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御影さんの境界線の内側で  作者: 椎名弥生


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7/12

7. 仕上げ地獄

表紙が決まってから、カレンダーは一気に六月へ進んだ。


五月の最終週。

制作班の入稿表には、篠田先輩の整った字で「仕上げ地獄」と書かれた赤い枠が追加されていた。


字はいつも通り読みやすい。

余計な飾りもなく、日付と作業内容がきちんと整理されている。


だからこそ、逃げ道がなかった。


『境界線の内側に缶コーヒー』は、三十六ページすべてにペン入れが行われた。

柚と橙の表情も、部室の窓から差し込む光も、ネームのときにはラフだった部分まで形になりつつある。


残る作業はトーン、効果線、台詞の最終的な文字組み、そして入稿データの生成と確認。


言葉を書くだけなら、机に向かって考え続ければいい。

けれど、漫画はそうはいかない。

線の太さも、影の濃さも、吹き出しの位置も、ページをめくったときの印象に関わる。

三十六ページすべてを同じ水準に整え、印刷しても問題がない状態にする必要があった。


しかも、私の担当は最終校正だ。


誤字や脱字はもちろん、台詞の抜け、表記の揺れ、吹き出しの中で不自然に折り返された文字まで確認する。

画面上では気にならなかったものが、印刷すると急に目につくこともあるらしい。


恋より先に、原稿を完結させたい。


あの夜から、私は何度も同じ言葉を自分に言い聞かせてきた。


……本当に、それだけでいけるのだろうか。


考えたところで答えは出ない。

私は赤ペンを筆箱に戻し、入稿表を閉じた。

まずは、目の前のページから片づけることにした。


* * *


五月最終週の火曜日。


定例の打ち合わせは、いつもの角教室で行われた。


窓を開けても、昼間の熱気はなかなか抜けない。

扇風機が首を振るたび、机に置いた原稿用紙の端がわずかに浮き上がった。

桃果はその紙がめくれないように付箋の束を重しにしている。


「この『仕上げ地獄』って、毎年あるんですか?」


入稿表を眺めていた彼女が、しみじみと尋ねた。


「ある。名前が違う年もあるが、やることは変わらん」


篠田先輩はスケジュール表に赤い線を引きながら答えた。


「去年はこの週に寝落ちした奴が一人いたな」


「……誰ですか?」


私が尋ねると、先輩は顔も上げずに言った。


「お前が聞くな」


「私ですか?」


「思い出せないなら、そのままでいい」


陽向が隣で小さく笑った。


「去年は大変だったよね。あのときは、作業途中で全員の動きが止まってさ」


「真壁さんも寝ていましたよね?」


「俺は十分だけ」


「十分で済んでいませんでした」


「……記憶が美化されているな」


「事実です」


桃果がすかさず手を挙げた。


「私、今年は毛布を持参します!」


「持参は構わん。だが、毛布があるからといって徹夜を前提にするな。睡眠時間は確保しろ」


「はい!」


篠田先輩の声は厳しかったが、桃果はむしろ張り切った様子だった。

陽向はタブレットを伏せ、入稿用のチェックリストを広げた。


「仕上げの期間は、うちを作業拠点にしようと思ってる。机が広いし、プリンターもある。角教室は閉館時間があるから、印刷と確認を繰り返すなら、そのほうが効率がいい」


「……真壁さんの部屋ですか?」


私が聞き返すと、桃果がぱっと顔を明るくした。


「真壁先輩のおうち合宿、楽しみです。私、初めて行きます!」


「初めて行く場所を、地獄とセットで楽しみにしないでほしいな」


陽向は苦笑した。


「あと、普通のアパートだからね。そんなに期待されても困るよ」


「作業机が広いんですよね?」


「そこは広い」


「プリンターもある」


「あるよ」


「じゃあ、十分です!」


篠田先輩が入稿表の一番下に付箋を貼った。


「水曜日から日曜日まで、真壁宅を作業拠点にする。昼間は全員で作業。夜は各自の都合を見て、交代で残る。最終校正は御影、入稿データの作成は真壁。仕上げと広報の確認は俺と一ノ瀬で回す」


