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御影さんの境界線の内側で  作者: 椎名弥生


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1/12

1. 再開、ねこじるし

星見学園大学の四月は、まだ春の寒さを残していた。


入学式から、二週間ほどが過ぎていた。


桜は見頃を終え、並木道には淡い緑の葉が目立ち始めている。

日中は穏やかだった空も、夕方になると急に薄暗さを増し、建物の隙間を抜ける風が肌に冷たかった。


旧校舎の石壁には、夜の湿気が白くにじんでいる。


私は、この季節の夕暮れが嫌いではなかった。


昼間の喧騒が少しずつ遠のき、人の声も、足音も、どこか輪郭を失っていく。

そうなると、不思議と自分の呼吸だけがはっきりと感じられた。


考えごとをするには、ちょうどいい時間だった。


文学部棟の自習室を出たのは、十七時五十分を少し過ぎたころだった。


講義と講義のあいだにできた空き時間は、なるべく読書やノートの整理に充てている。

高校までは決められた時間割に従っていればよかったが、大学では、空いた時間をどう使うかも自分で決めなければならない。


自由というものは、思っていたよりも、少しばかり難しかった。


キャンパスには、ガラス張りの新しい校舎と、長い年月を経た旧校舎が並んでいる。

新棟は明るく開放的で、昼間の講義には向いていた。

けれど、私はどうもあの白すぎる光が落ち着かなかった。


『ねこじるし』の部室が旧校舎の角教室にあると知ったとき、少しだけ安心したのを覚えている。


厚い壁に囲まれた部屋は、外の音が適度に遠ざかる。

古い机も、黒板に残った薄いチョークの跡も、何かを書き留めるにはちょうどよかった。


創作をする場所に、必要なのは華やかさだけではない。


静けさや、少しの不自由さ。

そういうものの中にこそ、言葉が入り込む余地がある。


坂道を下りながら、私はスマートフォンを取り出した。

画面には、母からのメッセージが届いていた。


『小豆も元気だよ』


添えられていたのは、実家の猫が丸くなって眠っている写真だった。


小豆は私が家を出てからというもの、私の部屋だった場所を気に入っているらしい。

写真の中でも、私が使っていたクッションの上で、いかにも当然という顔をしている。


思わず頬が緩んだ。

返信はあとにしよう。

今夜は初めて会う人たちの名前を覚えなければならない。


創作とは、少し違う仕事だ。

けれど、言葉を選び、間違いのない形に整え、相手に伝わるようにするという点では、そう遠くないのかもしれない。


そう自分に言い聞かせながら、私はスマートフォンをしまった。


今夜はいつもより少しだけ、人との距離について考えることになりそうだった。


* * *


学生食堂の奥にある多目的ホールでは、漫画・小説創作サークル『ねこじるし』の新人歓迎会が始まろうとしていた。


扉の向こうからはいくつもの笑い声が聞こえる。

椅子を引く音や、誰かが机を叩いて笑う音が重なり、まだ歓迎会が始まっていないというのに、室内はすでに賑やかだった。


入口の脇には、猫の足跡を並べた立て看板が置かれている。

手描きらしい不揃いな線が、かえって親しみやすかった。


十八時三十分。


私は扉の前で立ち止まり、胸元の名札を指先で押さえた。


御影(みかげ)紗季(さき)

