3. プロットは誰の心?
土曜日の午後。
カフェ『ブックマーク』の扉を開けると、コーヒーの香りに、古い紙の匂いが混じっていた。
店内の壁は大きな本棚で埋められ、棚と棚のあいだには読書灯の柔らかな光が落ちている。
窓際の席には午後の日差しが届いていたが、奥のほうは少し薄暗く、外の賑わいもここまでは届かない。
私は入口で一度、店内を見渡した。
奥の四人掛けテーブルに、陽向が座っていた。
「紗季、こっち」
こちらに気づくと、彼は手を上げた。
机の上にはタブレットとノートパソコンが並び、その横にホットコーヒーが二杯置かれていた。
片方は陽向の前、もう片方は私が座るはずの席にある。
ブラック、砂糖なし。
「……もう頼んだんですか?」
バッグを椅子の背に掛けながら尋ねると、陽向は自分のカップに手を伸ばした。
「うん。自分のを頼むついでに。いつものやつでよかった?」
「頼む前に決めないでください」
「違ったら俺が飲むよ」
「ブラックを二杯も飲むつもりですか?」
「まあ、何とかなるでしょ」
「絶対、後悔しますよ」
「じゃあ、紗季が飲んでくれれば解決だな」
「どうしてそうなるんですか」
陽向は楽しそうに笑った。
私は小さく息をつき、カップを自分の前に引き寄せた。
「……今回は、同じです」
「よかった」
何がそんなに嬉しいのか、彼は満足そうに頷いている。
私の好みを覚えていた。
ただ、それだけのことだ。
それなのに、ちゃんと覚えていてくれたことが少しだけ嬉しかった。
私はコーヒーに口をつけ、気持ちを落ち着けるように一口飲んだ。
ほどなくして、篠田先輩と一ノ瀬さんが連れ立ってやってきた。
二人ともカウンターで注文した飲み物を手にしている。
「お待たせしました」
篠田先輩が空いている席に腰を下ろし、一ノ瀬さんもその隣に座った。
「真壁先輩、席を取っておいてくださってありがとうございます」
一ノ瀬さんが礼を言うと、陽向は軽く手を振った。
「どういたしまして。窓際が空いてたから。資料も広げやすそうだし」
「助かります。今日は結構な量がありますからね」
篠田先輩はテーブルの中央に積まれた資料を手前に引き寄せた。
印刷したプロットの全文に、ページ数の見積もり、構成案、各場面のメモ。
一冊分の物語を、机の上に並べたような量だった。
「……これ、全部確認するんですよね?」
私が尋ねると、篠田先輩は当然という顔で頷いた。
「最初から最後まで、一度通して読みたい。台詞の違和感も、構図の問題も、気づいたところはその都度メモしていこう」
「なるほど……」
「長くなりそうだけど、今のうちにずれを直しておいたほうが、あとが楽だからな」
「わかりました」
一ノ瀬さんがノートパソコンを開く。
陽向はタブレットの位置を調整し、私は台詞用の原稿と赤ペンを手元に揃えた。
カップを置く音がして、近くのテーブルからページをめくる音が聞こえた。
去年、前作を仕上げていたときも、このカフェで通し読みをした。
席を見渡すと、すでに引退した桐山先輩と相沢先輩の声が蘇る。
あのときの中心は先輩たちで、私と陽向、篠田先輩は台詞と作画、仕上げを担っていた。
締切が迫っていて、誰もが時計を気にしながら細かな台詞の違いまで確認していた。
読んでいる途中で意見が食い違い、コーヒーが冷めても話が終わらないこともあった。
完売の知らせを受けたあと、篠田先輩が「来年もやるなら、またこういう時間を作ろう」と言ったのを覚えている。
その言葉どおり、今年も同じ席に座っている。
ただ、向かいには一ノ瀬さんがいた。
彼女はまだ、私たちの間に流れる時間を知らない。
去年の締切前の空気も、何度も書き直した原稿も、完成した本を手渡したときの気持ちも。
これから一緒に作るなかで、少しずつ知っていくのだろう。
「じゃあ、御影からお願いする。第一幕の部室の場面から」
篠田先輩に促され、私は原稿を開いた。
最初の見出しを目にしただけで、少しだけ喉が詰まった。
『第一幕・第一場 文芸部室』
その下には、舞台の説明が続いている。
西向きの窓。
少し色褪せたカーテン。
壁際に積まれた文芸誌。
机に置かれた原稿用紙。
どれも、ずいぶん細かく書かれていた。
「……ここ、カーテンの色まで決めておく必要はありますか?」
私が尋ねると、陽向は画面から顔を上げた。
「あると思うけど」
「どうしてですか?」