「御影先輩、窓際の席は取っておきますね」


桃果が言った。


「……アパートにも窓際の席があるんですか?」


「作業机の端、コンセントもある」


「それは助かります」


桃果の準備の早さには、いつも助けられる。

持ち物リストまで作り始めた彼女を横目に、陽向がこちらを向いた。


「紗季は最寄り駅まで少し歩くから。荷物が多い日は迎えに行くよ。帰りも遅くなったら送る」


「……不要です。仕事をしに行くだけですから」


「うん。仕事だね」


彼はあっさり頷いた。


「でも、暗い時間に重い荷物を持って帰るのは大変だろ。そこは手伝わせてよ」


断りきれない言い方だった。

それに、荷物の重さについては否定できない。

校正用の印刷物だけでも、それなりの量になるはずだ。


「……必要になったときだけ、お願いします」


「了解」


陽向は嬉しそうに笑った。

私は入稿表に視線を戻した。


ありがとう。


そう思ったことは、もちろん口には出さなかった。


* * *


六月第一週の月曜日。


講義とレポートに挟まれながら、私は第三幕の台詞を最終確認していた。

共有フォルダには、陽向が作業したページが少しずつ追加されていく。


『十八ページ、トーン仮。柚の独白、影を少し多めにした』


画像を開くと、柚が窓際に立つコマの足元に柔らかな影が落ちていた。

私は画面を拡大し、台詞の位置を確認した。


『確認しました。影はいいと思います。吹き出しが一か所だけ窮屈なので、少し文字を詰めたいです』


すぐに既読がついた。


『了解。直す』


それだけのやり取りだった。

必要な修正を伝え、作業に反映してもらう。

何も問題はない。


私はスマートフォンを閉じ、講義のノートを開いた。

ページの端には、昨夜確認した台詞のメモが残っている。


『別に、嬉しくない』


削除したはずの言葉が、妙に記憶に残っていた。


今の原稿には、もう使っていない。

柚の気持ちを説明しすぎると思い、削った台詞だ。


それなのに、表紙決定会議の時に見てしまった陽向のタブレットに貼られていた文字が、何度も頭に浮かんでしまう。


……作業に集中しないと。

私はメモ帳を閉じた。


放課後、角教室で桃果と並んで十八ページを確認した。


「御影先輩、ここって、前作の文化祭パートと並べて見たくなりません?」


桃果が画面を指さした。


「……なります。でも、今は仕上げです。比較は、売れたあとにしてください」


「売れたあと、ですか。贅沢ですね」


「贅沢、です」


自分で言っておきながら、少しだけおかしかった。


私たちは、まだ入稿すら終えていない。

印刷所にデータを渡し、実物ができあがってくるまでは完成したとは言えないのだ。


陽向がプリンターから試し刷りを持ってきた。


「表紙B案の色校正用。まだ本番の色とは違うけど、印刷するとどう見えるかを確認するためのものだよ」


紙に印刷された窓の光は、モニターで見たものより少し落ち着いた色になっていた。

窓枠の線も、画面上ほど強くは見えない。


「部室の窓、まだ明るすぎない?」


陽向が尋ねる。

私は紙を少し傾け、全体の印象を確かめた。


「……少しだけ落としてください。柚のリボンは、そのままで大丈夫です」


「うん。調整する」


黒歴史のリボンは、もう修正してもらった。


それでも、窓の光を見るたびに中学の文芸部室が頭の端をかすめる。

もちろん、この表紙は創作だ。

作中の人物は柚と橙で、私はその台詞を書く担当にすぎない。

それを何度確認しても、記憶が完全に消えるわけではなかった。


帰りの電車で、陽向から集合時間と住所が送られてきた。


『水曜、十時。最寄り駅は大学から快速で三駅。北口で待ってる』


私は校正用原稿を印刷して持参することを返信した。


『了解です。最終校正用の原稿を印刷して持っていきます』


『うん。おつかれ、紗季』


名前だけの一行に、指が一瞬止まった。

スタンプ欄を開きかけて、やめた。


来週からは、仕上げ地獄が始まる。

余計なことを増やさず、仕事に集中する。


私はスマートフォンをバッグにしまい、窓の外に流れる街並みを眺めた。


* * *


水曜日。


陽向のアパートへ向かう電車は、大学へ通ういつもの路線より少し長かった。


途中で快速に乗り換え、住宅街にある駅で降りる。

改札を出ると、大学の周辺よりも店が少なく、落ち着いた並木道が続いていた。


道沿いの小さなパン屋から、焼きたてのパンの匂いが流れてくる。

住宅の間を自転車が走り抜け、交差点の向こうには子どもを連れた人の姿が見えた。

大学の近くとは、ずいぶん雰囲気が違う。


駅前の時計を確認していると、少し先から陽向が手を振った。

Tシャツにエプロン代わりらしい前掛け。

肩には大きなリュックを背負っている。


「おはよう、紗季。荷物、重くない?」


「……大丈夫です。真壁さん」


「そっか。じゃあ、こっちを持とうか」


