5. ネームの通し読み
篠田先輩が「次はネームの通しだ」と言ってから、二週間が過ぎた。
五月に入った星見学園大学では、並木道の新緑がすっかり濃くなっていた。
日差しは少しずつ強くなり、昼休みの中庭には、木陰を選んで昼食を取る学生たちの姿が増えている。
講義の課題を片づけながら、私は『境界線の内側に缶コーヒー』の台詞を何度も読み返していた。
桃果がネームを描き進めるたび、台詞の位置やコマの順番について相談が届く。
文章だけで読んでいたときには問題がなかった一文も、絵と並ぶと妙に長く感じることがあった。
逆に削ってしまおうと思っていた台詞が、絵の中では必要な言葉に見えることもある。
書いたものが、少しずつ漫画の形になっていく。
それは楽しみだった。
ただし、恋愛パートだけは別だった。
そこに差しかかると、赤ペンの使用量が目に見えて増える。
台詞を一つ削っては、やっぱり戻す。
語尾を変えては、元の表現に戻す。
吹き出しの中で言葉が詰まって見えないか、コマをまたいだときに余計な意味が生まれないか。
確認しているうちに、自分が何を気にしているのかわからなくなることもあった。
今日はいよいよ、三十六ページすべてを通して読む日だ。
昨日の夜、桃果から制作班のグループチャットにメッセージが届いた。
『ネーム、最後までつながりました! 明日は最初から最後までよろしくお願いします!』
そのあとに、完成した三十六ページを並べた画像が添付されていた。
私は布団に入ってからも、何度かその画像を見返した。
柚と橙が、私の頭の中にいたときとは違う姿で動いている。
ページをめくるたびに表情が変わり、何も言わないコマにも意味が生まれていた。
うまくいっている。
そう思う一方で、まだ読んでいない最後の場面が気になって仕方がなかった。
今さら台詞を大きく直すことになったらどうしよう。
そんな心配をしても、今日読まなければ先には進めない。
私はノートを閉じ、バッグに赤ペンを入れた。
* * *
土曜日の午前九時半。
旧校舎の角教室に入ると、窓際の机いっぱいにネーム用紙が広げられていた。
三十六ページ。
番号順に並べられた紙の端には、修正用の付箋がいくつも貼られている。
端の一枚が空調の風で浮き上がり、桃果が慌てて押さえた。
「おはようございます、御影先輩!」
「おはようございます。一ノ瀬さん。……本当に全部できたんですね」
「はい! 最後のページまで、ちゃんとあります!」
「最後まで描けているのは、昨日も画像で確認しました」
「そうなんですけど、紙で並べると違うんですよ。ほら、これだけあるんです!」
桃果は両手を広げた。
机の上のネームは、確かに壮観だった。
「全部つながった瞬間、ちょっと感動しました。ここまで来たんだなって」
「お疲れさまでした」
「ありがとうございます。でも、今日の反応を見るまでは安心できません」
「そんなに身構えなくても大丈夫ですよ。気になるところがあれば、一緒に直しましょう」
「……その言葉、御影先輩が言うと安心するような、怖いような」
「どういう意味ですか?」
「赤ペンを持っているからです」
桃果の視線が、私の手元へ落ちた。
私はバッグから取り出したばかりの赤ペンを見た。
「これは必要なものです」
「はい。知っています」
「使うのも、仕事ですから」
「はい」
「……何ですか、その返事は」
「いえ。今日、何本使うことになるのかなと思って」
「一本です」
「一本で足りますか?」
「足りるようにします」
桃果は笑いをこらえながら、ネームの束を揃え直した。
教室の前方では、陽向がタブレットを開いていた。
隣には表紙のラフと、入稿までのスケジュール表が置かれている。
私に気づくと、彼は顔を上げた。
「紗季、おはよう」
「……おはようございます、真壁さん」
「ネーム、全部そろったよ。桃果、昨日かなり頑張ってたから」
「真壁先輩も、最後のページまで確認してくれましたよね」
「うん。気になるところは、いくつかメモしてある」
桃果は少しだけ警戒するように目を細めた。
「それって……赤ペンが必要なやつですか?」
「絵のほう。台詞は紗季に任せてるから」
「なるほど。じゃあ、私のネームが危ないわけじゃないんですね」
