↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
御影さんの境界線の内側で  作者: 椎名弥生


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/12

5. ネームの通し読み

篠田先輩が「次はネームの通しだ」と言ってから、二週間が過ぎた。


五月に入った星見学園大学では、並木道の新緑がすっかり濃くなっていた。

日差しは少しずつ強くなり、昼休みの中庭には、木陰を選んで昼食を取る学生たちの姿が増えている。


講義の課題を片づけながら、私は『境界線の内側に缶コーヒー』の台詞を何度も読み返していた。


桃果がネームを描き進めるたび、台詞の位置やコマの順番について相談が届く。

文章だけで読んでいたときには問題がなかった一文も、絵と並ぶと妙に長く感じることがあった。

逆に削ってしまおうと思っていた台詞が、絵の中では必要な言葉に見えることもある。

書いたものが、少しずつ漫画の形になっていく。

それは楽しみだった。


ただし、恋愛パートだけは別だった。


そこに差しかかると、赤ペンの使用量が目に見えて増える。

台詞を一つ削っては、やっぱり戻す。

語尾を変えては、元の表現に戻す。

吹き出しの中で言葉が詰まって見えないか、コマをまたいだときに余計な意味が生まれないか。

確認しているうちに、自分が何を気にしているのかわからなくなることもあった。


今日はいよいよ、三十六ページすべてを通して読む日だ。

昨日の夜、桃果から制作班のグループチャットにメッセージが届いた。


『ネーム、最後までつながりました! 明日は最初から最後までよろしくお願いします!』


そのあとに、完成した三十六ページを並べた画像が添付されていた。

私は布団に入ってからも、何度かその画像を見返した。


柚と橙が、私の頭の中にいたときとは違う姿で動いている。

ページをめくるたびに表情が変わり、何も言わないコマにも意味が生まれていた。


うまくいっている。


そう思う一方で、まだ読んでいない最後の場面が気になって仕方がなかった。

今さら台詞を大きく直すことになったらどうしよう。

そんな心配をしても、今日読まなければ先には進めない。


私はノートを閉じ、バッグに赤ペンを入れた。


* * *


土曜日の午前九時半。


旧校舎の角教室に入ると、窓際の机いっぱいにネーム用紙が広げられていた。


三十六ページ。

番号順に並べられた紙の端には、修正用の付箋がいくつも貼られている。

端の一枚が空調の風で浮き上がり、桃果が慌てて押さえた。


「おはようございます、御影先輩!」


「おはようございます。一ノ瀬さん。……本当に全部できたんですね」


「はい! 最後のページまで、ちゃんとあります!」


「最後まで描けているのは、昨日も画像で確認しました」


「そうなんですけど、紙で並べると違うんですよ。ほら、これだけあるんです!」


桃果は両手を広げた。

机の上のネームは、確かに壮観だった。


「全部つながった瞬間、ちょっと感動しました。ここまで来たんだなって」


「お疲れさまでした」


「ありがとうございます。でも、今日の反応を見るまでは安心できません」


「そんなに身構えなくても大丈夫ですよ。気になるところがあれば、一緒に直しましょう」


「……その言葉、御影先輩が言うと安心するような、怖いような」


「どういう意味ですか?」


「赤ペンを持っているからです」


桃果の視線が、私の手元へ落ちた。

私はバッグから取り出したばかりの赤ペンを見た。


「これは必要なものです」


「はい。知っています」


「使うのも、仕事ですから」


「はい」


「……何ですか、その返事は」


「いえ。今日、何本使うことになるのかなと思って」


「一本です」


「一本で足りますか?」


「足りるようにします」


桃果は笑いをこらえながら、ネームの束を揃え直した。


教室の前方では、陽向がタブレットを開いていた。

隣には表紙のラフと、入稿までのスケジュール表が置かれている。

私に気づくと、彼は顔を上げた。


「紗季、おはよう」


「……おはようございます、真壁さん」


「ネーム、全部そろったよ。桃果、昨日かなり頑張ってたから」


「真壁先輩も、最後のページまで確認してくれましたよね」


「うん。気になるところは、いくつかメモしてある」