彼は私の返事を待ってからバッグの持ち手に手を添えた。


「重いってほどじゃ……」


「印刷物が入ってるんだろ? 階段もあるし、持てるほうが持てばいいよ」


私は一度だけバッグを渡した。

断るやり取りを続けていると、駅からアパートまでの十五分が全部なくなってしまいそうだったからだ。


「……ありがとうございます」


「どういたしまして」


陽向はいつものように笑った。


アパートまでは、緩やかな坂道が続いていた。

築年数のある三階建てで、外壁は少し日に焼けているものの、エントランスはきれいに掃除されていた。

駐輪場には自転車が数台並び、階段の隅には誰かが置いた植木鉢がある。


二階の角部屋。二〇三号室。


扉を開けると、私は思わず足を止めた。


「……広いですね」


リビングの大半が、大きな作業机と本棚に占められていた。

机は壁に沿って配置され、六人が同時に原稿を広げても余裕がありそうだ。

棚には画材やファイルが分類され、プリンターの横には印刷用紙の箱が積まれている。


窓際にはコンセント付きの長机があり、桃果がすでにノートパソコンを置いていた。


「御影先輩、窓際、確保しました!」


「……ありがとうございます。助かります」


「コンセントも二つ空いてます。電源タップも持ってきました」


「完璧ですね」


「えへへ。準備だけは得意なので」


桃果は得意そうに笑った。


キッチンからは、コーヒーの香りがした。

篠田先輩が広報用の文案を広げ、陽向は入稿用のモニターを二台並べている。


「では、六月地獄、開幕」


先輩が嫌な宣言をした。

もっとマシな言い方はなかったのだろうか。


「……はい」


私たち四人の返事が重なった。


玄関の脇には、付箋で作ったアパートのルールが貼られていた。


『靴は揃える』

『夜十時以降は大声を出さない』

『冷蔵庫の缶は記名しない』

『借りた毛布は洗濯して返す』


桃果が一番下まで読んで首を傾げた。


「記名しないって、真壁先輩だけですよね?」


「俺はブラックを下の段にまとめてるから。書かなくてもわかるし」


「それはルールというより、真壁先輩の個人的な習慣では……」


「そうとも言う」


陽向は悪びれずに笑った。


私は冷蔵庫を開け、下の段を見た。

確かに、ブラック無糖の缶が何本も並んでいる。

銘柄まで揃っていた。


「……ずいぶんありますね」


「仕上げ期間だからね。買い出しの回数を減らしたくて」


「なるほど」


それだけのことだ。


それだけのことなのに、自分の好きなものがきちんと並んでいるのを見ると、どうにも落ち着かなかった。


窓際の机には、前作の完売記念として作った複製本が一冊だけ置いてあった。

背表紙には『向こう』という文字が見える。

その隣には、まだ印刷前の表紙B案が立てかけられていた。


今作の『内側』。

並べて眺めると、二冊のタイトルが、少しずつつながって見える。


私は、視線を外した。


「御影先輩、今日の目標は何ページですか?」


桃果がノートを開いた。


「……二十ページまで目視します。修正はできれば三か所以内に抑えたいです」


「三か所……」


桃果が遠い目をした。


「地獄ですね」


「地獄です」


篠田先輩が広報用のSNS文案を読み上げた。


「『境界線の内側に缶コーヒー』、シリーズ第二弾。近日入稿。前作完売、感謝」


「……短いですね」


「短いほうが読まれる」


「去年もそう言っていましたよね」


「結果、完売した」


反論できなかった。


私は印刷した台詞付き原稿を机に並べ、赤ペンとチェックリストを手元に置いた。


「では、十八ページから確認します」


「了解」と陽向が答えた。


こうして、六月の仕上げが本格的に始まった。


* * *


最初に問題になったのは、ファイル名だった。


陽向の作業フォルダを確認していた桃果が、画面を見たまま首を傾げている。


「真壁先輩、この `inside_v12_final.psd` って、何ページですか?」


「十八ページ。全部」


「全部?」


「同じ名前で、ページごとのフォルダに分けてある」


桃果がさらに別のファイルを開いた。


「じゃあ、`final_fix` と `final_fix2` は?」


「修正したやつと、その修正版」


「`neko_inside_FINAL` は?」


「一週間前の最終版」


桃果は、ゆっくりと画面を閉じた。


「……最終版が、多いですね」


「最終版は入稿ボタンを押したあとに決まるから」


陽向は真面目な顔で答えた。

篠田先輩が、深いため息をついた。


「去年の前作も、似たような名前が残っていたな。確か `saki_love_final_final2` とか」


私の顔が熱くなった。


「……それは、台詞データのフォルダ名です。作者の意図とは関係ありません」


「意図はわかる。整理しろ」


「はい」


陽向が素直に頷いた。


