2. 新メンバー、加入
星見学園大学の四月は、去年と同じように春の寒さを残していた。
新入生の入学式から二週間ほどが過ぎ、桜は見頃を終えていた。
並木道には淡い緑の葉が目立ち始め、夕方の風が旧校舎の石壁を冷たく撫でている。
去年のこの季節、私は初めて『ねこじるし』の新人歓迎会に立っていた。
胸元の名札には、文学部一年と書かれていた。
サークルに入ったばかりで、先輩たちの顔と名前を覚えることに精いっぱいだったころだ。
あれから、一年が経った。
今、胸元にある名札には、文学部二年と記されている。
受付の長机も、猫の足跡が並んだ立て看板も、去年とほとんど変わっていなかった。
看板の端が少し色褪せ、机の表面に細かな傷が増えたくらいだ。
変わったのは、主に私の内側だった。
「御影、去年より手際がいいね」
机の向こうで、篠田先輩が腕時計を確認しながら言った。
去年は新歓係を務めていた先輩も、今年はサークルの代表だ。
三年生になった彼の声は相変わらず低く、話し方も簡潔だった。
ただ、肩にかけたバッグのストラップには、小さく『代表』と書かれた布タグがついている。
役職が変わったからといって、本人の雰囲気まで大きく変わるわけではないらしい。
「お手伝いできることがあれば、何でも言ってください」
「そういうところだよ。今日は二年生の顔として、新入生に安心感を出してほしい」
「……任せてください、と言い切る自信はまだありませんが」
「謙遜はいい。去年、受付で迷子を拾った実績があるんだから」
迷子。
その言葉に、私は思わず唇を結んだ。
言うまでもなく、真壁陽向のことだ。
去年、旧校舎の教室を読み違えて遅刻したのは、彼だけではなかったはずだ。
それなのに、あの日のことを思い出すと、どうしても最初に浮かぶのは、見習い腕章をつけた彼の姿だった。
そして、その再会から始まった一年間。
缶コーヒーを一本もらったことをきっかけに、私たちは同人誌の制作班を組んだ。
初めて一緒に作った『境界線の向こうに缶コーヒー』は、夏の同人誌即売会で想定していた部数を上回るペースで売れ、イベントの終わりごろには完売した。
あのときの制作班は、四年の桐山先輩と三年の相沢先輩、宇野先輩が主導し、私と陽向、篠田先輩が実行側だった。
ネームは相沢先輩の担当だったが、締切前の慌ただしさもあって、篠田先輩が暫定的に手を付けてくれたこともあった。
陽向が何度もラフを描き直し、私が台詞を調整する。
その繰り返しの中で、ようやく一冊の形になった。
今思えば、あのころの私たちは、「恋人」という言葉よりも「締切」という言葉のほうを、ずっと頻繁に口にしていた気がする。
恋人未満。
創作パートナー。
周囲が勝手に貼りたがるラベルを、私だけが真面目に拒み続けている。
陽向は、相変わらず私を「紗季」と呼ぶ。
私は、人前では「真壁さん」と呼び続けていた。
境界線は、去年よりも少しだけ短くなった気がする。
けれど、線そのものが消えたわけではない。
むしろ、一年間一緒に過ごしたからこそ、どこから先を踏み込ませたくないのか、自分でもよくわかるようになった。
それは、成長なのか。
それとも、ただの意地なのか。
考え始めると面倒なので、私は名簿に視線を戻した。
十八時三十分。
ホールの扉の向こうから、笑い声が漏れてくる。
今年も、新人歓迎会が定刻どおり始まろうとしていた。
* * *
学生食堂の奥にある多目的ホールでは、漫画・小説創作サークル『ねこじるし』の新人歓迎会が始まろうとしていた。
受付が始まると、新入生たちが次々とやってきた。
名前を聞き、名簿に印をつけ、資料の入った封筒を渡す。
必要があれば、ホールの中に空いている席を案内する。
去年と、ほとんど同じ流れだった。
一度経験した仕事には、独特の安心感がある。
人混みは今でも得意ではないけれど、次に何をすればいいのかがわかっていれば、余計なことを考えずに済む。
目の前の作業に集中しているあいだは、自分の気持ちを必要以上に意識しなくていい。
「文学部一年、一ノ瀬桃果です」
新しい名簿に印をつけようとしたところで、目の前の女の子が丁寧に頭を下げた。
肩より少し短い髪が、動きに合わせて揺れる。
目元の表情がよく動く人だった。
好奇心を隠しきれないような視線が、手元の名簿からホールの中へと移っていく。
「はい。一ノ瀬さんですね」
「はい。漫画、読むのも描くのも好きなんです。ネームもいつかやってみたいなって思っていて」
「ネームですか」
「コマ割りとか、台詞の配置とか。お話が漫画の形になっていくところに、すごく興味があるんです」
彼女は少しだけ身を乗り出した。
好きなものの話になると、言葉が自然に増えるらしい。
その様子に私は親近感を覚えた。
「そうなんですね。あとで自己紹介の時間がありますから、そのときにもお話ししてみてください」
「はい。よろしくお願いします、先輩」
先輩。
そう呼ばれることにも、去年よりは慣れた。
それでも、胸の奥には小さな引っかかりが残っていた。
たった一年先に大学へ入っただけで、何かが急にわかるようになったわけではない。
今でも、原稿のことで迷うことはあるし、初対面の人と話すときには緊張する。
ましてや、誰かの相談に乗れるほど、自分の気持ちをうまく扱えているわけでもなかった。
それでも、目の前の新入生から見れば、私は先輩なのだ。
「こちらこそ。中で好きな席に座ってくださいね」
「ありがとうございます」
一ノ瀬さんは封筒を受け取ると、もう一度、室内を見渡した。