文学部一年


『ねこじるし』に入ったのは、先週のサークル見学のあとだった。


今日は二年生の篠田先輩に頼まれ、受付の手伝いをしている。


人の流れが一度に目に入る場所は、少し苦手だ。

けれど、ここに立っていれば、誰と誰が話しているのか、どこで会話が途切れたのか、そういうことが自然と目に入る。


台詞を書くときの参考になる。

そう考えれば、多少の緊張も我慢できた。


もっとも、そうやって何でも創作の役に立つことにしてしまうのは、我ながら少しずるい気もする。


受付の長机には、参加者の名簿と配布用の封筒が並んでいた。

封筒の中には、サークルの年間予定や活動内容をまとめた資料が入っているらしい。


机の向こう側では、篠田先輩が腕時計を確認していた。


「十八時三十分、定刻どおり。助かるよ、御影」


「いえ。こちらこそ、声をかけていただいてありがとうございます」


「そんなにかしこまらなくていい。今日は新入生同士、顔を覚えてもらうのが一番だから」


篠田先輩は、今年の新歓係を務めている二年生だ。


声は低く、話し方は簡潔。

何をするにも無駄がなく、必要なことだけを先に決めていく人だった。


ただ、夏の同人誌即売会に出す新刊の話をしているときだけは、目の奥にわずかな熱が宿る。


それが少し、印象に残っていた。


「そういえば、夏コミの企画、今日の説明で本格的に募集を始めるから」


「新刊を出すんですよね」


「一冊。春休みのうちに、先輩たちが企画をまとめてくれたんだ。仮題は『境界線の向こうに缶コーヒー』。あらすじと三幕構成まではできてる」


思わず聞き返した。


「缶コーヒー、ですか?」


「そう。ちょっと変わってるだろ」


「ええ、まあ……」


仮題という言葉に、少しだけ安堵した。


まだ完成した名前ではない。これから変わる余地もある。


それなのに、境界線と缶コーヒーという、どこかちぐはぐな言葉の組み合わせが妙に気になった。


缶コーヒー。


身近で、ありふれていて、特別なものではない。

けれど、誰かから手渡された一本が、いつまでも記憶に残ることだってある。

企画書の一行目すら読んでいないのに、そんなことを考えてしまった。


「作画、台詞、ネーム、装丁。制作班のメンバーは今日から募集する。人数に限りがあるから、希望者が集まったら締め切る予定だ」


「わかりました」


「御影も、興味があるなら遠慮なく手を挙げてくれ」


「……考えておきます」


そう答えながら、私は受付の名簿に視線を落とした。


考えるまでもなく、創作には興味がある。

問題は、自分の書いたものを誰かと一緒に形にすることだった。

書くことと、見せることは、私にとって似ているようで、まったく違う。


だからこそ、ここにいるのかもしれなかった。


* * *


受付が始まると、新入生たちが次々とやってきた。


名前を告げてもらい、名簿に印をつけ、資料の入った封筒を渡す。


「よろしくお願いします」


「こちらこそ。中で好きな席に座ってくださいね」


同じようなやり取りを繰り返すうちに、最初の緊張は少しずつ薄れていった。


顔と名前を結びつけることにも、だんだん慣れてきた。

声の大きな人、慎重に名札を確認する人、友人同士で楽しそうに話しながら入ってくる人。

それぞれに違う表情があって、眺めているだけでも飽きなかった。


ただ、胸の奥には、別の緊張が残っていた。


私には中学の卒業式以来、一度も会っていない人がいる。


真壁(まかべ)陽向(ひなた)。


中学では、同じ文芸部に所属していた。


クラスは違ったし、普段から何でも話せるほど親しかったわけでもない。

けれど、部活動で顔を合わせるうちに、いつの間にか、彼がそこにいることを当たり前のように感じていた。


部長に押し切られる形で、お互いの原稿を読み合った日がある。

あのとき、陽向は言った。


『みんなで発表しよう』


手の震えを隠しながら、ただ頷いた。


結局、あれが中学時代に彼と一緒に何かをした、最後の機会になった。


卒業式の日、校舎の廊下で交わした言葉は、短いものだった。


「じゃあね」


それだけ。


高校に進学しても、どこかでまた会えるような気がしていた。

だから、連絡先を交換しようとも思わなかった。


けれど、彼は別の男子校に進学したらしいと、後になって耳にした。

偶然に頼って再会を期待するには、少し遠すぎる距離だった。


星見学園大学に入学してからも、彼を探そうとは思わなかった。

学部も違えば、普段過ごす建物も違う。

そもそも、彼が同じ大学にいるという確かな情報さえなかったのだ。


それなのに。

どうして今さら、思い出してしまうのだろう。


名簿に視線を落とし、私は小さく息を吐いた。

もう過去のことだ。

今は、目の前の仕事に集中しなければならない。


そう考えた、そのときだった。

ホールの扉が、勢いよく開いた。


「ごめん、遅れた! 旧校舎の教室、案内と違う部屋だったんだけど!」


よく通る声が、室内に響いた。


少し息が上がっている。

けれど、謝罪の言葉にも不思議と明るさがあった。


明るめの髪。

肩にかけたバッグ。

腕には、ふざけ半分で用意されたのだろう、『新入り』と書かれた見習い腕章が巻かれている。


私は名簿に置いていた指を止めた。

ほんの一瞬、目の前の景色が遠ざかった気がした。


インクの匂いが、記憶の奥に沈んでいた空気を呼び起こす。


中学の文芸部室。

古いエアコンが立てる、かすかな振動音。

机の上に積まれた原稿用紙。


そして、卒業式の朝、制服のリボンが喉元に触れた、あの落ち着かない感覚。


「……あ」


声を漏らしたのは、彼のほうだった。


真壁陽向が、こちらを見ていた。

大きく見開かれた目が、私の顔を確かめるように動く。

周囲のざわめきが、一歩ずつ遠のいていった。


嬉しい。


そう思った。


思ってしまった。


胸の奥から込み上げてきたものを、私は慌てて押し戻す。

そんな感情を表に出してしまえば、何年も会っていなかった時間が、一瞬でなかったことになってしまいそうだった。


それだけは、困る。


「……紗季?」


彼が、私の名前を呼んだ。

ひどく懐かしい声だった。


昔より少し低くなっている。

けれど、呼びかけるときの、わずかなためらいのなさは変わっていなかった。


入口付近にいた新入生が、こちらを振り返る。

誰かが「知り合い?」と小さく呟いた。


私は一呼吸置いて、名簿に視線を戻した。

紙の端を押さえている指先に、力が入る。


「御影です。真壁さん、お久しぶりですね」


自分でも驚くほど、よそよそしい声が出た。


陽向の笑顔が、ほんの少しだけ曇る。