私は、自分のUSBメモリのラベルが『台詞_紗季_絶対これ』になっているのを思い出し、口を閉じた。


……人のことは言えない。


昼過ぎ、プリンターが初めて大きな音を立てた。


インクジェットの試し刷りが、一枚ずつリビングに出てくる。

印刷が終わるたびにプリンターは短く音を立て、次の紙を吸い込んだ。


「音、結構大きいですね」


私が言うと、陽向が引き出しからヘッドホンを取り出した。


「作業用。必要なら使って」


桃果は喜んで受け取った。


「ありがとうございます。これで地獄のBGMも聞こえなくなりますね」


篠田先輩が広報用のメモに何かを書き込んだ。


「地獄のBGM。広報には使えそうだな」


「使わないでください」


私と陽向が、ほぼ同時に言った。

桃果は声を上げて笑った。


私はヘッドホンを使わず、プリンターの音を聞きながら赤ペンを動かした。


トンボ付きの原稿用紙には、裁ち落としの位置を示す印が入っている。

画面の中で確認しているときは意識しなかったのに、印刷物を並べるとその小さな印ばかりが目に付いた。


「御影先輩、トンボを見すぎて目が回りません?」


「……まだ回りません」


「回ったら言ってください。毛布、ありますから」


「毛布は睡眠用です」


「地獄ではその境界も曖昧になりますよ」


桃果の返しに陽向が笑った。


水曜日の夜、二十ページまでの修正指示をまとめて共有フォルダに上げた。

陽向が反映している間、私は二十一ページの台詞を確認していた。


橙の「拾うから」。

柚の「別に」。


声に出して読んだら、陽向が何か反応するかもしれない。

表紙決定会議で、彼が私の台詞を読み上げたときのことを、つい思い出してしまう。


私は口を閉じたまま文章を追った。


「御影先輩、二十一ページで止まっていますよ」


桃果が向かいから声をかけた。


「……止まっていません。間を確認しているだけです」


「間を数えるのも、校正のお仕事なんですね」


「そういうことにしておいてください」


「はい」


桃果は納得したのかしていないのか、微妙な顔で頷いた。

篠田先輩がコーヒーを淹れ直した。


「固まるな。固まったら毛布を被せる」


「被せられたら寝ます」


「寝ていい。寝た奴の分は、起きている奴が直す」


陽向がモニターから目を離さずに言った。


「俺、起きてるよ」


「お前が一番寝落ちしそうだ」


「……否定できない」


四人で笑った。

冗談のはずなのに、そのやり取りに少しだけ安心した。


一人で全部抱え込まなくていい。

誰かが止まったら、別の誰かが手を動かす。

制作班で作るというのは、そういうことなのだと思った。


* * *


木曜日。

班キャンプ二日目。


私は朝、大学の一限だけ出席し、そのまま電車で陽向のアパートへ戻った。


講義のノートはきちんと取った。

取ったはずなのだけれど、教授の話を聞いているあいだも、頭の半分は原稿の吹き出しについて考えていた。


アパートでは二十ページまで仕上げが進んでいた。

プリンターの横には、確認済みの原稿が順番に積まれている。


「紗季、ここ、『別に』の間、もう少し詰めたい?」


陽向が画面を拡大した。


柚が顔を背けるコマ

そのあとに、橙が何も言わずに待っているコマが続いている。


「……三回目は削除済みです。残り二回の間だけ見てください」


「うん。わかった」


陽向はすぐに修正箇所を切り替えた。


「いい間だと思う。台詞を詰め込まないから、柚が迷っている時間がちゃんと見える」


「……ありがとうございます」


「紗季が書いた台詞だから、間が生きるんだよ」


ペン先が止まった。


「……キャラクターの話です」


「うん。柚と橙の話」


陽向は少しだけ笑った。


「でも、紗季の声で読むと、どうしてもそう聞こえるんだよね」


表紙決定会議で聞いた言葉が頭をよぎった。

私は赤ペンを机に置いた。


「……真壁さん。再生しないでください。仕上げに集中します」


「了解。御影さん」


わざと苗字で呼ばれた。


その呼び方に変な安心感があった。

……いや、安心している場合ではない。

私はチェックリストを引き寄せ、次のページを開いた。


夜、桃果はネームの修正を家で進めるため、帰宅することになった。


「先輩たち、明日も来ます。私、残りの修正だけ家でやりますね」


「駅まで送るよ」と陽向が言った。


「大丈夫です。まだ終電まで余裕がありますから」


「じゃあ、気をつけて」


桃果は荷物をまとめ、私たちに手を振った。


「御影先輩、あまり無理しないでくださいね。毛布、使ってもいいですから」


「ありがとうございます。一ノ瀬さんも、夜更かししすぎないように」


「はい。先輩もですよ」


扉が閉まると、リビングが急に静かになった。


篠田先輩も広報の確認を終えて帰宅していた。

明日の午前中には戻り、広報画像と入稿表の最終チェックをする予定だ。