「部屋の感じがわかったほうが、描きやすいから。読んでる人にも、どんな場所なのか伝わるだろ?」
「でも、そこまで細かく書くと説明が多くなりませんか?」
「そうかな?絵にしたら、そんなに気にならないと思うけど」
私は原稿の該当箇所を指で押さえた。
「雰囲気を出したいのはわかります。ただ、ここまで細かく決めなくても、必要なものは伝わる気がします」
陽向は少し考え、タブレットに目を戻した。
「……じゃあ、いったん描いてみる。多すぎたら削ろう」
思っていたより、あっさり引き下がった。
「最初からそうしてください」
「最初から描いてみないと、わからないこともあるだろ?」
「それは、そうですけど」
篠田先輩が、二人のやり取りを聞きながらメモを取った。
「描写を残すかどうかは、ネームを見て決めよう。今は『簡略化の余地あり』でいい」
「……わかりました」
私は舞台指示の横に、赤ペンで小さく書き込んだ。
陽向はそれを覗き込んで、少しだけ笑った。
「細かいなあ」
「真壁さんに言われたくありません」
「それもそうか」
彼が笑うので、私もそれ以上は言わなかった。
原稿を持ち直し、続きを読み始める。
* * *
――中学二年の秋。
放課後の文芸部室には、窓から傾いた夕陽が差し込んでいた。
猫気質の主人公・柚は、膝の上の原稿を押さえたまま、読み合いの輪から少し離れて座っている。
隣の机には、犬気質の同級生・橙がいた。
橙は、柚に何も言わない。
ただ、原稿の端を押さえる彼女の手元を、時折気にしている。
「……別に、読まなくてもいいです」
* * *
そこまで読んだところで、陽向が口を挟んだ。
「ここ、いいな」
私は顔を上げた。
「何がですか?」
「柚の『別に』。そのまま使おう」
「……は?」
「紗季が提案した口癖だろ。キャラクターにも合ってると思う」
「だからといって、私の口癖をそのまま使う必要はないでしょう」
「そのままっていうか、柚が言うと自然なんだよ。言いたくないことがあるときに、話を終わらせようとする感じが」
「それは、柚の性格を考えて決めたものです」
「うん。だから、ちゃんとキャラクターとして成立してるってこと」
陽向は特にからかう様子もなく言った。
そのせいで、かえって返しにくくなった。
冗談なら、こちらも冗談で返せる。
でも、彼は本当に作品のことを考えている。
私の言葉をそのまま真似したいわけではなく、その言葉が登場人物の性格を表すものとして使えると言っているのだ。
わかっている。
わかっているけれど、本人を前にして説明されると、どうにも落ち着かなかった。
「……台詞として成立しているから、です。私が言ったからではありません」
「そうだね」
陽向はあっさり頷いた。
「それでいいと思う」
一ノ瀬さんがノートパソコンから顔を上げた。
「私も、ここは好きです。柚が本当は気になっているのに、先に話を切り上げようとしているのが伝わります」
「気になっている、というのは……」
「隣にいる橙のことです。気にしていないふりをしているけど、本当は何か言ってほしいんじゃないかなって」
私は手元の原稿を見つめた。
「……そういう解釈も、できると思います」
「御影先輩は、違うと思いますか?」
「いえ。まだ、決めていないだけです」
答えながら少しだけ息をついた。
柚が何を考えているのかは、私が書いた台詞だけですべて決まるわけではない。
絵になり、コマの中に置かれ、読む人の目に触れたとき、初めて伝わるものもある。
それを考えるのは、少し怖い。
けれど、面白くもあった。
私は原稿を一枚めくった。
* * *
橙が部室の外にある自動販売機で買った缶コーヒーを、柚の机の端に置く。
ブラック、無糖。
柚は一度だけ橙の手を見たあと、缶に触れないふりをした。
「私、自分で買えます」
「知ってるよ。でも、ここに置いとくくらい、いいだろ?」
「……変な人」
「よく言われる」
* * *
読みながら、思わず口元が緩みそうになった。
このやり取りは、前の台詞よりも自然に感じられる。
橙は、柚に何かを強制したいわけではない。
飲んでほしいと頼むことすらせず、ただ手の届くところに置いておく。
受け取るかどうかは、柚に任せている。
そういうところが、彼らしいと思った。
「ここは、残したいです」
読み終えてから私が言うと、陽向が頷いた。
「うん。俺も好き」
