12. 付き合う宣言
八月最初の土曜日。
目が覚めて最初に見たのは、天井ではなくスマートフォンの画面だった。
枕元で、短く震えたのだ。
母からメッセージが届いていた。
『おはよう。これ、見て』
その下に、写真が一枚添付されている。
食卓の端に、小豆が座っていた。
前足の先には、麦茶の入ったコップがある。
コップは、テーブルの縁ぎりぎりに置かれていた。
小豆の顔は、とても真剣だった。
『この三秒後に落ちました。小豆は反省していません』
私は寝転がったまま、小さく息を吐いた。
笑ったわけではない。
ただ、朝の静かな部屋に、息が少し漏れただけだった。
『拭いたのは誰ですか』
『お母さんです』
『小豆に請求書を回してください』
『猫に請求しても、お金は出てこないのよ』
『知っています』
そう返してから、もう一度写真を見る。
小豆は前足をコップに添えたまま、じっと中身を見下ろしていた。
押すかどうか、考えているような顔だった。
猫は、そういう生き物だ。
落とす前に、まず前足でちょんと確かめる。
それから、本当に押すかどうかを決める。
そして、一度押してしまったものは、もう元には戻らない。
……私は、この数日、ずっと「ちょん」の段階にいる。
布団の中でゆっくり目を閉じた。
それから、もう一度目を開ける。
今日は、締切の日だ。
* * *
コミケが終わって、六日が経っていた。
その間、私は何もしていなかったわけではない。
むしろ、かなり努力した。
火曜日。
角教室で、陽向と二人きりになる瞬間があった。
「真壁さん。少し、お時間をいただけますか」
そう切り出したところで、扉が勢いよく開いた。
「お疲れさまです! 御影先輩、真壁先輩、見てください! 昨日の感想、また増えてました!」
桃果だった。
スマートフォンを掲げたまま、満面の笑みで入ってくる。
「あれ? お話し中でしたか?」
「……いえ。大丈夫です」
大丈夫ではなかった。
けれど、桃果が持ってきた感想は、どれも嬉しいものばかりだった。
話を遮るわけにもいかず、結局そのまま感想を読むことになった。
木曜日。
帰りの駅前で、信号待ちをしていた。
隣には陽向がいる。
言うなら今だと思った。
「真壁さん」
「うん」
「あの……」
信号が青になった。
陽向は何も言わず、私の歩く速さに合わせてくれた。
横断歩道を渡り終えたころには、言葉は喉の奥へ引っ込んでいた。
金曜日の夜は、個人チャットの入力欄に何度も文字を打った。
『お話ししたいことがあります』
消した。
『今度、時間をください』
消した。
『明日、会えますか?』
……それは、あまりにも直接的だった。
結局、その夜の未送信は十七件。
校正者として、どれも不採用だった。
言えなかったのではない。
タイミングを、校正していたのだ。
自分でも、苦しい言い訳だと思う。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
あの夜、並木道で「逃げるわけではありません」と言ったのは、私だ。
言った以上、期限は自分で決めるべきだった。
締切は、守る主義だ。
だから、土曜日。
今日、言う。
* * *
顔を洗い、朝食を食べ、洗濯物を干した。
そこまでは、いつもどおりだった。
問題は、服だった。
三回着替えて、結局、薄いグレーのカーディガンと深い青のスカートに落ち着いた。
昨日までと、ほとんど変わらない組み合わせだった。
鏡の前で、猫柄のヘアピンを前髪に留める。
別に、特別な日ではない。
そう思いながら、スマートフォンを開いた。
昨夜の十七件は、すべて消えている。
入力欄は、まっさらだった。
深呼吸をして、短く打つ。
『今日の午後、時間はありますか。ブックマークで、少しお話ししたいことがあります』
送信。
画面を伏せた。
まだ一分も経っていない。
スマートフォンが震えた。
『ある。何時でもいい』
早い。
いつものことながら、早すぎる。