「いや、絵も直すところはあるよ」
「安心させてください!」
陽向が声を立てて笑った。
私はネームの束を一枚手に取り、最初のページを確認した。
見慣れた文芸部室の風景。
窓際の机と、積み重なった原稿用紙。
柚は椅子に座り、橙は少し離れたところに腰かけている。
自分の書いた舞台指示が、絵の中に収まっていた。
「……いいですね」
思わず口にすると、桃果がこちらを振り向いた。
「本当ですか?」
「はい。思っていたより、部室が広く見えます」
「よかった。狭くすると、二人の距離が近すぎるかなと思って」
隣で陽向が頷いた。
「そこは俺も気になった。最初のラフだと、机が近かったから」
「そうなんです。二人とも、まだ普通に隣にいるだけなので」
「……普通に隣にいるだけ、ですか」
私が繰り返すと、桃果はきょとんとした顔をした。
「はい。まだ何も始まっていないので」
「そうですね。まだ、何も」
「……御影先輩?」
「何でもありません。今日の確認を始めましょう」
私はネームを机に置き、赤ペンのキャップを外した。
篠田先輩がちょうど教室へ入ってきたところだった。
「よし。全員いるな。今日は三十六ページ、最初から最後まで通す。途中で気づいたことは遠慮なく止めてくれ。ただし、直すところと好みの問題は分けるように」
「はい」
「ネームが通ったら、次はペン入れだ。今日中に大枠を確定させるぞ」
先輩は壁の時計を確認し、机の上の資料を揃えた。
「読み上げは御影。台詞を書いた本人が読むのが一番わかりやすいだろう」
「……わかりました」
「作画は真壁。ネームの修正は一ノ瀬。俺は全体を見て、必要なら止める」
役割が決まると、桃果はノートを開き、陽向はタブレットの画面をネームの一ページ目に合わせた。
私は赤ペンを置き、原稿を手元に引き寄せる。
今日の仕事は、書いた台詞が漫画の中でちゃんと生きているかを確かめることだ。
それだけ。
余計なことは考えず、一ページ目から読めばいい。
「では、始めます」
私は一度息を整えた。
「第一幕、第一場。文芸部室――」
* * *
最初の数ページは、順調に進んだ。
部室に入ってくる柚。
机の上に原稿を置く橙。柚が書きかけの小説を隠そうとし、橙が気づかないふりをする場面。
絵がつくと、台詞の意味がはっきりする。
「……別に、読まなくてもいいです」
柚の台詞を読んだところで、陽向がタブレットから顔を上げた。
「この台詞、いいな」
「……どのあたりがですか?」
「読まなくてもいいって言いながら、原稿を隠しきれてないところ。柚っぽい」
桃果も頷いた。
「手で隠しているのに、橙のほうから見えるんですよね。読んでほしくないのか、読んでほしいのか」
「読んでほしくないんです」
私が即答すると、陽向が笑った。
「そうなの?」
「そうです。柚は、まだ見せたくないんですから」
「でも、橙が読んでくれたら、ちょっと嬉しいんじゃないかな」
「……それは、キャラクターの解釈の問題です」
「うん。だから、そういう解釈もあるかなって」
穏やかな口調で返されてしまい、私はそれ以上言い返せなかった。
篠田先輩が、机を指で軽く叩いた。
「二人とも、話を広げすぎるな。今の台詞に修正はあるのか?」
「……ありません」
「俺もない」
「なら次」
先輩の声に促され、私はページをめくった。
その後も、部室の場面は大きな問題なく進んだ。
舞台の説明を一つ短くし、橙が原稿を拾う動作を一コマ増やす。
桃果が絵の修正案を出し、陽向が構図を確認する。
私は赤ペンで小さく印をつけていった。
ここはそのまま。
ここの語尾は変更。
この一文は削る。
文章だけで書いていたころとは違い、漫画の台詞は絵と一緒に読まれる。
少し言葉を減らしたほうが、表情が伝わる場面もあった。
順調だった。
問題が起きたのは、第一幕の終盤に差しかかったころだった。
「……別に、待っていたわけじゃありません」
読み終えたところで、私は赤ペンを止めた。
「ここは、少し間が欲しいです」
桃果がネームを覗き込む。
「台詞の前ですか?」
「はい。橙が部室に戻ってきたことに気づいてから、柚が返事をするまで。今のままだと、気づいた瞬間に喋っているので」
「一コマ足す感じですかね。柚が原稿から目を上げるところを挟むとか」
