場所に立っていた。
表紙の部室の窓は、少しだけ違う。
前作は、窓の外に広がる夕方の光。
新作は、窓の内側から見た光。
同じ部屋を、別の側から描いている。
私は新作のページをめくった。
最後のほうに、奥付がある。
『ねこじるし』
発行日。
印刷所の名前。
その下に、制作に携わった名前が並んでいた。
前作の奥付には、私たち下級生の名前のほか、卒業した先輩の名前も並んでいた。
桐山京。
相沢真理。
御影紗季。
真壁陽向。
篠田蓮。
宇野先輩の名前は、印刷折衝の欄に載っていた記憶がある。
新作は、四人。
御影紗季。
真壁陽向。
一ノ瀬桃果。
篠田蓮。
どちらの奥付にも、私と真壁さんの名前が並んでいる。
私の名前の、すぐ隣に。
前作でも、新作でも。
紗季の次に、陽向。
偶然ではない。
入稿のとき、陽向が並び順を確認してくれた。
「前作と同じ順にしよう。そのほうが、並べたときに揃うから」
私は奥付の二つの名前を、しばらく見つめていた。
長く見すぎているという自覚はある。
それでも、目を離すことができなかった。
去年は、この名前を見ても何も思わなかった。
ただの制作者の並び。
形式的な記載。
今年は、紙の上の文字が、そのまま誰かの顔に見える。
声に聞こえる。
隣にいる気配になる。
私は新作の最後のページを閉じた。
それから、机の端に置いたノートを開く。
台詞控えの余白に鉛筆を持っていく。
何か書こうとして、手が止まった。
橙の台詞なら、いくらでも書けた。
柚の沈黙も書けた。
けれど、自分の台詞は、一行も出てこない。
『付き合ってください』
違う。
それは、橙の言い方だ。
『私と、付き合ってください』
それも違う。
丁寧すぎる。
どんな言葉を書いても、すぐに削りたくなる。
直接的すぎる。
近すぎる。
現実すぎる。
……そうか。
私は鉛筆を置いた。
だから、昨日までの私は、あの台詞を削ったのだ。
言葉にしてしまえば、取り返しがつかなくなる気がしたから。
けれど、陽向は言っていた。
橙に言わせた言葉ではなく、自分の言葉で伝えたい。
それなら、私も同じだ。
台詞を書いてノートに残したら、きっとまた削ってしまう。
削ってしまえば、また言えなくなる。
だから、書かない。
私はノートを閉じた。
机の上の缶コーヒーを手に取る。
表面の水滴は、もう乾いていた。
けれど、缶はまだ少し冷たかった。
プルタブに指をかけて、開ける。
ぷしゅ、と小さな音がした。
一口飲む。
ブラック、無糖。
いつもの苦さだった。
けれど、飲み込んだあとに、ほんの少しだけ甘さが残った気がした。
気のせいだと思う。
たぶん。
私は缶を机に置き、前作と新作をもう一度眺めた。
並んだ背表紙。
同じ世界の、別の面。
ここまでが、本の中の話だ。
本の中の二人は、もう物語を終えた。
けれど、私たちの続きは、まだ紙の外にある。
私は、はっきりと決めた。
付き合う、と言う。
自分の口で。
自分の言葉で。
でも、まだ言わない。
今夜は、言わない。
明日も、たぶん言えない。
けれど、決めた。
決めたことだけは、嘘にしない。
窓の外では、七月の夜が静かに更けている。
スマートフォンが、小さく震えた。
『今日はありがとう。おやすみ、紗季』
陽向からだった。
私は画面を見つめ、返事を打つ。
『おやすみなさい。また、近いうちに』
少し迷ってから、足跡のスタンプを添えた。
送信して、画面を伏せる。
机の上には、二冊の本と、開けたばかりの缶コーヒー。
私は部屋の明かりを消す前に、もう一度だけ二冊を見た。
次は、自分の番だ。