『十四時でどうですか』
『了解。席、取っておく』
少しして、もう一件届いた。
『窓際、電源あり、冷房の風が直接当たらないところ』
私は画面を見つめた。
何も頼んでいないのに、先回りされている。
『冷房の指定は、していません』
『でも、寒がりでしょ。この前の打ち上げでも、窓際で一回腕をさすってた』
見られていたらしい。
否定したい。
けれど、事実だった。
『観察は、ほどほどにしてください』
『ほどほどに観察する』
足跡のスタンプが届いた。
私も足跡を返す。
並んだ二つの足跡を見ていると、固まっていた肩の力が少しだけ抜けた。
* * *
外に出ると、空気がまとわりつくように暑かった。
アスファルトからは、白い熱がゆらゆらと立ち上っている。
蝉の声が、頭上から降ってくる。
七月の終わりよりも、ずっと勢いがある。
夏の盛りに入ったのだと、全身で教えられているようだった。
電車の窓際の席に座り、膝の上で手を重ねる。
何を言うかは、まだ決めていない。
正確には、決めないことにした。
書いてしまえば、削りたくなる。
削ってしまえば、また言えなくなる。
それは、ノートの余白を前にして、もう学んだことだった。
カフェ『ブックマーク』は、駅から歩いて七分ほどのところにある。
古い雑居ビルの一階。木の扉には、小さな真鍮のベルが付いている。
扉の前で、一度立ち止まった。
深呼吸。
……いつもどおり。
そう言い聞かせて、扉を押した。
ちりん、とベルが鳴る。
古い紙と、焙煎した豆の匂い。
天井の低い店内には、控えめな音量でピアノの曲が流れていた。
土曜の午後ということもあり、席は半分ほど埋まっている。
勉強中の学生。
本を読む年配の男性。
小声で話す二人連れ。
奥の窓際で、陽向が小さく手を挙げた。
大きくは振らない。
それが、周囲への気遣いなのだとわかった。
「紗季。こっち」
「……お待たせしました」
「待ってないよ。今来たところ」
テーブルの上のグラスを見る。
氷は、半分以上溶けていた。
「……今来たところ、には見えません」
「あ、ばれた?」
陽向は悪びれずに笑った。
「ちょっと早く着いたんだ。席が取れなかったら困るから」
「何分前ですか?」
「二十分前」
「早すぎます」
「でも、窓際が空いてたよ」
私は黙って椅子に腰を下ろした。
窓際。
コンセントは足元。
冷房の吹き出し口からも、ほどよく離れている。
文句のつけようがない。
それが、少し悔しかった。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
店員にアイスコーヒーのブラックを注文する。
陽向はおかわりを同じものにした。
「紗季、今日の髪留め、猫だね」
「……いつもと同じです」
「うん。いつもと同じだけど、好きなやつでしょ」
「好きかどうかは、報告していません」
「見ればわかるよ」
私は水のグラスで口元を隠した。
こういうとき、どう返すのが正解なのか、いつもわからない。
* * *
アイスコーヒーが運ばれてきた。
一口飲むと、深い苦みが喉の奥へ静かに落ちていく。
少しだけ、気持ちが落ち着いた。
「それで」
陽向がストローを指先でくるりと回した。
「話したいことって?」
「……その前に、少しだけ雑談を」
「雑談?」
「前座です」
「前座なんだ」
「前座です」
陽向は楽しそうに頷いた。
「じゃあ、前座をどうぞ」
私はスマートフォンを取り出し、今朝の写真を開いて差し出した。
「母から届きました」
陽向が身を乗り出す。
「あ、小豆。……うわ、顔が真剣。これ、コップを落とす直前だ」
「正解です。三秒後に落ちたそうです」
「やっぱり。小豆、自由だなあ」
「自由すぎます」
「でも、いいなあ。会ってみたい」
「……お盆に、少しだけ帰る予定です」
「小豆に挨拶したいな」
「猫に挨拶は不要です」
「でも、紗季の家族だから」
言葉に詰まった。
この人は、時々そういう言葉を何でもないことのように口にする。
