8. 入稿、一分前
六月第二週の火曜日。
今日は、印刷所で本入稿を行う日だった。
制作班の入稿表では、その日が赤い丸で囲まれている。
前日の夜までに、入稿用のデータは印刷所のサーバーへ送信してあった。
図書館での最終目視も、制作班への『問題なし』という報告も済んでいる。
その日の夕方、図書館で陽向と二人でPDFを最後まで確認したのだ。
けれど、まだ本当の意味で完成したわけではない。
今日は印刷所で下版用の確認刷りと表紙の色校正を行い、紙の上で問題がないことを確かめてから、正式な入稿を確定させる。
画面で見た色と、実際に印刷された色は違うことがある。
文字のかすれや細かな位置のずれも、紙に出して初めて気づく場合があるらしい。
すべてを確認し、印刷工程へ進める状態になって、ようやく一冊の本として送り出せる。
私は目覚ましをいつもより一時間早くかけた。
洗面台の鏡の前で髪を整え、チェックリストを入れた封筒をバッグにしまう。
スマートフォンには小豆の写真が表示されていた。
母から昨夜届いたもので、私が以前使っていたクッションの上で、相変わらず丸くなっている。
今日も、あの猫は平和そうだ。
私は写真を一度閉じ、玄関を出た。
恋より先に、原稿を完結させたい。
その言葉は、もう口癖になっていた。
今日で、ようやく一歩進めるはずだ。
……原稿の話なら。
* * *
朝七時。
大学前の駅の改札近くで、篠田先輩と桃果が待っていた。
桃果はいつもより早く来たらしく、ベンチに座ってスマートフォンを確認している。
篠田先輩は紙カップのコーヒーを片手に、入稿表を眺めていた。
「御影先輩、おはようございます!」
桃果が私に気づいて立ち上がった。
「おはようございます。一ノ瀬さん。早いですね」
「今日は入稿ですから。遅刻したら大変です」
「そうですね。私も早めに出てきました」
「今日、勝ちますよ」
桃果は小さく拳を握った。
「……勝つ、とは?」
「入稿です。地獄の最終ボスですよ!」
「なるほど……」
思わず苦笑した。
篠田先輩はコーヒーを一口飲んでから顔を上げた。
「気持ちはわかるが、まだ勝負は始まっていない。印刷所は九時からだ。まずは時間通りに着くこと」
「はい!」
「それと、今日やるのは本入稿だ。仮入稿と混同するなよ」
私は、以前から気になっていたことを尋ねた。
「月曜日の夜にデータは印刷所のサーバーへ送ってありますよね。それでも、今日あらためて確定させる必要があるんですか?」
篠田先輩は手元の入稿表を閉じた。
「データを先に預けておくのは、印刷所側で下版の準備を進めてもらうためだ。担当者がファイルを確認して、今日の校正に間に合わせてくれている」
「つまり、昨日の送信だけでは、まだ印刷工程には入っていないということですね」
「そうだ。最終的な紙の確認が残っている」
ちょうどそのとき、改札の向こうから陽向が歩いてくるのが見えた。
肩にはいつものリュック。
腕には「入稿係」と書かれた腕章が巻かれている。
朝日を受けた白い文字が、妙にはっきりと目に入った。
「おはよう。待たせた?」
「いえ、今来たところです」
陽向は私たちのところまで来ると、篠田先輩の持つ入稿表を覗き込んだ。
「紙の確認が終わったら、必要な修正だけ反映して、最後に本入稿の確定ボタンを押す。モニターと印刷物は見え方が違うから、そこを確認しないといけないんだ」
「特に表紙の窓の光ですね」
私が言うと、陽向が頷いた。
「うん。RGBの画面とCMYKの印刷では、同じデータでも色の出方が変わることがある。夕方の光は特に微妙だから、紙で見てから決めたい」
桃果が納得したように頷いた。
「なるほど。オンラインでデータを送るだけでは、完結しないんですね」
「そういうこと。本文も表紙も、実際に出力したものを見て、問題がなければ本入稿にする」
篠田先輩がスマートフォンの画面を私たちに見せた。
制作班のToDoリストには、『現地色校正』『本入稿サイン』『シリーズ並べ確認』の項目が並んでいる。
「部数表と加工の仕様、それから背表紙の文字組みも確認する。今日は確認するものが多いから、余計な時間は使えないぞ」
「はい」
私はバッグの中の封筒を指で押さえた。
チェックリストは何度も確認した。
