4. 缶コーヒーの温度
ブックマークでの通し読みから、一週間ほどが過ぎた。
四月も終わりに近づき、キャンパスの並木道では新緑が日差しを受けて輝いていた。
講義の課題に追われながら、私は『境界線の内側に缶コーヒー』の台詞を何度も書き直していた。
第三幕の見出しは、いまだに頭から離れない。
『告白前の一歩』
柚の「別に」と橙の「拾うから」。
それからあの日、陽向が口にした「一歩は二人で踏むものだから」という言葉。
これは作品の話だと、何度も自分に言い聞かせてきた。
それでも、電車の中で缶コーヒーを握っていた夜のことを思い出すと、指先にあの冷たさがよみがえる気がした。
三ノ宮という名前も、ときどき頭をよぎった。
文化祭の写真を送ってくれたという、陽向の中学時代の同級生。
私はまだ、どんな人なのかも知らない。
ただ、陽向が過ごしてきた時間の中には、私の知らない人がいて、私の知らない出来事がある。
当たり前のことだ。
それなのに、あの日から、その当たり前のことが少しだけ気になっていた。
別に、気にしていません。
そう言い聞かせるほど、かえって意識してしまう。
頭の中の猫が、隠していた尻尾をうっかり出してしまうような、落ち着かない気分だった。
* * *
平日は、講義と原稿のあいだを縫うように過ぎていった。
火曜日は旧校舎の角教室で打ち合わせをし、木曜日には桃果のネーム相談のためにブックマークの席を取る。
陽向が先に来て、私の分のコーヒーを頼んでおくことにも、すっかり慣れていた。
慣れているはずなのに。
ふとした拍子に三ノ宮さんの写真が頭をよぎると、どうにも落ち着かなくなるのだった。
金曜日の午後、文学部のゼミが終わったところで、篠田先輩からメッセージが届いた。
『土曜、十時から角教室。第二幕を確定して、第三幕のたたき台を確認する。遅刻したら入稿係の仕事を増やす』
入稿係という言葉を見て、陽向が笑っている顔が浮かんだ。
去年の歓迎会で道に迷って遅刻した彼も、今ではすっかり入稿係が板についている。
私は『了解です』とだけ返信し、スマートフォンをバッグにしまった。
明日は、第三幕を仕上げるための大事な打ち合わせだ。
余計なことを考えている場合ではない。
そう思いながらも、帰り道には何度かあの日の写真のことを思い出していた。
* * *
土曜日。
目が覚めたのは、七時少し前だった。
カーテンの隙間から薄い日差しが差し込んでいる。
窓の外では、どこかの家の窓を開ける音がした。
平日より遅い時間に始まる大学のない朝は、いつもより静かに感じられる。
台所で湯を沸かし、トーストを焼く。
スマートフォンには、母から昨夜のうちにメッセージが届いていた。
『小豆、紗季の部屋のクッション占拠中』
写真には、丸くなって眠る小豆が写っていた。
かつて私が使っていたクッションを、いかにも当然という顔で占領している。
端に少しだけ見えている布地は、私が家を出る前から使っているものだ。
思わず笑みがこぼれた。
私は写真に猫が笑っているスタンプを返し、インスタントコーヒーを淹れた。
湯気の立つカップを持って窓際に立つ。
家で淹れたコーヒーは、いつもより少し薄く感じられた。
缶の、あの苦さが恋しくなる。
そんなことを思ってから、私は小さく首を振った。
コーヒーくらい、どこで飲んでも同じはずだ。
支度をしているとあっという間に九時半になり、駅へ向かう。
週末の電車は平日とは雰囲気が違う。
学生の姿は少なく、家族連れや買い物に出かけるらしい人たちが目立っていた。
窓の外を流れる街並みを眺めながら、私は第三幕の独白を頭の中で組み替えていた。
言い切ってしまうと、柚の気持ちが見えすぎてしまう。
反対に言葉を削りすぎると、橙との距離が変わる瞬間が伝わらない。
どこまで書いて、どこから先を読者に委ねるのか。
考えているうちに、二駅はあっという間に過ぎた。
星見学園大学の正門をくぐると、旧校舎のほうへ向かう学生たちの姿が見えた。
どこかの運動部が掛け声を上げている。
新しい校舎の窓は春の光を反射し、並木道には柔らかな葉の影が揺れていた。
平日よりも、キャンパス全体が少し明るく見える。
旧校舎へ続く廊下には、開け放たれた教室の窓から風が通り抜けていた。
角教室の扉を開けると、桃果がすでにネーム用のタブレットを机に置いていた。
「御影先輩、おはようございます」
「おはようございます。一ノ瀬さん」
「今日も窓際の席を取っておきましたよ」
桃果が、私の定位置を指さす。
「……ありがとうございます。助かります」
「コンセントも空いてますよ」
「完璧ですね」
「えへへ。早起きした甲斐がありました」
得意そうに笑う彼女を見て、私も少しだけ頬を緩めた。
窓際の席には、手を伸ばせば届くところにコンセントがある。
背もたれの角度もちょうどよく、机の傷さえ見慣れたものだった。
ここに座ると、自然と気持ちが落ち着く。
言葉を選ぶ仕事に取りかかるための、私なりの準備が整う気がした。
教室の前方では、陽向が表紙のラフを黒板に貼っていた。
篠田先輩は入稿スケジュールを記した大きな紙を、ドアの横に掲示している。
「十時だ、始める。遅刻者は……」
先輩が腕時計を確認した。
「ゼロ。真壁、今日は五分前か。記録更新だな」
「成長してますから」
陽向が、貼ったラフの端を押さえながら答えた。
「去年遅刻した男が言うと、あまり説得力がないな」
「もう一年も前の話ですよ」
「だから、一年かけてやっと五分前だ」
桃果がくすっと笑った。
「真壁先輩、来年は十分前ですね」
