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御影さんの境界線の内側で  作者: 椎名弥生


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6. 陽向の表紙

ネームの通し読みを終えた五月第二週の土曜日。


角教室の机には、三十六ページのネームが順番に並んでいた。

最後のページまで読み終えたとき、桃果が少し照れくさそうに笑って「できましたね」と言った。

篠田先輩は「まだペン入れがある」と釘を刺したけれど、その声にも、いつもよりわずかに柔らかい響きがあった。


あれから一週間。


制作班は、いよいよペン入れの工程に入っていた。

桃果のネームに陽向の線が加わり、文字だけだった物語が少しずつ一冊の漫画へ変わり始めている。


残っている大きな課題は、表紙だった。


前作『境界線の向こうに缶コーヒー』の表紙には、缶コーヒーのシルエットと、並んで立つ二人の影が描かれていた。

線の少ない、静かなデザインだったけれど、作品の雰囲気によく合っていたと思う。


今回も、シリーズとして並べたときの印象は大切になる。


それはわかっている。


わかってはいるのだけれど。

今作の表紙に、何を描くのか。

その答えだけが、まだ決まっていなかった。


* * *


月曜日。


午前中、共有フォルダに桃果のネーム最終データがアップロードされた。

続けて、陽向から画像が一枚届いた。


『八ページまで線、入った。橙の「待つ」は、まだ粗いけど』


添付された画像には、部室の机に腰かけた橙が描かれていた。

鉛筆の下書きが残り、背景も描き込みの途中だ。

それでも、原稿を見つめる橙の表情には、ネームのときにはなかった落ち着きが加わっている。


私は講義資料を脇に寄せ、画像を拡大した。

吹き出しの位置を確認し、気になったところをスクリーンショットに書き込む。


『第三幕は、吹き出しを少し左に寄せたいです。台詞が長いので、柚の顔にかからないようにしたいです』


送ると、思ったより早く返信が来た。


『了解。帰ったら直す』


それだけだった。


短い返事に、余計な意味はない。

必要な修正を伝えて、作業に反映してもらう。

それで十分だ。


私はスマートフォンを伏せ、次の講義の資料を開いた。


……それなのに、さっきの画像が少し気になっていた。

線が入ると、橙の表情が変わる。

完成したとき、あの台詞はどんな顔で読者に届くのだろう。


考え始めると、講義の内容が頭に入りにくくなった。

私はノートの端に小さく「八ページ、目線」と書き込み、いったんペンを置いた。


今は授業に集中する。

そう決めたところで、教授が黒板に新しい項目を書き始めた。


放課後、角教室に着くと、机の上にはペン入れ用の原稿用紙が広げられていた。

窓際には午後の光が差し込み、紙の白い部分が眩しく見える。

開け放たれた廊下側の窓からは運動部の掛け声と、誰かが階段を上る足音が聞こえてきた。


桃果は印刷した八ページ分の原稿を順番に並べている。


「御影先輩、線が入ると台詞が生き生きして見えませんか?」


彼女が一枚を持ち上げた。


「……まだ粗いですよ。真壁さんも、そう言っていましたし」


「粗いのはこれから直すところだよ」


陽向はペンを耳に挟みながら、画面から顔を上げた。


「まずは全体を通す。最初から細かいところを詰めすぎると、あとで構図を変えたときに大変だから」


「なるほど。先に全体を完成させるんですね」


「そういうこと」


桃果は納得したように頷き、原稿を机に戻した。

私は窓際の席にバッグを置き、すでに上がっていたページを確認した。

線はまだ軽いけれど、柚の視線や橙の手の位置がはっきりしてきている。


「……ここ、いいですね」


「どのページ?」


陽向が尋ねた。


「八ページ目です。柚が原稿を隠すところ。手が少しずれているので、隠しきれていないんですけど」


「うん。わざと少し見えるようにした」


「……そうだったんですか」


「完全に隠しちゃうと、橙が気づいているのかどうか、わかりにくいから」


陽向は原稿を覗き込み、線の一部を指で示した。


「ここは、柚が気にしていることを橙が知っている。でも、無理に聞き出さない。その感じを残したかったんだ」


「なるほど……」


桃果が感心したように頷いた。


「絵にすると、台詞に書いていないことまで伝えられるんですね」


「そうだね。だから、台詞を全部説明に使わなくてもいい」


陽向はそう言って、私のほうを見た。


「紗季が削ってくれたところも、絵で補えると思う」


「……必要な修正をしただけです」


「うん。助かってるよ」


あまりにも自然に言われたので、私は返事に詰まった。


褒められたからといって、いちいち動揺する必要はない。

これは制作の話で、陽向は担当として感想を伝えているだけだ。

そう自分に言い聞かせ、原稿に視線を戻した。


篠田先輩が入稿表を持って教室に入ってきた。


「作業は進んでいるか?」


「八ページまで線が入りました」と陽向が答えた。


「よし。では、今週はペン入れを進める。表紙は来週火曜日に決めるぞ」


桃果が顔を上げた。


「来週、ですか?」


「そうだ。三案を並べて、班で決める。そこから色と文字組みを詰める時間もいるからな」


「六月の入稿まで、まだ余裕があると思っていました」


「余裕があると思っているうちに、なくなるんだ」


篠田先輩は入稿表に新しい列を足した。


「六月の地獄に入る前に、表紙の地獄を終わらせるぞ」


「……地獄が二つあるんですか」


私が尋ねると、先輩は真顔で頷いた。


「順番に来る」


「できれば、一つで済ませてほしいです」


「それができるなら、入稿表なんか作らん」


陽向が小さく笑った。


「先輩、脅しすぎですよ」


「脅しじゃない。予定だ」


桃果は入稿表を自分のノートにも写していた。


「では、表紙の三案は来週火曜日に初めて見るんですね」


「そうなる。SNSへの掲載は、決定して色校正が終わるまで禁止だ」


「まだ見ていないのに、もう楽しみです」


桃果がそう言って笑った。

私も表紙が決まること自体は楽しみにしていた。


ただ、どんな案が出てくるのか。

そして、その中のどれを選ぶことになるのか。


今はまだ、想像できなかった。


* * *


火曜日。


確認用の原稿は前日の夜に共有フォルダへ上がっていた。