必要なデータも、すべて揃っている。
それでも、今日の仕事はここからだった。
陽向が少しだけ私のほうを向いた。
「紗季、印刷物の確認は頼むね」
「わかっています。最終校正は私の担当ですから」
「うん。頼りにしてる」
何気ない言葉だった。
私は「当然です」と返しかけて、少しだけ言葉を選んだ。
「……間違いがないように確認します」
「よろしく」
陽向は笑った。
いつもより、少しだけ距離を取って立っているように見えた。
気のせいかもしれない。
私は改札の時計を見上げた。
「そろそろ行きましょう。電車に間に合わなくなります」
「そうだな。行くぞ」
篠田先輩が歩き出し、私たちもその後に続いた。
* * *
印刷所までの道のりは、大学で過ごすいつもの日常から、少しずつ離れていくようだった。
快速に乗って三駅。
降りた駅のホームには大学前ほど学生の姿はなかった。
改札を抜けると住宅街の景色はすぐに終わり、倉庫や工場の建物が目立ち始める。
桃果が駅の路線図を見ながら言った。
「思っていたより遠いですね。入稿ってちょっとした遠征みたいです」
「遠征というな」
篠田先輩が改札を抜けながら返した。
「でも、普段来ない場所なので、少し旅行気分です」
「遊びに来たわけじゃないからな」
「わかっています。ちゃんと仕事します!」
桃果は元気よく答えた。
駅前のバス停で、私たちは印刷所方面のバスを待った。
六月の朝はすでに少し蒸し暑かった。
ところが、到着したバスの車内は冷房がよく効いていて、乗り込むと腕に冷たい空気が当たった。
私は窓際の席に座り、バッグを膝の上に置いた。
陽向は、通路を挟んだ隣の席に座っている。
篠田先輩と桃果は、その前の席で今日の確認事項について話していた。
バスが走り出すと、窓の外を工場の壁や資材置き場が流れていった。
大学の周辺とはずいぶん違う景色だ。
「去年も、ここに来たんですよね」
私が尋ねると、篠田先輩が振り返った。
「ああ。同じ印刷所だ。去年は表紙の缶の影を一段薄くした」
「覚えています。画面で見たときは問題なかったのに、実際に印刷したら少し濃く出ていましたよね」
「そうだ。だから今回も紙で確認する。シリーズものだから、印刷の仕上がりを揃える意味でも同じところに頼んでいる」
陽向が窓の外から視線を戻した。
「前作と今作を並べたとき、表紙の色が極端に違うと印象も変わるからね。今回は窓の光が中心だし、そこは慎重に見たい」
「色が大事ですからね」
「うん。紗季がメモしてくれた光の向きも反映してある。あとは紙に出したときにどうなるか」
私はバッグの中に入れた表紙案の印刷物を思い出した。
窓から差し込む光。
柚のリボン。
橙の後ろ姿。
あの絵が今日、実際の紙の上に現れる。
少しだけ胸が高鳴った。
バスは工場の並ぶ通りを抜け、印刷所の看板が見えるところで速度を落とした。
入り口には「本日入稿多数」と書かれた紙が貼られていた。
私たちは降車し、建物の前で一度足を止めた。
大きなガラス扉の向こうに、受付らしいカウンターが見える。
「……着きましたね」
桃果が小さく言った。
「まだ始まっていないぞ」
篠田先輩が答えた。
「わかっています。でも、ここまで来ると緊張します」
私も同じだった。
オンラインで済んだはずの作業が、なぜ現地での確認を必要とするのか。
理由はもう聞いている。
それでも、扉の前に立つと胸の奥がきゅっと狭くなった。
『境界線の内側に缶コーヒー』が、データから一冊の本に変わる。
その最後の確認が、ここから始まる。
私は深く息を吸い、扉を開けた。
* * *
受付でサークル名と予約番号を伝えると、担当の女性がすぐに打ち合わせ室へ案内してくれた。
「ねこじるし様ですね。仮入稿のデータは昨夜確認しております。本日は本文の下版刷りと、表紙の色校正をご覧いただく予定です」
「はい。最終校正担当の御影と、入稿係の真壁です」
篠田先輩が代表して名乗った。
打ち合わせ室は、去年と同じ部屋だった。
白い壁に大きな机。
壁際には色見本や紙のサンプルが並んでいる。
机の端には、以前の入稿で使った資料がいくつか置かれていた。
その中に、『境界線の向こうに缶コーヒー』の色校正サンプルが一枚、額に入れて飾られていた。
完売した一冊の記録だ。