けれど、次の瞬間には、いつもの明るい表情に戻っていた。

犬みたいに、立ち直るのが早い。

昔から、そういうところがあった。


「会えてよかった。星見、同じだったんだ」


「偶然ですから」


「うん。びっくりした」


「私もです」


本当は、もっと聞きたいことがあった。


いつからこの大学に来るつもりだったのか。

大学では何を学んでいるのか。

高校ではどう過ごしていたのか。


けれど、そんな質問を口にしたら、会えなかった時間を埋めたいと思っていることまで、見透かされてしまいそうだった。


「……別に、会いたかったわけじゃないです」


口をついて出たのは、そんな言葉だった。

言ってから、しまったと思った。

陽向は、一瞬だけ不思議そうな顔をした。


それから、柔らかく笑った。


「そっか。でも俺は、会えて嬉しいよ」


「嬉しいなんて、簡単に言わないでください!」


思った以上に、声が大きくなった。

近くにいた新入生が、ぴたりと動きを止める。


頬が熱い。


せっかく押し戻したはずの感情が、胸の内側で小さく暴れ始めていた。

私は背筋を伸ばし、ずれてもいない名札を直した。


「……失礼しました。受付を続けます」


陽向はそんな私の様子をうかがうように目を細めたあと、腕の見習い腕章を指でつまんだ。


「ところで、迷子で遅れたんだけど。篠田さん、怒ってない?」


「怒ってないよ。むしろ、よく来られたなって思ってる」


篠田先輩が、机の向こうから答えた。


「ひどくないですか?」


「案内を読み違えたのは真壁だろ」


「それは、そうですけど」


「いいから、中に入って。制作班の話はあとでするから」


「了解です」


陽向は軽く手を上げ、私の横を通り過ぎようとした。


そのまま行ってくれればいい。

そう思ったのに。

彼は、私の隣で一歩だけ足を止めた。


「紗季、あとで話せる?」


「……仕事の話なら」


「仕事じゃなくてもいいんだけど」


「真壁さん」


苗字にさんをつけて、私は彼の言葉を遮った。


それ以上、踏み込んでこないでほしい。

今の私には、あなたと普通に話せるほどの余裕がない。

そんな気持ちを、できるだけ冷たい言葉に置き換えた。


陽向は少しだけ黙ったあと、素直に頷いた。


「わかった」


それだけ言って、彼はホールの奥へと入っていった。

人の輪に紛れていく背中を、私は見送ることができなかった。


ようやく吐き出した息が、胸の奥でかすかに震えていた。


* * *


歓迎会が始まると、私は受付を離れ、席の案内やマイクの準備を手伝った。


篠田先輩の説明によれば、会の前半はサークルの紹介と年間予定の共有、後半は新入生同士の交流を兼ねた自由時間になるらしい。


ホールの中は、思っていたよりも広かった。


天井の照明は少し古びていて、壁際には長年の活動で使われてきたらしい展示物が並んでいる。

歴代の同人誌や文化祭で描かれたイラスト、誰かが作った漫画のキャラクター紹介。

どの作品にも、誰かが時間をかけて形にした痕跡が残っていた。


そういうものを見るのが好きだった。

何もなかったところから、物語を作る。

頭の中にしか存在しなかった人物が、絵や言葉になり、誰かの目に触れる場所に置かれる。


それはきっと、簡単なことではない。

だからこそ、少しだけ憧れていた。


一年生の列の端には、陽向が座っていた。

私が通りかかると、彼は隣の空席を指先で軽く叩いた。


「ここ、空いてるよ」


「今日は新入生の席でしょう」


「俺も新入生だけど」


「そういう意味ではありません」


「じゃあ、何の意味?」


「……動きます」


私は返事を打ち切り、別の席へ向かおうとした。


ところが、ちょうど後ろを通りかかった学生たちが空いていた椅子を埋めてしまった。

通路にも人が増え、移動するには少しばかり窮屈になっている。


そうこうするうちにスライドの準備が整い、室内の照明が落とされた。


「ほら、もう始まるって」


陽向が声を潜めて言う。


「じゃあ、半分だけ俺に付き合って」


「……何の話ですか」


「説明が終わるまで、隣にいてよ」


彼は自分の隣の椅子をもう一度示した。


「境界線は、ここ。無理に話しかけたりしないから」


その言葉に、私は思わず彼を見た。

ふざけているようでいて、目は真剣だった。


「……三分の一だけです」


「交渉成立」


「まだ成立していません」


「じゃあ、三分の一で」


どうして、こんなところだけ聞き分けがいいのだろう。

私は諦めて、彼の隣に腰を下ろした。

肩と肩のあいだには、三十センチほどの距離があった。


近すぎず、遠すぎない。


中学生のころより、彼の背は伸びていた。

肩幅も広くなり、声にも落ち着きが加わっている。

見慣れない部分はいくらでもあるはずなのに、隣に座ることには、不思議なくらい違和感がなかった。


そのことが、いちばん怖かった。


久しぶりに会ったのだから、もっとぎこちなくてもいいはずなのに。

隣にいることを、身体のどこかが覚えている。

そんな自分を、認めたくなかった。


正面のスクリーンに、年間予定が映し出された。

春の新歓、夏の同人誌即売会、秋の学園祭、冬の作品発表会。

月ごとの予定が整然と並ぶ中、やがて一枚のスライドが表示された。


『境界線の向こうに缶コーヒー』


オリジナル短編、三十六ページ想定。

その下には、簡単な企画概要が添えられていた。


犬と猫、正反対の気質を持つ二人が、缶コーヒーの温度をきっかけに、少しずつ互いの距離を縮めていく。

そんな話らしい。


表紙のイラストは、まだなかった。

春休みに先輩たちがまとめた物語の骨子を、ひとまず紹介している段階らしかった。


画面に視線を留めた。


犬と猫。


正反対の気質。


缶コーヒー。


ずいぶんと、具体的な小道具を使うものだと思った。

人との距離を縮めることは、たいていの場合、劇的な出来事を必要としない。


ほんの短い会話や、何気ない仕草。

あるいは、誰かが覚えていてくれた、ささやかな好み。


そのくらいのことが、いつまでも忘れられない記憶になったりする。


「それでは、企画について説明します」


篠田先輩の声が、ホールに響いた。


「作画、装丁、台詞、ネームは、まだすべて募集しています。仕上げと広報については、私が暫定で担当します。参加したい人は、今、手を挙げてもらってもいいし、あとで連絡してくれても構いません」


間を置かず、陽向が手を挙げた。


「デザイン学部一年、真壁です。作画と装丁をやりたいです。入学したばかりなので、大学での制作実績はまだありません。でも、絵を描くことも、作品全体の見せ方を考えることも好きです。やれる自信はあります」