陽向は笑って、写真をもう一度見つめた。
「俺は、やっぱり紗季派だな」
私はグラスを置いた。
去年の締切前夜。
陽向の部屋で、小豆の写真を見せたときのことだ。
小豆と私、どちらが可愛いかという、少し意地の悪い冗談。
そのとき彼は、何気ない顔でこう言った。
『俺は紗季派』
私は聞き流した。
聞き流したはずなのに、今でも覚えている。
「……去年の話です」
「うん。去年の話」
「忘れてください」
「無理」
あっさりと即答された。
「紗季が忘れてって言うことは、だいたい忘れたくないことだから」
「……それは、校正の誤りです」
「じゃあ、訂正はあとで」
陽向は楽しそうにコーヒーを一口飲んだ。
この人は、やっぱりずるい。
* * *
しばらく、取りとめのない話をした。
新刊に届いた感想。
桃果のこと。
篠田先輩のこと。
そのうち、陽向がふと言葉を切り、少しだけ姿勢を正した。
「紗季」
「はい」
「今日、緊張してるよね?」
息が止まった。
「……そう見えますか?」
「ストローを三回も回してる。今も」
見ると、右手が無意識にストローを回していた。
私は慌てて手を止める。
「……失礼しました」
「謝らなくていいよ」
陽向は、とても静かな声で言った。
「先に言っておくね。紗季が何を話そうとしているのかは、わからないけど」
私はグラスの水滴を、指先でそっとぬぐった。
「急がなくていい。今日言えなくても、来週でも来月でもいいよ」
「……」
「それと」
彼は顔を上げた。
少し困ったような、それでいて穏やかな笑顔だった。
「好きなのは、変わらないから」
店の中の音が、ふっと遠くなった。
ピアノの旋律。
隣の席の囁き。
氷が溶けて、グラスの中で鳴る音。
その全部が、薄いガラス一枚を隔てた向こう側へ退いていくようだった。
「……それを、ここで言うのは」
「あ、ごめん。ずるかった?」
「ずるいです」
「だよね」
陽向は、少し照れたように笑った。
反省している顔ではない。
けれど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
「でも、先に言っておきたかったんだ。紗季がプレッシャーに感じないように」
「プレッシャーには、なっています」
「えっ」
「ですが……その分、少しだけ楽にもなりました」
自分でも、何を言っているのかわからなかった。
けれど、陽向はゆっくりと頷いた。
「それなら、よかった」
胸の奥で、何かが小さく動いた。
固く縮こまっていたものが、ほんの少し緩んだ気がした。
ここだ、と思った。
言うなら、今だ。
「あの、真壁さん」
「うん」
「私は、その……ですね」
声が上ずった。
「お伝えしなければならないことが……あるのですが」
「うん」
「それは、つまり……ええと」
隣の席で、年配の男性が本のページをめくった。
静かな店内に、紙の擦れる音が響く。
急に、周囲が気になった。
聞こえる距離ではない。
けれど、人がいる。
……ここでは、言えない。
そう思った瞬間、頭の中にひとつの台詞が浮かんだ。
『ここじゃ言い切れないから、続きは外で言う』
削った台詞だった。
陽向のスマートフォンに残っていた、橙の台詞。
それを、今、自分が使おうとしている。
笑いそうになった。
あれほど削ったのに。
読者に向けた言葉のようで嫌だと言ったのに。
結局、いちばんその台詞を必要としていたのは、私だった。
「……真壁さん」
「うん」
「続きは」
小さく息を吸う。
「外で、言います」
陽向の目が、ゆっくりと丸くなった。
それから、声を出さずに、口元だけで笑った。
「うん」
「……笑わないでください」
「笑ってないよ。喜んでるだけ」
「同じです」
「違うよ。笑ってるのは顔で、喜んでるのは、ここ」
陽向は自分の胸元を、軽く指先で叩いた。
私は返事の代わりに、アイスコーヒーを一口飲んだ。
苦かった。
いつもどおりだった。
* * *
会計を済ませて、店を出た。