桃果がそれに気づき、少しだけ目を輝かせた。
「これが、前作の表紙なんですね」
「ああ。去年の色校正だ」
篠田先輩が答える。
「実物を見るのは初めてです。印刷されたものって、画面で見るのと雰囲気が違いますね」
「そうだろう。今回もそこを確認する」
担当の女性が私たちの前に紙カップを並べた。
「今年はシリーズ第二弾ですね。仮データを拝見しました。表紙は部室の窓を中心にした構図ですよね。タイトルの『内側』も、きれいに収まっていました」
「ありがとうございます」
陽向が答えた。
いつもの穏やかな声だったが、少しだけ硬さがある。
今日の結果に責任を持っているのだろう。
担当者がまず本文の下版刷りを机の上に並べた。
三十六ページ。
ページ番号。
トンボの印。
吹き出しの端。
私は封筒からチェックリストを取り出し、赤ペンを手にした。
ページを一枚ずつめくり、誤字や段抜けがないか確認していく。
画面上では問題がなかった箇所も、紙にすると文字の詰まりが気になることがある。
三十二ページの柚の独白。
三十一ページの橙の台詞。
奥付のサークル名。
一つずつ、チェックをつけた。
「御影さん、本文の確認はいかがですか?」
担当者に声をかけられ、私は最後のページから顔を上げた。
「……本文と奥付、問題ありません。台詞の抜けもありません」
「ありがとうございます」
桃果はネームとの差分メモを見ながら、作画の線を確認していた。
「ここ、ネームより線が少し太くなっていますね。これは意図したものですか?」
陽向がページを覗き込む。
「ああ。橙が柚を見ているところだから、目元の線を少し強くした。表情が伝わりやすくなると思って」
「なるほど。ネームのときより、待っている感じが出ています」
「よかった」
桃果は納得したように頷いた。
篠田先輩は部数表を確認している。
「部数は、前作と同じ配分でいい。今回はシリーズものだから、並べて置けるように納品の扱いも確認したい」
「承知しました。加工は前回と同じ仕様でよろしいですか?」
「基本は同じで。表紙の用紙だけ、今回の色に合うものを選びたい」
担当者が資料をめくり、背表紙の確認用見本を置いた。
そこには、二冊のタイトルが並んでいた。
『境界線の向こうに缶コーヒー』
『境界線の内側に缶コーヒー』
向こうと内側。
二つの言葉が、背表紙の上で続いて見える。
私は、一瞬だけ指を止めた。
フィクションだ。
並べるのは作品だ。
私は、赤ペンを持ち直した。
「……背表紙の文字組みも、問題ありません」
「ありがとうございます。それでは、表紙の校正刷りを確認していただきますね」
担当者が次の用紙を机に置いた。
刷り上がったB5の表紙だった。
部室の窓。
西向きの光。
柚のリボン。
橙の後ろ姿。
私は、思わず息を止めた。
色が、違った。
モニターで見ていた柔らかな夕方の光が、紙の上では少し赤みを帯びている。
窓枠の影も思ったより硬く、床に落ちる光の境目がくっきりしていた。
「……あれ?」
桃果が紙に顔を近づけた。
「画面で見たときと、少し違いますね」
担当者が説明する。
「モニターはRGB、印刷はCMYKという色の仕組みを使っています。特に今回のような夕方の光は、画面上の色をそのまま再現するのが難しい部分があります」
篠田先輩が頷いた。
「去年も、ここで一度調整したな。缶の影を少し薄くした」
「はい。今回も同じように、紙の上で見た印象を確認してから調整できます」
陽向は表紙をじっと見つめていた。
しばらくして、低い声で言った。
「……これは、想定と違うな」
私は彼の横顔を見た。
作業中、いつもは細かな修正にも落ち着いて対応する陽向が、珍しく表情を固くしている。
「モニター校正のときは、もっと柔らかい色だったんです。ここまで赤みが出るなら、数値を少し上げすぎたかもしれない」
担当者がカラーチップを表紙の横に置いた。
「窓の光を中心に調整するとよさそうですね。影の濃さも少し変えられます。入稿締切までは、あと二時間半ありますので、修正データをいただければ再度刷り出せます」
篠田先輩が時計を確認した。
「真壁、直せるか?」
「直せる。元のファイルは持ってきているから、窓の光と影を調整して、もう一度出す」
「よし。頼む」