第一幕の部室パートと、第二幕の前半。

私は講義の合間にファイルを開き、吹き出しの位置を一コマずつ確認した。


柚の視線を遮っていないか。

台詞の長さに対して、吹き出しが窮屈ではないか。

コマを順に読んだとき、台詞が前の場面から急に飛び出していないか。


赤ペンの代わりにタブレット上で印をつけていく。


「別に」の回数は二回。

三回目は、前回の通し読みで残すと決めた一か所を除いて削除済みだった。

数えなくてもいいはずなのに、私はつい確認してしまう。


読み終えたところで、画面を閉じた。


陽向はその日、角教室に来ていなかった。

作画に集中するため、別の作業場所を使うとグループチャットで連絡があったのだ。

隣から画面を覗き込まれることがないので、確認作業は思った以上にはかどった。


そのことに、少し安心している自分がいた。


昼過ぎ、桃果がコピー機の前で首を傾げているのが見えた。


「一ノ瀬さん、どうしました?」


「御影先輩、この吹き出しなんですけど。柚の目線、合っていますか?」


画面には柚が顔を横に向けたコマが表示されていた。

吹き出しのしっぽは、柚の口元につながっている。


「……合っています。柚は、橙のほうを見ないようにしているんですから」


「なるほど。見ないふりですね」


「はい」


「難しいですね、見ないふりって」


「難しいです」


桃果はしばらく画面を見つめてから、ふっと笑った。


「でも、御影先輩は得意そうです」


「……何の話ですか?」


「いえ。柚の話です」


「そうですか」


私は余計なことを聞かないことにした。


帰りのバスに揺られていると、スマートフォンに画像が三枚届いた。


A案、B案、C案。


どれも表紙の下書きだった。

そのあとに、陽向からメッセージが続いた。


『表紙は来週火曜の会議で説明する。三案を印刷して持っていくので、見て意見をください』


私は画像を一枚ずつ開いた。


A案は、シンプルな背景に二人のシルエットを置いたもの。

前作に近い印象で、シリーズものだとすぐにわかる。


B案は、窓を中心にした構図だった。

西向きの光が部室に差し込んでいて、柚のリボンと橙の後ろ姿が画面の中に収まっている。


C案は、机の上に原稿用紙と缶コーヒーが置かれている。

二人の手だけが画面の端に入り、触れそうで触れない距離を残していた。


私は、三枚を順番に見比べた。


A案は安全だと思った。

前作と並べても違和感がないし、初めて手に取る人にも作品の雰囲気が伝わりやすい。


C案は、今回の物語に合っている。

缶コーヒーがあって、原稿があって、その周りに二人の気配がある。

小道具と距離感で読ませる構図は、私たちが書いてきたものに近かった。


そして、B案。


窓枠の線を見たとき、私はほんの少しだけ指を止めた。


西向きの窓。

机の位置。

光の入り方。


中学の文芸部室の記憶と、大学の角教室で重ねてきた時間が、頭の中で不意に重なった。


私は、もう一度B案を見た。


窓の向こうには、何も描かれていない。

それなのに、その先に何があるのかを、私は知っているような気がした。


……考えすぎだ。


私は画像を閉じた。


三案は、来週の会議で決める。

それまでは、意見を考えておけばいい。


そう思いながら、もう一度だけB案を開いた。


* * *


水曜日。


講義とレポートの提出で一日が終わり、角教室には顔を出せなかった。


夕方、共有フォルダに進捗が更新された。


桃果からは、十ページ目までのネーム修正データ。

陽向からは、作画の確認事項と短いコメント。


『橙の「待つ」の表情、直した。前より伝わると思う』


私は自室で確認し、返信した。


『第三幕の吹き出し、左寄せが反映されています。ありがとうございます』


送信すると、すぐに既読がついた。

返事はなかった。


それでよかった。


修正が伝わって、作業に反映された。

それ以上のやり取りは必要ない。


表紙の三枚は、フォルダの中に保存されたままだった。

私は講義のノートを片づけてから、もう一度B案の画像を開いた。


窓枠の線を指でなぞるように拡大する。

絵が完成したわけではないので、まだ線は粗い。

光の向きも仮のものだ。

それでも、部室の空気だけは伝わってくる気がした。


私は、画像を閉じた。


表紙のことは、来週の会議で考えればいい。

今夜はレポートを仕上げる。


そう決めて、机に向き直った。


* * *


木曜日。


第二幕の文化祭パートまで、ペン入れが進んだ。


橙の腕についたリストバンド。

視線を逸らす柚。

人波の向こうで、二人の距離が少しずつ離れていくコマ。


桃果は修正指示を書いた付箋をページの端に貼り、陽向はその内容を確認しながら線を直していた。

私は台詞を読み返し、気になる箇所をメモしていく。


文化祭の場面は、何度読んでも少し落ち着かなかった。

柚は橙に何かを聞きたいのに、聞かない。

橙も、柚が何を気にしているのかを察しているようで、答えを急がない。

その間に、別の女子生徒が登場する。


物語に必要な場面だ。

必要だから書いた。

それでも、ページを追う指はほんの少し慎重になっていた。


桃果が前作のコピーを開いた。


「ここ、前作と並べたとき、読者は比較しますよね」


「……仕方ありません。シリーズですから」


「悪い意味じゃないです。似ているところがあるから、前の話を思い出せるんだと思います」


桃果は二冊のページを並べてみせた。


「でも、比較するのは中身だけじゃないですよね。表紙も背表紙も、並べて見ると思います」


陽向はペンを止めずに答えた。


「そうだね。並べてもらえるのは、読んでもらえた証拠でもあるし。今作では『内側』を見せたいと思ってる」


「表紙のB案ですね?」


「うん。部室の窓を軸にして、前作とは違う空気を出したい」


私は付箋に、吹き出しの位置だけを書き込んだ。

比較の話には、口を挟まなかった。


昼休みになると、教室のポットで湯を沸かす音がした。

陽向が紙コップを二つ並べ、片方を私の机に置く。


「紗季、ブラックでいい?」


「……はい。ありがとうございます」


「どういたしまして」


それだけ言って、彼は自分の席へ戻った。

しばらくして、スマートフォンに個人チャットの通知が届いた。


『表紙Bの窓、紗季のメモ通りに光の向きを直した。画像送るね』


添付画像を開くと、西向きの窓から夕方の光が差し込んでいた。

窓枠の影が床に伸び、橙の後ろ姿がその中に立っている。