「台詞の話ですからね」
「わかってるよ」
そう言って、彼は笑った。
本当にわかっているのかどうかは、少し怪しかった。
読み進めるうちに、部室の風景が頭の中に浮かんでくる。
古いエアコンの低い振動音。
西向きの窓から差し込む夕方の光。
机に積まれた原稿用紙。
読み合いの順番が近づくと、私は紙の端を何度も押さえ直していた。
部室を出れば、廊下の向こうに自動販売機があった。
今となっては、どれも何でもない風景だ。
それなのに、思い出そうとすると細かなところまで覚えている。
あの部屋で、誰がどこに座っていたのか。
どんな声で話していたのか。
何を言われて、どう返したのか。
もちろん、そのすべてを覚えているわけではない。
けれど、忘れたつもりでいたことが、原稿の一文をきっかけに次々と思い出されていく。
「御影、続けて」
篠田先輩の声に、私ははっとした。
「あ、はい。すみません」
原稿に目を戻し、残りの第一幕を読み終える。
一ノ瀬さんはしばらく画面を見つめていた。
それから、顔を上げた。
「部室の場面、すごくいいですね。読んでいると、どんな場所なのか自然に浮かんできます」
「ありがとうございます」
「ただ……これって、先輩たちの実体験も入ってますよね?」
私は、すぐに答えられなかった。
「……創作です」
口にしてから、自分でも少し無理があると思った。
一ノ瀬さんは私の顔を見て、それから陽向のほうを見た。
「そうなんですね」
「そうです」
「……はい」
彼女はそれ以上追及せず、ノートパソコンに視線を戻した。
その気遣いがわかったからこそ、私は少し居心地が悪くなった。
篠田先輩が資料を揃えながら言った。
「実体験が入ること自体は、別に問題ないだろ。前作だって、缶コーヒーの好みや二人の距離感には、俺たちが知っていることが反映されていたわけだし」
「そうなんですけど……」
「読む側はそんな細かいところまで考えずに楽しんでくれるかもしれないぞ」
「それなら、いいんですが」
私は原稿の端を揃えた。
前作を出したあと、イベントで何度か尋ねられたことがある。
「これって、結局付き合ってるんですか?」
「続編は出ないんですか?」
「二人は、モデルがいるんですか?」
そのたびに、作品と現実は別だと説明してきた。
もちろん、物語を読んだ人が登場人物の関係を想像してくれるのは嬉しい。
でも、作品の中の二人を通して私と陽向の関係まで決めつけられると、どうにも落ち着かなかった。
作品なら、好きなだけ距離を縮められる。
反対に、必要なら離すこともできる。
けれど、現実の私たちは、そうはいかない。
「……第二幕、読みます」
私はそれ以上の話を続けないように、原稿をめくった。
* * *
第二幕は、文化祭当日の場面から始まる。
柚と橙は、それぞれ別の役割を任されていた。
廊下ですれ違ったとき、橙の腕には、ほかの女子生徒がつけていたものと同じリストバンドが見えた。
柚はそれが何を意味するのか、尋ねられない。
私は台詞を追いながら、次のページを開いた。
そのとき、テーブルの向こうでスマートフォンが震えた。
陽向のものだった。
彼は一度画面を見て、すぐに伏せた。
それだけのことだった。
けれど、ほんの一瞬、画面に表示された写真が目に入った。
入ってしまった。
文化祭の飾りつけらしいものを背景に、女の子と男の子が並んで写っている。
男の子は制服姿で、顔まではよく見えなかった。
ただ、どこか陽向に似ている気がした。
「……どうかしましたか?」
思わず口にすると、陽向が顔を上げた。
「ん? ああ、ごめん。通知が来ただけ。続けていいよ」
「……読んでいる途中です」
「うん。ごめん」
陽向は申し訳なさそうに笑った。
私は小さく頷き、原稿に目を戻した。
たったそれだけのやり取りだった。
それなのに、さっきまで読んでいた文章が、うまく頭に入ってこない。
私は一度、息を整えてから、続きを読み始めた。
* * *
橙は柚のことを気にしているのか、いないのか。
自分でも、よくわかっていない。
柚は橙の隣にいる女子生徒の名前を、わざと尋ねないふりをする。
そして、ようやく口を開いたとき、出てきた言葉は、こんなものだった。
「……別に、気にしていません」
* * *
読み終えたあと、私は少しだけ黙った。
自分で書いた台詞なのに、妙に口の中に残った。
一ノ瀬さんがこちらを見ている。