桃果が表紙と前作のサンプルを並べた。
「シリーズとして並べたときは、どうでしょう?」
担当者も二枚を並べ直す。
『向こう』の缶の影。
『内側』の窓の光。
二冊を並べると、同じ世界の別の面が見えるようだった。
私は表紙の窓を見た。
「……窓の色だけ直せば、並びの印象は問題ないと思います。背表紙も、今のままでいいです」
陽向が私を見た。
「うん。窓の光を直す。雰囲気は崩さないようにするよ」
「お願いします」
私はもう一度校正刷りに目を落とした。
ここまで仕上げてきたものを、最後の最後で崩すわけにはいかない。
今日、ここで確かめるために来たのだ。
私たちはもう一度、作業を始めた。
* * *
修正は思っていたより時間がかかった。
陽向はノートパソコンを開き、表紙データの色を調整していく。
窓から差し込む光の赤みを抑え、床に落ちる影を一段柔らかくする。
そのたびに、担当者が確認用のデータを出力し、紙の上で色を見比べる。
一度目の修正では、光が少し白くなりすぎた。
二度目では、影が薄くなりすぎた。
「もう少し、光の中心を残したほうがいいと思います」
私が言うと、陽向は画面を拡大した。
「このあたり?」
「はい。窓枠の近くは今のままで、床のほうだけ少し柔らかくできませんか?」
「わかった。そこを調整してみる」
陽向の指がタッチパッドの上を動く。
画面の中で、窓から差し込む光が少しずつ変わっていった。
その間、打ち合わせ室の外では桃果がコーヒーを買いに行き、篠田先輩が担当者と部数表や加工の仕様を確認していた。
私は陽向の隣で、本文のPDFを開いていた。
修正が必要になった場合、すぐに確認できるようにしておく。
ページ番号、文字の位置、台詞の抜け。
何度確認しても、見るべきところは残っている。
「紗季、表紙のタイトル位置、PDFでは一ミリ左に寄せてあるけど、問題ない?」
陽向が尋ねた。
「……問題ありません。窓枠とのバランスもいいと思います」
「奥付のフォントは?」
「変わっていません。昨日のデータと同じです」
「柚のリボンは、短いままでいい?」
「……そのままでお願いします。黒歴史対策ですから」
陽向が小さく笑った。
「うん。覚えてる」
短い確認。
仕事の言葉だけ。
それでも、時計の針は容赦なく進んでいく。
十一時半。
三枚目の試し刷りが、机に置かれた。
私は表紙を少し離して見た。
赤みは抑えられ、窓から差し込む光が柔らかくなっている。
床に落ちる影もモニターで見たイメージに近づいていた。
表紙全体の印象も、前作と並べたときに違和感がない。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
「……これで、いいと思います」
陽向が私のほうを向いた。
「本当に?」
「はい。窓の光も、影の濃さもちょうどいいです。柚のリボンも問題ありません」
篠田先輩が確認する。
「御影、最終校正として確定でいいな?」
「……はい。確定でお願いします」
「よし」
陽向はすぐにデータをエクスポートした。
保存先のフォルダには、相変わらず長い名前のファイルが並んでいる。
`inside_entry_0608_final_real_fix_print.psd`
桃果が、画面を見て小さく呟いた。
「`print`が増えましたね……」
「増やすなと言っただろう」
篠田先輩が眉間を押さえる。
「これは作業途中のファイルだから」
「入稿までに整理してくださいね」
「わかってる」
陽向は苦笑しながら、最終データを所定のフォルダへ移した。
時計は、十二時十分を指していた。
印刷所の担当者が、こちらへ声をかける。
「受付締切は十二時三十分です。修正データの送信が終わりましたら、確認画面をこちらで一緒に確認します」
「わかりました」
陽向が答えた。
二十分。
データを送信して、受付を確定させるまでの時間はそれだけだった。
陽向がアップロード画面を開く。
「じゃあ、送るよ」
誰も返事をしなかった。
私たちは、画面を見つめた。
* * *
最初は順調だった。
アップロードの進捗バーが少しずつ伸びていく。
三十パーセント。
五十パーセント。
七十パーセント。
陽向は画面から目を離さず、篠田先輩は腕時計を確認していた。