言い切る声に、ためらいはなかった。

周囲の新入生が、少し驚いたように彼を見る。


篠田先輩は、軽く頷いた。


「了解。候補に入れておく」


「ありがとうございます」


陽向は手を下ろし、隣にいる私のほうを向いた。


「それと、台詞は紗季がいないと、この企画は動かないと思います」


「……は?」


思わず、声が漏れた。

彼は、悪びれる様子もなかった。


「紗季と一緒にやりたいです」


ホールのあちこちで、小さなざわめきが起きる。

一斉に視線を向けられ、耳の先まで熱くなった。


「真壁、知り合いなのか?」


どこかの席から、声が上がった。


「同じ学年で、文芸部で一緒でした」


「ちょっと、勝手に話を進めないでください」


「まだ頼んでるだけだよ」


「頼み方というものがあります」


「じゃあ、改めて。紗季、一緒に作らない?」


まっすぐに聞かれると、返事に困った。

断る理由なら、いくらでも考えられる。


まだ大学生活に慣れていない。

制作に参加すれば、時間を取られる。

自分の文章を誰かと共有することにも、抵抗がある。


けれど、そのどれもが、今ここで断るための本当の理由ではなかった。


私はスクリーンに目を戻した。


「……検討します」


そう答えるのが精いっぱいだった。


口では、まだ迷っているふりをする。

けれど、胸の奥では、すでに答えが出始めていた。


彼と、もう一度何かを作ってみたい。

その気持ちを認めるための言葉だけが、どうしても見つからなかった。


* * *


続いて、自己紹介の時間が始まった。


一年生が順番に立ち上がり、名前と専攻、それから好きなジャンルを簡単に紹介していく。


漫画を読むのが好きな人。

小説を書くのが好きな人。

イラストを描いている人。

中には、まだ何をしたいのか決めていないという人もいた。


それでも、誰かが自分の好きなものについて話すときの表情は、皆よく似ていた。

少し恥ずかしそうで、それでも、好きなものを好きだと言えることが嬉しい。


私はそんな様子を眺めながら、自分の番が来たときに何を話そうか、頭の中で何度も言葉を組み立てていた。

まともに人の話を聞けていないのは、隣にいる彼のせいだ。

そういうことにしておこう。


やがて、陽向の番が来た。

彼は立ち上がり、マイクを受け取った。


「デザイン学部一年、真壁陽向です。さっき、作画と装丁をやりたいと言いました。絵を描くことが好きです。よろしくお願いします」


そこまでは、よかった。


「ちなみに、中学では紗季と同じ文芸部でした」


思わず顔を上げた。


まだその話するの?