柚のリボンは、少し長めに描かれていた。


私は、その部分を拡大した。


……長い。


いや、長すぎる。


中学のころの自分が、制服のリボンを結び直していたときのことを思い出した。

あのころは、少しでも形が崩れるのが嫌だった。

何度も結び直し、結局、納得できないまま部室へ向かう日もあった。


今思えば、ずいぶん細かいことを気にしていたと思う。

けれど、絵にして見せられると、記憶の中の自分が目の前にいるようで落ち着かなかった。


私はメッセージを打った。


『柚のリボンだけ、少し短くできますか。……黒歴史なので』


送信してから、少し恥ずかしくなった。

黒歴史という言葉を使うほどのことではない。

単なるデザイン修正だ。そういうことにしておけばいい。


すぐに返事が来た。


『うん。直す』


余計な質問はなかった。

私はスマートフォンを伏せ、コーヒーを一口飲んだ。


……陽向はいつも踏み込みすぎない。


そう思ったあと、私はその考えをノートの端に押し込めるようにして、次のページを開いた。


別の時間帯には、桃果からもメッセージが届いていた。


『橙の目、ここ、線が入ったら泣きそうです』


添付されていた画像では、橙が柚の背中を見送っていた。

まだ下書きの線が残っているのに、表情だけは妙に切実に見える。


私は思わず笑った。


『泣かせるつもりで書いた台詞ではないんですけどね』


『でも、待っている感じがします。橙って、意外と寂しがりなんでしょうか』


『……そこは、真壁さんに聞いてください』


『作画担当に聞くのが一番ですね!』


桃果はそう返してきた。


私は、もう一度画像を見た。

泣かせない台詞にしたつもりだった。


それでも、絵が加わることで、言葉だけでは見えなかったものが浮かび上がってくる。

漫画を作るというのは、きっと、そういうことなのだろう。


* * *


金曜日。


講義が終わるころ、制作班のグループチャットが動いた。

篠田先輩からだった。


『表紙三案を印刷した。来週火曜の会議で見せる。色校正前なので、SNSへの掲載はまだ禁止』


すぐに桃果が返信した。


『了解です! C案の缶、かわいいですよね。でも、御影先輩が困るならB案かな……』


その下に、陽向のメッセージが続いた。


『困らせたくない。決めるのは班だから、みんなの意見を聞きたい』


私は画面を見つめた。


Aは安全。Bは窓。Cは机と缶。

どれも、今回の本に合うように考えられている。


表紙を決めるのは、作画担当の陽向だけではない。

物語を書いた私も、ネームを描いた桃果も、全体をまとめる篠田先輩も、制作班の一員として意見を出すことになる。

それは当然のことだった。


それでも、三案の中に自分の記憶が混ざっているように感じるのは、少し困った。


前作の表紙は、缶コーヒーのシルエットと二人の影だった。

今作は、別編として中学の部室に戻る物語だ。タイトルも『境界線の内側に缶コーヒー』に変わっている。


シリーズ第二弾の顔は、陽向の仕事だった。

部室の窓を軸にしたB案の方向性は、以前から共有されていた。

入稿用には三案を出す、と彼が言っていたことも覚えている。


夕方、角教室を出る前に、陽向が印刷物を一枚だけ見せてくれた。


A案だった。


白い背景に、柚と橙のシルエット。

線は整理されていて、前作と並べたときに違和感がない。


「これは、かなり安全な案だと思う」


陽向が言った。


「初めて読む人にも、シリーズものだってわかるし。前作の雰囲気も引き継げる」


「……そうですね」


「でも、これだけで決めるつもりはないよ。班で決めたいから」


彼は紙を私に渡した。


「俺一人で選ぶのは違うと思うし」


私は、印刷された絵を見た。

安全で整っている。

でも、今作の物語が持っているものを、すべて表せているかと聞かれると、少し迷う。


「……ええ。そうしてください」


「うん」


陽向はそれ以上何も言わず、机の上の原稿へ戻った。


私はA案をバッグにしまった。

近づいてこない距離が、今は助かる。

自分の意見を決めるためには、少し考える時間が必要だった。


* * *


土曜日。


私は一人、自宅の机にペン入れの確認用ページを並べた。


窓の外では、近くの道路を車が通り過ぎていく。

少し開けた窓から風が入り、紙の端がかすかに揺れた。


小豆の写真を壁紙にしたスマートフォンは、机の端に伏せてある。

実家からは、午前中に母が送ってくれた写真が届いていた。

相変わらず、クッションの上で丸くなっている。


私は写真に猫の足跡のスタンプを返し、作業に戻った。


橙の「好き」の前。

柚の独白。

二人の距離が変わる場面。


通し読みで、何度も確認したページだ。

文字だけで読めば、台詞は自然に流れている。

けれど、絵が入ると、その一言が思っていた以上に強く感じられることがあった。


私は柚の独白に赤ペンで印をつけた。

この一文は、もう少し短くできるかもしれない。


そう考えてから、やめた。


これ以上削ると、柚が自分の気持ちを考えている時間まで、なくなってしまう気がした。

私は原稿を横に置き、表紙の三案を開いた。


A案。B案。C案。


どれも、制作班がこの一冊をどう見せたいかという答えだった。


B案の窓には、部室の記憶がある。

C案の机には、柚と橙の物語がある。

A案には、前作から続いてきたシリーズの顔がある。


それぞれに理由があるからこそ、簡単には決められなかった。


その夜、陽向からは進捗だけが届いた。


『十二ページまで線、入った。橙の「待つ」、今の表情が気に入ってる』


私は確認した画像に目を通し、返事をした。


『確認しました。前より視線が自然になっていると思います』


しばらくして、既読がついた。

作業の連絡はそれで終わった。

部屋には、ページをめくる音だけが残った。


* * *


日曜日。


休むつもりの日ほど、なぜか机の前に座ってしまう。


朝は少し遅く起きて、洗濯を済ませた。

昼食を取ってから、課題の残りに手をつける。

そのあとは原稿を開かないつもりだった。


けれど、夕方になるころには、また第三幕の台詞を読み返していた。


これは恋の話ではない。

柚の独白だ。

自分にそう言い聞かせながら、私は一文だけ言い換えた。


橙の「好き」が、頭の片隅に残っていた。


台詞の確認を終えると、冷蔵庫から缶コーヒーを取り出した。

プルタブを開け、机の上に置く。