その視線がどこに向かっているのか、少し気になったけれど、次の参加者が受付にやってきたので、私はそれ以上考えなかった。
受付の脇では、真壁陽向が新入生の案内を手伝っていた。
腕には、『入稿係』と書かれた腕章が巻かれている。
去年の『新入り』から、一年でずいぶんと立派な肩書きになったものだ。
もっとも、本人のほうは肩書きの変化をそれほど気にしていないらしい。
新入生に席の場所を説明し、資料の不足がないかを確認している。
誰に対しても気負いがなく、初対面の相手にも自然に声をかけていた。
彼がこちらを向いた。
目が合うと、陽向は手を軽く上げた。
私も、小さく頷いて返す。
それだけで、今日の挨拶は済んだ。
仕事の最中には、必要以上に話しかけない。
それが、私の中で決めている小さなルールだった。
「ごめん、遅れた!」
不意に、陽向がこちらへ歩いてきた。
「……何がですか?」
「いや。今年は定刻だよ。去年のことを思い出したから、先に謝っておこうと思って」
「遅刻していないのなら、謝る必要もありません」
「じゃあ、褒めて」
「遅刻していないので、褒めるところもありません」
「厳しいなあ」
彼は笑いながら、受付の横に立った。
去年は、再会した瞬間からこちらの調子を狂わせてくれた人だ。
一年経って、少しは慣れたつもりだった。
けれど、彼が笑うときの明るさも、冗談を口にするときの間合いも、ほとんど変わっていない。
変わらないものがあると知るたび、私は、変わってしまったものを確かめたくなる。
それが何なのかは、まだ自分でもよくわからない。
「紗季は今日も受付?」
「はい。お手伝いです」
「うん。俺も」
「入稿係は、別の仕事でしょう」
「受付は手伝い、入稿は本命。二刀流だよ」
「……言い訳が上手ですね」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
陽向は、そう言って名簿の端を指先で軽く叩いた。
何気ない仕草だった。
けれど、指先が紙に触れる様子を見て、去年の廊下で缶コーヒーを渡されたときのことが、ふと頭をよぎった。
冷たい缶。
少し離れた場所から、こちらの様子をうかがう彼の姿。
あのとき、私は、彼の何気ない気遣いをどれほど嬉しく思っただろう。
今では、缶コーヒーをもらうことにも、隣で作業をすることにも、ずいぶん慣れてしまった。
慣れてしまったからといって、何も感じなくなったわけではない。
私は、慌てて名簿に視線を戻した。
「真壁さん。受付の邪魔になります」
「はいはい。働きます」
そう答えた陽向は、素直に新入生たちのほうへ戻っていった。
その後ろ姿を見送ってから、私は一度だけ、深く息を吐いた。
* * *
歓迎会が始まると、ホールの照明が落とされた。
正面のスクリーンには、サークルの年間予定が映し出されている。
春の新歓、夏の同人誌即売会、秋の学園祭、冬の作品発表会。
去年見たものと、ほとんど変わらない並びだった。
けれど、今年は一枚、見慣れないスライドが加わっていた。
『昨年刊行作品 完売』
その下に、小さく前作のタイトルが記されている。
『境界線の向こうに缶コーヒー』
一瞬、ホールの空気が変わった。
新入生たちの間から、小さなざわめきが起こる。
「これ、読みました」
「先輩たちの作品ですよね?」
そんな声がいくつか聞こえてきた。
自分たちが作ったものを、知らない誰かが手に取ってくれていた。
その事実を思い出すたび、私は少し不思議な気持ちになる。
書いているあいだは、机の上にある原稿が世界のすべてのように感じられる。
何度も台詞を書き直し、言葉の順番を変え、ページをめくるたびに不安になった。
それが、一冊の本になって自分たちの手を離れたあと、どこかで誰かの手に渡っている。
私の知らない場所で、誰かがページをめくったのだ。
そう考えると、今でも少し落ち着かなくなる。
篠田先輩がマイクを持って、前に出た。
「今年も、夏の同人誌即売会に新刊を出す予定だ。去年の一冊は、おかげさまで完売した。読んでくれた人たちには、この場を借りてお礼を言いたい」
先輩は一度、スクリーンを振り返った。
「そこで、今年はシリーズ第二弾を出すことにした」
画面が切り替わる。
新しいタイトルが、大きく表示された。
『境界線の内側に缶コーヒー』
私は、思わず息を呑んだ。
また、缶コーヒー。
そう言いたくなったけれど、声には出さなかった。
前作の続編というより、別の扉を開くようなタイトルだった。
境界線の内側。
前作が「向こう」なら、今度は「内側」——大学で私が守っている線より、ずっと古い場所を指している。
中学の文芸部室。
その場所の空気が、題名ひとつで記憶の奥からよみがえった。
古いエアコンが立てる振動音。
机に積まれた原稿用紙。
窓際の棚に並んだ、誰かが持ち込んだ文芸誌。
そして、放課後の薄暗い廊下。
あの場所で、私は何度も原稿を読み、何度も失敗し、何度も、誰かに自分の文章を見せることをためらった。
もうずいぶん前のことだと思っていたのに、題名ひとつで、こんなにも鮮明に思い出せる。
「今回もオリジナル短編、三十六ページを想定している。前作と同じ犬猫カップルを扱うが、今回は中学の文芸部を舞台にした別編だ」
篠田先輩の説明が続く。
「企画の骨子は春休みのうちにまとめた。制作班は、御影、真壁、私、一ノ瀬さんの四人が中心になる。去年の前作のように先輩陣が企画を引っ張る形はもうないが、仕上げと広報は引き続き私が受け持つ。そこに、今年はネーム担当を新しく迎えたいと考えている」