「そうですね。目を上げて、すぐに逸らすくらいで」
陽向がタブレットにメモを取った。
「了解。視線を上げるコマを一つ追加する」
「お願いします」
「……紗季、こういう間は好きだよね」
「必要だから入れているんです」
「うん。わかってる」
陽向はいつもの調子で笑った。
「でも、間を入れると、台詞が少し甘く見えることもあるよね」
「……それが問題なんです」
「問題?」
「読んでいる人に、必要以上の意味を持たせたくないので」
言ってから、しまったと思った。
陽向がこちらを見た。
「必要以上、か」
「作品の話です」
「うん。作品の話だね」
あっさり頷かれると、かえって困る。
私は赤ペンを持ち直し、ネームに視線を戻した。
「次に進みます」
桃果が何かを言いたそうに口元を緩めた。
けれど、今回は何も言わなかった。
* * *
第二幕に入ると、修正箇所が一気に増えた。
文化祭当日の廊下。
行き交う生徒たち。
柚が橙の腕についたリストバンドに気づき、隣にいる女子生徒と同じ色だと知る場面。
ここは、表情の変化が重要だった。
柚が驚く。
少しだけ立ち止まる。
それから、何もなかったように歩き出す。
桃果のネームには、その三つの動きが丁寧に描かれていた。
「ここの表情、いいと思います」
私が言うと、桃果が嬉しそうに顔を上げた。
「本当ですか?」
「はい。驚いているのに、何も聞かないところが伝わります」
「柚って、聞けばいいのに聞かないんですよね」
「聞けないんです」
「どうしてですか?」
「……それは、柚が自分で考えるべきことなので」
「なるほど。御影先輩は、厳しいですね」
「そうでしょうか」
「でも、そういうところが好きです」
桃果はそう言って、ネームに目を戻した。
私は返事をせず、次の台詞を確認した。
『別に、気にしていません』
赤ペンの先が止まる。
「……ここ、少し変えます」
「えっ、今の台詞ですか?」
桃果が顔を上げた。
「はい。もう一度『別に』と言わせると、似た言い回しが続きすぎるので」
「でも、柚らしくないですか?」
「らしいからといって、何度も使えばいいわけではありません」
「なるほど……」
桃果がノートに何かを書き留める。
陽向はネームを見ながら、少し首を傾げた。
「でも、柚って、困るとすぐ『別に』って言うよね」
「……それは、知っています」
「三回くらいあってもいいんじゃない?」
私はゆっくりと顔を上げた。
「真壁さん」
「はい」
「今、二回目です」
「何が?」
「『別に』です。柚が言う回数ではなく、真壁さんが増やそうとした回数です」
桃果が吹き出した。
篠田先輩は、資料から目を上げずに言った。
「真壁。台詞は増やせばいいってものじゃない」
「はい……」
「御影。回数を数えるのはいいが、数えること自体が目的にならないようにな」
「……はい」
私は赤ペンを紙の上に置いた。
「ただし、柚の『別に』は三回までです」
「三回まではいいんだ」
陽向が笑う。
「必要なところだけです」
「わかった。じゃあ、三回目は大事に使わないと」
「そういう言い方をしないでください」
「どういう言い方?」
「……そのままの意味です」
桃果は笑いをこらえながら、ノートに何かを書き足していた。
「一ノ瀬さん。今、何を書いたんですか?」
「『別に』は三回まで」
「それは議事録に必要ありません」
「でも、今日一番大事なルールかもしれませんよ」
「違います」
「そうですか?」
「そうです」
篠田先輩がとうとう顔を上げた。
「会議を進めろ」
「はい」
三人の返事が重なった。
私は咳払いをしてから、改めて台詞を読み始めた。
「……別に、誰と一緒にいたって、私には関係ありません」
読んだあと、教室が少し静かになった。
桃果がネームをじっと見つめている。
「……ここは、残していいと思います」
「一ノ瀬さん?」
「三回目だから、という意味じゃなくて。柚が本当に言いたいことと、口に出していることが違うのが、よくわかるので」
私は、もう一度そのコマを見た。
視線を逸らした柚の横顔。
手元の原稿用紙が、少しだけ歪んでいる。
「……そうですね」
赤ペンで削除しかけた台詞に、私は小さく丸をつけた。
陽向が頷いた。