冷たい缶の表面に水滴が浮かび、窓から入る夕方の光を小さく反射していた。


私は一口飲んでから、もう一度表紙のB案を見た。


窓の光。

橙の後ろ姿。

柚のリボン。


もし、この絵が本の表紙になったら、読者は何を思うだろう。


中学の部室を知っているわけではないのだから、私が思い出していることまでは伝わらない。

きっと、作品の舞台を表す絵として受け取るだけだ。

それでも、作った本人には、知っている場所のように見えてしまう。


私は画像を閉じた。

決めるのは明日ではなく、火曜日の会議だ。

そのときまで、きちんと考えておこう。


* * *


月曜日。


陽向から、表紙決定会議について連絡が届いた。


『明日、火曜の午前九時。角教室でお願いします』


私はスマートフォンのカレンダーを開き、予定を登録した。

その日の第一限は十時からだ。

会議が終われば、講義にも間に合うだろう。

表紙案の印刷物は、朝早く家を出る前にバッグへ入れた。


表紙を決めれば、装丁の方向性が固まる。

そのあとは、ペン入れの確認と台詞の最終校正。

六月の入稿まで、作業はまだ続く。


やることは多い。

考える時間も、あまり残されていない。

私は手帳を閉じた。


明日は会議だ。

装丁の会議。


恋の話ではない。


* * *


火曜日。


目覚ましをいつもより三十分早くかけた。

朝食はパンとコーヒーだけ。鏡の前で一度だけ深呼吸する。


今日は表紙を決める会議だ。

決して恋愛について考える場所ではない。


自分に言い聞かせるほど、かえって意識しているような気もしたけれど、考えないことにした。


バッグの中で表紙案の印刷物が紙の角をノートに当てていた。


触れない。

触れると、本番の前にもう決めた気になる。


八時半ごろには旧校舎の前を通った。

五月の朝は、まだ少し肌寒い。


九時少し前、私は旧校舎の角教室に着いた。

廊下は静かで、窓の外には朝のキャンパスが広がっていた。

遠くの校舎には、すでに人の気配がある。

教室の扉を開けると、陽向が壁にテープを貼っているところだった。


「紗季、お疲れさま」


「……お疲れさまです、真壁さん」


「ブラック、用意してあるよ」


窓際の机には、紙コップとポットが置かれていた。


「……ありがとうございます」


「今日は長くなるかもしれないからね。表紙を決めて、六月の地獄に入る前に少しでも進めよう」


「地獄という言葉、まだ使うんですか」


「先輩に移された」


陽向が苦笑した。


「早く決めてしまえば、地獄の時間も短くなるだろうし」


「……そう簡単に決まればいいんですが」


私はコーヒーを受け取り、窓際の席に座った。

桃果はネームの最終版を膝の上に置き、篠田先輩は入稿表と広報文案を机の上に並べていた。


「全員、そろったな」


先輩が時計を確認した。


「では始める。今日は表紙を決める。決まらなければ、決まるまでやる」


「……それは、何時までですか?」


私が尋ねると、先輩は腕時計を見た。


「十時までには第一限に行けるようにしろ。決まらなければ、昼休みに続きだ」


桃果が小声で言った。


「御影先輩、講義の教室、遠いですよね。九時五十分には出たほうがいいかも」


「……ええ。覚悟しておきます」


陽向が、壁の前に立った。

そこには、印刷した表紙ラフが三枚、テープで止められていた。


* * *


「まずA案。王道の構成です」


陽向は一枚目を指した。


白を基調とした背景に、猫のような雰囲気の少女と、犬のような少年のシルエットが並んでいる。

顔の細かな表情は描かず、二人の立ち姿と影だけで作品の印象を伝えるデザインだった。


「前作に近いトーンで、シリーズものだとわかりやすい。初めて手に取る人にも、二人の関係が中心の話だと伝わると思う」


篠田先輩が頷いた。


「去年の前作は、これに近い印象だったな。イベントでは一冊だけだったが、表紙が印象的だと手に取ってくれた人も多かった。今回は二冊並べて、背表紙でつながると伝えたい」


「……それを、嬉しいと言わないでください」


「嬉しくはないのか?」


「……売れたのは事実です」


「なら、いいだろう」


先輩はA案の端に付箋を貼った。


私も、もう一度絵を見た。


確かに、安心感はある。

前作と並べたときの統一感も出せるだろう。

シリーズの二冊目として、間違いの少ない選択だと思った。


ただ、今作の特徴が十分に伝わるかと聞かれれば、少し迷う。

陽向は二枚目へ移った。


「B案。中学の文芸部室の窓を中心にした構図。西向きの光が入って、柚のリボンと橙の後ろ姿が見える。今作の舞台そのものを表紙にする案だよ」


窓から差し込む光が、床に長い影を落としている。

柚の姿はほとんど見えず、リボンの形と肩の輪郭だけが描かれていた。

橙は少し離れた場所に立ち、窓のほうを向いている。


目立つ構図ではない。

それでも、光の入り方と二人の距離に、静かな物語があった。


桃果が身を乗り出した。


「私はB案が好きです。橙が待っている感じが出ているので」


「後ろ姿だけで、そこまで伝わるかな?」


陽向が尋ねる。


「伝わると思います。正面を向いていないからこそ、何を考えているのか気になるんです。柚も、まだ表情を見せていないですし」


「なるほど」


私は窓枠の線を見つめた。


この絵には、どこか知っている場所の気配がある。

ただの部室の窓なのに、机の位置や光の角度が、記憶の中にある風景と重なる。

そのことが、少しだけ落ち着かなかった。


陽向は、最後の一枚を指した。


「C案。机の上に原稿用紙と缶コーヒー。画面の端には、二人の手だけを入れる。小道具と距離感で読ませる構図だよ」


こちらはA案やB案に比べて、ぐっと近い。

机の上には書きかけの原稿が積まれ、端にはブラック無糖の缶コーヒーが置かれている。

片方の手は缶に触れ、もう片方は原稿のそばにある。


指先が触れているわけではない。

けれど、あと少しで重なりそうな距離だった。

私は、C案から目を離せなかった。


「……この缶、前作のものと似ていますね」


「同じ銘柄をイメージしてるよ。前作では缶のシルエットが印象に残るようにしたけど、今回は机の上に置いて、原稿と一緒に見せたいと思った」


陽向は構図の一部を指で示した。


「缶だけじゃないんだ。書きかけの原稿があることで、柚がまだ気持ちを整理できていないことも見せられる。二人の手の距離も含めて、話の中心にあるものを一枚にまとめたかった」