扉を押した瞬間、夏の熱気がむわっと押し寄せてくる。
冷房に慣れていた肌が、一気に汗ばむ。
午後四時を少し過ぎたころ。
空はまだ明るいけれど、日差しの角度は少しずつ傾き始めていた。
「どこに行く?」
「……どこでも。人が少ないところなら」
「じゃあ、川沿いはどう? ここから十分くらい。夕方は散歩の人も少ないし、木陰もあるよ。自販機もある」
自販機。
その言葉に、反射的に反応してしまった。
「……そこで、お願いします」
「了解」
商店街を抜け、住宅街の細い道に入る。
陽向がさりげなく車道側に回り、私の頭の上にわずかな日陰を作ってくれた。
私は気づかないふりをして歩いた。
住宅街を抜けると、急に視界が開けた。
広い土手の上に、舗装された散歩道が続いている。
片側には緑の斜面と川の流れ。
もう片側には桜並木が続いていた。
花の季節ではないけれど、濃い緑が頭上で重なり、涼しい木陰を作っている。
蝉の声の合間に、別の声が混じっていた。
カナカナカナ。
細く澄んだ、ヒグラシの声だった。
「ヒグラシだ」
陽向が空を見上げる。
「夕方になると鳴くんだよね。この時間に聞くと、一日が終わるって気がする」
「……そうですね」
私も一緒に梢を見上げた。
葉の隙間から、金色の光が細くこぼれている。
地面に落ちた光が、まだらな模様を作っていた。
散歩をしている人は、ほとんどいない。
遠くに犬を連れた老人と、自転車で通り過ぎる学生がいるだけだった。
いつもなら、陽向は歩きながら何かしら話しかけてくる。
けれど今日は、黙っていた。
私が話し出すのを、待ってくれている。
その沈黙がありがたかった。
同時に、少し怖くもあった。
自動販売機は、土手の途中にあった。
古く、少し色あせている。
前面のガラスが夕日を受け、金色に光っていた。
「何か買う?」
「買います。……今日は、私が出します」
「え?」
「真壁さんの分も」
「いいの?」
「話を聞いていただく代金です」
「じゃあ、遠慮なく」
陽向は少し嬉しそうに、一歩下がった。
私は硬貨を入れ、迷わずブラックの無糖を押した。
がしゃん。
もう一度、がしゃん。
取り出し口から二本の缶を取り出す。
冷たさが手のひらに伝わり、指先がじんとするほどだった。
一本を差し出す。
「どうぞ」
「ありがとう」
陽向は両手で受け取り、缶をまじまじと見つめた。
「紗季から缶コーヒーをもらうの、初めてだ」
「そうでしたか?」
「うん。いつも俺が渡す側だったから」
中学の部室。
去年の夏。
ネームが詰まった夜。
並木道。
いつも缶を差し出していたのは、陽向のほうだった。
私は、受け取るだけだった。
「今日は、私があげる番です」
「うん。大事にする」
「飲んでください」
「飲むよ。けど、大事にもする」
「両立してください」
「頑張る」
陽向は缶を両手で包んだまま、嬉しそうに笑った。
土手の斜面に沿って、コンクリートの階段が川辺まで伸びている。
一番下の近くに、ちょうどいい木陰があった。
「あそこに座りませんか」
「うん」
並んで腰を下ろす。
コンクリートは少し熱を持っていたけれど、日陰の部分だけはひんやりしていた。
目の前には川が広がっている。
浅い流れが夕日を受けて、きらきらと光っていた。
風が水面を渡るたび、光の粒が揺れる。
岸辺では白鷺が一羽、ゆっくりと歩いていた。
「きれいだね」
「……はい」
私は缶を持ったまま、前を向いていた。
横を見たら、言えなくなる気がした。
蝉の声。
ヒグラシの声。
水の流れる音。
遠くで、電車の通る音がした。
小さく息を吸う。
* * *
「真壁さん」
「うん」
「先に、謝らせてください。ずっと、はっきりしなかったことを」
陽向は何も言わなかった。
ただ、静かに言葉を待っている。
「真壁さんは、最初からはっきりしていました。自分の好意を隠さなかった。隠さないまま、私が距離を取りたいと言えば、本当にそうしてくれた」
「うん」