「……御影先輩」
「はい?」
「今のところ、少し声が硬くなっていました」
「そうですか?」
「はい。さっきまでは、もう少し柔らかかったので」
「……読み方の問題です。気にしないでください」
一ノ瀬さんは、何か言いたそうな顔をしたものの、結局頷いただけだった。
篠田先輩がカップを置いた。
「少し休憩にしよう。十五分くらい。飲み物を足したい人は、今のうちに」
「ありがとうございます」
私は原稿を閉じた。
肩に思っていた以上に力が入っていた。
背もたれに身体を預けると、ようやく息がしやすくなる。
どうして、あんなものが気になったのだろう。
陽向が誰から連絡を受けようと、私には関係がない。
今までだって、私の知らない人と連絡を取っていたはずだ。
それなのにあの写真が目に入った瞬間、胸の奥がざわついた。
理由を考えようとすると、かえって落ち着かなくなった。
私は席を立ち、ドリンクバーへ向かった。
* * *
新しいコーヒーを注ぎながら、私はさっきのことを考えないようにしていた。
昔の文化祭の写真が、資料として残っていることはあるだろう。
創作をするなら、実際の風景を確かめたくなるのもわかる。
陽向は、絵を描くときに細かなところまで気にする人だ。
服のしわや、光の当たり方、手の位置。
少しでも気になれば、何度でも描き直す。
だから、写真を見ていたとしても不思議ではない。
そう自分に言い聞かせて、私はコーヒーを持って席へ戻った。
陽向はタブレットで表紙のラフを開き、一ノ瀬さんと何か話していた。
篠田先輩は少し離れたカウンターで飲み物を注いでいる。
いつもの光景だった。
それを見て、少しだけ安心した。
……何を安心しているのだろう。
自分でもおかしくなって、私は小さく息を吐いた。
席に戻ると、陽向のスマートフォンがテーブルの上に置かれていた。
画面はまだ点いたままだった。
見るつもりはなかった。
ただ、手を伸ばした先にあったので、視界に入ってしまったのだ。
LINEの画面には、いくつかのトークが並んでいた。
その一番上に、三ノ宮という名前が見えた。
開かれたトークの下には、短いメッセージが表示されている。
『文化祭の写真、まだ残ってた?』
私はカップを持つ手を止めた。
三ノ宮。
聞き覚えのない名前だった。
「真壁さん」
呼びかけると、陽向がこちらを向いた。
「ん?」
私は一度だけ画面を見てから、彼の顔を見た。
「……その連絡、制作に関係するものですか?」
自分でも驚くほど、冷たい声になった。
陽向は私の顔を見て、すぐにスマートフォンを伏せた。
「見えた?」
「……見えました」
「ごめん。画面、出しっぱなしだった」
「そういうことを聞いているんじゃありません」
言ってから、私は口を閉じた。
では、何を聞きたかったのだろう。
仕事の連絡なのかと聞いて、どうするつもりだったのか。
もし仕事ではないと答えられたら、私は何と言うつもりだったのだろう。
自分でも、わからなかった。
一ノ瀬さんが、そっとこちらを覗き込んだ。
「先輩、眉間に皺が寄ってます」
「寄っていません」
「寄ってますよ」
「……一ノ瀬さん」
「はい。すみません」
彼女は素直に引き下がった。
その様子を見て、篠田先輩がカップを置きながら口を開いた。
「真壁、説明しておいたほうがよさそうだぞ」
陽向は少し困ったように笑った。
「……うん。そうだね」
それから、私のほうを向いた。
「表紙の参考に、昔の文化祭の写真を探してたんだ。文芸部の出し物の前で撮ったやつがないかなと思って」
「写真を?」
「うん。制服とか、リボンとか、当時の飾りつけとか。記憶だけで描くより、実物を見たほうがわかりやすいから」
「……それなら、そう言ってくれればよかったのに」
「ごめん。作業中だったから、あとで話せばいいと思ってた」
「あとで、って……」
私は言いかけて、やめた。
何を言いたいのか、自分でもよくわかっていなかった。
テーブルの上に置いた原稿の見出しが、目に入る。
『第三幕・告白前の一歩』
私は、そこから目を離せなかった。
今は、作品の打ち合わせをしている。
それなのに、どうしてこんな話をしているのだろう。
「……写真を送ってくれたのは、三ノ宮さんですか?」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