「うん。ここは、このままにしよう」
「……真壁さんも、そう思いますか」
「思うよ。柚が言わないことまで、ちゃんと見えるから」
そう言ってから、陽向はふと私のほうを向いた。
「紗季が書いた台詞だよ」
「……キャラです」
答えるまで、ほとんど間はなかった。
「うん。柚の台詞」
「そうです」
「わかってるよ」
陽向は笑いながら、タブレットに修正なしと入力した。
私は赤ペンのキャップを強く押し込んだ。
まったく。
どうしてこの人は、こういうときだけ返事が早いのだろう。
* * *
昼休みを挟み、午後からは第三幕の確認に入った。
柚が橙の気持ちを知ろうとして、結局、聞けないまま部室へ戻るところから始まる。
二人の間にあるのは、机一つ分の距離。
けれど、ページを追うにつれて、その距離は少しずつ変わっていく。
橙が柚の原稿を拾う。
柚が礼を言いかけて、やめる。
橙は何も言わず、隣の椅子を引く。
台詞が少ないぶん、絵で伝えなければならないことが多い場面だった。
「このページ、吹き出しが少ないですね」
桃果が言った。
「はい。ここは、あまり言葉を増やさないほうがいいと思います」
「でも、柚は何か言いたそうなんですよね」
「言いたいことが、まだ自分でもわかっていないので」
「……難しいなあ」
桃果は鉛筆を回しながら、ネームを見つめた。
「台詞がないと、何も起きていないようにも見えるし。増やすと、柚が全部説明しちゃうし」
「だから、表情と間で見せるんだろ」
陽向が言った。
「橙がすぐ隣に座るんじゃなくて、一度、柚の様子を見る。柚が席を立たなかったら、隣に座る。そういう動きがあるといいと思う」
「なるほど。先に聞かずに、様子を見るんですね」
「うん。柚が嫌なら、離れられる距離は残しておきたい」
私は思わず顔を上げた。
陽向は、画面に目を向けたまま話を続けている。
「そのほうが、橙らしいと思うから」
「……いいと思います」
私は原稿の余白に、台詞の追加ではなく動作の修正と書き込んだ。
桃果はそれを見て、納得したように頷く。
「じゃあ、台詞は増やさずに、橙が一度だけ柚を見るコマを入れます」
「お願いします」
そこまでは、落ち着いていた。
問題のページに差しかかるまでは。
「第三幕、後半。柚が原稿を閉じる。橙は、しばらくその様子を見てから――」
私はページをめくった。
そこには、橙が柚をまっすぐ見つめるコマが描かれていた。
いつもの、少し人懐こい笑顔ではない。
ふざけてもいないし、からかってもいない。
柚が目を逸らすより先に、橙が口を開いている。
台詞は、短かった。
『俺、柚のことが好きだよ』
……。
私は、紙の上に視線を落としたまま、次の言葉を探した。
原稿にはそのあとに続く説明も、柚の心情を補う独白もない。
ただ、橙の台詞が一つ。
そして、その言葉を聞いた柚の顔が、次のコマに描かれている。
「……橙の台詞、です」
自分でも妙な読み方だと思った。
けれど、読み直す以外に方法はない。
「俺、柚のことが好きだよ」
今度は、最後まで読めた。
教室が静かになった。
さっきまで机を叩いていた篠田先輩の指が止まり、桃果はノートに向けていた鉛筆を持ったまま、ネームを見つめている。
陽向も、何も言わなかった。
窓の外から、運動部の掛け声が遠く聞こえた。
私は咳払いをした。
「……この台詞について、修正はありますか?」
篠田先輩がようやく口を開いた。
「いや。ない」
「……一ノ瀬さんは?」
「ないです」
桃果の声は、いつもより少し小さかった。
私は陽向を見た。
「真壁さんは、どうですか」
彼はネームの一コマを見つめたまま、ゆっくりと顔を上げた。
「このままでいいと思う」
「……そうですか」
「うん。ここは、まっすぐ言ってほしいから」
陽向は画面の端を指で示した。
「橙は、ここまでずっと待っていたんだろ? 柚が何を言うか考える時間も、どうしたいのか決める時間も。だけど、好きだっていう気持ちまで曖昧にしたら、橙じゃなくなると思う」
「……なるほど」
「台詞が短いから、余計なことを足さないほうがいい。絵にも、ちゃんと間があるし」
私は、もう一度そのコマを見た。
短い台詞。
まっすぐな視線。
そのあとに続く、言葉のない一コマ。