桃果は少しだけ警戒するように目を細めた。


「それって……赤ペンが必要なやつですか?」


「絵のほう。台詞は紗季に任せてるから」


「なるほど。じゃあ、私のネームが危ないわけじゃないんですね」


「いや、絵も直すところはあるよ」


「安心させてください!」


陽向が声を立てて笑った。


私はネームの束を一枚手に取り、最初のページを確認した。


見慣れた文芸部室の風景。

窓際の机と、積み重なった原稿用紙。

柚は椅子に座り、橙は少し離れたところに腰かけている。


自分の書いた舞台指示が、絵の中に収まっていた。


「……いいですね」


思わず口にすると、桃果がこちらを振り向いた。


「本当ですか?」


「はい。思っていたより、部室が広く見えます」


「よかった。狭くすると、二人の距離が近すぎるかなと思って」


隣で陽向が頷いた。


「そこは俺も気になった。最初のラフだと、机が近かったから」


「そうなんです。二人とも、まだ普通に隣にいるだけなので」


「……普通に隣にいるだけ、ですか」


私が繰り返すと、桃果はきょとんとした顔をした。


「はい。まだ何も始まっていないので」


「そうですね。まだ、何も」


「……御影先輩?」


「何でもありません。今日の確認を始めましょう」


私はネームを机に置き、赤ペンのキャップを外した。

篠田先輩がちょうど教室へ入ってきたところだった。


「よし。全員いるな。今日は三十六ページ、最初から最後まで通す。途中で気づいたことは遠慮なく止めてくれ。ただし、直すところと好みの問題は分けるように」


「はい」


「ネームが通ったら、次はペン入れだ。今日中に大枠を確定させるぞ」


先輩は壁の時計を確認し、机の上の資料を揃えた。


「読み上げは御影。台詞を書いた本人が読むのが一番わかりやすいだろう」


「……わかりました」


「作画は真壁。ネームの修正は一ノ瀬。俺は全体を見て、必要なら止める」


役割が決まると、桃果はノートを開き、陽向はタブレットの画面をネームの一ページ目に合わせた。


私は赤ペンを置き、原稿を手元に引き寄せる。

今日の仕事は、書いた台詞が漫画の中でちゃんと生きているかを確かめることだ。

それだけ。

余計なことは考えず、一ページ目から読めばいい。


「では、始めます」


私は一度息を整えた。


「第一幕、第一場。文芸部室――」


* * *


最初の数ページは、順調に進んだ。


部室に入ってくる柚。

机の上に原稿を置く橙。柚が書きかけの小説を隠そうとし、橙が気づかないふりをする場面。


絵がつくと、台詞の意味がはっきりする。


「……別に、読まなくてもいいです」


柚の台詞を読んだところで、陽向がタブレットから顔を上げた。


「この台詞、いいな」


「……どのあたりがですか?」


「読まなくてもいいって言いながら、原稿を隠しきれてないところ。柚っぽい」


桃果も頷いた。


「手で隠しているのに、橙のほうから見えるんですよね。読んでほしくないのか、読んでほしいのか」


「読んでほしくないんです」


私が即答すると、陽向が笑った。


「そうなの?」


「そうです。柚は、まだ見せたくないんですから」


「でも、橙が読んでくれたら、ちょっと嬉しいんじゃないかな」


「……それは、キャラクターの解釈の問題です」


「うん。だから、そういう解釈もあるかなって」


穏やかな口調で返されてしまい、私はそれ以上言い返せなかった。


篠田先輩が、机を指で軽く叩いた。


「二人とも、話を広げすぎるな。今の台詞に修正はあるのか?」


「……ありません」


「俺もない」


「なら次」


先輩の声に促され、私はページをめくった。


その後も、部室の場面は大きな問題なく進んだ。

舞台の説明を一つ短くし、橙が原稿を拾う動作を一コマ増やす。

桃果が絵の修正案を出し、陽向が構図を確認する。


私は赤ペンで小さく印をつけていった。


ここはそのまま。

ここの語尾は変更。

この一文は削る。


文章だけで書いていたころとは違い、漫画の台詞は絵と一緒に読まれる。

少し言葉を減らしたほうが、表情が伝わる場面もあった。


順調だった。


問題が起きたのは、第一幕の終盤に差しかかったころだった。


「……別に、待っていたわけじゃありません」


読み終えたところで、私は赤ペンを止めた。


「ここは、少し間が欲しいです」


桃果がネームを覗き込む。


「台詞の前ですか?」