桃果は手元の資料を何度もめくっている。
八十パーセントを超えたところで、進捗バーの動きが遅くなった。
「……ちょっと遅いな」
陽向が呟いた。
「回線の問題か?」
篠田先輩が尋ねる。
「たぶん。データが大きいから、少し時間がかかってる」
私は画面の端に表示された時刻を見た。
十二時二十分。
あと十分。
「……まだ大丈夫ですよね」
桃果が小さな声で尋ねた。
「大丈夫。余裕はある」
陽向はそう答えた。
けれど、九十パーセントを超えてから、進捗バーがほとんど動かなくなった。
画面を更新することもできない。
途中で止めれば、最初からやり直しになる可能性がある。
陽向はキーボードの横に置いた手を動かさず、表示を見つめていた。
篠田先輩が時計を見た。
「真壁、状況は?」
「送信中。回線が遅くなってるだけだと思う」
「締切まで、あと何分だ?」
「……七分」
「余裕はないな」
打ち合わせ室の空気が変わった。
桃果は資料を握ったまま画面を見ている。
私はチェックリストの端を指で押さえた。
確認は終わっている。
データも正しい。
あとは送信が完了すればいい。
それだけなのに、進捗バーは動かなかった。
「……真壁さん、これ、もし間に合わなかったら」
私が口を開くと、陽向は画面を見たまま答えた。
「間に合わせる」
「でも、締切が……」
「わかってる。だから、今やってる」
声に、少しだけ余裕がなくなっていた。
私はその様子を見ながらも、どうしても焦りを抑えられなかった。
十二時二十五分。
あと五分。
「……早くしてください。確認はもう済んでいるのに」
自分でも、言い方がきついと思った。
陽向が顔を上げた。
「してる。ちゃんと送ってるから、少し待って」
「待てと言われても、締切が近いんです」
「わかってるよ」
彼の声が、少し大きくなった。
「わかってるから、今やってるんだ」
打ち合わせ室が静かになった。
陽向は自分の声に驚いたように目を伏せた。
それから、すぐに声を落とした。
「……ごめん。俺も焦ってるんだ」
「……ええ。わかっています」
わかっている。
陽向がどれだけ入稿に責任を感じているか、私も知っている。
何日もかけて作業してきた。
表紙の色も、本文の線も、すべて彼が中心になって仕上げてきた。
ここでデータが送れなければ、今までの作業が無駄になってしまう。
焦りは簡単に消えてくれなかった。
進捗バーは、九十パーセントから動かない。
十二時二十六分。
「……真壁さん。もし失敗したら、どうするんですか」
陽向の指が止まった。
「失敗させない」
「そう言うのは簡単です」
口に出した瞬間、後悔した。
陽向の表情が固まる。
「……俺が悪いみたいに言わないで」
低い声だった。
怒っている。
そのことが、すぐにわかった。
陽向が声を荒らげるところを、私はほとんど見たことがなかった。
「そういうつもりじゃ……」
「じゃあ、どういうつもり?」
彼は画面を見たまま続けた。
「俺だって、間に合わせたいと思ってる。ここまで来て、わざと遅らせるわけないだろ」
私は息を呑んだ。
「……違います。私が、焦っているだけで」
「違うなら、言い方を変えてほしい」
それ以上、何も言えなかった。
篠田先輩がテーブルを軽く叩いた。
「二人とも、喧嘩は後だ。今は入稿を先にしろ」
桃果も青ざめた顔で頷いた。
「……そうです。今は、データを送りましょう」
陽向は、一度だけ深く息を吐いた。
それから、画面に向き直った。
進捗バーは、まだ九十パーセントを示している。
十二時二十七分。
あと三分。
私の手の中で、チェックリストの紙が少しだけ折れた。
言いすぎた。
そう思ったけれど、今さら謝ることもできない。
陽向に声をかけるべきなのか。
それとも、今は黙っていたほうがいいのか。
考えているあいだに、時間だけが過ぎていく。
十二時二十八分。
進捗バーの先端が、ほんの少しだけ動いた。
「……動いた!」
桃果が思わず声を上げた。
陽向は画面に顔を近づける。
数秒後、進捗バーが最後まで伸びた。
『アップロード完了』
「送れた……!」
陽向が短く息を吐いた。
けれど、まだ終わりではない。
担当者が確認画面を開き、ファイル名とデータの内容を照合する。