「そこまでいくと、何かあったのかって心配されそうだな」
「されません。ちゃんと来ていればいいんです」
私は机の上に原稿を広げながら言った。
陽向は腕章を直し、こちらを振り返った。
「紗季、おはよう」
「……おはようございます、真壁さん」
「コーヒー、あとで淹れるから。今日は長くなりそうだし」
「淹れる、とは?」
「教室のポット。ブラックなら出せるよ」
「……私、缶のほうが好きなんですけど」
「知ってる。缶も買ってくる」
こちらの返事を待たず、話がどんどん進んでいく。
「別に、そこまでしていただかなくても」
「俺も飲むから。ついでだよ」
陽向はそう言って、作業用のタブレットを机に置いた。
それ以上言うと、また妙なやり取りが続きそうだった。
私は赤ペンを手に取り、原稿へ視線を落とした。
篠田先輩が手を叩く。
「さあ、制作班。まずは第二幕から片づけるぞ」
「はい」
桃果がノートパソコンを開き、陽向がラフの位置を調整する。
私は窓際の席で第三幕の草案を広げた。
午前のうちに、表紙ラフと入稿スケジュールは壁に並んだ。
あとは、言葉の中身を詰めるだけだった。
* * *
「ここ、柚の視線をもう少しだけ橙のほうに寄せたいんです」
桃果がネームのラフを指さした。
画面には、橙が柚に手を差し伸べずに待っている場面が描かれていた。
「台詞では拒んでいるのに、足はその場から動いていない。そういう感じを出せたらいいなと思って」
「……なるほど」
私は画面をじっと見つめた。
柚は橙のほうを見ていない。
けれど、足先は彼のいる方向へわずかに向いている。
目を逸らしているのに、離れようとはしていない。
そんな細かな仕草で、気持ちを表現しようとしているのだろう。
「いいと思います。台詞のほうも、少し調整してみますね」
私は原稿の余白に鉛筆で書き込んだ。
拒絶と希望のあいだ。
その曖昧な場所に、柚は立っている。
そしてそこは、彼女がいちばん苦手とする場所でもあった。
教室のポットから、コーヒーの香りが漂い始めた。
陽向が紙コップを配りながら、黒板のラフを指さした。
「表紙はB案で進めようと思う。部室の窓から光が入る構図。光の向きは、紗季がメモしてくれた通りにしたよ」
「……私のメモ、共有フォルダに入れただけです」
「そのメモが、一番わかりやすかったから」
「そうですか」
何でもないように答えたつもりだった。
けれど、少しだけ嬉しかった。
自分が書いたメモが役に立ち、相手の仕事につながっている。
その実感は、文章を書くときとはまた違ったものがある。
桃果がラフのコピーを広げた。
「橙の影が窓際に長く落ちるの、いいですね。前作は缶のシルエットが印象に残っていたので、今回は部屋の空気が中心になるんだなって」
「前作は、缶のシルエットが多すぎるって言ってましたよね」
私が尋ねると、桃果は少しも悪びれずに笑った。
「言いました。でも、好きとも言いましたよ」
「……評価が難しいです」
「好きだから、気になるんです」
その言い方が妙に自然で、私は返す言葉を失った。
篠田先輩が、広報用の文案を読み上げた。
「シリーズ第二弾。『境界線の内側に缶コーヒー』。前作完売、感謝。詳細は近日公開」
「……少し短すぎませんか?」
「SNSは短いほうが読まれる」
「そういうものですか」
「そういうものだと信じている」
「信じるだけでいいんですか……」
先輩は答えず、広報用のメモに目を戻した。
私は第二幕の台詞に線を引きながら、そんなやり取りを聞いていた。
去年の締切前は、もっと余裕がなかった気がする。
原稿が進まないと、皆が黙り込むことも多かった。
ちょっとした冗談を言う余裕すらなくなって、時計の針ばかり気にしていた。
今年は、桃果がいるからだろうか。
彼女の何気ない一言が、張り詰めた空気をほどいてくれる。
同じ作業をしているのに、去年とは少し違った時間が流れている気がした。
午前中は、第二幕の台詞を中心に確認していった。
文化祭当日、橙の腕に別の女子生徒と同じ色のリストバンドが見える場面。
柚はそれに気づいても、何も尋ねない。
ただ、見なかったふりをして、原稿を抱え直す。
桃果が前作のコピーを開いた。
「ここって、前作の場面と少し似ていませんか?」
「……被らないように書いたつもりです」
「いや、悪い意味じゃなくて。シリーズものだから、似た場面があるのはいいと思うんです。ただ、前作との違いは意識したくて」
陽向が文化祭のラフを指さした。
「前作ではリストバンドが青系だったから、今回は赤にしてみたんだ。色を変えるだけでも、印象は違うと思う」
「読者は気にするでしょうか?」
桃果が首を傾げる。
「気にする人はいるだろうな。でも、同じシリーズだとわかれば、そういう共通点も楽しんでもらえるんじゃないか?」
篠田先輩が答えた。
「なるほど。そう考えると、色の違いも意味が出てきますね」
「許容範囲、というやつですか」
私が言うと、桃果が笑った。
「その言葉、便利ですね」
「便利な言葉ほど、使いすぎると危険です」
「御影先輩らしいです」
「……どういう意味ですか」
桃果はただ笑っていた。
私は原稿に視線を戻し、柚の台詞を読み上げた。
「……別に、誰のリストバンドかなんて、知りません」
読み終わると、教室が一瞬だけ静かになった。
「いい」
陽向が言った。
「嘘をついてる柚、好きだな」
「キャラクターの話ですよね?」
「うん。柚の話」
陽向は何でもないことのように頷いた。
私は少しだけ視線を逸らした。
篠田先輩がメモを取りながら言う。