「はい。橙が部室に戻ってきたことに気づいてから、柚が返事をするまで。今のままだと、気づいた瞬間に喋っているので」


「一コマ足す感じですかね。柚が原稿から目を上げるところを挟むとか」


「そうですね。目を上げて、すぐに逸らすくらいで」


陽向がタブレットにメモを取った。


「了解。視線を上げるコマを一つ追加する」


「お願いします」


「……紗季、こういう間は好きだよね」


「必要だから入れているんです」


「うん。わかってる」


陽向はいつもの調子で笑った。


「でも、間を入れると、台詞が少し甘く見えることもあるよね」


「……それが問題なんです」


「問題?」


「読んでいる人に、必要以上の意味を持たせたくないので」


言ってから、しまったと思った。

陽向がこちらを見た。


「必要以上、か」


「作品の話です」


「うん。作品の話だね」


あっさり頷かれると、かえって困る。

私は赤ペンを持ち直し、ネームに視線を戻した。


「次に進みます」


桃果が何かを言いたそうに口元を緩めた。

けれど、今回は何も言わなかった。


* * *


第二幕に入ると、修正箇所が一気に増えた。


文化祭当日の廊下。

行き交う生徒たち。

柚が橙の腕についたリストバンドに気づき、隣にいる女子生徒と同じ色だと知る場面。


ここは、表情の変化が重要だった。


柚が驚く。

少しだけ立ち止まる。

それから、何もなかったように歩き出す。


桃果のネームには、その三つの動きが丁寧に描かれていた。


「ここの表情、いいと思います」


私が言うと、桃果が嬉しそうに顔を上げた。


「本当ですか?」


「はい。驚いているのに、何も聞かないところが伝わります」


「柚って、聞けばいいのに聞かないんですよね」


「聞けないんです」


「どうしてですか?」


「……それは、柚が自分で考えるべきことなので」


「なるほど。御影先輩は、厳しいですね」


「そうでしょうか」


「でも、そういうところが好きです」


桃果はそう言って、ネームに目を戻した。

私は返事をせず、次の台詞を確認した。


『別に、気にしていません』


赤ペンの先が止まる。


「……ここ、少し変えます」


「えっ、今の台詞ですか?」


桃果が顔を上げた。


「はい。もう一度『別に』と言わせると、似た言い回しが続きすぎるので」


「でも、柚らしくないですか?」


「らしいからといって、何度も使えばいいわけではありません」


「なるほど……」


桃果がノートに何かを書き留める。

陽向はネームを見ながら、少し首を傾げた。


「でも、柚って、困るとすぐ『別に』って言うよね」


「……それは、知っています」


「三回くらいあってもいいんじゃない?」


私はゆっくりと顔を上げた。


「真壁さん」


「はい」


「今、二回目です」


「何が?」


「『別に』です。柚が言う回数ではなく、真壁さんが増やそうとした回数です」


桃果が吹き出した。

篠田先輩は、資料から目を上げずに言った。


「真壁。台詞は増やせばいいってものじゃない」


「はい……」


「御影。回数を数えるのはいいが、数えること自体が目的にならないようにな」


「……はい」


私は赤ペンを紙の上に置いた。


「ただし、柚の『別に』は三回までです」


「三回まではいいんだ」


陽向が笑う。


「必要なところだけです」


「わかった。じゃあ、三回目は大事に使わないと」


「そういう言い方をしないでください」


「どういう言い方?」


「……そのままの意味です」


桃果は笑いをこらえながら、ノートに何かを書き足していた。


「一ノ瀬さん。今、何を書いたんですか?」


「『別に』は三回まで」


「それは議事録に必要ありません」


「でも、今日一番大事なルールかもしれませんよ」


「違います」


「そうですか?」


「そうです」


篠田先輩がとうとう顔を上げた。


「会議を進めろ」


「はい」


三人の返事が重なった。

私は咳払いをしてから、改めて台詞を読み始めた。


「……別に、誰と一緒にいたって、私には関係ありません」


読んだあと、教室が少し静かになった。

桃果がネームをじっと見つめている。


「……ここは、残していいと思います」


「一ノ瀬さん?」


「三回目だから、という意味じゃなくて。柚が本当に言いたいことと、口に出していることが違うのが、よくわかるので」