「こちらで受け付け内容を確認しました。問題ありません。最後に本入稿の確定ボタンを押していただければ、印刷工程に進みます」
陽向は画面を見つめた。
十二時二十九分。
締切まで、あと一分。
一度だけ、私たちのほうを振り返った。
「……いい?」
篠田先輩が頷く。
「確認は済んでいる。押せ」
桃果も小さく頷いた。
私はチェックリストを握ったまま答えた。
「……問題ありません。確定してください」
陽向は画面に向き直った。
そして確定ボタンを押した。
表示が切り替わる。
『本入稿受付完了』
担当者が穏やかな声で告げた。
「本入稿、受付完了です。これより印刷工程へ進みます。お疲れさまでした」
その瞬間、張り詰めていた空気が少しずつほどけていった。
仮入稿のあと、紙で色を確認し、必要な修正を加え、最後にサーバー上のステータスが「確定」に変わる。
今日の仕事がやっと終わった。
* * *
打ち合わせ室を出ると、篠田先輩が深く息を吐いた。
「……入稿したな」
「しましたね」
桃果が小さくガッツポーズをした。
「勝ちました!」
「勝ったな」
篠田先輩も、珍しく拳を上げた。
私もようやく肩の力を抜いた。
胸の奥はまだ熱い。
入稿が終わったという安心感と、さっきのやり取りの後味が、同じ場所に残っていた。
陽向は受付の担当者と最終確認の書類にサインするため、もう一度打ち合わせ室へ戻っていた。
しばらくして、扉が開く。
陽向は戻ってくると、少しだけ笑った。
「……入稿できた」
「……お疲れさまでした」
私が言うと、彼は短く頷いた。
「うん。ありがとう」
それだけだった。
篠田先輩が担当者から受け取った書類を確認する。
桃果はスマートフォンを取り出して記念写真の準備をしていた。
陽向は何か思い出したように再び打ち合わせ室の中へ戻っていった。
扉が閉まる。
桃果が首を傾げた。
「……真壁先輩、何か忘れ物ですかね?」
「入稿係の儀式でしょう」
篠田先輩は紙カップのコーヒーを飲んだ。
「儀式ですか?」
「長く作業していたからな。何か一区切りつけたいんだろう」
そのとき、扉の向こうから声が聞こえた。
「よっしゃあああ!」
打ち合わせ室の外にいた私たちは、思わず顔を見合わせた。
桃果が吹き出した。
「……今の、聞こえました?」
「聞こえた」
篠田先輩は何事もなかったようにコーヒーを飲んだ。
私はドアの向こうを見つめた。
ようやく、嬉しさが追いついてきたのかもしれない。
入稿は成功した。
今日までの作業が、ようやく一つの形になった。
それなのに、私の胸の中にはさっきの言葉が残っていた。
喧嘩もした。
どちらも、取り消せない。
* * *
印刷所を出たあと、私たちは近くの自動販売機の前で少し休憩することにした。
六月の日差しが工場の壁に反射し、舗道の上に白い光を落としている。
建物の影に入ると、外の暑さが少しだけ和らいだ。
篠田先輩がスマートフォンを確認しながら言った。
「よし。広報は午後に投稿する。写真は撮ったか?」
桃果が画面を見せた。
印刷所の前で撮った、前作と今作の背表紙を並べた記念写真だった。
『向こう』と『内側』。
二冊のタイトルが、きれいに並んでいる。
「御影先輩、笑っていませんでしたね」
桃果が言った。
「……笑えるほど余裕がありませんでした」
「でも、入稿できた顔ですよ」
「入稿できた顔、ですか?」
「はい。最後まで頑張った人の顔です」
陽向が少しだけ笑った。
「うん。入稿できた顔だね」
その笑顔は、いつもより遠く見えた。
私は、返事をしなかった。
桃果が自動販売機で缶コーヒーを買い、私に一本差し出した。
「御影先輩、ブラックですよね?」
「……ありがとうございます」
「真壁先輩も、ブラックですか?」
「うん。俺も同じのでいいよ」
桃果が二本目を買い、陽向に渡した。
「はい。入稿係、お疲れさまでした」
「ありがとう」
陽向が缶を受け取る。
私はプルタブを開け、一口飲んだ。
苦い。
いつもの味なのに、今日は喉を通るまでに少し時間がかかった。
桃果は、私と陽向の顔を交互に見た。
「……今日、すごい顔してましたね。真壁先輩」
「入稿の日だからね」
「それもありますけど」
桃果は言葉を選ぶように少し間を置いた。
「さっき、御影先輩と、ちょっと言い合いになっていましたよね」