「私は、それに甘えていました。自分で境界線を引いておきながら、その内側で待ってくれていることを、当然のように感じていました」
「……」
「ずるいことだと、わかっていました」
陽向が口を開こうとした。
私は、すぐに続けた。
「最後まで言わせてください。途中で、否定しないでください」
「わかった」
缶を持ったまま、彼は静かに頷いた。
「去年の夏、『缶コーヒー』を作りながら思いました。この人と一緒に作る本は、いつも完成する」
「うん」
「今年も、そうでした。……一度、崩れかけましたが」
「あれは、俺のせいでもあるよ」
「私のせいでもあります」
「どっちもだね」
「はい。どっちもです」
そこで、一度言葉を切った。
胸の中が、ひどく騒がしい。
「その経験を通して、私には、わかったことがあります」
敬語が、うまく続かなくなってきた。
「私は、あの……私は、ですね」
言葉が喉のところで引っかかる。
陽向は何も言わない。
「真壁さんと一緒にいると……ええと……」
違う。
もっと簡単な言葉があるはずだった。
他人の台詞なら、いくらでも書ける。
言葉を選んで、順番を整えて、必要なら何度でも直せる。
けれど、自分の口は、台本どおりには動いてくれない。
「真壁さんがいなくなると、困ります。班の運営という意味ではなく……いえ、それも含めてですが……」
「うん」
「でも、それだけではなくて。つまり、私は……真壁さんが、その……」
陽向は何も言わず、待っていた。
「……あたしは」
自分で言って、ぎくりとした。
内心でしか使わないはずの「あたし」が、口に出てしまった。
けれど、陽向は笑わなかった。
まっすぐ前を向いたまま、静かに息をしている。
その沈黙が、すべてを許してくれているようだった。
「……すみません。言い直します」
「言い直さなくていいよ」
「いえ。校正が必要です」
「紗季」
「はい」
「そのままでいい」
その一言で、胸の奥にあった何かが、ふっとほどけた。
ですます調で整えようとしていた壁が、音もなく倒れていく。
私は缶を握りしめた。
冷たかったはずの指先は、いつの間にか自分の体温と同じになっていた。
沈黙。
川の音。
遠くのヒグラシ。
私は、ゆっくりと横を向いた。
陽向がこちらを見ていた。
夕日が、その横顔を金色に染めている。
いつもの笑顔ではない。
とても真剣で、少しだけ緊張している顔だった。
その目を見て、思った。
この人も、怖いのだ。
怖いのに、ずっと待ってくれていた。
ああ、そうか。
それなら、もう。
言葉の選び方なんて、どうでもいい。
どうせ、台本は一行も書けなかった。
息を吸う。
そして、短く、はっきりと言った。
「……付き合ってください」
声は、思っていたより小さかった。
けれど、ちゃんと届く距離だった。
陽向の目が、わずかに見開かれる。
「真壁さん、じゃなくて……陽向と」
言い終えた瞬間、世界の音が一拍だけ消えた。
蝉の声も、水音も。
自分の心臓の音さえ、遠のいた気がした。
言ってしまった。
もう、取り消せない。
猫が前足で押したコップは、床に落ちた。
一度落ちたものは、元には戻らない。
……それなのに、反射的に口が動いた。
「今の、無――」
「無しは、受け付けないよ」
陽向が私の言葉を静かに遮った。
とても優しい声だった。
けれど、一歩も引かない声でもあった。
「……まだ、最後まで言っていません」
「最後まで言わなくてもわかる。無しにしたくなる紗季の癖は、知ってる。でも、これは無しにしないで」
陽向は缶を階段の隅にそっと置き、膝の上で両手を重ねた。
それから、私のほうへ体を向ける。
「ちゃんと聞いたよ。一言も聞き逃してない」
私は何も言えなかった。
「だから、取り消さないで」
喉の奥が熱い。
目の奥も、少し熱くなっている。
でも、ここで泣いたら台無しだ。
そう思って、まばたきを我慢した。
「……取り消しません」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