案の定、周囲が反応した。


「え、隣の子?」


「さっきの?」


「知り合いなんだ!」


「同じクラブというだけです」


すぐに訂正した。


「クラスは別でしたし、活動も別々のことが多かったです」


「でも、原稿は一緒に読んだよね」


「部長が半ば強制したからです」


「そうだったっけ?」


「そうです」


陽向は、少し考えるように首を傾げた。


「でも、あのとき、紗季の手が震えてたのは覚えてるよ」


息が詰まった。


「……覚えていません」


もちろん、嘘だった。


忘れるはずがない。


中学三年の秋。

文化祭を翌日に控えた、文芸部室でのこと。

発表の練習を兼ねて、部員同士で原稿を読み合うことになった。

順番が近づくにつれ、私は原稿用紙の端ばかりを気にしていた。


紙が、細かく震えている。

止めようとすればするほど、指先に余計な力が入った。

隣にいた陽向が、そっと声をかけた。


『大丈夫?』


『大丈夫です』


私はそう答えた。


彼は、それ以上何も言わなかった。

無理に励ますことも、落ち着くように促すこともしなかった。

ただ、いつものように隣にいてくれた。


私にとっては、それがいちばんありがたかった。


何も聞かれないこと。


何も求められないこと。


自分で立ち直るまで、待っていてくれること。


読み終えたとき、部長が「いいじゃん」と笑った。

陽向も、頷いて言った。


『うん、いい』


私は顔が熱くなるのを感じて、慌てて原稿を伏せた。


あのときの記憶は、今になって思い出しても落ち着かない。

できることなら、記憶ごと引き出しの奥にしまっておきたい。


「じゃあ、今日は震えてない?」


陽向の声で、私は現実に引き戻された。


「……真壁さん」


「はい」


「そういう話は、自己紹介に必要ありません」


「そっか。じゃあ、続きはまた今度」


「続きなんてありません!」


周囲から笑い声が上がった。


恥ずかしい。

なのに、心のどこかでは、少しだけ嬉しいと思っていた。


彼は覚えている。

私が忘れてしまいたいと思うような、小さな出来事を。

その事実が嬉しいから、余計に腹が立つ。


「それに、関係あるかもしれないよ」


陽向は、何事もなかったように付け加えた。


「今回の企画、恋愛要素もあるんでしょ?」


「……作品の話は、火曜日の教室でしてください」


「わかった」


彼は素直に頷き、自己紹介を終えた。


拍手が広がる。

彼もそれに合わせて手を叩いた。

乾いた音が、いつもより近くで響いた気がした。


* * *


自己紹介が終わると、ホールは再び賑やかになった。


新入生たちは先輩に質問をしたり、配布資料を広げたり、それぞれ興味のある展示物を眺めたりしている。


篠田先輩も、何人かの新入生に囲まれていた。

私は手元の名簿と封筒を数え直すことにした。


特に数が合わなくなっているわけではない。

ただ、何かしていないと、さっきのやり取りを何度も思い返してしまいそうだった。


名簿の端を揃え、封筒を重ね直す。

そうしていると先ほど受付に来た一年生が、少し遠慮がちに近づいてきた。

顔は覚えているけれど、名前はまだ曖昧だ。

確か、自己紹介では漫画を描きたいと言っていた。


「御影さん、ちょっといいですか?」


「はい。何でしょう」


「さっきの真壁さんって、知り合いなんですか?」


「中学時代、同じ学校でした」


「やっぱり。なんか、すごく仲よさそうだったんで」


「……そうですか?」


「もしかして、カップルっすか?」


手元のペンが、紙の上を滑った。


「違います」


即座に答えたせいで、かえって怪しく聞こえたかもしれない。

一年生は、面白そうに目を輝かせている。


「でも、名前で呼んでたじゃないですか。席も隣だったし」


「それは、昔からの知り合いだからです」


「へえー」


「本当に、そういう関係ではありませんから」


「はいはい。わかりました」


わかっていない。

この反応は、絶対にわかっていない。

猫柄のペンケースを握りしめると、中のペンが小さく音を立てた。


「……ちょっと、待ってください。そういう話はやめてください!」


思わず声が大きくなり、私は慌てて口を閉じた。

一年生は、肩を震わせて笑っている。


その向こうで、陽向がこちらに気づいたらしい。

彼は何を聞いたのかもわからないまま、のんきに手を振ってきた。

そしてこちらの様子を察するよりも先に、明るい声で言った。


「まだ付き合ってないよ!」


一瞬、周囲の音が消えた。


次の瞬間、あちこちで歓声のような声が上がる。


「まだって何?」


「え、じゃあ、これから?」


「真壁さん、そういう感じなんだ!」


陽向は笑いながら何かを説明している。


私はもう何も聞きたくなかった。


ただ一つ、耳の奥に残ってしまった言葉がある。


――まだ。


まだ、付き合っていない。


その「まだ」には、どんな意味があるのだろう。


考えてはいけない。

そんな意味など、ないに決まっている。


私は名簿を机の上に置き、篠田先輩の姿を探した。


「篠田先輩、少し外の空気を吸ってきてもいいですか」


「もちろん。大丈夫?」


「はい。すぐ戻ります」


できるだけ平静を装い、私はホールを出た。

扉が閉まると、賑やかな声が一枚の壁を隔てた向こうへ遠ざかった。


ようやく、息ができた気がした。


* * *


廊下は静かだった。


天井に並んだ蛍光灯が、白い光を床に落としている。

壁際には古い掲示板があり、画鋲の穴や、剥がした紙の跡がいくつも残っていた。

窓の向こうには、夜になりかけたキャンパスが広がっている。

建物の間を抜ける風が、木々の枝をかすかに揺らしていた。


ホールから漏れてくる笑い声は、扉の向こうで曖昧な響きに変わっている。

誰かが笑うたび、その声が波紋のように廊下まで届いた。


私は壁に背を預け、ゆっくりと目を閉じた。

蛍光灯が、耳の奥で小さく鳴っている。


四月の夜気が、少し開いた窓から流れ込んでいた。

頬を撫でる風は冷たく、火照った肌を静かに冷ましてくれる。


中学以来、会っていなかった。

当たり前だけれど、彼は変わっていた。


声も、髪型も、背丈も。

話し方だって、以前より少し大人びていたように思う。


それなのに、どうして。


顔を見た瞬間、彼だとわかった。

目が合った瞬間、胸がいっぱいになった。

近づきたいと思った。


それから、その気持ちを悟られたくなくて、わざと冷たい態度を取った。

我ながら、ひどい話だと思う。


何年も会わなかったのだから、もっと普通に接すればよかった。