残ったのは、私と陽向だけだった。

モニターの光が、壁に四角い影を落としている。

キッチンからは、カップ麺にお湯を注ぐ音が聞こえた。


「紗季も、今日は帰る?」


陽向が尋ねた。


私は時計を見た。

終電までは、まだ時間がある。

けれど、二十四ページまでの校正と、修正データの確認が残っていた。


「……今日は、残ります」


「わかった。無理はしないでね」


「最終校正が終わっていませんから。仕事です」


「うん。仕事だね」


彼はそれ以上何も言わなかった。

やがて、机に私の分のカップ麺が置かれた。


「食べてから続けよう。ブラックの缶も冷蔵庫にあるよ」


「……ありがとうございます」


仕事上の礼。

それ以上の意味は、つけない。

そう決めて、私は箸を持った。


二人きりのリビングで、作業は日付が変わるころまで続いた。

二十四ページまで目視を終え、二十五ページの柚の独白に差しかかったところで、指が止まった。


『あなたの横に、わからないものがある』


これまでにも、何度も読み返してきた行だ。


私は文字の位置を確かめた。吹き出しの中で窮屈になっていない。

次のコマとのつながりも自然だ。


問題はない。


そう判断したのに、私はしばらく次のページへ進めなかった。

陽向は隣のモニターで、橙の影を少しだけ長くしていた。


「そこ、柚の気持ちが揺れるところだよね」


彼が言った。


「……はい。台詞は、このままで大丈夫です」


「うん」


陽向は私が確認した行を変えず、そのまま作業を続けた。


勝手に直さない。

必要以上に説明を加えない。


私が決めたものを、いったん信じてくれる。

それがありがたいのは、わかっている。


けれど、その信頼はときどき私の防御を静かに揺らした。


窓の外では、住宅街の街灯が点々と続いていた。

角教室にいたときより、音が少ない。プリンターが一度、試し刷りを吐き出した。


「……真壁さん、プリンターの音が」


「ごめん。止める?」


「いえ。止めなくて大丈夫です」


私は、少しだけ笑った。


「地獄のBGM、でしたね」


陽向も笑った。


「うん。地獄のBGM」


そのあと、私たちはまた黙って作業を続けた。


* * *


金曜日。


午前中に、篠田先輩と桃果が戻ってきた。


広報画像の最終確認と、入稿表の更新をするためだ。

リビングの机には新しく印刷したページが並び、壁には表紙B案の色校正用データが掲示されていた。


陽向のモニターには、新しいファイル名が並んでいた。


`inside_entry_0608_final.psd`


`inside_entry_0608_final_real.psd`


`inside_entry_0608_final_real_fix.psd`


桃果が画面を見て、静かに尋ねた。


「……`real`って、何ですか?」


「本当の最終版」


「`fix`は?」


「本当の最終版の修正版」


桃果は、ゆっくりと篠田先輩のほうを向いた。


「先輩、ファイル名のルールを作ったほうがいいと思います」


「同感だ」


陽向が困ったように笑った。


「いや、ちゃんと整理するよ。まだ作業途中だから、修正前と後を残しておきたくて」


「残すのはいいですけど、名前だけでわかるようにしてください」


私が言うと、陽向は素直に頷いた。


「はい。改善します」


「本当にお願いします。入稿直前に、どれが最終かで迷いたくありませんから」


「わかってる」


篠田先輩は入稿表に赤線を引いた。


「入稿は来週火曜日。印刷所へのデータ送信は午前中。日曜日の夜までに内容を確定し、月曜日は最終確認だけにする」


「月曜日は、寝られるんですか?」


桃果が期待するように聞いた。


「寝ろ。火曜日に動けなくなる」


「先輩、すごくまともなことを言っていますね」


「いつも言っている」


「はい。でも、今回は説得力があります」


篠田先輩は聞かなかったことにした。


役割分担も確認された。

印刷所への連絡と広報の確認は篠田先輩と桃果。

入稿データの生成は陽向。

最終PDFの目視は、私と陽向で行う。


去年の前作を完走した経験が、今年の地獄の地図になっている。

何が起こりやすいのか、どこで時間が足りなくなるのか。

わかっているからこそ、先に決めておけることもある。


夕方、桃果は自宅で残りの修正を進めるために帰ることになった。


「御影先輩、明日も午前から来ますね」


「はい。気をつけてください」


「……先輩、明日も真壁先輩と二人で作業ですか?」


「……最終校正です」


「そうですよね」


桃果は意味ありげに笑うこともなく、素直に頷いた。


「では、明日また。あまり無理しないでくださいね」


「一ノ瀬さんも」


篠田先輩は広報文案をまとめたファイルをバッグにしまった。


「誤字を見つけたら、すぐに連絡しろ。明日には修正を反映する」


「わかりました」


