第三十四話 一人目の受難(1)
白い壁紙と、灰色のリノリウムの床。
天井の蛍光灯は、省エネルギー政策の一環でLED照明に交換され、寒々しい白い輝きで部屋を照らしている。
この部屋のアイデンティティを最も表現しているのは、この照明かも知れないなどと暇潰しに考えながら、隣を盗み見る。
「……」
「……」
俯いて目を閉じている姫川の横顔は、表情が固く、その頬には緊張の色が濃い。
命綱のつもりなのか、この部屋に入ってから、姫川はずっと俺の制服の袖を掴んでいる。
この手を握り返すような気の利いた事をすればいいのか、好きなようにさせておくのが一番なのか。判断がつかずにいる。
内藤巡査長が事件現場に到着して間もなく、パトカーが二台到着した。
一台には、俺達を襲撃した男二人が押し込まれ、内藤巡査長に促されて、もう一台に俺達が乗り込む事になった。
姫川は、事件現場から今現在に至るまで、押し黙ったままだ。
見知らぬ男二人組からの襲撃、パトカーでの警察署への連行、警察署の取調室。
平常心で居ろ、と言う方が酷だろう。
親が警察官で、この取調室に入るのが初めてではないから、俺はまだ姫川を気遣う余裕が持てているのだ。
そこまで考えて、また沸々と、腹の底から怒りが込み上げてくるのを感じる。
好き好んでではないが、俺はこういったトラブルに何度か遭遇している。しかし、普通の学生生活を送っている姫川は違う。
あの二人組は、明らかに俺を狙っていた。俺と一緒に居たせいで、姫川は、しなくてもいい怖い思いを今もしている。
怒りは湧くのに、姫川に掛けるべき言葉は一向に思い浮かばず、殴る蹴るしか能がない自分が情けない。
コンコン、とノックの音がドアから聞こえて、間を置かずに警察官が一人入って来た。
同時に、俺の制服の袖を掴んでいた姫川の手が離れた。
俺と姫川を警察署まで連れて来た張本人、内藤巡査長は「ふう。やれやれ」と独り言ちながら、俺達の対面の椅子に腰かけた。
学校の最寄り駅の交番に勤務する内藤巡査長は、最近では、姫川の母親が被害に遭った引っ手繰り事件でお世話になった。
去年はこの警察署の勤務で、俺が最初に暴行騒ぎで連れて来られた時に、事情聴取を担当した人だ。
更に言えば、俺の父親――――八王子警部の、警察学校の教育官時代の教え子だったらしく、最初の事情聴取の時から必要以上にフレンドリーな対応をされている。
椅子の足が床を擦る音と共に、隣の姫川が突然立ち上がり、机に手をついて内藤巡査長の方へと身を乗り出した。
「あの、お巡りさん! 先輩は悪くありません! あの人達が、急に襲って来たんです! だから、あのっ……!」
言いたいことがまとまらないうちに、勢いだけで話し始めた姫川は、すぐに言葉に詰まってしまった。
内藤巡査長は、姫川の勢いに驚いて、椅子の上で上体を反らして居る。
「姫川、落ち着け。この人は知り合いだから、心配しなくても大丈夫だ」
少し迷ったが、立ち上がって姫川の両肩に手を置き、椅子に座るように促す。
「でも、先輩!」
「大丈夫だから、落ち着け。心配しなくていい」
狼狽する姫川の目を真っ直ぐ見返して、諭すようにゆっくり言い含める。
「あ……す、すみません。取り乱しました」
姫川は叱られた子犬のように大人しくなると、力なくストンと椅子に戻る。俺も座り直した。
「単純に、当事者双方から事情聴取しないといけないから、俺達も任意同行しただけで、犯罪者扱いされている訳じゃない。これ以上、姫川に怖い思いはさせないから、安心していい」
「はい……。ありがとうございます……」
安心させるつもりで、丸くなっている姫川の背中を軽く撫でると、少し驚いた姫川が顔を上げ、少しだけ笑みを浮かべた。
それから、姿勢を正した姫川が、落ち着いた声で、
「お巡りさん、すみませんでした。よろしくお願いします」
対面の椅子の上で、半端な姿勢で固まっていた内藤巡査長も、気を取り直してこちらへ向き直る。
「あぁ……じゃあ、悪いんだけど、この書類に住所とか名前とか書いてね。ああ、他の所は書かなくていいよ。俺の方で良い感じに書いておくから」
二枚の紙と二本のボールペンを差し出されたので、受け取って、姫川にも一組手渡し、指示された箇所に住所と氏名を記入する。
どうにも内藤巡査長が言うと、「良い感じ」が、悪い意味の「いい加減」に聞こえる。まあ、信用しても大丈夫な人だから、悪い様にはされないだろう。
しばし無言で書類に必要事項を記入し、書き終わった書類を内藤巡査長へ返却する。
内藤巡査長は、記載内容を一枚ずつ確認し、
「うん。二人に書いてもらう部分は、こんなもんかな。……姫川? あ、もしかして、駅前の引っ手繰りの時の?」