「第二幕は、ここで確定にしよう。次は文化祭のあと、廊下の場面だな」
桃果は前作のコピーを閉じた。
「でも、読者はシリーズで比較すると思いますよ。『またリストバンドが出てきた』って」
「……そういう感想をいただいても、仕方ありませんね」
陽向が笑いながらラフをめくった。
「比較してもらえるのは、読んでもらえたってことだから。去年は、二冊並べて見せてくれた人もいたよ」
「それを、嬉しいと言わないでください」
「嬉しくない?」
「……作品としての評価は、受け止めます」
そう言いながら、私はどうしてこんなに気持ちが落ち着かないのだろうと思った。
作品を読んだ人が、似た場面を見つけてくれること。
それは、決して悪いことではない。
けれど、前作のタイトルと一緒に、私たちの距離感まで並べて見られているような気がすることがあった。
篠田先輩が話をまとめた。
「比較されるのは二年目も同じだ。今回は前作の続編ではなく別編だと、広報でも説明しておこう」
「説明するのも、なかなか大変ですね」
「それが広報の仕事だからな」
「……お疲れさまです」
私がそう答えると、先輩は肩をすくめた。
* * *
第二幕の読み合わせが一段落したころには、十一時を過ぎていた。
黒板の端には、桃果が付箋を何枚も並べていた。
小さな字で「台詞の間が短い」「橙の視線は右」などと書かれている。
どれも具体的で、読み返すだけで意図がわかるようになっていた。
陽向が椅子の背もたれに身体を預けて伸びをした。
「ねえ、前作で一番好きな台詞って、どれ?」
「……会議中に、好みを聞かないでください」
「ネタ集めだよ」
「それなら、まず柚の台詞帳を見ます」
桃果が元気よく手を挙げた。
「私は、橙の『境界線、ここ』が好きです。短いのに、橙らしいところが出ているので」
「橙らしい、とは?」
「犬っぽいです」
その答えに陽向が少し嬉しそうな顔をした。
私は見逃さなかった。
「真壁さん、そういう顔をするの、やめてください」
「どんな顔?」
「犬っぽいと言われて喜んでいる顔です」
「してないって」
「しています」
篠田先輩が時計を見た。
「昼までに、第二幕を確定ラインまで持っていこう。昼食はどうする? ここで食べるか、外に出るか」
「教室で」
三人の声が重なった。
窓の外には、明るい日差しが広がっていた。
そろそろ気温も上がってきたらしく、窓際には暖かな光が差し込んでいる。
午後になれば、この席も少し暑くなるかもしれない。
それでも、私は席を移りたくなかった。
昼休みになると、陽向がコンビニの袋をテーブルに置いた。
中から缶コーヒーが二本出てきた。
どちらもブラック、無糖。
「今日は、みんなで食べよう」
桃果が袋の中を覗き込む。
「おにぎりとサラダと……篠田先輩のサンドイッチですね。真壁先輩、買い出しありがとうございます」
「どういたしまして。外は暑そうだったから、ついでに買ってきた」
陽向は私のほうにも缶を差し出した。
「紗季も」
「……いただきます」
受け取った缶は、ひんやりとしていた。
手のひらに伝わる冷たさが、ふと去年の再会の日を思い出させた。
あのときと同じ銘柄。
同じブラック、無糖。
同じ冷たさ。
けれど、あの夜とは違い、今は向かいに篠田先輩がいて、隣では陽向がコンビニの袋を片づけている。
一年間で、ずいぶん変わったものだと思った。
「真壁さん。缶コーヒーを二本買う習慣、そろそろやめたらどうですか」
「何で?」
「一本あれば十分でしょう」
「もう一本は予備」
「予備は、真壁さんが飲むんですよね」
「当たり」
「……そうだと思いました」
桃果が声を立てて笑った。
袋からはおにぎりやサラダのほかに、篠田先輩の分のサンドイッチも出てきた。
陽向はこういうときの手際がいい。
去年から制作班で食事をするときは、自然と彼が買い出しを引き受けることが多かった。
「真壁先輩、いつか経費精算もしてくださいね」
桃果が言うと、陽向は真顔で答えた。
「入稿係の特権だから」
「そんな特権、ありません」
「そうだっけ?」
「そうです」
篠田先輩はサンドイッチの包みを開けながら、私に付箋を一枚渡した。
「第三幕は月曜が締切だ。午後、御影が一人で進めたい部分があるなら、早めに言っておいてくれ」
私は、思わず先輩を見た。
……見えている。
私が第三幕の草案を気にしていることも、打ち合わせのあとに一人で考えたいと思っていることも。
どこまでわかっているのだろう。
「……わかりました」
曖昧に答えて、私は付箋をノートに貼った。
窓の外では、サークルらしい学生たちが旧校舎の前で写真を撮っていた。
卒業アルバムのためなのか、SNSに載せるためなのかはわからない。
弾んだ笑い声が、ガラス越しにかすかに聞こえてきた。
私は缶のプルタブを開けた。
小さな音がして、コーヒーの香りが立ちのぼる。
一口飲んでから、原稿に目を戻した。
「御影先輩、午後は第三幕に集中するんですか?」
桃果がおにぎりを持ったまま尋ねた。
「……そうですね。できるだけ進めたいと思っています」
「わかりました。じゃあ、午前中は第二幕の修正を進めますね。先輩が集中しているときは、なるべく話しかけないようにします」
「いえ、そこまで気を遣わなくても大丈夫ですよ」
「でも、さっきから台詞を見ている顔が、ずっと真剣なので」
「……そうですか?」
「はい。何か考えているときの顔です」
私は思わず苦笑した。
「一ノ瀬さんは、本当によく見ていますね」
「それが取り柄なので」
陽向が私の手元を見た。
「紗季、もう二口目?」