「猫は、一度落としたものを、拾いませんから」
陽向が、一瞬きょとんとした。
それから、顔をくしゃりとゆがめて吹き出した。
「ふ、あはは! 今、小豆の話?」
「……そうです」
「そこで猫のたとえ?」
「真剣です」
「うん。わかってる。わかってるけど」
陽向は片手で口元を覆った。
肩が小刻みに震えている。
「ごめん、ちょっと待って。今、顔がやばい」
「やばい、とは」
「笑ってるのか、泣きそうなのか、自分でもわからない」
「どちらでも構いません」
「どっちもだ」
指の隙間から、ちらりと私を見る。
目の端が、少し赤かった。
けれど、涙はこぼれていない。
こぼしたら私がもらい泣きすると、わかっているのかもしれなかった。
陽向は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
手を下ろすと、表情が少しずつ落ち着いていく。
背筋を伸ばし、まっすぐ私を見た。
「紗季」
「……はい」
「ありがとう。言ってくれて」
「……はい」
「俺からも、ちゃんと言うね」
少しだけ間を置いて、静かに、はっきりと言った。
「うん。付き合おう」
とても短い言葉だった。
けれど、これまで聞いたどんな台詞よりも、胸の奥までまっすぐ届いた。
息を吐くと、肩から力が抜けた。
目の前の川が、きらきらと光っている。
その光が、少しだけぼやけて見えた。
慌てて、まばたきをする。
「……泣いていません」
「うん」
「目に、ごみが入っただけです」
「うん。そういうことにしておく」
陽向は、全部わかっているような顔で頷いた。
手の中の缶は、いつの間にかぬるくなっていた。
* * *
川の向こうの空が、少しずつオレンジ色に変わっていく。
蝉の声は、だんだん少なくなった。
代わりに、ヒグラシの声が夕暮れの空気に溶けていく。
「ねえ、紗季」
「はい」
「これ、開けていい?」
陽向が階段の隅に置いた缶を持ち上げた。
「……どうぞ。私も開けます」
二人でプルタブを引く。
ぷしゅ、と小さな音が、二つ重なった。
「乾杯、する?」
「何にですか」
「えっと……新刊の完走、とか」
「それは、先週しました」
「じゃあ、次の本の」
「気が早いです」
「じゃあ……」
陽向は言いかけて、やめた。
それから、少しだけ頬を赤くした。
「付き合い始めた記念」
「……記念、という言い方はやめてください」
「じゃあ、何て言う?」
少し考えた。
校正者としては、言葉を整えたい。
けれど、どんな表現もしっくりこなかった。
「……今日のことに」
「雑だなあ」
「雑でも、いいんです」
「うん。それでいい」
二つの缶が軽く触れ合った。
こつん、と小さな音がした。
金属の音なのに、とても柔らかく聞こえた。
同時に、一口飲む。
苦い。
やっぱり、苦い。
けれど、飲み込んだあとには、ほのかな甘さが残る気がした。
今度は、気のせいではないと思う。
たぶん。
「ねえ、紗季。ひとつだけお願いがあるんだけど」
「何ですか」
「もう一回、呼んでもらってもいい? 名前」
「……さっき、呼びました」
「うん。聞こえた。でも、録音しておけばよかったって、今すごく後悔してる」
「録音は禁止です」
「だから、もう一回」
缶を握り直す。
顔が熱い。
夏のせいにするには、少し無理があった。
「……陽向」
「もう一回」
「……三回目は有料です」
「いくら?」
「缶コーヒー一本」
「今、飲んでる」
「では、次回」
陽向は、にやにやと笑った。
いつもの笑顔だった。
けれど、いつもより少しだけ子どもっぽく見えた。
「次回、ちゃんと払う」
「約束ですよ」
「うん。約束」
川面を、涼しい風が渡っていく。
髪がふわりと揺れた。
この人は、これから私の名前を何度も呼ぶのだろう。
私も、彼の名前を何度も呼ぶのだろう。
……少し、怖い。
けれど、それ以上に悪くない。
「あのさ」
「何ですか」
「手、つないでいい?」