私は、もう一度そのコマを見た。


視線を逸らした柚の横顔。

手元の原稿用紙が、少しだけ歪んでいる。


「……そうですね」


赤ペンで削除しかけた台詞に、私は小さく丸をつけた。

陽向が頷いた。


「うん。ここは、このままにしよう」


「……真壁さんも、そう思いますか」


「思うよ。柚が言わないことまで、ちゃんと見えるから」


そう言ってから、陽向はふと私のほうを向いた。


「紗季が書いた台詞だよ」


「……キャラです」


答えるまで、ほとんど間はなかった。


「うん。柚の台詞」


「そうです」


「わかってるよ」


陽向は笑いながら、タブレットに修正なしと入力した。

私は赤ペンのキャップを強く押し込んだ。


まったく。


どうしてこの人は、こういうときだけ返事が早いのだろう。


* * *


昼休みを挟み、午後からは第三幕の確認に入った。


柚が橙の気持ちを知ろうとして、結局、聞けないまま部室へ戻るところから始まる。

二人の間にあるのは、机一つ分の距離。

けれど、ページを追うにつれて、その距離は少しずつ変わっていく。


橙が柚の原稿を拾う。

柚が礼を言いかけて、やめる。

橙は何も言わず、隣の椅子を引く。


台詞が少ないぶん、絵で伝えなければならないことが多い場面だった。


「このページ、吹き出しが少ないですね」


桃果が言った。


「はい。ここは、あまり言葉を増やさないほうがいいと思います」


「でも、柚は何か言いたそうなんですよね」


「言いたいことが、まだ自分でもわかっていないので」


「……難しいなあ」


桃果は鉛筆を回しながら、ネームを見つめた。


「台詞がないと、何も起きていないようにも見えるし。増やすと、柚が全部説明しちゃうし」


「だから、表情と間で見せるんだろ」


陽向が言った。


「橙がすぐ隣に座るんじゃなくて、一度、柚の様子を見る。柚が席を立たなかったら、隣に座る。そういう動きがあるといいと思う」


「なるほど。先に聞かずに、様子を見るんですね」


「うん。柚が嫌なら、離れられる距離は残しておきたい」


私は思わず顔を上げた。


陽向は、画面に目を向けたまま話を続けている。


「そのほうが、橙らしいと思うから」


「……いいと思います」


私は原稿の余白に、台詞の追加ではなく動作の修正と書き込んだ。

桃果はそれを見て、納得したように頷く。


「じゃあ、台詞は増やさずに、橙が一度だけ柚を見るコマを入れます」


「お願いします」


そこまでは、落ち着いていた。


問題のページに差しかかるまでは。


「第三幕、後半。柚が原稿を閉じる。橙は、しばらくその様子を見てから――」


私はページをめくった。


そこには、橙が柚をまっすぐ見つめるコマが描かれていた。


いつもの、少し人懐こい笑顔ではない。


ふざけてもいないし、からかってもいない。


柚が目を逸らすより先に、橙が口を開いている。


台詞は、短かった。


『俺、柚のことが好きだよ』


……。


私は、紙の上に視線を落としたまま、次の言葉を探した。


原稿にはそのあとに続く説明も、柚の心情を補う独白もない。


ただ、橙の台詞が一つ。

そして、その言葉を聞いた柚の顔が、次のコマに描かれている。


「……橙の台詞、です」


自分でも妙な読み方だと思った。


けれど、読み直す以外に方法はない。


「俺、柚のことが好きだよ」


今度は、最後まで読めた。

教室が静かになった。


さっきまで机を叩いていた篠田先輩の指が止まり、桃果はノートに向けていた鉛筆を持ったまま、ネームを見つめている。


陽向も、何も言わなかった。


窓の外から、運動部の掛け声が遠く聞こえた。


私は咳払いをした。


「……この台詞について、修正はありますか?」


篠田先輩がようやく口を開いた。


「いや。ない」


「……一ノ瀬さんは?」


「ないです」


桃果の声は、いつもより少し小さかった。


私は陽向を見た。


「真壁さんは、どうですか」


彼はネームの一コマを見つめたまま、ゆっくりと顔を上げた。


「このままでいいと思う」


「……そうですか」


「うん。ここは、まっすぐ言ってほしいから」


陽向は画面の端を指で示した。


「橙は、ここまでずっと待っていたんだろ? 柚が何を言うか考える時間も、どうしたいのか決める時間も。だけど、好きだっていう気持ちまで曖昧にしたら、橙じゃなくなると思う」