私は赤ペンで、台詞の横に小さく丸をつけた。
「……ここは、残します」
「うん」
陽向が頷いた。
その声が、いつもと同じだったことに、私は少しだけ安心した。
――安心した、はずだった。
「じゃあ、このコマなんだけど」
陽向が椅子から立ち上がり、私のほうへ回ってきた。
「橙の目線、もう少し下げるか迷ってるんだ。今のままだと柚と目が合うまでが早い気がして」
「……そうですね。柚が顔を上げるまで、もう一拍あってもいいと思います」
「だよね。どこを直せば自然かな」
彼は私の肩越しにネームを覗き込んだ。
「このコマの次に、柚の手を入れてみようかと思うんだけど」
近い。
思っていたより、ずっと近かった。
陽向の声が、すぐ耳のそばから聞こえる。
タブレットを持った彼の腕が視界の端に入り、肩に触れそうなところまで顔が寄っていた。
ネームを見るためだ。
わかっている。
構図を確認するために、私の手元を覗き込んでいるだけ。
わかっているのに。
「近い!」
声が教室に響いた。
陽向がぴたりと動きを止めた。
桃果が顔を上げる。
篠田先輩までこちらを見た。
一瞬、誰も何も言わなかった。
「……あ」
私は自分の声の大きさに気づいた。
「その……ネームが、見づらいので」
陽向はゆっくりと身体を離した。
「ごめん。見えにくかった?」
「いえ。そういうことではなくて……」
「じゃあ、こっちから見るね」
彼は私の隣の椅子を回し、机の向かい側へ移動した。
あまりにも素直に離れてしまったので、私はかえって言葉に詰まった。
「……ありがとうございます」
「うん。これなら見えるね」
陽向は何事もなかったようにネームを指さした。
「さっきのところ、ここに柚の手を入れたらどうかな」
「……いいと思います」
私もネームへ視線を戻した。
戻したのに、ページの上の文字がうまく頭に入ってこない。
桃果がそっと手を挙げた。
「……あの」
「はい。一ノ瀬さん」
「今の『近い』って、ネームの台詞じゃないですよね?」
「違います」
返事が早すぎた。
桃果は口元を押さえた。
「すみません。確認です」
「確認しなくていいです」
「はい……」
「笑っているじゃないですか」
「だって……」
桃果は一度うつむき、肩を震わせた。
「だって、さっきまで『橙の好きだよ』って台詞を読んでいたのに、その直後に真壁先輩が肩越しに覗き込んで、御影先輩が『近い』って……」
「一ノ瀬さん」
「はい」
「そこを並べて考えないでください」
「……もう並べちゃいました」
篠田先輩が大きく息を吐いた。
「お前たち。ここは制作会議だぞ」
「すみません……」
私と桃果が同時に謝った。
陽向だけが困ったように笑っている。
「俺もごめん、紗季。次から気をつけるよ」
「……いえ。私も、急に大きな声を出してすみませんでした」
「大丈夫。びっくりしただけだから」
陽向はそう言って、ネームの続きを開いた。
その声にからかうような響きはなかった。
だからこそ、私は余計に困った。
本当に悪気がなかったのだ。
ただ、近くでネームを見ようとしただけ。
それなのに、さっきの一言が自分の中で何度も繰り返されていた。
近い。
まったく、何が近いというのだろう。
距離だけの話なら、机を挟んで座っていれば十分なはずなのに。
「……次のページに進みましょう」
私は赤ペンで机を軽く叩いた。
桃果がようやく笑いを収める。
「はい。次、いきましょう」
* * *
その後も、ネームの確認は続いた。
柚は橙の言葉を聞いて、すぐに返事をしない。
一度は視線を逸らし、口を開きかけて、閉じる。
それから、ほんの少しだけ橙のほうを見る。
私は、その一連の動作を確認しながら台詞を読み進めた。
言葉は短い。
けれど、その間にあるものは多かった。
「……ここ、台詞を削ってもいいかもしれません」
私は赤ペンを持ち上げた。
「えっ、ここですか?」
桃果が身を乗り出す。
「はい。柚が『そういうところ、ずるいです』と言ったあとに、橙が説明を足していますよね。ここは、なくても伝わると思います」
陽向がネームを確認した。
「確かに。橙が言い返すより、少し困った顔をしているほうがいいかも」
「そうですね。柚も、それ以上は聞けないので」