ホールの中で視線が、自然と動いた。
その中で、一ノ瀬さんがわずかに背筋を伸ばしたのが見えた。
「参加を希望する人は、自己紹介のあとで手を挙げてくれ。人数に限りがあるから、希望が多い場合は相談させてもらう」
説明が進む。
作画・装丁・入稿を陽向が担当し、台詞と最終校正を私が担当する。
篠田先輩は仕上げと広報を受け持つ予定だという。
そして、ネームの枠が一つ空いている。
隣から、小さな声が聞こえた。
「去年より、ちゃんとチームって感じだね」
陽向だった。
「去年もちゃんと完結しましたよ」
「うん。それはそう。ちゃんと一冊できたし、売り切れたし」
「でしたら、何が違うんですか」
「専任のネーム担当がいること。今回は、俺がラフを重ねすぎなくても済みそうだから」
彼は、少しだけ遠い目をした。
「去年、入稿前に寝落ちしすぎたし」
「……それは、聞きたくない反省です」
「聞かなくていいよ。改善するから」
「本当にお願いします」
私は、呆れたようにため息をついた。
その言葉を交わしているうちに、去年の夏の記憶が、ひとつ浮かんできた。
締切前夜、陽向の部屋で作業を続けたことがあった。
机の上には、印刷用のデータとラフ画、冷めかけた飲み物。
夜が深くなるにつれて会話も少なくなり、最後には、画面を見つめる私たちの間に、キーボードを叩く音だけが残った。
途中、小豆の写真を見せたとき、陽向が何気なく言ったのだ。
『俺は紗季派』
あのときは、冗談のように受け流した。
付き合っているわけではない。
そもそも、彼が何を意図して言ったのかも、きちんと確かめたことはない。
それでも、あの一言だけは、今でも不意に思い出してしまう。
私はスクリーンに視線を戻した。
『境界線の内側に缶コーヒー』
同じ境界線でも違う側だ。
表面上は違う物語でも、缶コーヒーと誰かとの距離。
その二つが、シリーズをつなぐ芯になっているのかもしれない。
そして、その芯を作る作業に、私は今年も関わることになる。
去年よりも少しだけ、楽しみだった。
それと同じくらい、怖くもあった。
* * *
自己紹介の時間が始まった。
一年生が順番に立ち上がり、名前と専攻、それから好きなジャンルを紹介していく。
漫画を読むのが好きな人。
小説を書くのが好きな人。
イラストを描いている人。
中には、まだ自分が何をしたいのか決めきれていないという人もいた。
それでも、好きなものについて話すときの表情には、皆どこか似たところがある。
少し恥ずかしそうで、けれど、好きだと言えることが嬉しい。
私は、そんな様子を眺めながら、今年の新入生はどんな作品を作るのだろうと考えていた。
やがて、一ノ瀬さんの番が来た。
彼女は椅子から立ち上がり、マイクを受け取った。
「文学部一年、一ノ瀬桃果です。漫画を読むのも描くのも好きで、特に、コマ割りや構成を考えることに興味があります。まだ本格的なネームの経験はありませんが、いつか自分でもやってみたいと思っていました。よろしくお願いします」
言い終えたあと、彼女は緊張を隠すように、小さく笑った。
けれど、その目は真剣だった。
「好きな漫画は?」
篠田先輩が尋ねると、彼女は雑誌や作品の名前をいくつか挙げた。
話しながら、指先でマイクの持ち手をなぞっている。
自分の中にあるものを、できるだけ正確に伝えようとしているのだろう。
私は、彼女の話を聞きながら、ほんの少しだけ自分の一年目を思い出していた。
何かを作りたい。
けれど、どうすれば作れるのかは、よくわからない。
その気持ちを抱えたまま、サークルの扉を開いた日のこと。
「では、制作班の希望者を聞こう」
篠田先輩の声で、私は現実に戻った。
手を挙げたのは、作画希望が二人、広報補助希望が一人。
そして、最後に一ノ瀬さんが、まっすぐに手を挙げた。
「一ノ瀬です。ネームを担当させてください」
声は、思っていたよりはっきりしていた。
「未経験ですが、構成を絵に落とし込む仕事を、ずっとやってみたいと思っていました」
「経験は、どのくらい?」
「自分で一ページの漫画を描いたことがあるくらいです。でも、先輩方の前作は何度も読み返しました。コマとコマの間の呼吸が、すごく好きで」
陽向が、隣で小さく「お」と声を漏らした。
その反応を見てから、篠田先輩が私と陽向のほうを向いた。
「御影、真壁。ネームは一ノ瀬に担当してもらおうと思う。反対はあるか?」
私は、少しだけ考えてから答えた。
「……台詞側としては、問題ありません」
嘘ではなかった。
一ノ瀬さんの話し方からは、物語を丁寧に読み取ろうとする姿勢が感じられた。
きちんと話し合えば、きっといいものを作れるだろう。
ただ、心のどこかでは、緊張もしていた。
台詞を書くことと、その台詞が漫画の中でどう見えるかを考えることは、同じではない。
文章なら、一文を読むために必要な時間も、言葉を置く位置も、ある程度は自分で決められる。
けれど、ネームでは台詞は絵やコマ割りと一緒になって、初めて読者に届く。
自分の言葉が、知らない人の手によって、どんな間合いで配置されるのか。
それを誰かに預けるのは、慣れているつもりでも、やはり少し怖かった。
陽向が続ける。
「俺も賛成。去年は俺がラフを何度も重ねてたから、専任の人がいてくれると助かると思う」
「じゃあ、決まりだ」
篠田先輩は頷き、一ノ瀬さんに向き直った。
「一ノ瀬、今年の夏コミ班に入ってもらう。担当はネームだ。よろしく頼む」