二人が帰ると、リビングには私と陽向が残った。


夜の八時。

外はまだ少し明るいのに、部屋の中はモニターとプリンターの光で、深夜のように見えた。


試し刷りの紙が、机の端に積み上がっている。

同じページを何度も印刷し、トンボの位置や文字のかすれを確認する。

やり直すたびに、紙の束が少しずつ厚くなっていった。


「紗季、三十ページのトーン、確認お願い」


「……了解です」


窓際の机に印刷物を並べる。


三十ページには、橙が柚を見つめる場面があった。

三十一ページ目には、あの台詞がある。


『俺、柚のことが好きだよ』


私は丸印のついた台詞を見ないようにした。


……いや、見るのが仕事だ。


私は改めてページを読み、周囲の文字を確認した。

誤字はない。吹き出しの配置も問題ない。

コマの中で、橙の視線がきちんと柚へ向いている。

それだけを確認して、次のページへ進んだ。


しばらくして、陽向がインク切れに気づき、近所のコンビニへ買い出しに出た。


一人になったリビングには、プリンターのリズムだけが続いていた。

角教室の扇風機とは違い、ここでは紙とインクの匂いが濃い。

窓を少し開けると、住宅街の夜の空気が静かに入り込んできた。


二十分ほどして、玄関の扉が開いた。


「ただいま。インク、買えたよ。ついでにパンも買ってきた」


「……ありがとうございます」


陽向は袋を机に置き、私の手元を覗き込んだ。


「三十ページ、どうだった?」


「影を一か所だけメモしました。柚の目線は問題ありません」


「うん。直すね。ありがとう、紗季」


彼は画面を確認するため、私の肩越しにモニターを覗き込んだ。


以前なら、その距離にいちいち反応していたかもしれない。

今も、気にならないわけではない。

けれど、画面を一緒に見て、修正箇所を指で示す。

それが必要な作業なのだと、少しずつわかってきた。


「ここ、影は濃い?」


陽向が尋ねる。

私は画面を見比べて答えた。


「……適切だと思います。柚が隠している感じが出ています」


「うん。いい言葉だね」


また、褒められた。


私は赤ペンを持ち直した。


「……ありがとうございます。次のページに進みます」


「了解」


陽向はいつものように笑った。


* * *


土曜日。

桃果は午前中からアパートに来て、ネーム修正の最終データを共有フォルダに上げた。


「これで、三十六ページ全部そろいましたね!」


彼女は画面を確認してから、嬉しそうに両手を握った。


「ネームが完成したときも嬉しかったですけど、線が入って、仕上げも進んで……本当に一冊になってきた感じがします」


「揃ったな。あとは入稿データとPDFだ」


陽向の声は疲れているのに明るかった。

入稿係の宿命なのだろう。


私は、表紙B案の印刷物を窓際に立てかけた。

色校正用の紙では、光の色が少し落ち着いている。

柚のリボンも、指定した通り短くなっていた。


桃果がすぐに気づいた。


「御影先輩、リボン短くなっていますね」


「……黒歴史対策です」


「でも、いい表紙だと思います。前作と並べたいですね」


「……並べるのは広報の仕事です」


「はい。でも、並べたくなります」


桃果の言い方があまりに素直で、私は反論を諦めた。


篠田先輩が入稿表にチェックを入れた。


「土曜の午後にPDF第一版。日曜に修正と確定。月曜は最終確認だけ。火曜の午前中に入稿だ」


「月曜は、本当に休めるんですか?」


桃果がもう一度尋ねた。


「休む。少なくとも、徹夜はするな」


「……わかりました」


先輩の声が本気だったので、桃果も真面目に頷いた。


昼過ぎ、桃果は家で最後の確認をするために帰ることになった。

玄関で靴を履きながら、彼女はバッグから毛布を一枚取り出した。


「御影先輩、これ、追加で持ってきました」


「……二枚目ですか?」


「はい。真壁先輩、一枚しか用意していないみたいだったので」


「余計なお世話だよ」


陽向がリビングから顔を出した。

桃果はまったく気にせず笑った。


「地獄では、睡眠も仕事ですから」


「……その理屈、どこで覚えたの?」


「この班です」


陽向は何も言い返せなかった。

私は受け取った毛布を、椅子の背に掛けておいた。


「ありがとうございます。一ノ瀬さん」


「どういたしまして。先輩もちゃんと休んでくださいね」


桃果が帰ると、篠田先輩も広報用の修正を終えて、夕方にはアパートを出た。


「日曜の夜までにデータ確定だ。二人とも、食事は抜くなよ」


「はい」


「月曜は寝ろ。特に、真壁と御影」


先輩は念を押してから、玄関を出ていった。

陽向が少しだけ肩を落とした。


「……見張られてるみたいだね」


「見張られなくても、食事は取ります」


「うん。じゃあ、夕飯を作ろうか。カレーでいい?」


「……お任せします。洗い物は私がします」


「助かる」


キッチンから玉ねぎを切る音がした。