桃果は何度かコマを見比べてから、頷いた。
「……じゃあ、台詞をなくして、その分、表情を描きます」
「お願いします」
私は赤ペンで削除の印をつけた。
三十六ページのうち、恋愛の場面だけは赤い線が目立っていた。
台詞が長い。
間が足りない。
視線が早い。
言葉が多い。
もっと削る。
少し待つ。
言い切らない。
自分で書いた台詞なのに、直すところはいくらでも見つかった。
「御影先輩」
桃果がふと顔を上げた。
「はい?」
「恋愛シーンになると、急に赤ペンが増えますね」
「……そうですか?」
「はい。さっきの部室の場面は、ほとんど印がなかったのに」
「恋愛シーンは、台詞だけで説明しようとすると、くどくなりやすいので」
「なるほど」
桃果は真面目な顔で頷いた。
「じゃあ、御影先輩は、恋愛シーンが苦手なんですか?」
「……苦手というわけではありません」
「得意でもない?」
「一ノ瀬さん」
「すみません」
桃果は謝りながらも、目を輝かせていた。
「でも、先輩の書く恋愛シーン、好きですよ。言葉にしていないところが、すごく気になります」
「気になる、というのは?」
「柚が本当は何を言いたいのかとか、橙がどこまで気づいているのかとか。読む側が考えられる余地があるので」
私は少しだけ手を止めた。
自分では言葉を削りすぎていると思うこともある。
何も書いていない場所に、読者が何かを見つけてくれるのだろうか。
「……ありがとうございます」
「いえ。だから、赤ペンで全部直しちゃわないでくださいね」
「必要なところは直します」
「そこは譲らないんですね」
「仕事ですから」
陽向が隣の席から口を挟んだ。
「紗季は、一度気になり始めると、とことん直すからね」
「真壁さんは、黙っていてください」
「はい」
返事だけは素直だった。
桃果がまた笑いをこらえている。
「……何ですか」
「いえ」
「何かありますよね?」
桃果はしばらく考えてから言った。
「これ、先輩たちの日記みたいですよね?」
一瞬、意味がわからなかった。
「……はい?」
「だって、柚は気になることがあっても『別に』って言うし、橙は相手が困らない距離で待っているし。近づきすぎると、柚が怒るし」
「……それは、作品の設定です」
「もちろんです」
桃果は素直に頷いた。
「でも、さっきの『近い』は、すごく自然でした」
「一ノ瀬さん」
「はい」
「そこは忘れてください」
「難しいです」
「忘れてください」
「努力します」
陽向が横で小さく笑った。
私はそちらを見た。
「真壁さんも、笑わないでください」
「ごめん。でも、確かに柚らしかったから」
「……キャラクターの話ですか?」
「うん。柚の話」
いつもの返事だった。
それなのに、今日はなぜか、いつも以上に返す言葉が見つからなかった。
篠田先輩がネームを束ねて机の上に置いた。
「一ノ瀬。観察記録は後にしろ。御影、次の台詞を」
「……はい」
私は原稿に目を落とした。
その先のページには、柚が橙の隣に座る場面が描かれていた。
二人の間には、まだ少しだけ隙間がある。
けれど、柚はもう席を立とうとはしていなかった。
私は、そのコマの横に書き込んだ。
『ここは、このまま』
* * *
すべてのページを読み終えたころには、窓の外の光が傾き始めていた。
机の上には修正用の付箋と赤ペンの印が並んでいる。
ネームそのものを大きく変更する箇所は、ほとんどなかった。
台詞の長さやコマの間を調整すれば、予定していたページ数の中で収まりそうだった。
桃果は修正箇所をノートにまとめている。
陽向は作画で直す部分をタブレットに入力していた。
篠田先輩が全ページを確認してから口を開いた。
「よし。大きな問題はないな」
桃果が顔を上げた。
「……ということは?」
「ネームは確定でいい。今日出た修正だけ反映して、最終版を共有してくれ」
「やった……!」
桃果が小さく拳を握った。
「本当に、ここまで来たんですね」
「まだペン入れがあるぞ」
篠田先輩が言う。
「仕上げも、装丁も、入稿もある。完成した気になるのは早い」
「わかってます。でも、今日は喜んでもいいですよね?」
「それくらいは許す」
「やった!」
桃果は今度は両手を握りしめた。
陽向も少し嬉しそうに笑っていた。