彼女は、驚いたように目を見開いたあと、深く頭を下げた。
「はい。よろしくお願いします!」
その表情を見ていると、こちらまで少し嬉しくなった。
去年、自分が制作班に加わったときには、こんなふうに正式に迎え入れてもらう場面はなかった。
先輩たちの企画に手を挙げ、陽向と一緒に作りたいと思っていることを認めるだけで、精いっぱいだったからだ。
一ノ瀬さんにとって、今日がどんな日になるのかは、まだわからない。
けれど、ここでの経験が、彼女にとって大切なものになればいいと思った。
「一ノ瀬さん。ネーム、よろしくお願いします」
私が声をかけると、彼女は少し驚いたあと、明るく笑った。
「はい。御影先輩の台詞を、ちゃんと生かせるように頑張ります」
「……ありがとうございます」
そう答えながら、私は自分の口元がわずかに緩んでいることに気づいた。
誰かと一緒に作品を作ることは怖い。
けれど、自分の書いた言葉を楽しみにしてくれる人がいる。
そのことを悪くはないと思った。
「真壁先輩も、よろしくお願いします」
一ノ瀬さんが陽向に向き直ると、彼は気軽に手を上げた。
「よろしく。桃果、締切は改めて決めるけど、俺は早めに進めたい派だから、最初に言っておくね」
「真壁さん」
私が口を挟むと、陽向がこちらを向いた。
「ん?」
「いきなり下の名前で呼ぶのは、どうなんですか」
「え、駄目?」
「普通は、少し様子を見るものでは……」
「サークル内では下の名前で呼ぶ人も多いよ。本人が嫌なら変えるけど」
彼は一ノ瀬さんに視線を向けた。
「嫌だったら言ってね」
「いえ、私は大丈夫です。ちょっとびっくりしただけで」
一ノ瀬さんは照れたように笑った。
「じゃあ、桃果って呼ぶね」
「はい。お願いします」
二人のやり取りを見て、私は小さく息を吐いた。
距離を縮めることに何のためらいもない。
それが彼の長所なのだろう。
そして、それはときどきこちらの調子を狂わせる原因でもあった。
「私は、真壁さんです」
思わず口にすると、陽向はあっさり頷いた。
「うん。紗季は真壁さんだ」
悪びれない返事だった。
「……そういう問題ではありません」
「そう?」
一ノ瀬さんが私たちの顔を交互に見た。
それから何かを納得したように小さく頷いた。
「……なるほど。もうバグってますね」
「バグっていません」
私は即座に言い返した。
陽向が吹き出し、周囲からも笑い声が上がる。
恥ずかしい。
けれど、その笑い声を聞きながら私は少しだけ肩の力を抜いていた。
班が四人になった。
去年の前作は、卒業した先輩たちが主導していた。
私と陽向、篠田先輩は、台詞と作画、仕上げを担う実行側だった。
今年は、その三人に、新しい一年生が加わる。
今までとは違う考え方や、違う感性が、作品の中にも入ってくるだろう。
その変化が怖いような、楽しみなような。
どちらでもある気がした。
* * *
歓迎会の後半は、交流時間になった。
新入生同士が話す声、先輩たちが過去の作品を見せる声。
ホールのあちこちに輪ができ、それぞれの話題で盛り上がっている。
私たちの制作班にも、何人かが質問に来ていた。
去年の作品はどこで読めるのか。次の新刊はいつ出るのか。
制作班に入らなくても、活動には参加できるのか。
篠田先輩が説明をしているあいだ、陽向は配布資料を整理し、私は参加希望者の名前を控えていた。
そのとき、近くにいた一年生の女の子が、ふいに私と陽向を見比べた。
「御影先輩と真壁先輩って、もう付き合ってるんですよね?」
手元のペンが止まった。
「……はい?」
「え、違うんですか? さっきから、すごく仲よさそうだったから」
その声に一ノ瀬さんが振り向いた。
「えっ、そうなんですか?」
「いや、違いますから」
私が慌てて否定すると、一ノ瀬さんは不思議そうに首を傾げた。
「でも、前作の二人って、恋人未満の関係なんですよね。現実の先輩たちも、そういう感じなのかなって」
「作品と現実を混同しないでください」
「すみません。でも、ちょっと気になって」
一ノ瀬さんの表情には、悪意がなかった。
ただ知りたいという気持ちが、そのまま顔に出ている。
それが、かえって困る。
「まだ付き合ってないよ」
陽向があまりにも自然に言った。
その一言に一年生たちの視線が集まる。
「えっ、まだ?」
「じゃあ、これから?」
「真壁先輩、そういう感じなんですか?」
「ちょっと、待ってください!」
思った以上に声が大きくなった。
自分でも驚いて、私は慌てて口を閉じる。
「……そういうことを、周りに向けて言わないでください!」
「ごめん」
陽向は素直に謝った。
けれど、その顔にはさほど反省している様子がない。
「でも、嘘はつかないから」
「真壁さん!」
「うん」
彼はまた素直に頷いた。
どうしてそういうところだけ聞き分けがいいのだろう。
……ちゃんとわかってくれる人だ。
そう思った瞬間、その考えを認めたくなくて私は顔を背けた。
隣で一ノ瀬さんが小さく笑っている。
「……やっぱり距離感がバグってますね」
「バグっていません」
「そうですか?」
「そうです」
「じゃあ、作品の参考にさせてもらいます」
「しないでください」
間髪を入れずに答えると、今度は周囲が大きく笑った。
耳が熱い。
恥ずかしさと、困惑と、それから、名前のつけられない感情が、胸の奥で入り交じっていた。
私は少し離れたところにいる篠田先輩を探した。
すると、先輩は状況を察したらしく、こちらに向かって声を上げた。