「……なるほど」


「台詞が短いから、余計なことを足さないほうがいい。絵にも、ちゃんと間があるし」


私は、もう一度そのコマを見た。


短い台詞。


まっすぐな視線。


そのあとに続く、言葉のない一コマ。


私は赤ペンで、台詞の横に小さく丸をつけた。


「……ここは、残します」


「うん」


陽向が頷いた。

その声が、いつもと同じだったことに、私は少しだけ安心した。


――安心した、はずだった。


「じゃあ、このコマなんだけど」


陽向が椅子から立ち上がり、私のほうへ回ってきた。


「橙の目線、もう少し下げるか迷ってるんだ。今のままだと柚と目が合うまでが早い気がして」


「……そうですね。柚が顔を上げるまで、もう一拍あってもいいと思います」


「だよね。どこを直せば自然かな」


彼は私の肩越しにネームを覗き込んだ。


「このコマの次に、柚の手を入れてみようかと思うんだけど」


近い。


思っていたより、ずっと近かった。


陽向の声が、すぐ耳のそばから聞こえる。

タブレットを持った彼の腕が視界の端に入り、肩に触れそうなところまで顔が寄っていた。


ネームを見るためだ。

わかっている。

構図を確認するために、私の手元を覗き込んでいるだけ。

わかっているのに。


「近い!」


声が教室に響いた。


陽向がぴたりと動きを止めた。

桃果が顔を上げる。

篠田先輩までこちらを見た。


一瞬、誰も何も言わなかった。


「……あ」


私は自分の声の大きさに気づいた。


「その……ネームが、見づらいので」


陽向はゆっくりと身体を離した。


「ごめん。見えにくかった?」


「いえ。そういうことではなくて……」


「じゃあ、こっちから見るね」


彼は私の隣の椅子を回し、机の向かい側へ移動した。

あまりにも素直に離れてしまったので、私はかえって言葉に詰まった。


「……ありがとうございます」


「うん。これなら見えるね」


陽向は何事もなかったようにネームを指さした。


「さっきのところ、ここに柚の手を入れたらどうかな」


「……いいと思います」


私もネームへ視線を戻した。

戻したのに、ページの上の文字がうまく頭に入ってこない。


桃果がそっと手を挙げた。


「……あの」


「はい。一ノ瀬さん」


「今の『近い』って、ネームの台詞じゃないですよね?」


「違います」


返事が早すぎた。

桃果は口元を押さえた。


「すみません。確認です」


「確認しなくていいです」


「はい……」


「笑っているじゃないですか」


「だって……」


桃果は一度うつむき、肩を震わせた。


「だって、さっきまで『橙の好きだよ』って台詞を読んでいたのに、その直後に真壁先輩が肩越しに覗き込んで、御影先輩が『近い』って……」


「一ノ瀬さん」


「はい」


「そこを並べて考えないでください」


「……もう並べちゃいました」


篠田先輩が大きく息を吐いた。


「お前たち。ここは制作会議だぞ」


「すみません……」


私と桃果が同時に謝った。

陽向だけが困ったように笑っている。


「俺もごめん、紗季。次から気をつけるよ」


「……いえ。私も、急に大きな声を出してすみませんでした」


「大丈夫。びっくりしただけだから」


陽向はそう言って、ネームの続きを開いた。

その声にからかうような響きはなかった。


だからこそ、私は余計に困った。

本当に悪気がなかったのだ。

ただ、近くでネームを見ようとしただけ。

それなのに、さっきの一言が自分の中で何度も繰り返されていた。


近い。


まったく、何が近いというのだろう。

距離だけの話なら、机を挟んで座っていれば十分なはずなのに。


「……次のページに進みましょう」


私は赤ペンで机を軽く叩いた。

桃果がようやく笑いを収める。


「はい。次、いきましょう」


* * *


その後も、ネームの確認は続いた。


柚は橙の言葉を聞いて、すぐに返事をしない。

一度は視線を逸らし、口を開きかけて、閉じる。

それから、ほんの少しだけ橙のほうを見る。


私は、その一連の動作を確認しながら台詞を読み進めた。


言葉は短い。


けれど、その間にあるものは多かった。


「……ここ、台詞を削ってもいいかもしれません」


私は赤ペンを持ち上げた。


「えっ、ここですか?」


桃果が身を乗り出す。


「はい。柚が『そういうところ、ずるいです』と言ったあとに、橙が説明を足していますよね。ここは、なくても伝わると思います」


陽向がネームを確認した。