陽向はわずかに目を見開いた。
「ああ、うん。中学の同級生。クラスは違ったけど、文化祭の準備で一緒に動くことがあったんだ」
「一緒に、ですか」
「装飾の搬入とか、展示の準備とか。向こうは実行委員だったから、文芸部の出し物も手伝ってくれてた」
「……そうなんですね」
「うん。昔から写真を撮るのが好きな人だったから、残ってないか聞いてみたんだ」
そこまで聞けば、十分だった。
ただの資料探し。
それだけの話だ。
なのに、陽向はさらに思い出したように付け加えた。
「文化祭の日も、部の前で何枚か撮ってくれてたんだよ。紗季のリボンが風で揺れてた写真もあった気がする。あ、いや、柚のリボンの参考にって話だけど」
一瞬、言葉が出なかった。
彼はすぐに作品の話へ戻したけれど、私は、最初に出てきた自分の名前が耳に残っていた。
紗季のリボン。
風で揺れていたことまで、覚えている。
「……そんなことまで、覚えているんですか」
「え?」
「いえ。何でもありません」
陽向は少しだけ首を傾げた。
「中学のころのことだから、全部じゃないよ。でも、文化祭の前は紗季も緊張してたし。原稿を持つ手が震えてたのは、覚えてる」
「……それは、もう何度も聞きました」
「そうだったね」
彼は苦笑した。
「ごめん。でも、俺にとっては、結構覚えてることなんだよ」
返事ができなかった。
どうして彼は、そんなふうに言うのだろう。
私が忘れたいと思っていることを、わざわざ覚えていてくれる。
そのことが嬉しいのか、困るのか、自分でも判断がつかなかった。
一ノ瀬さんが気まずそうに口を開いた。
「……真壁先輩、説明してるだけなのに、なんだか余計に難しくなってませんか?」
「そうかな」
陽向が首を傾げる。
「はい。たぶん、今のはもう少し短くても伝わったと思います」
篠田先輩が小さく頷いた。
「そうだな。真壁は、説明しようとすると長くなる」
「え、そうですか?」
「そうだよ」
「……気をつけます」
陽向は少しばかり納得がいかない様子でスマートフォンをしまった。
私はカップの中のコーヒーを見つめた。
三ノ宮さんという人のことは、何も知らない。
どんな人なのかも、陽向とどのくらい親しかったのかも。
ただ、私の知らない時間に陽向と同じ場所にいた人なのだ。
それだけのことなのに、妙に気になってしまう。
「……紗季」
陽向が少し声を落とした。
「もしかして、気になった?」
「何がですか」
「三ノ宮のこと」
「気になっていません」
答えるのが、少し早すぎた。
陽向は何も言わず、私を見ている。
その視線が落ち着かなくて、私は手元の原稿を引き寄せた。
「……休憩、そろそろ終わりですよね。第三幕を読みましょう」
「うん」
陽向はそこでようやく頷いた。
追及されなかったことに、ほっとした。
それなのに、少しだけ物足りないような気もした。
そんな自分が、いちばん厄介だった。
* * *
第三幕は、卒業が近づいた冬の廊下から始まる。
柚は橙に渡すはずだった原稿を、結局渡せないまま自動販売機の前で立ち止まっている。
部室からは、まだ誰かの話し声が聞こえていた。
けれど、廊下には人影がない。
橙は柚を見つけると、少し離れたところで足を止めた。
すぐには近づかない。
柚が顔を上げるのを待ってから、ポケットに入れていた缶コーヒーを取り出し、その手にそっと触れさせる。
「受け取って。今日は、こっちに置いとく」
「……こっち?」
「境界線の向こうじゃなくて。こっち側」
前作のタイトルを、物語の中で拾い直す台詞だった。
私は読みながら、昨年の奥付を思い出した。
並んだ二つの名前。
机の上に積まれた同人誌。
完売したと知ったとき、陽向と顔を見合わせてどちらからともなく笑ったこと。
あのときは、完成させることだけで精いっぱいだった。
けれど、一冊の本になったものを誰かが手に取ってくれたとき、ようやく自分たちの作った物語が自分たちの手を離れたのだと実感した。
今、私は、その続きを作っている。
「……『告白前の一歩』」
見出しを読んでから、私は次の台詞へ進んだ。
「あなたのことが、わからない」
柚の言葉に、橙はすぐには答えない。
缶コーヒーを握った柚の手が、少しだけ動く。
「わからなくていい。わかりたいなら、一歩だけこっちに来い」
「……来たら、壊れるかもしれません」
「壊れたら、そのときは俺が拾う」