「……なるほど」


私は紙の上の手を見た。


どちらの手なのかは、はっきりしない。

柚なのか、橙なのか。

あるいは、二人のどちらでもないのか。

特定しないことで、読む人が物語を想像できるようになっている。

曖昧で、きれいな構図だと思う。


……だからこそ、困る。


篠田先輩が腕を組んだ。


「広報の観点から言うと、Aは内容を説明しやすい。Bは作品の雰囲気が伝わる。Cは目を引くし、話題性もある」


「どれも、良いところがありますね」


桃果が言った。


「私はBが一番好きですけど、Cもいいと思います。缶と原稿があるから、前作とのつながりも見えます」


「そうだな」


先輩が頷いた。


「御影はどうだ?」


私はすぐに答えられなかった。

三枚ともよく考えられている。


A案は、シリーズとしての安心感がある。

B案は、今作の舞台と雰囲気を表せる。

C案は、作品の中心にある小道具と二人の距離が、一目で伝わる。


どれを選んでも、間違いではない。

それでも、C案を見ていると、中学の文芸部室が頭に浮かんだ。


机に向かって原稿を抱えていた自分。

少し離れた机で、何も言わずに待っていた陽向。

書いたものを読まれるのが怖くて、手が震えていることを気づかれたくなかった。

あのころの私は、自分の書いたものを、こんなふうに誰かに見せる日が来るとは思っていなかった。


大学で再会してから一年。

同じ班で、同じ物語を作り、今度はその表紙を決めようとしている。

創作のはずなのに、原型があると言われれば、反論しにくい。


私はC案から視線を上げた。


「……私の黒歴史を、表紙にしないでください」


教室が静かになった。


陽向が振り返る。


「黒歴史?」


「部室です。読み合いをしていたころのこと。手が震えていたり、原稿を隠したり……そういうものを表紙にすると、全部の人に見せることになるので」


「でも、これは創作だよ」


「フィクションでも、原型がいるとあなたが言いましたよね、真壁さん」


陽向はすぐには答えなかった。

一度だけC案へ目を向ける。


「……うん。言ったね」


「でしたら、なおさらです」


私は膝の上で指を組んだ。


「作中の柚と橙を描いているのはわかっています。でも、私にはどうしても、あのころのことが重なって見えるんです」


そこまで言って、私は口を閉じた。


言いすぎただろうか。

作品の表紙を決める会議で、個人的な記憶を持ち出すのは、あまり良いことではないかもしれない。

けれど、言ってしまったものは戻せない。


陽向は少し考えてから答えた。


「わかった。無理にCにするつもりはないよ」


その声にはからかう響きも、残念そうな色もなかった。


「ただ、C案で描きたかったものは、B案にも入れられると思ってる。窓の光とか、二人の距離とか。小道具だけじゃなくて、部室そのものを表紙にできたらいいなと思ったんだ」