「確かに。橙が言い返すより、少し困った顔をしているほうがいいかも」


「そうですね。柚も、それ以上は聞けないので」


桃果は何度かコマを見比べてから、頷いた。


「……じゃあ、台詞をなくして、その分、表情を描きます」


「お願いします」


私は赤ペンで削除の印をつけた。


三十六ページのうち、恋愛の場面だけは赤い線が目立っていた。


台詞が長い。

間が足りない。

視線が早い。

言葉が多い。

もっと削る。

少し待つ。

言い切らない。


自分で書いた台詞なのに、直すところはいくらでも見つかった。


「御影先輩」


桃果がふと顔を上げた。


「はい?」


「恋愛シーンになると、急に赤ペンが増えますね」


「……そうですか?」


「はい。さっきの部室の場面は、ほとんど印がなかったのに」


「恋愛シーンは、台詞だけで説明しようとすると、くどくなりやすいので」


「なるほど」


桃果は真面目な顔で頷いた。


「じゃあ、御影先輩は、恋愛シーンが苦手なんですか?」


「……苦手というわけではありません」


「得意でもない?」


「一ノ瀬さん」


「すみません」


桃果は謝りながらも、目を輝かせていた。


「でも、先輩の書く恋愛シーン、好きですよ。言葉にしていないところが、すごく気になります」


「気になる、というのは?」


「柚が本当は何を言いたいのかとか、橙がどこまで気づいているのかとか。読む側が考えられる余地があるので」


私は少しだけ手を止めた。


自分では言葉を削りすぎていると思うこともある。

何も書いていない場所に、読者が何かを見つけてくれるのだろうか。


「……ありがとうございます」


「いえ。だから、赤ペンで全部直しちゃわないでくださいね」


「必要なところは直します」


「そこは譲らないんですね」


「仕事ですから」


陽向が隣の席から口を挟んだ。


「紗季は、一度気になり始めると、とことん直すからね」


「真壁さんは、黙っていてください」


「はい」


返事だけは素直だった。

桃果がまた笑いをこらえている。


「……何ですか」


「いえ」


「何かありますよね?」


桃果はしばらく考えてから言った。


「これ、先輩たちの日記みたいですよね?」


一瞬、意味がわからなかった。


「……はい?」


「だって、柚は気になることがあっても『別に』って言うし、橙は相手が困らない距離で待っているし。近づきすぎると、柚が怒るし」


「……それは、作品の設定です」


「もちろんです」


桃果は素直に頷いた。


「でも、さっきの『近い』は、すごく自然でした」


「一ノ瀬さん」


「はい」


「そこは忘れてください」


「難しいです」


「忘れてください」


「努力します」


陽向が横で小さく笑った。

私はそちらを見た。


「真壁さんも、笑わないでください」


「ごめん。でも、確かに柚らしかったから」


「……キャラクターの話ですか?」


「うん。柚の話」


いつもの返事だった。


それなのに、今日はなぜか、いつも以上に返す言葉が見つからなかった。

篠田先輩がネームを束ねて机の上に置いた。


「一ノ瀬。観察記録は後にしろ。御影、次の台詞を」


「……はい」


私は原稿に目を落とした。


その先のページには、柚が橙の隣に座る場面が描かれていた。

二人の間には、まだ少しだけ隙間がある。

けれど、柚はもう席を立とうとはしていなかった。


私は、そのコマの横に書き込んだ。


『ここは、このまま』


* * *


すべてのページを読み終えたころには、窓の外の光が傾き始めていた。


机の上には修正用の付箋と赤ペンの印が並んでいる。

ネームそのものを大きく変更する箇所は、ほとんどなかった。

台詞の長さやコマの間を調整すれば、予定していたページ数の中で収まりそうだった。


桃果は修正箇所をノートにまとめている。

陽向は作画で直す部分をタブレットに入力していた。

篠田先輩が全ページを確認してから口を開いた。


「よし。大きな問題はないな」


桃果が顔を上げた。


「……ということは?」


「ネームは確定でいい。今日出た修正だけ反映して、最終版を共有してくれ」


「やった……!」


桃果が小さく拳を握った。


「本当に、ここまで来たんですね」


「まだペン入れがあるぞ」


篠田先輩が言う。


「仕上げも、装丁も、入稿もある。完成した気になるのは早い」


「わかってます。でも、今日は喜んでもいいですよね?」


「それくらいは許す」


「やった!」