唐突だった。
私は缶を落としかけた。
「……急です」
「急かしてないよ。お願い」
「それは、急かしています」
「紗季が嫌なら、やめる」
そう言いながら、陽向は右手を膝に置いたまま、動かなかった。
触れてこない。
手を伸ばしてこない。
ただ、そこに置いてあるだけだった。
大きな手。
ペンを握るときの、少し硬い指先。
入稿データを確認するときの、慎重な動き。
中学の部室で、缶コーヒーを置いて、黙って去っていった手。
その手が、今、私の隣にある。
私は左手を、ゆっくりと持ち上げた。
「……範囲は」
「うん」
「更新しました」
「うん」
「ですが、無制限ではありません。今日は、ここまでです」
陽向の右手の小指に、自分の小指をかけた。
それだけだった。
指を絡めたというほどでもない。
ただ、そっと引っかけただけ。
「……これで、十分ですか?」
陽向は自分の小指を見つめた。
それから、ゆっくり顔を上げる。
「十分すぎる」
その声が、少し震えていた。
「ありがとう、紗季」
「……礼は、不要です」
「でも、言いたい」
「……では、受け取ります」
目を逸らした。
川面が光っている。
ヒグラシが鳴いている。
小指から、じんわりと熱が伝わってきた。
今日は、これで十分だった。
* * *
日が沈むころ、私たちは土手を上がった。
空の端がピンク色に染まっている。
雲の縁は、金色に縁取られていた。
街灯が、ぽつぽつと灯り始める。
指先は、もう離れていた。
けれど、肩の距離は、さっきよりも近い。
「紗季」
「はい」
「明日から、何て呼べばいいのかなって考えてた」
「今までどおり、紗季でいいと思います」
「じゃあ、紗季は?」
「……人前では、真壁さんです」
「えっ」
「サークルでも。角教室でも、ブックマークでも」
「待って」
陽向が立ち止まった。
「さっき、陽向って呼んでくれたよね?」
「呼びました」
「あれは、今日だけ?」
「……二人きりのときは、考えます」
「考えるんだ」
「検討事項です」
「つれないなあ」
「別に、つれなくありません。公私の区別です」
私は、少しだけ足を速めた。
「それに、人前で名前を呼んだら、一ノ瀬さんがどんな顔をするか」
「あ」
陽向が、何かを思い出したような顔になった。
「確かに」
「想像しただけで、疲れます」
二人で笑った。
笑い声が、夕暮れの空に溶けていく。
「でも、いつかは皆にも話すつもりだよ。サークルの人たちにも。紗季が嫌じゃなければ」
「嫌ではありません。ただ、いつ、どう伝えるかは、私にも決めさせてください。公の場で大声を出すのは禁止です」
「了解」
「それと、一ノ瀬さんに先に気づかれるのは、癪です」
「あ、それは同意。絶対、あの子のほうが先に気づく」
二人で顔を見合わせて、また吹き出した。
* * *
翌週の火曜日。
定例の打ち合わせが終わり、帰り道を歩いていた。
駅へ向かう並木道の途中で、スマートフォンが震えた。
制作班のグループチャットだった。
『次回スケジュールを共有する』
篠田先輩のメッセージ。
その下に、短い一行が続いている。
『冬のイベントは申込済み。ネーム初稿の締切は十月末。以上』
「相変わらず、短いですね」
思わず小さく呟いた。
桃果がすかさず返信していた。
『了解です! また頑張りましょう!』
『締切は守る』
『それは当たり前です、先輩』
『当たり前を言っただけだ』
テンポのいいやり取りを眺めていると、新しい通知が届いた。
陽向だった。
『新スタンプ、できました』
リンクが貼られている。
サークル用のものだろうか。
開いてみると、イラストが並んでいた。
猫だった。
丸い目をした、ふっくらとした灰色の猫。
前足を揃えて、じっとこちらを見ている。
小豆に似ていた。
けれど、どこか私にも似ている。
その頭の上に、文字が添えられていた。
『紗季派』
私は、その場で立ち止まった。
二度見した。
三度見した。
間違いない。