元気だったかと聞いて、高校ではどう過ごしていたのか尋ねて、大学でのことも話せばよかった。

たったそれだけのことが、どうしてできないのだろう。


私は、小さく息を吐いた。

廊下に、足音は近づいてこなかった。

陽向は追いかけてこない。


それは彼のやり方だった。


私が一人になりたいとき、彼は無理に踏み込んでこなかった。

何か言いたいことがあっても、こちらが口を開くまで待ってくれる。

昔から、妙なところで、私の境界線をよく理解していた。


だからこそ、困る。

そんなことまで覚えている自分が、もっと困る。


五分ほど経ったころ、ようやく足音が聞こえた。

急ぐ様子のない、ゆっくりとした足音だった。


「紗季」


顔を上げると、陽向が少し離れたところに立っていた。

両手をポケットに入れ、こちらの様子をうかがっている。

近づきすぎないようにしているのが、わかった。


「……何ですか」


「無理してない?」


「していません」


「そっか」


彼は、それ以上すぐには言葉を続けなかった。


廊下の向こうで、誰かの笑い声が弾ける。

その音が遠ざかるのを待ってから、陽向は口を開いた。


「文化祭の前、手が震えてたの、覚えてる?」


「覚えていません、と言いました」


「うん。でも、俺は覚えてる」


「……どうして、そんなことを覚えているんですか」


「今日も、名簿の角を押さえてる指が震えてたから」


私は、反射的に手元を見た。

何も持っていない指先は、先ほどよりも落ち着いている。

けれど、確かにまだわずかに力が入っていた。


「……人が多いと、緊張するんです」


「俺も」


意外な返事だった。


「真壁さんも?」


「うん。今日、道に迷ったときも、けっこう焦った」


「それは緊張とは違うと思います」


「そうかな」


「そうです」


陽向は、少しだけ笑った。

それから、何かを確かめるように私を見た。


「でも、紗季に会うのは緊張したよ」


心臓が、嫌な音を立てた。


「……また、そういうことを」


「ごめん。言わないほうがよかった?」


「そういう問題ではありません」


「じゃあ、どういう問題?」


答えられるはずがなかった。


会えて嬉しいと言われると、嬉しい。

けれど、その嬉しさを認めたくない。

そんな自分勝手な気持ちを、どう説明すればいいのだろう。


「……会いたかった、と言わないでください」


ようやく絞り出した言葉は、思っていたよりも小さかった。


陽向は、すぐには返事をしなかった。

窓の向こうから、風に揺れる葉の音が聞こえる。

やがて彼は、いつもの調子より少しだけ静かな声で言った。


「じゃあ、会えてよかった」


私は、何も言い返せなかった。


同じ意味のはずなのに。

ほんの少し言葉を変えられただけで、胸の奥にあったものが、また揺れてしまった。

廊下の灯りが彼の髪を柔らかく照らしている。


ふと、その手元に目が留まった。


彼は、片手に缶コーヒーを持っていた。

黒い缶に、見慣れた文字。

ブラック、無糖。

いつも自販機で選んでいた銘柄だった。


「……それ」


陽向は、私の視線を追って缶を見た。


「ああ、これ?」


そう言って、少し困ったように笑う。


「持ってきたんだ。いつ渡そうか迷ってたんだけど」


「……どうして、それを?」


「文芸部の合宿のとき。覚えてない?」


記憶を探る。


山あいの施設。

夜遅くまで続いた原稿の読み合い。

自動販売機の明かり。

誰かが買ってきたお菓子を囲んで、眠気と戦いながら話したこと。


確かに、私は何度も同じ缶コーヒーを買っていた。


「紗季、ずっとそれだけ買ってたから。甘いのは苦手なんだなって思って」


「そんなことまで……」


言いかけて、口を閉じた。


たかが缶コーヒーだ。

好きな銘柄を覚えているくらい、特別なことではないのかもしれない。


けれど、私自身が忘れかけていたような何気ない習慣を、彼は覚えていた。

それが、どうしようもなく嬉しかった。


「はい」


差し出された缶を、私はそっと受け取った。


金属の冷たさが、掌に伝わる。

ひんやりとした感触は、どこか現実的だった。


この場にいることも、彼と再会したことも、もう夢ではないのだと教えてくれるようだった。


「……ありがとうございます」


「どういたしまして」


「お礼は、しますから」


「お礼?」


「原稿を直します。真壁さんの」


陽向は、一瞬きょとんとした。

それから、嬉しそうに顔をほころばせた。


「じゃあ、同人誌の制作班に一緒に入ってほしい」


「……話がつながっていません」


「つながってるよ。俺は、紗季と一緒に作りたいんだ」


その声には、先ほどまでの冗談めいた明るさがなかった。

彼は、缶コーヒーを渡すことだけで満足していたわけではないのだろう。


もう一度、何かを一緒に作りたい。


それを、きちんと言葉にして伝えようとしている。


「先輩たちの企画、台詞がないと始まらないだろ?俺は絵を描くことができる。でも、それだけじゃ物語にはならない。紗季の言葉があれば、もっといいものになると思う」


私は、缶を握り直した。


喜びと、怖さ。


二つの感情が、胸の同じ場所で渦を巻いていた。


彼と一緒に創作をする。


そう考えるだけで、楽しみな気持ちが膨らんでいく。


同時に、自分の文章を読まれることへの不安もあった。

期待に応えられなかったら。

意見が食い違ったら。

かつてのように、何も言えないまま終わってしまったら。


けれど、そんなことを考えるより先に、気づいてしまった。


私はきっと、もう一度、彼と何かを作りたかったのだ。


「……入ります」


口に出すと、思いのほか簡単な言葉だった。


「え?」


「制作班に、入ります」


陽向の表情が、ぱっと明るくなった。

その変化があまりにもわかりやすくて、私は少しだけ目を逸らした。


「ただし、サークルでは真壁さんです。締切は守ってください。原稿の修正も、ちゃんと受けてくださいね」


「うん。わかった」


「本当に?」


「本当。紗季と一緒なら守れる」


「……そういう言い方はやめてください」


「じゃあ、気をつけます」


「気をつけるのではなく、やめてください」


陽向は、楽しそうに笑った。

その笑顔を見ていると、中学時代の記憶が少しずつ輪郭を取り戻していく。

部室で原稿を読み合った日も、文化祭の準備に追われた日も、決して特別な出来事ばかりではなかった。


ただ、彼がいた。


それだけのことが、私の中には、こんなにも残っていたのだ。


「……紗季と、か」


思わず呟いてしまった言葉を、陽向が聞きつけた。