しばらくして、カレーの匂いがリビングに広がった。

煮込んでいるあいだ、私たちはそれぞれの画面を見ていた。

陽向は入稿用データを確認し、私は台詞の最終チェックを進める。

学生アパートとは思えないほど、落ち着いた時間だった。


……落ち着いている場合ではない。

日曜の夜までに、データを確定させなければならないのだ。


食後、再びプリンターが動き始めた。

試し刷り、PDF出力、修正、再出力。

同じページが何度も机を通過する。


時計の針が零時を回ったころ、私は目をこすった。


「……真壁さん。一度、休みませんか」


「俺は、あと一時間でトーンを終わらせる」


「では、私は校正を続けます」


そう答えたものの、自分の目がもう半分閉じかけていることには気づいていた。

陽向も気づいていたのだと思う。

けれど、何も言わずに画面の明るさを少しだけ落とした。

その気遣いがありがたかった。


そして、少しだけ困った。


* * *


日曜日。

その日は、日曜日という名前だけが残っていた。


カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。

私はいつの間にか机に伏せていたらしい。

頬の下には、トンボ付きの原稿用紙がある。

慌てて顔を上げると、紙に頬の跡がついていないか、最初に確認してしまった。


……よかった。


少し折れただけで、印刷物そのものは無事だった。


最後に見ていたのは、三十二ページの柚の独白だった。


『あなたの横に、わからないものがある』


その下の行には、赤ペンで小さな印がついている。


私は目をこすった。

肩に何かが掛けられている。


温かい重み。

毛布だった。


「……この台詞、好きだよ。ここ、紗季らしい言葉だと思う」


陽向の声が少し遠くから聞こえた。

私はまだ眠気の残る頭で返事をした。


「……ん」


「橙の『好き』の前も。あの場面、好きだよ」


「……聞こえてるから」


声が自分の口から出た。


言ってから、目が覚めた。


陽向の手が止まっている。


リビングが静かになった。


「……起きてた?」


「……今、起きました」


「ごめん。寝てると思ってた」


「……半分だけ、寝ていました」


陽向は少し困ったように笑った。


「うん。半分ね」


彼はモニターの明るさを落とし、私の机から少し離れた。


「あと少しでPDFが出せるから。それが終わったら、御影さんは寝て」


「……最終確認が、まだ」


「俺が声をかける。約束するよ」


何でもない言葉だった。

けれど、今の私はその声に逆らうだけの力が残っていなかった。


「……わかりました」


私は毛布を引き上げた。

少しだけ休むつもりだった。

目を閉じて、数分したら起きるつもりだった。


けれど、次に目を開けたとき、時計は七時を指していた。


窓の外では、朝の光が住宅街を照らしていた。

私はゆっくりと身体を起こした。


机の上には、きちんと揃えられた原稿が並んでいる。

プリンターは止まっていて、モニターにはPDFの確認画面が表示されていた。


陽向は、キッチンで湯を沸かしていた。


「おはよう、紗季」


「……おはようございます。真壁さん」


「よく眠れた?」


「……それなりに」


「それはよかった」


彼はいつものように笑った。

私は肩の毛布を見下ろした。


「……これ、ありがとうございます」


「どういたしまして。寒くなかった?」


「大丈夫でした」


「なら、よかった」


会話はそこで途切れた。

昨夜、寝ぼけながら返事をしてしまったことが、頭の片隅に残っている。


『聞こえてるから』


あれは、どう聞こえただろう。


陽向は、それ以上何も言わなかった。


私も、聞かなかった。


今はPDFの確認が先だ。

私は毛布をたたみ、窓際の机に戻った。


三十六ページ。

一ページ目から、最後まで。

誤字、脱字、台詞の抜け、トンボの欠け。

ページをめくるたび、確認項目を一つずつ潰していく。


気づけば、朝の光が机の上を移動していた。


* * *


月曜日の朝。


リビングには、カレーの残り香とインクの匂いが混ざっていた。


陽向がキッチンでトーストを焼いている。

私は借りた毛布をたたみ、窓際の机に残っていた空のカップを片づけていた。


「おはよう、紗季」


「……おはようございます、真壁さん」


「うん。真壁さん」


彼は皿を二枚、机の上に置いた。


トーストと簡単なサラダ。

コーヒーも二つ用意されている。


「ジャムとバター、どっち?」


「……ジャムです」


「うん。覚えてる」


覚えている。


その言葉を聞いて、缶コーヒーのことを思い出した。


好きなものを覚えていてくれること。

それは単に気が利くというだけなのかもしれない。

けれど、何度も繰り返されると、どうしても意識してしまう。


私はジャムを塗ったトーストを一口かじった。