「……そうだね」
陽向は缶を持ったまま答えた。
桃果の声に責めるような響きはなかった。
ただ、見たことをそのまま口にしている。
「喧嘩も、しましたね」
私は缶のラベルを見つめた。
「……忙しいと、余裕がなくなることもありますから」
「そうですね」
桃果はそれ以上何も言わなかった。
バス停まで歩くあいだ、篠田先輩と桃果は加工の納期や広報の投稿時間について話していた。
陽向は、私の一歩後ろを歩いている。
いつもなら、隣に並ぶことが多かった。
今日は、少しだけ離れていた。
バスが到着し、私たちは乗り込んだ。
印刷所から駅までの道は、工場や倉庫の間を抜けていく。
窓の外には、荷物を積んだトラックが何台も見えた。
陽向は、ほとんど窓の外を見ていた。
私は、手の中の缶を持ち直した。
* * *
駅に着き、大学方面へ向かう電車に乗り換えた。
篠田先輩と桃果は、大学前の駅で降りる予定だった。
陽向はアパートに寄ってバックアップ用のデータを回収する必要があり、私も自宅へ戻るため、途中までは同じ方向だった。
「御影先輩、今日は本当にお疲れさまでした」
桃果が降りる前に振り返った。
「一ノ瀬さんも。ネームの修正から、今日までありがとうございました」
「こちらこそです。先輩の台詞、最後まで読めて楽しかったです」
「ありがとうございます」
桃果は少しだけ笑った。
「完成した本、早く見たいですね」
「そうですね」
「真壁先輩も、お疲れさまでした。また角教室で!」
「うん。お疲れ」
篠田先輩も私たちに向かって軽く手を上げた。
「二人とも、今日は休め。明日からは広報と納品の確認があるが、今夜くらいは原稿のことを忘れていい」
「はい」
二人が降りると、電車の中が少し静かになった。
車内には、私と陽向のほかに数人の乗客がいる。
冷房が効いていて、窓の外の六月の景色だけがゆっくりと流れていった。
陽向は空いている席に座った。
私は隣ではなく一つ空けた席に腰を下ろした。
距離を空けた。
空けすぎたかもしれない。
それでも、今は隣に座る気持ちになれなかった。
「……さっきは」
口を開いたのは、私のほうだった。
陽向がこちらを向く。
「うん?」
「入稿の直前、言いすぎました。すみません」
謝罪は、思っていたより簡単に口から出た。
ずっと言わなければと思っていたからかもしれない。
陽向は少しだけ視線を落とした。
「……俺も、ごめん。声を荒らげた」
「いえ。私が、余計なことを言いました」
「そういうつもりじゃなかったんだろ?」
私は返事に迷った。
確かに、陽向を責めたかったわけではない。
ただ、締切が迫って、画面が止まって、何もできない時間が続いたことに焦っていた。
それでも、言葉の選び方はあったはずだ。
「……はい。わかっていたんですけど」
「俺も焦ってた。最後のところで止まったから」
陽向は窓の外へ視線を戻した。
「紗季たちに迷惑をかけたくなかったし、何より、今日でちゃんと終わらせたかった」
「……私もです」
「うん」
短い沈黙が続いた。
謝罪はした。
陽向も謝ってくれた。
けれど、いつものように自然に会話が続くわけではなかった。
「本入稿、できたね」
陽向が言った。
「……はい」
「表紙も、いい色になったと思う」
「私も、そう思います」
それ以上の言葉が見つからなかった。
電車が次の駅に近づく。
陽向が立ち上がり、リュックの肩紐を持ち直した。
「俺、アパートに寄ってバックアップを回収してくる。終わったら、また連絡するよ」
「……わかりました」
「今日は、お疲れさま」
「真壁さんも、お疲れさまでした」
陽向は一度だけ頷き、電車を降りた。
ホームに降りたあとも、彼は振り返らなかった。
扉が閉まる。
私は、窓の外に目を向けた。
陽向の姿は、すぐにホームの柱の向こうへ隠れてしまった。
次の乗り換え駅まで、私は一人だった。
窓に映る自分の顔は、いつもより疲れて見えた。
彼が連絡を控えめにしたのは、今日のことを気にしているからだろうか。
それとも、私に一人になる時間をくれようとしているのだろうか。
わからない。
優しさの形が、少しずれるだけで、こんなにも距離ができてしまう。
今日は陽向が、一歩下がった。
その一歩が、今日は少し遠かった。
* * *