「はいはい、距離感の実演はここまで。企画会議は来週の火曜日、旧校舎の角教室でやるぞ。制作班のメンバーは忘れないように」
「実演ではありません!」
私が抗議しても先輩は笑っているだけだった。
こうして、私たちの二年目は始まったばかりだというのに、すでに騒がしかった。
* * *
翌週の火曜日。
夜の旧校舎は、昼間とは違った静けさに包まれていた。
角教室の窓際にある席は、相変わらず私の定位置だった。
背もたれの角度。
机の端についた小さな傷。
黒板に残る、薄いチョークの跡。
去年と変わらない景色の中に、新作の企画書が広げられている。
『境界線の内側に缶コーヒー』
あらすじの一行には、こう書かれていた。
――中学の文芸部室。
読み合いに参加できずにいる猫気質の主人公と、隣で黙って支える犬気質の同級生が、缶コーヒーの置き方ひとつで互いの距離を測り直していく。
私は、企画書を読み返した。
同級生。
その部分で、目が止まる。
幼馴染ではない。
同じ部活に所属する、ただの同級生だ。
私は余白に、鉛筆で小さく修正を書き込んだ。
物語の設定としては細かいことなのかもしれない。
けれど、誰と誰がどのくらい近い関係にあるのか。
そこを曖昧にしたまま話を進めるのは、どうにも落ち着かなかった。
「ここ、空いてる?」
隣で椅子を引く音がした。
顔を上げると、陽向がタブレットを持って立っていた。
「……私の席です」
「知ってる。隣、空いてる?」
「空いていても、座る必要はありませんよね?」
「あるよ。モニターを二枚見せたいから」
彼はそう言って、私の隣に腰を下ろした。
タブレットを机に置き、画面をこちらへ向ける。
肩と肩のあいだは、三十センチほど。
近すぎず、遠すぎない。
去年の歓迎会で隣に座ったときと、同じくらいの距離だった。
あのときは、何を話せばいいのかさえわからず、彼の存在を意識しないようにすることに精いっぱいだった。
今では、隣で作業をすることにも慣れた。
画面をのぞき込むときに肩が近づくことも、意見を聞くために顔を向けられることも、以前ほどは気にならない。
……気にならない、はずだった。
「真壁さん。去年より、境界線の説明は省略してもいいですよ」
「省略はしないよ。紗季が怒るから」
「……怒っていません」
「今、目が怒ってる」
「怒っていません」
「はいはい」
陽向が、笑いながらタブレットを操作した。
その様子を見ていた一ノ瀬さんが、向かいの席から顔を上げる。
「先輩の目は、むしろ喜んでますけど」
「一ノ瀬さん?」
「はい」
「観察は控えめに、と言いましたよね?」
「はい。でも、正確には言います」
その返答に、陽向が声を立てて笑った。
私は机の上に置いていたペンを握り直す。
やはり、彼女の観察眼は侮れない。
「そろそろ始めよう」
篠田先輩が資料を机の中央に重ねた。
「まず、犬猫の設定について。前作と似た構造になるけど、別作品として切り分けていい。シリーズとして読む人にはつながりが感じられるし、初めて読む人にも伝わるようにしたい」
「台詞側は、前作と被らないようにします」
私はそう答えた。
口にしてから、中学時代の部室を思い出した。
古いエアコンの振動音。
机の上に積まれた原稿用紙。
廊下側の窓から差し込む、夕方の光。
そして、部室を出たところにあった自動販売機。
どれも特別な風景ではなかった。
けれど、今でも細部まで覚えている。
陽向がタブレットを操作し、メモを共有画面に映した。
そこには、いくつかの箇条書きが並んでいた。
『部室:窓の向きは西。机は二列。奥の棚に過去の文芸誌』
『自動販売機:ブラック無糖の棚。銘柄は要確認』
『文化祭前の読み合い。御影、手の震え。描写するか要相談』
画面を見た瞬間、指先が冷たくなった。
「……真壁さん」
「ん?」
「こういうメモは、共有する前に一言ください」
陽向の指が止まった。
「ごめん。いきなりだったね」
「いきなりというレベルではありません。手の震えが要相談、って何ですか?」
「描写したら、読者に伝わるかなと思って」
「伝わる、というのは……」
言いかけて、言葉に詰まった。
一ノ瀬さんが共有画面を見つめている。
彼女が悪いわけではない。
作品を作るために、必要な情報を読んでいるだけだ。
それでも、自分の知られたくない記憶が、こうして箇条書きにされていることに落ち着かなかった。
私は机の上の企画書に視線を落とした。
「私、前作も読みました。シリーズとして考えると、今回はかなり実体験に近い部分も増えるんですね」
一ノ瀬さんが慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「そういう要素は、作品を作るうえで大事だと思います。でも、どこまで使うかは、先輩たちと相談しながら決めたいです」
その言葉に少しだけ気持ちが落ち着いた。
私は共有画面をもう一度見た。
陽向のメモはどれも具体的だった。
きっと、作品のことを考えて細かく覚えていたのだろう。
文芸部室の机の配置も、窓の向きも、自動販売機の銘柄も。
そして、私が手を震わせていたことまで。
「……覚えているのは、真壁さんだけでいいです。みんなの前に出さないでください」
「うん。ごめん」
陽向は今度はすぐに謝った。
いつものように冗談で返すことはしなかった。
「晒すつもりはなかったんだ。作品に必要な情報を整理していただけで」
「それは、わかっています」
そう答えたものの、気持ちが完全に落ち着いたわけではなかった。
自分の記憶を誰かと共有すること。