「ん? 何?」


「何でもありません」


危なかった。


これ以上、余計なことを口にしたら、今まで保ってきたものが全部崩れてしまいそうだった。


陽向は不思議そうに私を見ていたが、やがて何かを思い出したようにぽんと手を打った。


「そうだ。連絡先、交換しておかない?」


私は、思いがけない言葉に顔を上げた。


「……連絡先、ですか?」


「うん。制作班に入ってくれるなら、原稿の相談とか、打ち合わせの日程とかあるだろ。先輩たちからの連絡もあると思うけど、直接やり取りできたほうが便利だし」


もっともな理由だった。


台詞を考えるにしても、作画と合わせるにしても、連絡を取り合う機会は増えるはずだ。

毎回サークルで顔を合わせるまで相談できないのでは、不便に決まっている。


断る理由は、なかった。

それなのに、私はすぐに返事ができなかった。


中学を卒業したとき、私たちは連絡先を交換しなかった。

あの頃は、いつかまた会えると思っていたのだ。


同じ町で暮らしているのだから、どこかで顔を合わせることもあるだろう。

そうでなくても、共通の友人を通じて近況くらいは聞けるかもしれない。


そんなふうに、何の根拠もなく考えていた。

けれど、実際には一度も会わなかった。


彼がどんな高校生活を送っていたのか、何に夢中になりどんな人たちと過ごしていたのか。

私は何一つ知らない。


その空白を、今になって急に意識した。


「……制作の連絡に必要ですから」


ようやく口にしたのは、そんな言葉だった。


自分に言い聞かせるような声になってしまったのが、少し悔しい。

陽向はそんな私の内心など知らないまま、素直に頷いた。


「うん。じゃあ、制作の連絡用ってことで」


そう言って、彼はスマートフォンを取り出した。

あまりにあっさりと受け入れられたので、かえって拍子抜けしてしまう。

もう少しくらい、何か言われると思っていた。


「……何ですか」


「いや?」


「何か言いたそうな顔をしています」


「そうかな。連絡先を交換できるの、嬉しいなと思って」


「……真壁さん」


「はい。今のは余計だった?」


「わかっているなら、言わないでください」


「ごめんごめん」


口では謝っているのに、声は少しも反省していない。


私は小さく息を吐き、バッグからスマートフォンを取り出した。

画面を開く指先が、ほんの少しもたつく。

先ほどまで名簿の前で震えていた指が、また落ち着かなくなっていた。


連絡先を交換するだけだ。


誰とだって普通にすることだ。

それなのに、画面の中に彼の名前が加わることを想像すると、胸の奥が妙にそわそわした。


「LINEでいい?」


「……はい」


お互いに追加画面を開き、表示されたコードを読み取る。


ほんの数秒の操作だった。


画面に『真壁陽向』という名前が表示される。


それを見たとき、私は不思議な気持ちになった。


つい先ほどまで、彼は中学時代の記憶の中にいた。

卒業式の廊下で別れたきり、もう会うこともないかもしれないと思っていた人。


それが今、大学の廊下で、当たり前のように隣に立っている。

そして、これからはいつでも連絡を取ることもできる。

ただ名前が一つ増えただけなのに、遠く離れていた時間が、ほんの少しだけ近づいたような気がした。


「追加できた?」


陽向の声に、私は画面から目を離した。


「……できました」


「よかった。じゃあ、一応送っておくね」


すぐに、スマートフォンが小さく震えた。


『真壁陽向です。これからよろしく』


わざわざ名乗る必要なんてないのに。

画面に並んだ文字を見て、私は笑いそうになるのをこらえた。


「届いた?」


「はい。わかっています。名前、表示されていますから」


「それならよかった」


「真壁さんも、私の名前は表示されていますよね」


「うん。御影紗季」


彼は画面を確かめてから、少しだけ声を和らげた。


「……こうして連絡できるようになったの、なんだか不思議だな」


その言葉に、私は返事をしそびれた。

不思議なのは、私も同じだった。


連絡先を交換する機会なら、中学時代にもあったはずだ。

卒業式の日にだって、ほんの少し勇気を出せばよかった。


けれど、あのときの私たちは、それをしなかった。


また会えると思っていたから。

会えない時間が、こんなにも長くなるとは知らなかったから。


「……制作の連絡用ですから」


私は、もう一度そう言った。

先ほどよりも、少しだけ声が小さくなっていた。


「うん。制作の連絡用」


陽向は今度は笑わなかった。

ただ、穏やかに頷いた。

その返事が、どうしてか嬉しかった。


「火曜日の打ち合わせ、忘れないでくださいね」


「もちろん。今度は迷わないようにする」


「迷わないのは、当然です」


「厳しいなあ」


「遅刻したら、原稿の担当を考え直します」


「それは困る。ちゃんと行くよ」


「……約束ですよ」


「うん。約束」


私は、スマートフォンをバッグにしまった。

画面をもう一度確認したい気持ちはあったけれど、そんなことをしたら、余計な考えまで顔に出てしまいそうだった。


連絡先を交換した。

それだけのことだ。


これからは制作の相談をするために、必要な連絡を取り合う。

それ以上でも、それ以下でもない。

そう考えれば、何もおかしくはなかった。


それなのに、バッグの中にしまったスマートフォンが、さっきより少しだけ大切なものになった気がした。


そのとき、ホールの扉が開いた。


「二人とも、こんなところで恋バナ?」


顔を出したのは、篠田先輩だった。


「違います」


「違います!」


声が、きれいに重なった。


一瞬の沈黙のあと、篠田先輩が吹き出した。


「息ぴったりじゃないか」


「たまたまです」


「そういうことにしておくよ」


先輩は笑いを収め、手元の資料を軽く持ち上げた。


「とりあえず、企画の核になるメンバーは暫定で決めておこう。真壁が作画・装丁候補、御影が台詞候補。二人とも、それでいい?」


「はい」


陽向が答える。


私も、小さく頷いた。


「火曜日、旧校舎の角教室で先輩たちの企画を読み合わせる。細かい説明はそこで。遅刻しないように」


「今度は遅刻しません」


陽向が、腕章を直しながら答えた。


「それは信用していいんだな?」


「……努力します」


「おい」


再び、笑い声が上がった。

先ほどまで静かだった廊下に、賑やかな空気が戻ってくる。


私は、手の中の缶コーヒーを見下ろした。


境界線は、まだ消えていない。

けれど、その向こう側に、彼がいる。