夕方。
マンションに戻った私は、机に講義のノートを広げた。
けれど、文字が頭に入ってこない。
何度読んでも、同じ行を目で追ってしまう。
私はペンを置き、スマートフォンを手に取った。
陽向からメッセージが届いていた。
『入稿、完了。おつかれ、紗季』
三時間ほど前のものだった。
私は、返信欄を開いた。
『こちらこそ、お疲れさまでした。表紙、良い色になりましたね』
少し長い。
けれど、今の私に送れる言葉は、それくらいだった。
送信すると、すぐに既読がついた。
そのあと、返信はなかった。
いつもなら、五分以内に『うん』とか、猫のスタンプに似た何かが返ってくる。
今日は画面に何も表示されなかった。
私はスマートフォンを机に置いた。
返信がないことを、気にする必要はない。
陽向も疲れているだろうし、バックアップの確認もあるはずだ。
今日の入稿が終わったからといって、すべての作業が片づいたわけではない。
それはわかっている。
わかっているのに、何度も画面を見てしまう。
そのとき、母からメッセージが届いた。
『小豆、今日もクッション占拠中』
添付された写真には、丸くなって眠る小豆が写っていた。
片方の耳だけが少し折れている。
私は猫のスタンプを返した。
今日はいつもの黒い足跡ではなく、眠っている猫のものを選んだ。
スマートフォンを置き、ノートに視線を戻す。
それでも、やはり集中できなかった。
夜八時。
制作班のグループチャットが動いた。
篠田先輩から。
『印刷所から本入稿の確認メールが届いた。問題なし。広報は今夜公開する』
桃果から。
『やったー! 御影先輩、真壁先輩、本当にお疲れさまでした!』
陽向からも短いメッセージが届いた。
『うん。おつかれ』
私は、返信欄に『お疲れさまでした』とだけ打った。
送信して、画面を閉じる。
個人チャットは開かなかった。
開けば、何かを書かなければならない気がした。
今日のことを、もう一度謝るべきなのか。
それとも、普段どおりに話しかければいいのか。
何事もなかったように接するには、少しだけ時間が必要だった。
表紙決定会議。
毛布の朝。
今日の入稿。
どれも、制作の中で起きた出来事だった。
けれど、作品の話だけでは片づけられない気持ちが、少しずつ積み重なっている。
褒められると、弱い。
怒鳴られると、言葉が出なくなる。
謝ると、距離が開いてしまう。
陽向が連絡を控えめにしているのは、きっと気遣いなのだと思う。
今日の私を、これ以上困らせないように。
あるいは、まだ怒っているかもしれない私に、無理に話しかけないように。
それは、彼らしい配慮だった。
わかっている。
わかっているのに、急に寂しくなった。
私は、スマートフォンを手に取った。
個人チャットを開く。
最後のメッセージは、いつものように短い。
『入稿、完了。おつかれ、紗季』
その下には、私が返した仕事の言葉だけが残っている。
何か一言、別の言葉を送れたらいいのに。
『今日はごめんなさい』
それだけでもいい。
でも、それではまた謝るだけになる。
『入稿できてよかったですね』
それなら、いつもと変わらない。
どちらも、今の気持ちとは少し違う気がした。
返信欄に指を置いたまま、私はしばらく動けなかった。
自分から追いかける準備をする。
そんなことがあるのだろうか。
いつもは追いかけられると逃げてしまうくせに、相手が一歩離れると、その距離が気になってしまう。
勝手なものだと思った。
窓の外には、六月の夜が広がっていた。
机の上には、入稿用のチェックリストが残っている。
三十六ページ。
表紙。
奥付。
すべてに確認済みの印がついていた。
原稿は、入稿された。
恋は、まだ未入稿のままだった。
私はスマートフォンを机の上に伏せた。
明日は、角教室で会う。
顔を合わせれば、きっと話せる。
そう思いたかった。
……何を言えばいいのだろう。
答えは、まだ出なかった。
入稿まで、あと一分。
あのとき、進捗バーが止まっていた二十分間の出来事は取り消すことはできない。
けれど、距離だけはまだ取り戻せる気がした。
私は、まだ陽向と付き合っていない。
それなのに、今日の沈黙は、恋人同士のすれ違いのように感じられた。
そんな自分に、少しだけ困っていた。