「……何がですか」
「コーヒー。さっき飲んでから、もう二口目」
「数えなくていいです」
「燃料、足りてるかなと思って」
「足りています。心配しなくて結構です」
「そっか」
陽向はそれ以上、何も言わなかった。
私は缶を机に置き、原稿に視線を戻した。
素直な人だ。
そう思う回数が、今日はいつもより多い気がする。
* * *
昼休みの後半、篠田先輩が表紙について相談したいことがあると言って、陽向を廊下へ呼び出した。
桃果はネームの試作ページを修正していた。
私は第三幕の草案を広げ、鉛筆の芯を替えた。
教室が、少しずつ静かになっていく。
集中するための時間が始まる。
そう思っていた。
けれど、陽向が戻ってきて隣の椅子を引いた瞬間、私は自分が思っていたほど落ち着いていないことに気づいた。
「紗季、そのメモを共有してくれる?」
「……今、集中しているんですが」
「うん。わかってる。でも、共有してもらえたら作画側でも確認できるから」
「あとで送ります」
「できれば今がいいな。午後のラフに反映したいんだ」
陽向はタブレットを私の原稿の横に置いた。
画面を見せるために、少しだけ身を寄せてくる。
肩と肩のあいだは、三十センチもない。
去年なら、それだけで慌てていたかもしれない。
今は、なるべく気にしないようにしている。
それでも、慌てていないと言い切ることはできなかった。
私は、原稿を見つめたまま口を開いた。
「真壁さん。今日は、第三幕だけは一人で直したいんです」
言ってしまってから、胸の奥が少しだけざわついた。
理由はいくつもあった。
集中したい。
自分の言葉だけで、いったん考えてみたい。
第三幕は、柚の心情に深く踏み込む場面が多い。
台詞を考えていると、どうしても自分の気持ちまで混ざりそうになる。
けれど、それをすべて説明することはできなかった。
陽向は少し驚いたように私を見た。
「……家で、一人でやりたいってこと?」
「はい。ここでは第二幕までの修正を共有します。第三幕は、持ち帰ってから考えたいんです」
「そっか」
彼はすぐには返事をしなかった。
私は、原稿の端を押さえた。
何か言われるかもしれないと思った。
どうして、と聞かれるかもしれない。
制作班なのだから、みんなで進めたほうがいいと言われるかもしれない。
けれど、陽向は少し考えたあと、静かに頷いた。
「……わかった。紗季がそうしたいなら、そうしよう」
それだけだった。
無理に理由を聞かれることも、考え直してほしいと言われることもなかった。
私は、少しだけ拍子抜けしてしまった。
「……いいんですか?」
「うん。自分で考えたいところもあるだろうし。必要になったら、また相談してくれればいいよ」
「ありがとうございます」
そう答えたものの、何となく、胸の奥が落ち着かなかった。
一人になりたいと言ったのは、自分だ。
それなのに、こんなにもあっさり受け入れられると、少しだけ寂しい気がする。
勝手なものだと思った。
陽向はタブレットを手元に引き寄せた。
「帰りはどうする? 一緒に駅まで行く?」
「……一人で帰ります」
「わかった」
彼はそれ以上何も言わず、椅子を少しだけ離した。
その距離の取り方が、あまりにも自然だった。
追いかけない。
引き留めない。
私が一人になりたいと言えば、そのまま受け入れてくれる。
昔から、そうだった。
それがありがたいはずなのに、今日はなぜか胸の奥が少しだけすくんだ。
「先輩」
向かいから、桃果が声をかけてきた。
「はい?」
「今の『一人でやりたい』っていうの、何度目でしたっけ?」
「……回数は数えていません」
「ですよね。でも、真壁先輩も、ちゃんと『わかった』って言うんですね」
桃果は陽向のほうをちらりと見た。
「無理に聞かないし、引き留めないし」
「……それが普通です」
「そうですか?」
「そうです」
桃果は少しだけ考えるように首を傾げた。
「でも、ちゃんと待てる人って、意外と少ないと思います」
私は返事に困った。
陽向はこちらの会話が聞こえていたはずなのに、何も言わずにラフの修正を続けていた。
篠田先輩が、廊下から戻ってきた。
「御影が一人で進めたいなら、その時間を取らせればいい。台詞は最終校正も御影の担当だ。最後まで責任を持てるな?」
「……はい。持ちます」
「よし。じゃあ、今日は十五時で解散。第三幕の草案は月曜までに共有フォルダへ上げてくれ」
「わかりました」
自分で責任を持つと言った。
そのつもりだった。
けれど、陽向が原稿の上に視線を落とすだけで、柚の台詞が自分の喉の奥から読み上げられているような気がする。
それが、少し怖かった。
解散までのあいだ、陽向は篠田先輩と隣の部屋へ移り、表紙の構図について話し合っていた。
桃果はネームの修正に没頭していた。
時々、画面を見ながら「橙、ここで笑うかな」と独り言を漏らしていた。
私は第二幕の共有分だけを直し、第三幕のメモをノートに挟んだ。
三時が近づいたころ、陽向が一度だけ教室を覗いた。
「紗季、まだ終わってない?」
「第二幕の修正が、もう少しです」
「そっか。じゃあ、先に帰らずに待ってたほうがいい?」
「いえ。今日は、一人で帰るので」
「……わかった」
陽向はそれだけ言い、表紙のラフを片づけに戻っていった。
短いやり取りだった。
けれど、彼が余計なことを聞かなかったおかげで、私は少しだけ気持ちを整えることができた。
* * *
午後三時。
教室を出ると、廊下には春の夕方の光が差し込んでいた。