そう思うと、さっきまでの冷たさが、少しだけ違うものに感じられた。


* * *


歓迎会が終わるころには、ホールの窓の外はすっかり夜になっていた。


片づけを始めた学生たちが、机を動かしたり、配布資料をまとめたりしている。


誰かが冗談を言うたびに笑い声が広がり、そのたびに、張り詰めていた空気が少しずつ解けていった。


私は名簿の最後にチェックを入れ、参加人数を確認した。

数は合っている。

配布した封筒も、回収した資料も、問題はなかった。

受付の仕事としては、十分にできたと思う。


けれど、今日一日を振り返ろうとすると、思い出すのは、名簿のことでも、封筒の数でもなかった。


扉が開いた瞬間。


聞き覚えのある声。


そして、久しぶりに呼ばれた、自分の名前。


「お疲れ、御影」


篠田先輩が、片づけを終えた机の向こうから声をかけてきた。


「こちらこそ、ありがとうございました」


「初めての受付にしては、よくやってくれたよ。助かった」


「いえ、そんな……」


「制作班も、楽しみにしてる」


私は、少しだけ迷ってから頷いた。


「……頑張ります」


「うん。火曜日、よろしく」


先輩はそれだけ言って、他の学生のところへ向かった。

ホールには、あと数人しか残っていなかった。


その中で、陽向は一年生たちに囲まれていた。


「表紙はまだ描いてないよ。これから考えるところ」


「キャラクターのデザインもするんですか?」


「そうだね。企画の人たちと相談しながら決めたいかな」


彼は相手の話を聞きながら、楽しそうに笑っていた。

その横顔は、私の知らない時間を過ごしてきた人のものだった。


当たり前だ。


私が会っていないあいだ、彼にも彼の生活があった。

新しい友人ができて、好きなことを続けて、いろいろなものを見てきたのだろう。


そう考えると、少しだけ寂しくなった。

けれど、その寂しさを振り払うように、陽向がこちらを向いた。


目が合う。


彼は、いつものように手を上げた。

私は周囲に気づかれない程度に、小さく頷いた。


それだけのやり取りだった。


たったそれだけなのに、さっきまで胸の内にあった不安が、ほんの少しだけ薄れていた。


後片づけを終え、名札を外す。

胸元に残った軽い感触がなくなると、ようやく長い一日が終わったのだと実感した。


別に、嬉しくなんかない。


そう思いながら、私は受付の机に目を向けた。


『ねこじるし』のロゴが印刷された資料の隣に、自分の名前がある。


御影紗季。


その文字を、もう一度だけ確かめた。


たった一枚の名簿に記されただけの名前。

けれど、今日からここで過ごす時間が、少しずつ積み重なっていくのだろう。

そう思うと、不思議な気持ちになった。


扉を閉めて廊下へ出る。

窓の外には、夜のキャンパスが広がっていた。


遠くの街灯が、坂道の端をぼんやりと照らしている。

講義棟の窓にはまだいくつか明かりが残り、どこかの教室から、椅子を動かす音がかすかに聞こえた。


陽向からもらった缶コーヒーは、袋に入れたまま、バッグの中にしまってある。

まだ開けるのは、もったいなかった。


いつ飲もうか。


そんなことを考えている自分に気づき、私は小さく首を振った。


たかが缶コーヒーだ。

飲みたいときに飲めばいい。

それなのに、すぐに手を伸ばす気にはなれなかった。


坂道を上り、駅へ向かう。

キャンパスから離れるにつれ、ホールから聞こえていた笑い声も、校舎の向こうへ遠ざかっていった。


横断歩道の信号が、青く点滅している。

私は足を緩め、バッグの口を少しだけ開いた。


指先に触れた缶は、まだ冷たかった。

冷たさを確かめてから、私はバッグを閉じた。


* * *


一人暮らしの部屋に戻るころには、時刻はすっかり遅くなっていた。

玄関の明かりをつけ、靴を揃える。


部屋の中は静かだった。


帰宅を知らせる声も、食事の支度をする音もない。

カーテンの隙間から、向かいの建物の窓明かりが細く差し込んでいる。


私はコートを脱いでハンガーに掛け、バッグを机の脇に置いた。


それから、ようやく缶コーヒーを取り出した。

黒い缶には、まだ少し冷たさが残っている。

プルタブに指をかけ、ゆっくりと引き起こした。


小さな音が、静かな部屋に響く。


一口飲んでみる。


苦い。


そして、冷たい。


いつもと同じ味だった。


それなのに、今日の缶コーヒーには、どこか違うものが混じっている気がした。


再会したこと。


隣に座ったこと。


一緒に制作班に入ると決めたこと。


どれも、数時間前までは想像すらしていなかった出来事だ。

それらが一つずつ、身体の内側に染み込んでいく。


私は缶を机の上に置き、スマートフォンを手に取った。

画面には、新しいメッセージが届いていた。

陽向からだった。


『おつかれ、紗季』


たった一言。


それだけの短いメッセージを、私はしばらく眺めていた。


返信をするのが嫌なわけではない。

何と返せばいいのか、わからなかった。


『お疲れさま』では、少し他人行儀すぎる。


『こちらこそ』では、何に対しての返事なのか、自分でもわからない。


結局、私は三分ほど考えたあと、猫の足跡のスタンプを一つだけ送った。

黒い足跡が、画面の上にぽんと現れる。

それは『ねこじるし』のロゴに、少しだけ似ていた。


これなら、余計なことを言わずに済む。

そう思ったのに、送信したあとでほんの少しだけ物足りなさを感じた。

私はスマートフォンを伏せ、机の前に座った。


ノートを開く。

真っ白なページに、今日の日付を書いた。

その下に、仮題を記す。


『境界線の向こうに缶コーヒー』


一文字ずつ書き進めるうちに、先ほどまでの出来事が、頭の中で静かに並び始めた。


再会したときの彼の表情。

変わってしまったところと、変わらなかったところ。

冷たい缶が掌に触れたときの感覚。

そして、隣に座ってもいいかと尋ねるような、あの声。


私はペンを止めた。


まだ、何も書いていない。


どんな物語にするのかも、登場人物に何を言わせるのかも、決まっていない。

けれど、不思議と、書きたいことはあるような気がした。


ノートの三行目を、空白のまま残す。


余白の向こうには、まだ言葉にならないものがあった。

私はペンを置き、もう一度だけ、缶コーヒーに手を伸ばした。


やっぱり、苦い。


けれど、今夜はその苦さが、いつもより少しだけ心地よかった。


原稿の一行目は、まだ書いていない。

それでも、物語の続きは、もう動き出してしまった。

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