そこから物語を作ること。
その二つは、思っていた以上に近く、そして難しいものなのかもしれない。
陽向は共有画面を閉じた。
「……紗季の台詞が、一番、その部屋の空気に合うと思ってる」
声が少しだけ低くなった。
私は顔を上げられなかった。
褒められているのだろう。
私の書く言葉なら、あの場所をきちんと表現できると彼は思ってくれている。
そう理解しているのに、胸の奥が落ち着かなかった。
自分が大切にしてきたものを、誰かに見つけてもらうのは嬉しいことだ。
ただ、もしそれが自分の弱さや隠しておきたい記憶に関わるものだとしたら。
簡単に喜ぶことはできない。
私は、窓の外に目を向けた。
夜のキャンパスに、街灯の光が滲んでいる。
遠くの木々は暗がりに溶け、窓ガラスには室内の照明がぼんやりと映っていた。
「……台詞は、書きます」
ようやく、それだけを口にした。
「ただし、手の震えについては、フィクションとして調整します。必要な場面であっても、実際の出来事をそのまま使うとは限りません」
「うん。任せる」
陽向はそれ以上追及しなかった。
そのことに、私は少しだけ救われた。
* * *
プロット会議は、三幕構成の確認から始まった。
第一幕は、文芸部室での読み合いを控えた前夜。
第二幕は、文化祭当日に起きる、ささやかなすれ違い。
第三幕は、卒業が近づいた冬の廊下と、自動販売機の前。
出来事そのものは、どれも日常の延長にある。
誰かが大きな秘密を打ち明けるわけでも、突然の事件が起きるわけでもない。
ほんの少し、言葉が足りなかったり。
相手の気持ちを考えすぎて、何も言えなくなったり。
そんな小さなすれ違いが、少しずつ二人の距離を変えていく。
私はプロットを読みながら、台詞を入れる場所を考えていた。
どこで沈黙を置くか。
どこで主人公に視線を逸らさせるか。
言葉にしないことで、かえって伝わる感情がある。
それを漫画の中でどう表現すればいいのだろう。
「締切を決めよう」
篠田先輩がカレンダーを開いた。
夏の同人誌即売会の日程から逆算したスケジュールが、机の上に広げられる。
「入稿は七月中旬が安全圏だ。作業の進み具合にもよるけど、余裕を持って進めたい」
「七月上旬でいいと思う」
陽向がすぐに言った。
「……早すぎます」
私は即座に反応した。
「どうして?」
「どうしても何も、まだネームも決まっていません。台詞の調整だって、これからです」
「だから早めに進めたいんだよ。先にネームが固まれば絵も余裕を持って描ける」
「そのためにこちらの作業時間があるんです」
「もちろん、無理をさせるつもりはないよ」
陽向は一ノ瀬さんに視線を向けた。
「桃果はどう? 進め方について、希望はある?」
不意に話を振られ、一ノ瀬さんは少しだけ目を丸くした。
それから、手元のノートを見ながら答えた。
「……先輩たちの作業が早いと、私も焦ってしまいそうです。でも、締切に余裕があるほうが安心できます。ただ、睡眠時間までは削りたくないです」
「そこは確保する」
陽向は真面目な顔で頷いた。
去年、締切前に寝落ちしていた人の言葉とは思えない。
「本当にお願いしますね」
「うん。去年の反省は生かすよ」
「その言葉、去年も聞いた気がします」
「今回は桃果もいるから、もっとちゃんとする」
「私を理由にしないでください」
一ノ瀬さんが小さく抗議すると、陽向は笑った。
「ごめんごめん」
篠田先輩はカレンダーに線を引いた。
「じゃあ、六月十日入稿を目標にしよう。五月末までにネームを完成させる。そこから作画と台詞の最終調整に入る形で」
「了解です」
陽向が答える。
私も頷いた。
「そのスケジュールなら、大丈夫だと思います」
「真壁、あまり前倒しの提案を増やすなよ」
篠田先輩が釘を刺すと、陽向は少しだけ笑った。
「必要なら提案します。でも、今回は班の合意で決めたので、きちんと守ります」
「約束、ですよ?」
私は去年と同じ言葉を口にした。
陽向はこちらを向いて頷いた。
「うん。約束」
その返事に、去年の記憶が重なった。
夏の制作期間。
締切前夜の慌ただしさ。
印刷所に送るデータを何度も確認し、ようやく作業が一段落したころ、陽向は椅子の上で眠ってしまった。
私は机の端に置かれていた毛布を見つけ、そっと彼の肩に掛けた。
別に特別な意味があったわけではない。
ただ、風邪をひかれては困ると思っただけだ。
……本当に、それだけだった。
「そういえば」
一ノ瀬さんが不意に口を開いた。
「去年の入稿前日、写真を撮っていましたよね?」
私は嫌な予感がした。
「……写真?」
「真壁先輩が寝落ちしていて、御影先輩が毛布を掛けているやつです」
「どうして知っているんですか!」
思わず身を乗り出した。
「前作の制作記録を見せてもらったときに、篠田先輩が話してくれました。SNSには載っていないそうですけど」
「……篠田先輩」
私が視線を向けると、先輩は資料を重ねながら涼しい顔で答えた。
「代表として、一部は保存してある」
「どうしてですか!」
「制作の記録だから」
「その説明で納得できると思いますか?」
「思っていない」
陽向が隣で笑いを堪えている。
「真壁さんも、笑わないでください」
「いや、ごめん。俺も知らなかったから」
「知らなかったのなら、なおさらです」
「何が?」
「……もういいです」
一ノ瀬さんがノートに何かを書き込んでいた。
「何を書いているんですか」
「いえ。制作班の雰囲気について、少しだけ」
「消してください」