* * *
読み終えたところで、一ノ瀬さんがペンを止めた。
「ここ、好きです」
「どこが?」
陽向が尋ねる。
「橙が、柚に無理に近づかないところです。こっちに来いとは言うけど、手を引っ張ったりはしないんですよね」
「そうだね」
「それに、『壊れたら、そのときは俺が拾う』って。柚が失敗する可能性も、ちゃんと残している感じがします」
私は、原稿に目を落とした。
「……この台詞は、少し調整したいです」
「どうして?」
陽向がこちらを見る。
「『拾う』だと、橙が全部引き受けるように聞こえる気がします。柚がどうしたいかを聞く前に、何もかも自分が何とかする、と言っているような……」
「なるほど」
陽向は画面の台詞を見直した。
「じゃあ、柚が一歩踏み出したあとに、橙が受け止める感じにする?」
「そうですね。言い方も、もう少し考えてみます」
「わかった。ネームのほうでも、表情を少し抑えてみる」
思っていたより話はすんなり進んだ。
陽向は台詞について意見を言うとき、時々驚くほど素直に聞いてくれる。
だからこそ、こちらも真面目に考えなければならない。
私はペンを置き、続きを読む。
柚は、一歩だけ踏み出す。
橙は手を差し伸べない。
ただ、そこにいる。
柚が自分の意思で近づいてくるのを、急かさずに待っている。
読みながら、私は中学時代のことを思い出していた。
文化祭の前日。
原稿を読む順番が近づいて、手が震えていた私に、陽向は「大丈夫?」と聞いた。
私は大丈夫だと答えた。
彼はそれ以上何も言わなかった。
どうして緊張しているのかとも、無理をしなくていいとも言わなかった。
ただ、隣にいてくれた。
あのときの私は、それがどれだけありがたいことなのか、うまく言葉にできなかった。
今でもできていない気がする。
「ここが、第三幕の中心ですね」
一ノ瀬さんの声で、私は顔を上げた。
「柚がどうするかだけじゃなくて、橙がどう待つかも大事なんだと思います」
篠田先輩が頷いた。
「御影は、柚がどういう気持ちで一歩を踏み出すと思う?」
私は少しだけ考えた。
「……怖いんだと思います。今までと同じではいられなくなるから。でも、このまま何も言わないのも嫌なんじゃないでしょうか」
「橙は?」
篠田先輩が陽向に尋ねる。
陽向は画面の柚と橙を見ながら答えた。
「柚には来てほしいんだろうね。でも、無理に来させたくはない。だから、待ってる」
彼はそこで一度、言葉を切った。
「たぶん、橙だって怖いんだと思うよ。自分から近づいて、柚が離れていったら嫌だから。でも、何もしないまま終わるのも嫌なんだろうな」
私は思わず彼を見た。
陽向は作品の話をしている。
それはわかっていた。
けれど、彼の言葉を聞いていると、何となく落ち着かなくなる。
「……今のは、作品の話ですよね」
尋ねると、陽向は少しだけ笑った。
「うん。作品の話」
「……だったら、橙と柚に向けて言ってください」
「そのつもりだったんだけどな」
陽向は少し考えてから、画面の中の二人を見た。
「一歩は、二人で踏むものだから。柚の心も橙の心も、片方だけが決めることじゃないと思う」
「……それも、作品の話ですか」
「うん。今はね」
一ノ瀬さんがノートパソコンに顔を向けたまま、小さく肩を震わせた。
「……先輩たち、たまに会話がそのままネームになりそうですよね」
「なりません」
私は即座に答えた。
陽向は何か言いたそうにこちらを見ていたけれど、結局、何も言わなかった。
それでよかった。
今は、まだ。
私は原稿に視線を戻した。
柚も橙も、まだ答えを出していない。
それなら、自分の気持ちだって、今すぐ決めなくていいはずだった。
* * *
通し読みが終わるころには、窓の外はすっかり夕方の色に染まっていた。
街路樹の影が長く伸び、ガラス越しに見える通りでは帰宅する人たちの姿が増えている。
篠田先輩はメモをまとめながら、今後の作業を確認した。
「第一幕は、部室の描写を少し整理する。第二幕の文化祭は、一ノ瀬と真壁でコマ割りを詰めてくれ。第三幕は、御影が台詞をもう一度見直す。橙の最後の台詞は、ネームと合わせて考えよう」
「わかりました」
「真壁、表紙のラフは来週までに三案」
「了解です」
「一ノ瀬は、第一幕の試作を二ページ。まずは、今日話したところからでいい」
「はい。橙が柚を待つ場面、描いてみたいです」