斜めに伸びた窓枠の影が床を横切り、舞い上がったチョークの粉が、その光の中でかすかに浮かんでいる。
どこかの教室から、掃除機の音が聞こえた。
土曜日の大学は平日より静かだったが、完全に人の気配がなくなるわけではない。
桃果がバッグを肩にかけながら言った。
「先輩、今日は第三幕を家で直すんですよね?」
「はい。月曜までに共有フォルダへ上げます」
「わかりました。私もネームを進めます。橙が待っているコマ、もう少し頑張ってみますね」
「……あまり無理はしないでください」
「先輩こそ。付箋を机に貼ったまま寝ないでくださいね」
「寝ませんよ」
「本当ですか?」
「本当です」
桃果は満足そうに頷いた。
篠田先輩が教室の鍵を確認しながら口を開いた。
「御影。一人でやるのはいいが、睡眠はちゃんと取れよ。倒れたら台詞が止まるからな」
「……はい」
「真壁も、表紙ばかりに時間をかけすぎるなよ」
「わかってます」
「その返事は信用できないな」
「どうしてですか?」
「去年を思い出せ」
「……はい」
陽向が少しだけ気まずそうに笑った。
私も思わず口元が緩んだ。
桃果と篠田先輩は、旧校舎を出てカフェのほうへ向かった。
「広報文案、一ノ瀬と直してくる」と先輩の声が、階段の曲がり角で遠ざかっていく。
陽向の姿はもう見えなかった。
表紙の相談で、別棟のデザイン室に向かったのだろう。
帰りは一人でと伝えた以上、彼が追いかけてくることはない。
本当に、押してこない。
去年の再会の日もそうだった。
廊下で一人になりたかった私を、陽向は追いかけてこなかった。
そして今日も、私の希望をそのまま受け入れてくれた。
私はバッグの肩紐を握り直した。
一人の時間が、必要なのだ。
そう自分に言い聞かせながら、旧校舎の階段を下りた。
踊り場の窓から、並木道が見える。
新緑の葉が風に揺れ、正門のほうではサークルの学生たちが荷物をまとめて帰り支度をしていた。
キャンパスを抜け、駅へ向かう。
途中のコンビニの前を通ると、冷凍ケースの横に並んだ缶コーヒーが目に入った。
ブラック無糖。
いつもの銘柄もあった。
けれど、私は足を止めずに通り過ぎた。
今は、いらない。
そう思った。
まだ、缶を飲みたい時間ではなかったのだ。
駅までの道すがら、スマートフォンは開かなかった。
通知が来ても、画面を見るつもりはなかった。
頭の中では、第三幕の一行目を何度も言い換えていた。
――壊れたら、そのときは俺が拾う。
橙の台詞は、少し弱めることにした。
それでも、あのとき陽向が口にした言葉が、耳に残っている。
改札を抜け、ホームで電車を待つ。
発車時刻を表示するディスプレイの数字が変わる。
隣のホームからは、子どもの声が聞こえてきた。
日常の音が、妙に遠く感じられた。
電車に乗り、空いている座席に腰を下ろす。
窓の外に星見大の校舎が流れていった。
去年、あの中で陽向と再会した。
そして今年も、あの場所で一冊の本を作っている。
一年という時間は、思っていた以上に短いのかもしれない。
* * *
家に着くと部屋は静かだった。
玄関で靴を揃え、カーテンを開ける。
窓から差し込む光は、もう午後のものではなくなっていた。
机の上を片づけて、原稿を広げる。
スマートフォンは机の端に伏せて置いた。
今日は作業が終わるまで見ない。
そう決めた。
台所で水を一杯飲み、椅子に座り直す。
冷蔵庫には、インスタントコーヒーと昨日買ったヨーグルトしかなかった。
夕食はあとで何か用意すればいい。
午後四時から、夕方七時まで。
私はほとんど席を立たずに、第三幕の草案を書き直した。
ペンを走らせては削り、また書く。
時々、肩を回して目を休める。
隣に誰もいないので、声に出して読み返すこともできた。
柚の「別に」は、三度目の修正で削除した。
けれど、四度目に読み返したとき、やはり必要だと思い直して戻した。
この言葉を消してしまえば、柚らしさまで薄くなる気がしたからだ。
一人の時間は、確かに必要だった。
誰の視線もない場所なら、恥ずかしい台詞も、思い切って書くことができる。
私は橙に向けた柚の独白を、少しずつ長くしていった。
『あなたのことが、わからない』
最初はそう書いた。
けれど、しばらく考えてから書き直した。
『あなたの横に、わからないものがある』
誰かを好きになることが、どういうことなのか。
自分でもわからないのに、相手の気持ちだけを知ろうとする。
そんな自分を、柚はうまく認められないのだと思った。
私は、ペンを止めた。
三ノ宮さんの写真が、ふと頭をよぎった。
陽向の隣にいた、私の知らない女の子。
……嫉妬ではない。
そう思おうとした。
柚の気持ちを考えていただけだ。
これは創作なのだから。
けれど、胸の奥が少しだけ痛んだ。
七時を過ぎると、集中が切れ始めた。
目が乾き、肩が重い。
言葉を選ぶのにも、いつもより時間がかかるようになっていた。
コーヒーが飲みたくなった。
冷たくて、苦くて、砂糖の入っていない缶コーヒー。
去年、再会した日に陽向からもらった一本。
前作のタイトルにもなった、物語の中の小道具。
二年目になった今も、私の好みは変わっていない。
でも冷蔵庫にはインスタントコーヒーしかない。
今はどうしても、缶のほうが飲みたかった。
私は椅子から立ち上がり、コートを羽織った。
近所のコンビニでも買える。
それなのに、足は大学のほうへ向かっていた。
一人暮らしのマンションから星見大までは電車で二駅だ。
わざわざ戻るほどのことでもない。
それでも、いつもの自動販売機の前で買いたいと思った。
いつからそんな習慣ができたのだろう。