「はい。検討します」
「検討ではなく、消してください」
「御影先輩、言葉の選び方が篠田先輩に似てきましたね」
「それは、喜んでいいんでしょうか……」
私が本気で悩んでいると、篠田先輩が珍しく声を立てて笑った。
教室に短い笑い声が広がる。
一年目の記憶が、少しずつ断片となって戻ってきた。
苦い缶コーヒー。
締切前の夜。
完売を知ったときの驚きと、そのあとに訪れた不思議なほど静かな達成感。
私たちは恋人にはなっていない。
それでも、一冊の本を作るために、何度も隣に座り、言葉を交わし、同じ時間を過ごしてきた。
その積み重ねが、今の私たちを作っているのだと思う。
そして、今年はそこに新しい人が加わる。
それが少し楽しみだった。
* * *
会議の後半は、第一幕のネーム相談になった。
一ノ瀬さんがタブレットにラフを映し、陽向が構図について意見を出す。
私は台詞が入る位置や、会話の間合いを確認していた。
画面には文芸部室の一場面が描かれている。
猫気質の主人公が、原稿を膝の上で押さえているコマ。
その隣には、犬気質の同級生が座っていた。
「この場面なんですけど」
一ノ瀬さんがラフを拡大した。
「主人公が読み合いを断るところ、台詞は『別に、読まなくていいです』でどうでしょう?」
私は画面を見たまま考えた。
「……『別に』が、少し多いですね」
「口癖だから」
陽向が横から口を挟んだ。
私は反射的に手元の企画書をペンで軽く叩いた。
「作品の登場人物の口癖と、私の口癖は別です」
「似てるから使いたいんだよ」
「使うなら作者コメントで断ってください」
「断らないよ。作者は俺と紗季だから」
「……真壁さん」
名前を呼ぶと、彼は笑うのをやめた。
少しだけ真面目な顔になり、タブレットの画面に視線を落とす。
「紗季の『別に』は、拒絶したいときだけの言葉じゃないと思ってる」
私は、返事をしなかった。
「本当は気になってる。でも、どう言えばいいかわからない。そういうときに、先に言葉を閉じてしまう感じ。怖いから、前に出られないときの言葉なんじゃないかな」
言われた瞬間、胸の奥がかすかに痛んだ。
彼は、何を見て、そんなことを言うのだろう。
自分でもうまく説明できない感情だった。
嬉しいときほど、素直に言葉にできない。
近づきたいと思うほど、距離を取ってしまう。
それは、ただの性格だと思っていた。
けれど陽向は、それが怖さからくるものだと考えているらしい。
「だから、台詞に入れると、主人公の気持ちが伝わりやすくなると思う」
褒められているのか、分析されているのか、よくわからなかった。
どちらにしても、心の奥に置いていたものを、急に覗き込まれたような気分だった。
私は画面に目を戻した。
主人公の顔は、まだ下書きの線だけでできている。
その表情を見ていると、自分とは別の人物なのだと少しだけ思えた。
「……一本だけ、なら」
ようやく、そう答えた。
陽向がほっとしたように笑う。
「ありがとう」
一ノ瀬さんがこちらを見た。
「……距離感、またバグってますね」
「バグっていません」
言い返す気力は、さっきより少なくなっていた。
本当は、違うと言い切る自信がない。
陽向が私のことをどう見ているのか。
どうして、そんなに細かなところまで覚えているのか。
一つずつ問いかけてしまえば、今まで保ってきた線が少しずつ曖昧になってしまう気がした。
私はペンを持ち直した。
「では、台詞の案をいくつか出します。一ノ瀬さん、ネーム側で配置を試してみてもらえますか?」
「はい。やってみます」
彼女はすぐに画面へ向き直った。
陽向も構図について説明を始める。
打ち合わせは再び制作の話へ戻っていった。
それがありがたかった。
今はまだ、作品の話をしていたい。
自分自身のことまで、言葉にするのは難しかった。
* * *
教室を出るころには、時刻は二十時を過ぎていた。
窓の外は、すっかり夜になっていた。
廊下の照明が床に細長い光を落とし、窓ガラスには室内の明かりがぼんやりと映っている。
建物の外からは風に揺れる枝の音がかすかに聞こえた。
一ノ瀬さんは明日の講義が早いと言って先に帰った。
篠田先輩も印刷所への問い合わせメールを送る必要があるらしく、資料をバッグにしまいながら階段へ向かった。
「お疲れ。次回までに各自、担当分を進めておいてくれ」
「はい。お疲れさまでした」
そう答え、私は軽く頭を下げた。
やがて、廊下に残ったのは私と陽向だけになった。
静かだった。
昼間は学生たちの声で満ちている場所も、夜になると別の建物のように感じられる。
私はバッグを肩にかけ直し、帰ろうとした。
そのとき、陽向がバッグの中から缶を一本取り出した。
黒い缶。
ブラック、無糖。
ラベルの色も、去年渡されたものと同じものだった。
「差し入れ。帰りに買っておいたんだ」
「……ありがとうございます」
受け取る。
冷たい金属が掌に触れた。
あのときと、よく似ていた。
去年の歓迎会が終わったあと、廊下で缶コーヒーを受け取ったときも、こんなふうに冷たかった。
何でもない贈り物のはずなのに、手の中にあるだけで心の置き場所がわからなくなった。
「今さらだけどさ」
陽向が隣で言った。
「前作、完売してよかったね」
「ええ。……本当に驚きました」
「紗季の台詞が、一番売れた理由だと思うけど」
私は思わず彼を見た。
またその言い方だ。
今日の打ち合わせでも、同じようなことを言っていた。
本気で褒めているのかもしれない。