一ノ瀬さんは、画面を見ながら嬉しそうに頷いた。
「待っているときの表情を、どこまで描くか考えたいんです。何もしていないように見えても、気持ちは動いていると思うので」
「いいと思う。楽しみにしてるよ」
陽向が答えると、一ノ瀬さんは少し照れたように笑った。
「頑張ります」
資料を片づけ、会計を済ませるために立ち上がったところで、篠田先輩が陽向の肩を軽く叩いた。
「そういえば、さっきの写真。次からは共有フォルダにも入れておいてくれ。制作資料は、みんなが見られるようにしておいたほうがいい」
「はい。わかりました」
「個人の連絡先にしかないと、あとから探すのも面倒だからな」
「気をつけます」
篠田先輩は今度は私のほうを向いた。
「御影も何か気になることがあったら、その場で言ってくれ。後から台詞だけ直されても、こっちには理由がわからないことがある」
「……そうですね」
「わかったか?」
「はい」
先輩は満足したように頷き、バッグを肩にかけた。
一ノ瀬さんも、慌ててそのあとを追う。
「お疲れさまでした。また火曜日に!」
「うん。気をつけて帰ってね」
陽向が手を振る。
私も二人に頭を下げた。
店内には、私と陽向だけが残った。
窓の向こうでは、夕暮れが少しずつ夜に変わり始めていた。
ガラスに映った店内の灯りが、さっきよりもはっきりと見える。
私はバッグの持ち手を直しながら、出口へ向かおうとした。
「紗季」
呼び止められて、足を止める。
「……何ですか、真壁さん」
陽向は少しだけ言いにくそうな顔をしていた。
「三ノ宮のこと、まだ気になってる?」
「気になっていません」
答えてから、自分でも少し早口だったと思った。
陽向はすぐには何も言わなかった。
「そっか」
それだけ言って、私の様子を見ている。
その沈黙に耐えきれず、私は先に口を開いた。
「……資料のために写真を探していたことは、わかりましたから」
「うん」
「それだけです」
「うん。わかってる」
本当にわかっているのかどうかは、わからなかった。
でも、彼はもうそれ以上何も聞かなかった。
代わりにバッグから缶コーヒーを一本取り出した。
ブラック、無糖。
「帰りに飲んで」
「……またですか?」
「うん。今日、頑張ってたから」
「通し読みをしただけです」
「その通し読み、結構大変だっただろ」
そう言って、彼は缶を差し出した。
私は少しだけ迷ってから受け取った。
「……ありがとうございます」
手のひらに冷たい感触が伝わる。
去年もこんなふうに缶コーヒーをもらった。
何でもない贈り物だと思う。
彼にとっては、本当に何でもないことなのかもしれない。
それでも私はどうしてか、もらうたびに少しだけ困ってしまう。
「三ノ宮は、本当に昔の同級生だよ」
陽向が言った。
「写真のこと以外で、今も頻繁に連絡を取ってるわけじゃないし」
「……そこまで説明していただかなくても、大丈夫です」
「そっか」
彼は少し困ったように笑った。
「でも、誤解されたままなのも嫌だから」
その言葉に、私は顔を上げた。
陽向はふざけた様子ではなかった。
「紗季が気にしてるなら、ちゃんと説明しておきたいと思ったんだ」
「だから、気にしていません」
「うん」
「……本当です」
「わかった」
彼は頷いたけれど、少しだけ笑っていた。
どうして、そんな顔をするのだろう。
何も言い返せなくなって、私は缶コーヒーを握り直した。
そのとき、陽向がふと思い出したように言った。
「そういえば、中学のとき、俺が女子に人気があるとか、そんな話を聞いたことがあるんだよね」
「……誰からですか?」
聞いてからしまったと思った。
陽向は少し意外そうに私を見た。
「部の先輩。文化祭が終わったあとだったかな。『真壁は女子に人気があっていいな』って、そんな感じのことを言われたんだ」
「そう、ですか」
「でも、俺はよくわからなかったけどね」
「……今も、ですか?」
言葉が、勝手に出ていた。
陽向は今度こそ、はっきりと笑った。
「今は、紗季が気にしてくれるから、少しわかるかも」
心臓が、跳ねた。
「……気にしていません」
「うん」
「本当に、気にしていませんから」
「わかったって」
陽向は笑いながら、ほんの少しだけ近づいた。
それだけで、私は彼がすぐ隣にいることを意識してしまった。
「でも、ちょっと嬉しいよ」
「……何がですか」