「……内側を見せたい、ということですか」


「うん。前作が『向こう』なら、今回は『内側』だから」


その言葉に私はもう一度B案を見た。


前作は、境界線の向こう。

今作は、境界線の内側。


背表紙に並べたとき、二つの言葉が続いて見える。

同じシリーズでありながら、少しずつ視点が変わる。

陽向が表紙に込めようとしているものが、ようやく見え始めた気がした。


桃果が手を挙げた。


「私は、やっぱりB案推しです。窓と橙の後ろ姿。待っている感じが、いちばん自然に出ていると思います」


「C案は?」


篠田先輩が尋ねた。


「缶も好きです。でも、御影先輩が困っているのを見たので、今日は控えます」


「……気を遣わなくても大丈夫ですよ」


「気を遣っているというより、私はBも好きなので」


桃果はそう言って、B案のほうを指した。


「表紙は、読者が最初に見るものですから。私は、今回の物語に入っていく入り口として、B案が一番しっくり来ます」


先輩は少しだけ頷いた。


「では、御影が一番避けたいのはCということだな」


「……はい。Bも、窓だけなら、まだ大丈夫です」


「後ろ姿は?」


「……後ろ姿も、少し気になります」


陽向が小さく笑った。


「顔は出さないよ。後ろ姿だけ」


「後ろ姿も、黒歴史です」


「後ろ姿なら、顔が見えないぶん、想像に任せられると思うけど」


「……それは、読む方に任せてください」


桃果が笑いをこらえながら口を挟んだ。


「じゃあ、柚の顔は出さず、リボンだけ見せるのはどうですか?」


私は少し考えた。


それなら、まだいい。

顔も表情も描かれず、リボンと背中だけが窓の光の中にある。

それなら、作品の舞台を見せながら、人物のことは読者に委ねられる。


「……柚の顔は、出さないでください」


陽向が頷いた。


「わかった。後ろ姿だけにする」


「リボンは、あまり目立たせないでください」


「了解」


「それから……」


「うん?」


「リボンを、少し短くしてください」


陽向は一瞬だけ目を丸くした。


「今のラフ、長い?」


「……長いです」


桃果がB案を覗き込んだ。


「あ、本当ですね。柚のリボン、少し長めだ」


「中学のころは、これくらいだったんですか?」


「……今は、その話はいいです」


桃果は笑いながら、ノートに何かを書き込んだ。

篠田先輩が付箋を一枚取り、B案の下に貼った。


「では、B案で決定。色は来週、校正する。C案は、奥付か広告用の素材として流用できるか検討しよう」


私は、ようやく息を吐いた。


C案は表紙にはならない。

それだけで、胸の奥に少し余裕が生まれた。


陽向がB案の下に前作と並べたモックを置いた。


左側に『境界線の向こうに缶コーヒー』。

右側に『境界線の内側に缶コーヒー』。


背表紙の言葉が、二冊の間でつながっている。


篠田先輩が広報用の文案を読み上げた。


「シリーズ第二弾。中学の文芸部室に戻る別編。前作を読んでいなくても楽しめるが、読むと見え方が変わる」


「……少し説明が長くありませんか?」


「SNS用なら、もう少し短くする」


「でしたら、最初から短いものにしたほうが……」


「詳細は近日公開、で終わらせるか?」


「それは短すぎます」


桃果が吹き出した。


「御影先輩、篠田先輩の広報文に厳しいですね」


「伝えたいことが多いのはわかりますけど、全部書くと、読む前に説明が終わってしまうので」


「なるほど。確かに」


陽向はモックを少しだけ動かし、並び方を確認していた。


「でも、二冊を並べると、いい感じだね」


私は背表紙を見つめた。


向こうと内側。

二つの言葉が、隣り合っている。


今作の表紙はこれで決まった。

そう思うと、ようやく会議が終わった気がした。


……まだ、終わってはいなかったけれど。


* * *


表紙が決まると、陽向はタブレットを手に取り、文字組みの確認を始めた。


「タイトルの『境界線』は少し太くして、『内側』の部分は細めにする。余白を残して、窓枠と競合しないようにしたい」


「……読みやすければいいと思います」


私が言うと陽向は顔を上げた。


「読みやすさはもちろん大事だよ。でも、前作と並べたときの文字のリズムも見たいんだ」


「……デザインの話になると、急に細かくなりますね」


「そうかな」


「そうです」


桃果が頷いた。


「真壁先輩、さっきからタイトルの位置を何回も動かしていますよ」


「ほんの少しだよ」


「その少しで、そんなに変わるんですか?」


「変わる。余白の取り方で、窓の印象も変わるから」


陽向は画面を操作しながら説明した。


タイトルが少し上がると、窓の存在感が強くなる。

逆に下げると、視線が自然に二人の後ろ姿へ流れていく。

言われて見比べると、確かに違っていた。


「……こちらのほうが、落ち着いて見えます」


私が指した案に、陽向が頷いた。


「俺も、こっちがいいと思う」


「では、それで」


「うん」


彼は文字組みを保存し、タブレットを閉じようとした。

そのとき、桃果が身を乗り出した。


「真壁先輩。タブレットの裏から何か見えてますよ。ステッカーですか?」


陽向の手が止まった。


「え?」


「カバーの端です。ちょっと剥がれかけてますよ」


視線がいっせいにタブレットへ集まった。

カバーの端に小さなステッカーが貼られていた。


白い紙に、黒い文字。


『別に、嬉しくない』


私は、一瞬、何を見ているのかわからなかった。


見覚えのある言葉だった。

第三幕の推敲中に、柚の台詞として一度だけ書いたもの。

採用せずに削除した表現だ。

今の台詞より直接的で、柚の口癖に近い言い回しだった。


どうして、それが。


陽向が慌ててカバーを手で押さえた。


「……デザインの参考に」


桃果が目を細めた。


「参考で貼るんですか?」


「色合わせ用に」


「色は黒と白だけですよね?」


「……そういう参考もあるんだよ」


「へえ」


桃果は私と陽向を交互に見た。


「距離感、ステッカーバグですね」


「バグじゃない」


陽向はすぐに言いかけて、私の目を見た。


それから、言葉を止めた。


その沈黙がかえって何かを認めたように聞こえてしまう。


篠田先輩が深いため息をついた。


「真壁。個人の趣味を制作資料に混ぜるな。表紙は決まったんだから、次に進めるぞ」


「……はい」


私はステッカーの文字を見ないように、壁のB案へ目を戻した。


別に、嬉しくない。


そう書いてある。

嬉しくないと、言っている。


それなのに、どうして陽向はその台詞を残しているのだろう。


いや、残しているというより、貼っている。


タブレットのカバーに。

いつも手にするものに。


私は彼の指先を見た。

ステッカーを剥がそうとしたのか、端に触れたまま動かなくなっている。

耳まで赤くなっているのが、こちらからでもわかった。


「……剥がさなくてもいいです」


気づけば、口に出していた。

陽向が顔を上げる。


「え?」


「見ませんから。会議を続けましょう」