自分でも不思議だった。
* * *
夜のキャンパスは、昼間よりも人影が少なかった。
正門のそばには警備の明かりが白く灯り、校舎の窓にはまだいくつか光が残っている。
文学部棟の前を通ると、二階の窓にも一つ、明かりが見えた。
ゼミの準備だろうか。
それとも、誰かが自習をしているのだろうか。
土曜日の夜にも、どこかで言葉を書いている人がいる。
私は旧校舎へ続く道を曲がった。
角を進んだところに、いつもの自動販売機がある。
火曜日の打ち合わせのあと、何度も立ち寄った場所だった。
ブラック無糖のボタンを探すときは、いつも最初にこの銘柄を確認する。
習慣は、境界線よりも長く残る。
そんなことを考えながら、自動販売機の前まで歩いた。
青白い光が舗道の端を照らしている。
近くの木では、新芽が夜風に揺れていた。
枝の影が自動販売機の側面に落ち、光の上でかすかに動いている。
私は小銭入れを取り出し、いつものボタンに指を伸ばした。
そのときだった。
取り出し口の脇に、缶が一本置かれているのが目に入った。
黒いラベル。
ブラック、無糖。
私がいつも選ぶ銘柄だった。
微糖でも、カフェオレでもない、いつもの一本。
「……何だろう」
誰かの忘れ物かと思った。
けれど、缶の側面には小さな付箋が貼られていた。
見覚えのある文字だった。
太めで、少し角の丸い字。
陽向の字だ。
付箋には、短くこう書かれていた。
『境界線のこっち側に置いとく』
私はしばらくその場から動けなかった。
怒るよりも先に、指先が冷たくなった。
こっち側。
前作は、向こう。
今年は、内側。
そして今度は、こっち側。
彼は、作品の中で使っている言葉を、こんなところにまで持ち込んでいた。
連絡はなかった。
待ち伏せされていたわけでもない。
ただ、いつもの自動販売機に、缶コーヒーが一本置かれていた。
私は、付箋を剥がさずに缶を手に取った。
まだ冷たかった。
表面には細かな水滴が浮かんでいる。
置かれてから、そう時間は経っていないのだろう。
陽向がここに来たのは、いつだったのだろう。
私が一人で作業したいと言ったあとだろうか。
彼が表紙の相談を終えてから、大学を出る前に置いていったのだろうか。
それとも、私がここに来ることを、なんとなく予想していたのだろうか。
考えてみても、答えは出なかった。
そもそも、私が夜にこの自動販売機へ来るなんて、彼が知っているはずもない。
きっと、偶然だ。
そう思おうとした。
けれど、付箋に書かれた言葉を見ていると、偶然というだけでは片づけられない気もした。
「……真壁さん」
名前を呼んでも、返事はなかった。
キャンパスには夜風だけが通り抜けていく。
私は缶を握り直した。
去年、再会した日の夕暮れ。
あのときも、私は彼の差し出した缶コーヒーを受け取るかどうか、少しだけ迷った。
今日はもう手の中にある。
怒っているわけではない。
むしろ、怒る理由を探すより、どうしてこんなに動揺しているのかを考えるほうが難しかった。
覚えている。
無理に近づかない。
けれど、必要なものは、手の届くところに置いておく。
陽向の優しさは、いつもそんな形をしていた。
追いかけず、待つ。
言葉を押しつけず、そっと差し出す。
それが、彼なりの距離の取り方なのだろう。
「……ずるいです」
呟いた声は、夜の空気に溶けていった。
私は缶を開けなかった。
付箋を貼ったまま、バッグの中にしまう。
それから、自動販売機を離れ、駅へ向かった。
* * *
電車の中で、私はバッグから付箋の貼られた缶を取り出し、もう一度、文字を読み返した。
『境界線のこっち側に置いとく』
前作のタイトルをノートに書いた夜のことを思い出した。
一文字ずつ、言葉の並びを確かめたこと。
「向こう」と「内側」。
同じ缶コーヒーでも、線の引き方が少しずつ変わっている。
怒るよりも、動揺している。
それが、今の私の正直な気持ちだった。
* * *
部屋に戻ると、時刻は八時を過ぎていた。
机の上には夕方より少し厚くなった第三幕の原稿がある。
私はコートを脱いで椅子に掛け、スマートフォンを手に取った。
通知が一件届いていた。
『ねこじるし』の制作班グループチャットだった。
篠田先輩から。
『第三幕、月曜までにフォルダへ。遅刻は厳罰』
桃果から、すぐに返信がついていた。
『了解です。橙の「待つ」コマ、今夜中に仕上げます』
その下に陽向のメッセージがあった。
『台詞の共有フォルダ、空けておくね。紗季も直したら入れておいて』
私は画面を見つめた。
一人で作業したいと伝えたことを、みんなが覚えている。
陽向も、それを尊重してくれている。
私が自動販売機へ向かったことまでは、もちろん知らないはずだ。
そう考えてから、個人チャットを開いた。
陽向とのトーク画面には、ブックマークでの通し読みのあとに交わしたメッセージが残っていた。
私が送った『橙の「拾う」は、もう少し考えます』という言葉に、陽向は『うん。待ってる』と返していた。
今日はまだ何も送っていない。
私は原稿ファイルを添付し、一行だけメッセージを打った。
『第三幕の草案です。柚の独白を少し長くしました。削ってください、とは言わないでください』
送信してから少しだけ後悔した。
最後の一文は余計だったかもしれない。
けれど、すぐに返信が届いた。
『読む。削らないかも』
私は思わず笑った。
それから少し経って、またメッセージが届いた。
『独白、いいと思う。柚の気持ちが前より伝わってきた。橙が待っている場面とも合ってる』