「三十六ページ、形になったね」
「はい。真壁先輩の作画も、楽しみにしています」
「期待に応えられるように頑張るよ」
「……その前に、表紙もお願いします」
私が言うと、陽向は少しだけ困った顔をした。
「わかってる。そっちも進めてるよ」
「進めているだけでは困ります」
「はい。入稿係、頑張ります」
「入稿係の前に、作画担当です」
「そうだった」
陽向が笑うと、桃果もつられて笑った。
篠田先輩はスケジュール表に日付を書き込み、私たちを見渡した。
「次からはペン入れの工程に入る。御影は、線画が上がってきたページから台詞と表記を確認してくれ。吹き出しの位置も含めて、最終校正を頼む」
「はい」
「一ノ瀬はネームの最終データをまとめて、修正点を真壁に渡す。真壁は作画と装丁を進める。俺は全体の進行と広報だ」
一つずつ、次の仕事が決まっていく。
ネームを描き始めたころは、三十六ページが完成する日など、ずっと先のことのように思えていた。
それが今、机の上に並んでいる。
まだ線はラフのままだし、背景も描き込みきれていない。
吹き出しの位置も、表情の細かな部分も、これから修正していくことになる。
それでも、物語の形はできた。
「……これで、台詞は確定ですね」
私はネームの束に視線を落とした。
「そうだな」と篠田先輩が頷いた。「変更が必要になったら相談してくれ。ただし、理由のない書き直しはなしだ」
「理由はあります」
「その理由が、後から増えないようにな」
「……気をつけます」
陽向が私の手元の赤ペンを指さした。
「今日、一番赤くなったの、やっぱり第三幕だったね」
「……必要な修正です」
「うん。わかってる」
彼はネームの最後のページを手に取った。
橙が柚を見つめ、柚が返事を探している場面。
その次のコマには、二人が並んで座っている姿が描かれている。
「俺、この終わり方好きだな」
陽向が言った。
「大きなことが起きたわけじゃないのに、二人の距離が少し変わっている感じがする」
「……そうですね」
「紗季が台詞を抑えてくれたからだと思う」
「桃果さんのネームがあるからです。絵がなければ、あの間は作れませんでした」
「うん。桃果のネームもいいし、紗季の台詞もいい」
陽向は当たり前のことのように言った。
私は返事をする代わりに、赤ペンのキャップを閉めた。
さっきまで、赤い印で埋まっているページばかり気になっていた。
けれど、最後の一コマには、何も書き込まれていない。
柚と橙が、ただ隣に座っている。
まだ、答えは出ていない。
それでも、物語はそこで終わっている。
「……では、修正を反映したら共有します」
私はネームの束を整えた。
桃果が最後のページを大切そうにしまいながら言った。
「次は、線が入るんですね」
「そうだな」と陽向が答えた。「ここからは、俺の仕事だ」
「よろしくお願いします、真壁さん」
「任せて、紗季」
その呼び方に何か言おうとして、私はやめた。
今は、制作の話をしている。
彼が私をどう呼ぶかも、私が何を思ったかも原稿には関係がない。
……本当に、そうだろうか。
考えかけたところで、篠田先輩が手を叩いた。
「よし、今日はここまで。次回からペン入れに入るぞ」
「はい」
私たちは、そろって返事をした。
机の上のネームは、もうただの下書きではなかった。
これから陽向の線が加わり、桃果の描いたコマが整い、私の台詞が一つずつ吹き出しに収まっていく。
その先にあるものを、私はまだうまく想像できない。
ただ、今日の通し読みで、ひとつだけわかったことがある。
台詞に間がないと、気持ちが伝わらないことがある。
言葉を重ねすぎると、本当に言いたいことが見えなくなることもある。
そして、ときどき。
書いた本人が、いちばん返事に困る台詞もある。
私は赤ペンをバッグにしまい、ネームの束をもう一度だけ見た。
『俺、柚のことが好きだよ』
その台詞の横には、小さな丸がついている。
直すための印ではない。
このまま残す、という印だった。
「……次は、ペン入れですね」
自分に言い聞かせるように呟く。
「うん。楽しみだね」
隣で陽向が答えた。
私は今度は何も言い返さなかった。
ネームは確定した。
次は、線を入れる番だ。