「……見ないほうが、つらい気もするけど」


「見ないと言いました」


桃果が小さな声でつぶやいた。


「御影先輩も耳が赤いです」


「……換気します」


私は立ち上がり、窓を開けた。


五月の朝風が教室へ流れ込んでくる。

少し冷たい風だったけれど、頬の熱を冷ますにはちょうどよかった。


篠田先輩が議事録を閉じた。


「そのステッカーの話は記録に残すな。次。奥付の体裁を決めたら解散する」


「はい」


桃果は何か言いたそうな顔をしながらも、ノートに視線を戻した。

陽向は、タブレットのカバーをそっと閉じた。


ステッカーは、見えなくなった。

けれど、ステッカーの文字だけが頭の中に残っていた。


* * *


奥付は前作と同じ『ねこじるし』表記のままだった。

フォントとメンバー名の並びだけを確認し、五分ほどで終わった。


篠田先輩が入稿表を更新し、桃果が修正箇所をまとめる。

ようやく解散かと思ったところで、陽向がネームを一枚取り出した。


「表紙が決まったから、台詞ももう一度だけ読みたいんだけど」


私は思わず顔を上げた。


「……今ですか?」


「うん。表紙と本文の雰囲気がずれていないか、確認したくて」


「それは、明日でもいいのでは……」


「明日だと、ペン入れが進んでるから。今のうちに気づけたら、直しやすいと思う」


正論だった。


私は口を閉じた。


「……わかりました。どこですか?」


陽向は第三幕のページを開いた。


「まず、柚の独白。『あなたの横に、わからないものがある』ってところ」


自分の書いた言葉が、教室の中に落ちた。


私が書いたときには、もっと曖昧なものだった。

柚が自分でも理解できない気持ちを抱え、橙の隣にいながら、その気持ちの正体を見つけられない。

そういう場面として書いた。


陽向はページを見ながら読み上げた。


「あなたの横に、わからないものがある。それでも、缶はもう受け取った」


読み終えたあと、教室が静かになった。

通し読みのときと、少し似ている静けさだった。


けれど、今日は表紙の会議が終わったあとで、皆の気持ちも緩んでいた。

桃果はノートを閉じ、篠田先輩は椅子に深く座り直している。


陽向は一枚ページをめくった。


次の台詞だった。


『俺、柚のことが好きだよ』


ネームの通し読みで、残すと決めた台詞。


その横には、私がつけた小さな丸印がある。


陽向は、今度はゆっくりと読み上げた。


「俺、柚のことが好きだよ」


声が、耳に残った。


私は、原稿の端を指で押さえた。


「……それは、台詞です」


陽向が顔を上げた。


「うん。好きな台詞」


「……」


「紗季が書いた台詞だよ。好きだ」


一瞬、言葉の意味がわからなくなった。


いや、わかっている。


彼は、私が書いた台詞を好きだと言っている。


作品の中の言葉を褒めているだけだ。


それなのに、最後の「好きだ」が、さっきの橙の台詞と重なって聞こえた。


私の防御は、簡単に崩れた。


「……創作です」


「うん。柚の台詞だね」


陽向は頷いた。


「でも、紗季が書いたから、俺の頭の中では紗季の声で再生されるんだよ」


「再生しないでください」


「無理だよ。一度読んだものは、残るから」


桃果がそっとノートを開いた。


私は見ないことにした。

篠田先輩が口を開く前に、私は立ち上がった。

椅子の脚が床を擦り、思ったより大きな音がした。


「……トイレです」


「紗季」


陽向が呼んだ。


「すぐ戻ります」


返事を待たず、私は教室を出た。


逃げた。


猫は逃げるのが上手い。


そう思いながら廊下を歩き、窓のそばで足を止めた。


旧校舎の廊下は、朝の静けさに包まれていた。

遠くの教室から、椅子を動かす音がかすかに聞こえる。

窓の外には、朝日に照らされた並木道が続いていた。


私は窓を少しだけ開けた。


風が頬を冷ます。

B案の表紙が、目の裏に残っていた。


窓から差し込む光。

橙の後ろ姿。

柚のリボン。


角度だけが、私の記憶と一致している。


フィクションだ。


柚だ。


後ろ姿だけなら、許可した。


それでも、二冊並べられたとき、読者は何かを見つけるかもしれない。


前作が完売したあと、シリーズとして並ぶ二冊。

そこに、自分が知っている場所のようなものが描かれている。

もちろん、私が思い出していることまで、読者にわかるはずはない。


それでも、作った本人は知っている。


私が中学の文芸部室で原稿を抱えていたこと。

陽向が隣の机に座っていたこと。

あのころの自分が、誰かに気持ちを知られるのを怖がっていたこと。


そして、今も似たようなことで、返事に困っていること。


「……別に、嬉しくない」


ステッカーの文字が、頭の中でまた浮かんだ。


あれは採用しなかった台詞だ。

柚に書かせたけれど、少し直接的すぎると思って削除した。

その言葉を、陽向はタブレットのカバーに貼っていた。


デザインの参考。

色合わせ。


そう言っていたけれど、黒と白の配色に、あの言葉が必要だったとは思えない。


私は、手すりに指先を置いた。

怒っているのではない。


……たぶん。


ただ、どうしてあの台詞を残していたのか、聞くのが怖かった。

聞いてしまったら、何か答えが返ってくるかもしれない。

その答えを、自分がどう受け止めるのか。


まだ、わからない。


スマートフォンを開きかけて、やめた。

今、陽向にメッセージを送ったら、何か返事をしなければならなくなる。


それが、少しだけ怖かった。


廊下の向こうで、扉が閉まる音がした。

大学の昼前は、すでに人の往来が増え始めている。

どこかの教室には、早い時間から課題に取り組む学生がいるのだろう。


私は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。

ここでいつまでも立ち止まっているわけにはいかない。


会議に戻らなければ。


表紙は、もう決まったのだから。


* * *


教室へ戻ると、B案は壁に貼られたままだった。


陽向はタブレットで修正箇所を確認し、桃果はネームの束を整えている。

篠田先輩は入稿表の最後の欄に日付を書き込んでいた。


誰も私が出ていったことを話題にしなかった。

それがありがたかった。

私は窓際の席に戻り、バッグを椅子の背に掛けた。


「……表紙、B案で決定ですね」


自分で確かめるように言うと、篠田先輩が頷いた。


「そうだ。色校正で最終調整はするが、構図はこれで進める」


「……わかりました」


陽向がこちらを見た。


「ありがとう、紗季」


「お礼を言われる話ではありません。班で決めたことですから」


「うん。そうだね」


彼はそれ以上、何も言わなかった。

その距離が、今は助かった。


篠田先輩が入稿表を畳んだ。


「来月は仕上げの週が続く。今のうちに寝ておけよ。倒れたら作業が止まるからな」


「……はい」


「真壁、表紙の文字組みは明日までに共有しろ。桃果はネームの最終版を整理。御影は、ペン入れが上がったページから台詞と表記を確認してくれ」