画面を見つめたまま、私はペンを置いた。
真面目に原稿を褒められると、どうしても気が緩んでしまう。
褒められたことが嬉しいのか。
自分の書いたものが、彼に伝わったことが嬉しいのか。
その違いは、まだうまく説明できなかった。
私は、返信欄に指を置いた。
『橙の「拾うから」は、まだ弱いでしょうか』
送信してから、返事を待つ。
『弱くないよ。紗季が少し抑えたから、柚の気持ちが入る余地ができたと思う。俺は今のほうが好き』
私はその言葉を何度か読み返した。
『……ありがとうございます。月曜に校正します』
そう返すと、陽向からもう一通届いた。
『前作の最後の台詞、覚えてる? 向こう側、って言葉』
私は少しだけ考えてから返信した。
『……覚えています。今年は、内側ですね』
すぐに返事が来た。
『うん。だから、こっち側に置いた』
私は机の上に置いた缶コーヒーを見た。
『作品の話、ですか?』
送信したあと、すぐには返事がなかった。
少しして、画面が光った。
『作品も、生活も。缶の温度は同じでいい?』
私は指を止めた。
何と返せばいいのだろう。
いつものブラック、無糖。
それが自分の好みだと、彼は知っている。
でも、今聞かれているのは、たぶんそれだけのことではない。
そう思ったものの、私は結局、短く答えた。
『……同じで、いいです』
送信してから、自分の言葉を見つめた。
同じでいい。
コーヒーの好みについて答えただけだ。
そういうことにしておけばいい。
陽向から、またメッセージが届いた。
『うん。缶は見つかった?』
見つかった、どころではない。
私は、返信欄で指を止めた。
『自動販売機の、どういう意味ですか?』
今度は、すぐに返事が来た。
『向こう側じゃなくて、こっち側。紗季が一人で直すって言ってたから。せめて、コーヒーくらい近くにあってもいいかなと思って』
私は画面を見つめた。
連絡はしなかった。
一人でいたいという私の希望を、ちゃんと覚えていたのだ。
それでも、あの缶を置いていった。
『連絡、しなくてよかったんですか』
そう打ち込んでから、送信するまでに少し迷った。
やがて、短い返事が届いた。
『連絡したら、一人でいたい時間じゃなくなるだろ?』
私はスマートフォンを持ったまま黙り込んだ。
続けて、もう一通。
『怒ってる?』
『怒っていません』
『じゃあ、動揺してる?』
「……してません」
声に出してから、自分で苦笑した。
画面には、まだ返信欄が開いている。
少しして、陽向から最後のメッセージが届いた。
『うん。じゃあ、よかった』
嘘つき同士だ。
動揺していないと言いながら、私は何度もメッセージを読み返している。
怒ってはいない。
ただ、困っている。
彼の何気ない気遣いを、どこまで喜んでいいのかわからないから。
私はバッグから缶コーヒーを取り出し、机の上に置いた。
付箋はまだ貼られたままだった。
チャットのスタンプ欄を開く。
選んだのは、黒い猫の足跡だった。
『ねこじるし』のロゴに少し似ている。
去年の歓迎会のあと、初めて陽向に送ったものと同じだ。
送信ボタンの上で、指が止まった。
今なら、何か一言くらい添えられるかもしれない。
『ありがとう』と送ることだってできる。
それだけのことなのに、どうしても指が動かなかった。
私はスタンプを取り消し、文字を打ち直した。
『台詞の続きは明日も直します。おやすみなさい、真壁さん』
送信した。
すぐに既読がつき、十秒もしないうちに返信が届いた。
『おやすみ、紗季。コーヒー、冷たいうちに飲んでね』
紗季。
苗字のつかない、いつもの呼び方。
私は画面を見つめたまま、もう一度スタンプ欄を開いた。
黒い足跡を選ぶ。
今度こそ送ろうと思った。
けれど、最後の一押しができなかった。
指先が、画面の上で止まる。
結局、私はそのままトーク画面を閉じた。
隣の部屋から、テレビの音がかすかに聞こえてくる。
薄い壁一枚の向こうには、誰かの生活がある。
私は机の上の原稿と缶コーヒーを見比べ、それから伏せたスマートフォンに視線を落とした。
どれも、普段から手元にあるものだ。
それなのに、今日の缶コーヒーだけは、創作の道具なのか、そうではないのか、自分でもよくわからないところに置かれている気がした。
* * *
缶を開けたのは、それから一時間ほど経ってからだった。
プルタブを起こすと、小さな音が部屋に響いた。
一口飲む。
苦い。
冷たい。
温度は去年と同じだった。
歓迎会の夜、陽向から初めて缶コーヒーを渡されたときの冷たさに、どこか似ていた。
前作のタイトルは、境界線の向こう。
今年は、内側。
そして、彼が貼ってくれた付箋には、こっち側と書かれている。
物語と生活が、また少しだけ重なった。
私は缶を机に置き、原稿へ戻った。
柚の独白の末尾に、一行だけ付け加える。
『――橙の手は、まだ触れていない。けれど、缶はもう、こっち側にある』
書き終えたあと、私はしばらくその一文を見つめていた。
どこまでが柚の気持ちで、どこからが自分の気持ちなのか。
考え始めると、わからなくなる。
創作だから、現実とは違う。
そう言っておきながら、現実の出来事を思い出して台詞を書き直している。
自分で始めたことなのに、少しおかしかった。
それでも、ペンは止まらなかった。
月曜日の朝、第三幕の草案を共有フォルダに上げたのは、午前二時を過ぎてからだった。
最後まで、一人で直した。
一人でちゃんと仕上げることができた。
それなのに、缶コーヒーの冷たさだけは、自分一人では生まれなかったもののように思えた。
* * *