口の中が、少し乾いていた。


「……昨夜のことなんですけど」


言いかけて、止めた。

陽向はコーヒーを淹れながらこちらを見た。


「うん?」


「……いえ」


何を聞きたいのだろう。


台詞を褒められたことについてか。

それとも自分が寝ぼけて返事をしたことについてか。

どちらも、わざわざ話題にするほどのことではない気がした。


陽向が静かな声で言った。


「昨夜の『好き』は、作品の話だからね。眠かったなら、忘れていいよ」


私はカップを持つ手を止めた。


「……忘れません」


陽向が少しだけ目を丸くした。


私も自分が何を言ったのか理解するまでに、わずかな時間がかかった。


「……いえ。台詞の感想を、忘れないという意味です」


「うん。わかってる」


彼はそれ以上追及しなかった。


「褒め言葉は、原稿の修正に使ってくれればいいよ。俺への返事は、いらないから」


正論だった。


正論すぎて、反論できなかった。


「……了解です」


「うん」


陽向は自分のコーヒーを一口飲んだ。


「明日はいよいよ入稿だね。PDFも第一版まで出せた。明日最終確認して、問題がなければ確定にしよう」


「……私も大学へ行きます。講義もありますから」


「うん。じゃあ午後に駅前で合流して、一緒に確認しよう」


「わかりました」


短いやり取りだった。


それなのに、気まずさと何とも言えない温かさが、同じ場所に残っていた。


猫は逃げない。

逃げないふりをする。


私はコーヒーを飲み、カップを机に戻した。


* * *


月曜日の昼。


講義を終えた私は、大学の図書館で入稿前のPDFを開いた。


三十六ページ、最初から最後までスクロールする。

誤字、段抜け、トンボの欠け。

表紙の色。

タイトルの位置。

奥付のサークル名『ねこじるし』。


一つずつ、チェックリストに印をつける。


問題はなかった。


最後のページまで確認を終えたところで、制作班のグループチャットに篠田先輩から写真が届いた。

印刷所の入稿受付画面だった。

陽向が昨夜確定したPDFが、仮アップロード済みの表示になっている。


『最終目視は今日中。御影から問題なしが来たら、明日午前に本入稿。修正がある場合は、夜までに連絡』


すぐに桃果から返信があった。


『了解です! 毛布は洗濯して返却します。二枚とも!』


私は思わず笑った。


『ありがとうございます。助かりました』


送ると陽向から個人チャットに通知が届いた。


『午後、駅前で待ってる。一緒に見よう』


私は『了解です』と返した。


第二限の途中で教授に事情を説明し、少し早めに退出できるよう相談してあった。

仕上げ週間の特別扱いは、少し恥ずかしい。


けれど、入稿前の最終確認は、制作班にとって大切な仕事だった。


私は図書館の机を片づけ、バッグにチェックリストをしまった。

ページをめくる確認は、ひと通り終えた。

データの送信はすでに済ませている。

私が残しているのは、もう一度、陽向と一緒に確かめることだけだった。


制作班のチャットに、『PDF、目視問題なし。修正なし』と打った。


それなのに、最後の一歩は、思ったより重かった。


* * *


入稿前日の夜。


私はマンションの机で、PDFをもう一度開いた。

三十六ページ。


表紙の部室の窓と、柚の後ろ姿。


奥付の『ねこじるし』。


台詞の一つ一つ。


『俺、柚のことが好きだよ』


丸印のついた台詞は、そのまま残っていた。

私はしばらくそのページを見つめた。


何度も読んだ。

何度も確認した。


それでもこの台詞だけは、目に入るたびに少しだけ指が止まる。


作品の台詞だ。

柚と橙の話だ。

そこに、私の気持ちを混ぜる必要はない。


そう言い聞かせ、私はPDFを閉じた。

スマートフォンには、制作班のチャットが流れていた。

篠田先輩から。


『入稿データ、仮アップロード済み。御影のOKも確認した。明日は本入稿』


桃果から。


『毛布、洗濯しました。明日返却します!』


陽向からは、個人チャットにメッセージが届いていた。


『おつかれ、紗季。明日、一緒に最終確認しよう』


私は、返信を打った。


『了解です。明日、よろしくお願いします』


仕事の言葉。

それだけで十分なはずだった。


スタンプ欄を開いて、閉じた。

黒い猫の足跡は、今日も送れない。


窓の外には、六月の夜が広がっていた。

原稿は完成に近づいている。

入稿まで、あと一日。


アパートで借りた毛布の温かさが、まだ記憶に残っている気がした。


「……仕事です」


自分に言い聞かせる。

声はほんの少しだけ揺れていた。


六月の仕上げ地獄は、ようやく終わりに近づいていた。


けれど、私と陽向のあいだにある境界線は、まだ薄いままだった。

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