けれど、こうも何度も言われると、どうしていいかわからなくなる。
「……そういうこと、言わないでください」
「どうして?」
「どうしてって……」
言葉に詰まる。
嬉しいから、困るのだ。
自分の書いたものを認めてもらえるのは、嬉しい。
それが、一緒に作品を作った相手からの言葉なら、なおさらだった。
けれど、その嬉しさを顔に出したくない。
ましてや、陽向にだけは。
「言わないと伝わらないから」
彼は穏やかな声で言った。
「伝わらなくていいです」
「うん。でも、俺は好き」
好き。
その言葉が、廊下に静かに落ちた。
私は、手の中の缶コーヒーを見つめた。
何が好きなのか。
私の台詞が好きなのか。
私が書く物語が好きなのか。
それとも。
聞き返せばいいだけだった。
たった一言、どういう意味ですか、と尋ねればいい。
けれど、それを聞いてしまえば、返ってくる答えによっては、今の関係を保てなくなるかもしれない。
私は歩幅を広げた。
「……お疲れさまです、真壁さん。先に帰ります」
「紗季」
名前を呼ばれて、足が止まりかけた。
止まってはいけない。
そう思って、前を向いたまま歩き続けた。
猫は、逃げるのが上手い。
少なくとも、私はそういうことにしていたかった。
角を曲がる直前、彼の声が背中に届いた。
「おつかれ、紗季」
去年、歓迎会のあとにスマートフォンへ届いた一文と同じだった。
あの夜、私は返事をするまでに三分かかった。
何と返せばいいのかわからず、結局、猫の足跡のスタンプを一つだけ送った。
たったそれだけのやり取りを、今でも覚えている。
今年はどうしよう。
返信はしないつもりだった。
私はそのまま、階段を下りた。
* * *
部屋に戻るころには、時刻はすっかり遅くなっていた。
玄関の明かりをつけ、コートをハンガーに掛ける。
静かな部屋には机の上に置いた資料と、先ほど持ち帰った企画書のコピーが待っていた。
その隣には、一ノ瀬さんが配ってくれたネーム用のフォーマットがある。
去年とは違う。
新しい作品。
新しい制作班。
そして、そこに加わった新しい人。
今年の夏は、去年より少し賑やかになりそうだった。
私はバッグから缶コーヒーを取り出し、机の上に置いた。
まだ冷たい。
プルタブを開けて、一口飲んでみる。
苦い。
いつもと同じ味だった。
その苦さを確かめてから、私はスマートフォンを手に取った。
画面には通知が一つだけ残っていた。
陽向からだった。
『おつかれ、紗季』
私は、しばらくその文字を見つめていた。
去年と同じ言葉。
けれど、同じではない。
一年分の時間が、その短い一文の向こう側にある。
去年は、再会したばかりだった。
懐かしさと嬉しさと、どうしていいかわからない気持ちを抱えながら、私は猫の足跡のスタンプを送った。
あのときは、返事をしないことのほうがずっと難しかった。
今夜は、既読だけをつけた。
画面の端に、小さな表示が現れる。
指が、返信欄に触れかけて、止まった。
何と書けばいいのかわからない。
それは、半分だけ本当だった。
書きたいことなら、いくつもある。
今日の打ち合わせのこと。
一ノ瀬さんのこと。
新しい物語を一緒に作ること。
それから、さっきの「好き」という言葉の意味。
でも、それを一つずつ文章にしようとすると、どれも違う気がした。
『ありがとう』では、少し近すぎる。
『別に嬉しくない』では、嘘つきのまま終わってしまう。
私は、スマートフォンを机の上に伏せた。
ノートを開く。
去年、何度も書き直した仮題はもう正式な一冊になっている。
今年のタイトルは、境界線の内側——中学の文芸部室まで私を連れていく。
そこには、懐かしい景色だけではなく、思い出したくない気持ちも残っている。
それでも、書いてみたいと思った。
今日の日付の下に、新しいタイトルを記す。
『境界線の内側に缶コーヒー』
ペンを走らせたあと、私は余白に制作班の四人の名前を書いた。
御影紗季。
真壁陽向。
一ノ瀬桃果。
篠田蓮。
前作の奥付には、先輩の名前も並んでいた。
今年は、いなくなった名前の代わりに、観察眼の鋭い一年生が加わった。
桃果の「バグってます」という言葉を思い出し、私は小さく笑った。
嫌いではない。
むしろ、正確すぎて困る。
人と人との距離を、少し離れた場所から見ているつもりだった。
踏み込みすぎないように。
余計なことを言わないように。
自分の気持ちを、できるだけ知られないように。
けれど、私自身のことになると、どうしても見えなくなる。
スマートフォンの画面は、もう暗くなっていた。
既読の表示だけが、端に小さく残っている。
私は、冷め始めた缶コーヒーを手に取った。
境界線は、まだある。
けれど、今年は制作班という形で、その向こう側にいる人が増えた。
一緒に作品を作る人が増えれば、考え方も、言葉の選び方も変わるだろう。
それは、ときに難しいことかもしれない。
自分の思いどおりにならない場面も、きっとある。
それでも、去年とは違う物語が始まるのだと思う。
缶を握りしめたまま、私は第三幕の台詞を頭の中に一行だけ浮かべた。
まだ、ノートには書かない。
物語の中なら、登場人物の気持ちを、どんな言葉で表現するか考えられる。
けれど、現実の気持ちは原稿のように簡単には整えられない。
自分の言葉ひとつで、誰かとの距離が変わってしまうこともあるから。
私はペンを置き、ノートを閉じた。
明日になれば、また新しい台詞を考えよう。
今夜はまだ、答えを出さなくてもいい。
二年目の物語は、もう動き出している。