月曜日。
朝の講義を終え、十時少し前に角教室へ着いた。
扉を開けると、桃果がネーム用紙を並べていた。
陽向はタブレットを充電しながら、壁に貼られた表紙ラフを確認している。
「御影先輩、おはようございます。第三幕、フォルダで見ました」
「……早いですね」
「朝、五時に起きたので」
「五時?」
「橙の寝不足っぽい顔を描きたくなって、気になっちゃって」
桃果は少し照れくさそうに笑った。
「でも、先輩の草案を読むのが楽しくて。つい最後まで読んじゃいました」
「ありがとうございます。でも、あまり無理しないでくださいね」
「先輩もですよ」
篠田先輩がコピー機から戻ってきた。
「真壁、表紙はB案で進める。御影は台詞の確定を今日中に。ネームに入れるところまで持っていこう」
「はい」
陽向はいつものように私の隣に座った。
三十センチほどの距離。
ポットで淹れたコーヒーの香りが、教室の中に漂っている。
彼はタブレットを開きながら言った。
「第三幕、読んだよ。独白、あれでいこう」
「……ありがとうございます」
「柚が何を考えてるのか、前よりよくわかるようになった。特に、缶がこっち側にあるってところ」
私はペンを握り直した。
「……あそこは、少し書きすぎたかと思ったんですけど」
「俺は好きだな。言いたいことを全部台詞にしないところが、紗季らしい」
「……キャラクターの話です」
陽向は少しだけ笑った。
「うん。柚の話」
それから、何気ない調子で付け加えた。
「でも、紗季が書いたから出てきた言葉だと思うよ」
私は返事をしなかった。
褒められることには、少しずつ慣れてきたはずなのに。
こういうとき、何を言えばいいのかは、いまだにわからない。
桃果が向かいの席から顔を上げた。
「先輩、土曜の夜にフォルダを更新していましたよね。二時十七分でした。ちゃんと寝ました?」
「……寝ました」
「何時に?」
「その……」
「やっぱり、あまり寝ていませんね?」
「一ノ瀬さん」
「はい」
「そこは、見なかったことにしてください」
「難しいですね」
桃果は笑いながらノートに何かを書き込んだ。
陽向がこちらに顔を向けた。
「そういえば、缶コーヒーは飲んだ?」
「……飲みました」
「よかった」
彼はそれだけ言って画面に目を戻した。
少し間を置いてから、もう一度尋ねる。
「付箋は、剥がした?」
「……剥がしました」
「捨てた?」
私は思わず彼を見た。
「捨てていません」
陽向の顔が、ぱっと明るくなった。
「そっか」
「……そんなに嬉しそうにしないでください」
「いや。ちゃんと読んでもらえたんだなと思って」
「読んでいなかったら、返事もできません」
「そうだね」
彼は満足そうに頷いた。
私は少し迷ってから、付け加えた。
「……ノートに挟んであります」
口にした瞬間、言わなくてもよかったかもしれないと思った。
陽向は驚いたように目を丸くした。
それから、いつもの穏やかな笑顔になった。
「ありがとう」
その声が思ったより静かだったので、私は何も言い返せなくなった。
桃果が目を細めてこちらを見ている。
「先輩、付箋まで取ってあるんですね」
「捨てる理由がありませんから」
「……そうですか」
「そうです」
桃果はそれ以上何も言わなかった。
ただ、ノートの端に何かを書き足していた。
たぶん、また余計な観察記録なのだろう。
「一ノ瀬さん。何を書いているんですか」
「企業秘密です」
「サークルの制作なのに?」
「はい。観察は別枠なので」
「……もう」
私がため息をつくと、陽向が隣で笑った。
窓の外では、春の風が新緑の葉を揺らしていた。
教室の中では、入稿までの日程表がドアの横に静かに貼られている。
篠田先輩が手元の資料を揃えながら口を開いた。
「よし。台詞を確定に近づけよう。次はネームの通しだ。恋愛パートも、そろそろ覚悟しておけよ」
恋愛パート。
その言葉に、耳の先が少し熱くなった。
隣で陽向が小さな声で言った。
「紗季が書いた台詞だから、通し読みが楽しみだよ」
「……キャラクターの台詞です」
「うん。柚の台詞」
彼は少しだけ間を置いた。
「だから、楽しみなんだ」
私はペンを握り直した。
怒っているわけではない。
動揺がまだ少し残っている。
それでも、隣で一緒に原稿を見ている時間は、去年よりもずっと自然になっていた。
制作の相談をするのは、楽しい。
意見を交わして、自分では気づかなかったところを教えてもらうのも、悪くない。
恋人未満という関係は、まだ何も変わっていない。
境界線も、消えてはいない。
けれど、その線のこちら側に、私のことを覚えていてくれる人がいる。
いつものコーヒーを覚えている人がいる。
そんなことが、少しだけ嬉しかった。
私は、窓の外に目を向けた。
四月の空は、高く澄んでいた。
机の端に置いたスマートフォンを、ちらりと確かめる。
陽向との個人チャットには、土曜日の夜に交わした『おやすみ』が残っている。
猫の足跡のスタンプは、結局、送れなかった。
返信欄を開けば、今からでも送ることはできる。
けれど、私はまだ、その一押しができずにいた。
送ってしまえば、何かが変わるのだろうか。
それとも、何も変わらないのだろうか。
そんなことを考えながら、私はスマートフォンを伏せた。
まだ、わからない。
それでも、原稿の続きを書くことはできる。
私は第三幕の見出しを見つめた。
『告白前の一歩』
一歩の先には、まだ答えの出ていない気持ちがある。
そして、その隣には冷たい缶コーヒーが置かれている。
今は、それで十分だった。