『紗季派』
しかも、グループチャットに送信されている。
数秒後、桃果の返信が飛んできた。
『えっ!?』
『何ですかこのスタンプ!?』
『紗季派って、何と何が対立してるんですか!?』
『小豆って、御影先輩のお家の猫ちゃんですか!?』
画面を持つ手が震えた。
そこへ、篠田先輩が返信する。
『詮索は後にしろ』
『でも蓮先輩! これは重大な……』
『一ノ瀬』
『はい』
『俺は中立だ』
『中立なんですね!?』
『中立だ』
私は深く息を吸い、個人チャットに切り替えた。
陽向とのトーク画面。
『真壁さん、このスタンプは何ですか』
すぐに返信が来た。
『小豆と紗季のスタンプ。お盆に実家に行くとき、お土産にしようと思って』
『お土産の前に、まず私に相談してください』
『相談した。今』
『事後報告です』
『でも、紗季も喜ぶと思って』
『喜んでいません』
『顔が緩んでるの、見えるよ』
思わず、顔を上げた。
並木道の向こうに、陽向が立っていた。
少し離れたところで、片手を振っている。
先に帰ったふりをして、待っていたらしい。
顔が熱くなる。
私は画面に視線を戻した。
『そもそも「紗季派」は、何と何の派閥ですか』
『小豆と紗季』
『それなら、対立はありません』
『うん』
『派閥の構成員は、何名ですか』
『俺ひとり』
『では、解散です』
『却下』
『却下は、受け付けません』
『それ言うなら、紗季の取り消しも受け付けないよ』
画面を見たまま、言葉に詰まった。
……やられた。
川辺で取り消しを許さなかった人に、取り消しの理屈で言い返された。
『それは、卑怯です』
『ずるいのは、お互い様でしょ』
『反論の余地がありません』
『足跡、送って』
『嫌です』
『お願い』
立ち止まったまま、スタンプ欄を開いた。
いつもの足跡のスタンプに、指が伸びる。
一瞬、そこで止まった。
それから、少しだけ画面をスクロールして、さっき届いたばかりの猫を選ぶ。
頭の上には、『紗季派』。
そっと押す。
送信。
画面に、同じ猫が現れた。
ほどなくして、返信が届く。
『えっ』
『送ってくれた』
『送ったのではなく、動作確認です』
『動作確認』
『正常に表示されることを確認しました』
『じゃあ、合格?』
『……合格です』
『やった』
並木道の向こうで、陽向が両手を挙げた。
大声は出していない。
けれど、全身で喜んでいるのがよくわかった。
私はスマートフォンをポケットにしまい、歩き出した。
陽向が小走りで近づいてくる。
「紗季」
「……真壁さん」
「あ、まだそっちなんだ。……でも、二人きりのときは、たまに呼んでくれたし」
「……たまに、です」
「うん。たまに」
並んで歩き出す。
夕方の風が、木の葉を揺らしていた。
蝉の声の合間に、ヒグラシの鳴き声が混じっている。
「あ、そうだ」
陽向が鞄の中を探り始めた。
「これ」
取り出したのは、缶コーヒーだった。
ブラック、無糖。
「この前の、お返し」
「……有料の件は、次回です」
「うん。だから、これは前払い。三回目の名前の分」
受け取った缶は冷たかった。
今日も、ちゃんと冷たい。
「……前払いは、制度にありません」
「今、作った」
「作らないでください」
「作った」
「……受理します」
「やった」
私は缶を両手で包んだ。
表面の水滴が、指先に冷たく触れる。
夕焼けが並木道を金色に染めていた。
遠くの電車の音が、風に乗って聞こえてくる。
八月は、まだ始まったばかりだった。
冬のイベントまでは、たっぷり時間がある。
ネームも、ペン入れも、入稿も、また一から始まる。
それでも、隣には陽向がいる。
プルタブに指をかけると、ぷしゅ、と音が鳴った。
隣でも、同じ音が鳴る。
「乾杯」
「……乾杯」
こつん、と缶が触れ合った。
境界線は、もう越えた。
落としたコップは、もう戻らない。
それでいい。
八月の空の下。
境界線の向こうも内側も、すべて同じ夏の中にある。
私たちの夏は、まだ続いている。