桃果は今度は両手を握りしめた。

陽向も少し嬉しそうに笑っていた。


「三十六ページ、形になったね」


「はい。真壁先輩の作画も、楽しみにしています」


「期待に応えられるように頑張るよ」


「……その前に、表紙もお願いします」


私が言うと、陽向は少しだけ困った顔をした。


「わかってる。そっちも進めてるよ」


「進めているだけでは困ります」


「はい。入稿係、頑張ります」


「入稿係の前に、作画担当です」


「そうだった」


陽向が笑うと、桃果もつられて笑った。

篠田先輩はスケジュール表に日付を書き込み、私たちを見渡した。


「次からはペン入れの工程に入る。御影は、線画が上がってきたページから台詞と表記を確認してくれ。吹き出しの位置も含めて、最終校正を頼む」


「はい」


「一ノ瀬はネームの最終データをまとめて、修正点を真壁に渡す。真壁は作画と装丁を進める。俺は全体の進行と広報だ」


一つずつ、次の仕事が決まっていく。

ネームを描き始めたころは、三十六ページが完成する日など、ずっと先のことのように思えていた。

それが今、机の上に並んでいる。


まだ線はラフのままだし、背景も描き込みきれていない。

吹き出しの位置も、表情の細かな部分も、これから修正していくことになる。


それでも、物語の形はできた。


「……これで、台詞は確定ですね」


私はネームの束に視線を落とした。


「そうだな」と篠田先輩が頷いた。「変更が必要になったら相談してくれ。ただし、理由のない書き直しはなしだ」


「理由はあります」


「その理由が、後から増えないようにな」


「……気をつけます」


陽向が私の手元の赤ペンを指さした。


「今日、一番赤くなったの、やっぱり第三幕だったね」


「……必要な修正です」


「うん。わかってる」


彼はネームの最後のページを手に取った。


橙が柚を見つめ、柚が返事を探している場面。

その次のコマには、二人が並んで座っている姿が描かれている。


「俺、この終わり方好きだな」


陽向が言った。


「大きなことが起きたわけじゃないのに、二人の距離が少し変わっている感じがする」


「……そうですね」


「紗季が台詞を抑えてくれたからだと思う」


「桃果さんのネームがあるからです。絵がなければ、あの間は作れませんでした」


「うん。桃果のネームもいいし、紗季の台詞もいい」


陽向は当たり前のことのように言った。

私は返事をする代わりに、赤ペンのキャップを閉めた。


さっきまで、赤い印で埋まっているページばかり気になっていた。

けれど、最後の一コマには、何も書き込まれていない。


柚と橙が、ただ隣に座っている。


まだ、答えは出ていない。


それでも、物語はそこで終わっている。


「……では、修正を反映したら共有します」


私はネームの束を整えた。

桃果が最後のページを大切そうにしまいながら言った。


「次は、線が入るんですね」


「そうだな」と陽向が答えた。「ここからは、俺の仕事だ」


「よろしくお願いします、真壁さん」


「任せて、紗季」


その呼び方に何か言おうとして、私はやめた。


今は、制作の話をしている。

彼が私をどう呼ぶかも、私が何を思ったかも原稿には関係がない。


……本当に、そうだろうか。


考えかけたところで、篠田先輩が手を叩いた。


「よし、今日はここまで。次回からペン入れに入るぞ」


「はい」


私たちは、そろって返事をした。


机の上のネームは、もうただの下書きではなかった。

これから陽向の線が加わり、桃果の描いたコマが整い、私の台詞が一つずつ吹き出しに収まっていく。

その先にあるものを、私はまだうまく想像できない。


ただ、今日の通し読みで、ひとつだけわかったことがある。

台詞に間がないと、気持ちが伝わらないことがある。

言葉を重ねすぎると、本当に言いたいことが見えなくなることもある。


そして、ときどき。


書いた本人が、いちばん返事に困る台詞もある。


私は赤ペンをバッグにしまい、ネームの束をもう一度だけ見た。


『俺、柚のことが好きだよ』


その台詞の横には、小さな丸がついている。

直すための印ではない。

このまま残す、という印だった。


「……次は、ペン入れですね」


自分に言い聞かせるように呟く。


「うん。楽しみだね」


隣で陽向が答えた。

私は今度は何も言い返さなかった。


ネームは確定した。


次は、線を入れる番だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。