「紗季が、俺のことを気にしてくれるの」
私は、言葉を失った。
何も言えないまま、彼を見上げる。
陽向の顔には、からかうような笑みが浮かんでいたけれど、その目は、いつもより少し真剣だった。
「……帰ります」
ようやく、それだけを口にした。
「うん。気をつけて」
「火曜日、遅刻しないでくださいね」
「しないよ」
「本当に?」
「本当」
私は小さく頷き、カフェの出口へ向かった。
背中に、陽向の視線を感じた。
けれど、振り返らなかった。
* * *
駅へ向かう道には、夕暮れの名残が残っていた。
空の高いところは、まだ薄い青を保っている。
建物の影は長く伸び、街灯が一つ、また一つと灯り始めていた。
私はバッグの中の缶コーヒーを確かめてから、スマートフォンを取り出した。
陽向から、メッセージが届いていた。
『おつかれ、紗季。今日の柚、よかった』
短い一文だった。
さっきまで、あれだけ長い時間をかけて台詞を読み、直し、話し合っていたのに。
最後に送られてきたのは、たったそれだけの感想だった。
私は、画面を見つめた。
『ありがとう』
そう返せばいいだけなのに、指が止まった。
去年なら、猫の足跡のスタンプを送って終わりにしていた。
あのころは、何を返しても自分の気持ちまで伝わってしまいそうで怖かった。
今は、一緒に作品を作ることにも慣れた。
彼の言葉に言い返すことも、意見が合わずに話し合うことも、以前ほど難しくはない。
それなのに、自分のことになると、相変わらず何も言えなかった。
私は、少し迷ってから返信欄を開いた。
『橙の「拾う」は、もう少し考えます。台詞を変えたら、また見てください』
仕事の話にすれば、自然に返せる。
そう思って送信した。
すぐに、返事が届く。
『うん。待ってる。紗季の「別に」は、そのまま使いたいけど』
私は思わず小さく笑った。
「……もう」
声に出してから、周囲に人がいることに気づき、慌てて口を閉じた。
スマートフォンをバッグにしまう。
三ノ宮という名前は、もう画面にはない。
それでも、今日初めて知ったことが、いくつも頭に残っていた。
陽向には、私の知らない時間がある。
当たり前のことだ。
私が知らない人と話し、私のいない場所で笑い、私の知らない出来事を覚えている。
そのことが、どうしてこんなにも気になるのだろう。
私は、缶コーヒーをバッグの中で握った。
冷たい。
その感触が、少しだけ頭を冷やしてくれた。
駅に着くとちょうど電車がホームへ入ってきた。
扉が開き、乗客が降りてくる。
私は人の流れが落ち着くのを待ってから、車内へ乗り込んだ。
窓際に立ち、外の景色を眺める。
電車が動き始めると、夕暮れの街並みがゆっくりと後ろへ流れていった。
作品の中の柚は、まだ一歩を踏み出せていない。
自分の気持ちを認めるのが怖くて、橙の言葉を素直に受け取れずにいる。
では、私はどうなのだろう。
陽向に何かを言われるたび、作品の話だと自分に言い聞かせている。
彼が近づいてくると、少しだけ嬉しくなる。
そのくせ、踏み込まれそうになると、慌てて話題を変えてしまう。
そんな自分を、柚とは違うと言い切れるだろうか。
考えているうちに、私は小さく息を吐いた。
今はまだ、答えを出したくなかった。
『境界線の内側に缶コーヒー』のプロットは、少しずつ形になり始めている。
登場人物の言葉を選び、場面を組み立て、どこで気持ちを動かすのかを考える。
そうしているうちに、物語の中の感情が、自分の中にあるものと重なってしまうことがある。
それが、少し怖い。
でも、書いてみたいとも思う。
陽向が覚えていた、私の何でもない仕草。
自分では忘れたつもりだった、あの頃の部室。
そして、今になっても素直に言えない、いくつもの気持ち。
それらを全部、物語にしてしまえたら。
少しは自分のこともわかるようになるのだろうか。
窓の外に、駅の明かりが流れていった。
私はバッグの中の缶コーヒーに触れた。
まだ、冷たさが残っている。
『告白前の一歩』
第三幕の見出しが頭に浮かんだ。
柚も橙も、まだ答えを出していない。
私も、まだ何も決めていない。
それでも、次に書く台詞は、今日より少しだけ自然なものにできる気がした。
私は目を閉じ、電車の揺れに身を任せた。
物語の続きを考えるのは、明日でもいい。
今夜はもう少しだけ、この気持ちをそのままにしておきたかった。