「わかりました」


「よし。今日は解散」


四人が、ほぼ同時に返事をした。

桃果はB案の下に小さな付箋を貼った。


『橙、待つ。表紙用』


「……それは何ですか?」


私が尋ねると、桃果は付箋を指で押さえた。


「表紙の方向性を忘れないためのメモです」


「表紙は決まりましたよ」


「はい。でも、ペン入れを進めると、つい表情を変えたくなることもあるので」


「なるほど」


陽向はタブレットのカバーを机の下に伏せた。

ステッカーは、もう見えない。

私は、そちらを見ないふりをした。

できているかどうかは、自信がなかった。


篠田先輩が入稿表をバッグにしまい、桃果はネームの束を胸に抱えた。

陽向は壁のB案を最後にもう一度見て、テープの端を押さえた。


「……お疲れさまでした」


私が言うと、陽向は短く頷いた。


「うん。おつかれ、紗季」


「……御影です。角教室では」


「うん。御影さん」


陽向は笑わなかった。


それが、今は助かった。


* * *


旧校舎を出たのは、九時四十五分ごろだった。


桃果と篠田先輩は制作の話を続けながら別棟へ向かい、陽向はタブレットを抱えて反対方向へ消えていった。

私は一人、第一限の講義室がある新校舎へ走った。


五月の朝日は、すでに肌を照らす角度まで上がっている。

表紙は決まった。それでいい。

胸の奥だけが、まだ角教室の空気を引きずっていた。


* * *


講義室に滑り込んだのは、開始のベルが鳴った直後だった。


教授はスライドをめくり、統計の例題を説明している。

私はノートを開き、ペンを動かした。

手は動く。

頭の半分だけが、別の場所に残っている。


窓際の席で、換気のために開けた窓。

五月の朝風が頬を冷ますはずなのに、耳がまだ熱い。


ステッカーの文字が、頭から離れない。


『別に、嬉しくない』


フィクションの台詞のはずなのに、文字だけが別の意味を持って聞こえる。


陽向の声で読まれた台詞も、残っていた。


『俺、柚のことが好きだよ』


『紗季が書いた台詞だよ。好きだ』


全部、作品の話のはずなのに。

境界線は、思っていたより薄い。


教授が黒板に式を書く。

私は数字を写し、意味を追うふりをした。


廊下で逃げた足音が、まだ耳に残っている。

猫は逃げるのが上手い。

けれど、逃げたあとで戻って、ちゃんと決めることもできる。


私はB案を選んだ。

それは、制作班の一員として出した結論だ。


……そういうことにしておこう。


スマートフォンはポケットの奥にしまったままだ。

開けば、表紙の画像が送られてくるかもしれない。

講義中に返すわけにはいかない。

たとえ連絡が来ても、帰宅してから、落ち着いて仕事の言葉で返せばいい。


第二限まで、同じようにノートの端だけを埋めた。

昼休みは図書館の角でレポートの引用を直し、第三限の講義を終えて、ようやく一日の予定が終わった。


表紙は決まった。

装丁の方向も決まった。

次は六月の仕上げだ。


恋より先に、原稿を完結させたい。

そう言い聞かせながら、胸の奥に残っているのは、会議のあとの静けさだった。


* * *


夕方、改札を抜けてホームへ降りる。


電車が滑り込んできた。

私は空いている席に腰を下ろし、窓の外に街の灯りが点々と続くのを見た。


一駅分だけ、目を閉じた。

考えない練習は、まだ上手くできない。


* * *


マンションに戻るころには、夜も深くなり始めていた。


玄関で靴を脱ぎ、コートを掛ける。

手を洗ってから、リビングの机にペン入れの確認用紙とノートを広げた。


実家から届いていた小豆の写真を、もう一度開いた。

丸くなって眠る猫は、こちらの騒ぎなど知るはずもない。


「……いいですね。平和で」


誰に言うでもなく呟いて、私は写真を閉じた。


猫には、表紙の話はできない。

だから、安心できる。


机の上にB案の印刷物を置き、窓の光の角度をメモする。

柚のリボンを少し短くすること。

顔は見せず、後ろ姿のままにすること。

橙の影を、柚の立つ位置までわずかに伸ばすこと。


どれも、表紙を整えるための修正だ。

黒歴史を全員に見せないため、というのは、あくまで私個人の事情だった。


私は冷蔵庫から缶コーヒーを取り出した。

プルタブを起こし、一口飲む。


苦い。

冷たい。

いつもの味だった。


前作のタイトルが、背表紙で今作と並ぶところを想像した。


『向こう』と『内側』。


二冊を手に取った読者は、何か共通点を見つけるかもしれない。

似ている場面や、同じ言葉。

あるいは、表紙の窓から差し込む光の向き。


けれど、私が思い出しているものまでは、きっとわからない。


後ろ姿だけなら、許可した。


そう自分に言い聞かせて、私はスマートフォンを手に取った。

陽向から個人チャットにメッセージが届いていた。


『B案、決定ありがとう。文字組みを少し調整したら、並べた画像を送るね』


私は返信欄を開き、文字を打った。


『B案、了解です。奥付のレイアウトもよろしくお願いします』


仕事の言葉。

余計なことを言わずに済む言葉。

送信して、画面を伏せた。


数秒だけ、机の上のスマートフォンを見つめていた。

すぐに通知音が鳴った。


『うん。おつかれ、紗季。表紙、並べた写真送るよ』


添付画像を開く。


左側には、前作の表紙。

缶コーヒーと二人の影。


右側には、今作の表紙。

部室の窓と、後ろ姿。


背表紙では、『向こう』と『内側』の言葉が続いて見えた。


私は、画面を拡大した。


窓の光が、思っていたより柔らかく描かれていた。

タイトルの文字も、余白にきれいに収まっている。

確かに二冊で一つのシリーズに見える。


指先が画面の上で止まった。


スタンプ欄を開く。

黒い猫の足跡を選ぶ。


送ろうと思った。


今度は、ちゃんと。


けれど、送信ボタンの手前で、指が止まった。


……やっぱり、無理だ。


私はスタンプを閉じ、代わりに文字を打った。


『窓の光はいいと思います。柚のリボンだけ、少し短くしてください。黒歴史なので』


送信するとすぐに返信が届いた。


『了解。直す。ありがとう、紗季』


私は既読をつけた。

それから、スタンプ欄をもう一度開きかけて、やめた。

猫の足跡は、今日も送れなかった。


机の上には、缶コーヒーと、表紙の印刷物と、ペン入れの確認用紙が並んでいる。


表紙は決まった。

六月の仕上げまで、あと少し。


私はノートを閉じた。


『向こう』と『内側』。

表紙とステッカー。


並べてしまえば、どれもただの作品の一部に見えるのだろう。

それでも、いつかこの二冊を誰かが手に取ったとき、私はどんな顔で見ていればいいのだろう。

考え始めると、答えは出なかった。


だから、考えないことにした。

明日は、ペン入れの確認をする。

今は、それだけでいい。


窓の外には、街の灯りが点々と続いていた。


五月の夜は、まだ長かった。

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