名前を見て記憶が掘り起こされた内藤巡査長が、姫川に尋ねる。
姫川の方は、内藤巡査長の顔を覚えていたのか、驚いた様子も無く、座ったままお辞儀をしてから、
「はい。その節は、大変お世話になりました」
「そっかそっか。あの時の子か。あ、じゃあ、あれから陸君とは仲良くなった感じなのかな?」
「そうですね。あの件以来、先輩には仲良くしていただいております」
流石の姫川も、ほぼ初対面の内藤巡査長に「仲良くしてあげているのは私の方です」とは言わないらしい。
姫川がこんなに丁寧に喋るのも新鮮だなと思う一方で、無理をしている様子の無い、落ち着いた振る舞いに感心する。
「そうなんだ。仲良く、かぁ……。仲良く、ねぇ……」
内藤巡査長は、手に持つ書類で表情を隠しているつもりなのだろうが、にやけた目元と声色で何を考えているのか丸分かりだった。
余計な邪推を働かせるだけならまだいいが、その話を、この警察署内に居る父親に報告されると、自動的に母親にまで話が伝わり、事後処理がひどく面倒になるので、釘を刺しておこうかと思った矢先、
「それにしても、偶然とは言え、今日は高校生が関係している事件が続くなあ。人手が足りなくて、八王子警部も事情聴取に駆り出されてたよ」
事情聴取の記録用紙に何かを書きながら、内藤巡査長が何気なく零した。
「内藤さん! それって、どんな事件ですか? 男の子ですか、女の子ですか? 私達と同じ学校の生徒ですか?」
それに過敏に反応したのは姫川だった。
急に立ち上がり、またしても机に両手をついて身を乗り出すものだから、その勢いに内藤巡査長が押されて、椅子の上で状態を反らせる。
「姫川、落ち着――――」
姫川の突然の言動に驚いたのは俺も同じで、立ち上がった姫川を宥めようと、両肩に手を置いて椅子に座らせようとして、その横顔を見て動きを止めてしまった。
鬼気迫るような、怯えるような表情の姫川なんて初めて見る。
「い、いや、そっちの事情聴取は、隣の部屋で別な人が担当しているから、詳細はまだ知らないんだ。万引きの疑いで女子高校生が連れて来られたって――――え、ちょっと!?」
姫川が、見事な瞬発力で椅子を蹴って駆け出すと、部屋の出口のドアへ飛び付く。
「姫川、待て!」
俺の制止の声も聞かずに、部屋を飛び出した姫川。
内藤巡査長も、まさか、俺達が逃げ出すような行動に出るとは思いもしなかったらしく、部屋のドアは施錠されていなかった。
姫川に遅れて俺が、続いて内藤巡査長が席を立ち、慌てて姫川の後を追う。
この部屋に連れて来られた際に、廊下に並ぶ他の取調室の前を通過している。この部屋は、廊下の一番奥に位置する部屋なので、隣の取調室は一部屋しかない。
既に、隣の部屋のドアは開け放たれており、何かを言い争うような大きな声が部屋の外まで聞こえている。
一体どうしたのか。普段の姫川からは想像できないような行動に困惑しつつ、姫川を落ち着かせなければ、公務執行妨害で本当に補導されてしまうため、隣の部屋へ転がり込んだ。
「――――です! だから、万引きなんてする子じゃありません!」
「分かった、分かった! お嬢ちゃんの言い分は分かったから、まず落ち着け! つーか、どっから来た?」
部屋の中では、机に両手をついた姿勢で立っている姫川が、机の手前に座り事情聴取をしていた男に、何事かを訴えている。
その向こう側では、目を丸くして座っている女子高校生が一人居た。見覚えはない顏だったが、姫川と同じ制服を着ているので、同じ高校の生徒で間違いない。
そして、手前の男、背中を見ただけで誰なのか分かった。
面倒な事になりそうだ。
「姫川、落ち着け。一旦部屋から出るんだ」
姫川を羽交い絞めのような格好で引っ張り、部屋から強制的に退場させようと試みる。
姫川の体重の軽さに驚いたが、今はそれを気にしている場面ではない。
「きゃあ!? な、何するんですか先輩! 放してください!」
「済みません! その子が急に部屋を飛び出しまして!」
内藤巡査長が、言い訳とともに部屋に飛び込んで来た。
「内藤ォ! 気ィ抜いて仕事すんじゃねェ!」
「は、はいぃっ! 申し訳ありません!」
部屋が震えるような怒号が響き、内藤巡査長はその場で直立不動となり、腕の中の姫川も、机の向こう側に居た女子生徒も、耳を塞いで大人しくなった。
両手が塞がっていた俺は、まともにその大声を聞く羽目になったが、嬉しくないことに、この位の大声は聞き慣れている。
大人しくなった姫川から両腕を放すと、この場から立ち去るべきか、留まるべきか迷ったが、姫川を置き去りして行けないので、渋々、この場に留まることとした。
部屋の中心に座っていた男は、ゆっくりと立ち上がると、不機嫌を隠しもしない顔で振り返った。
「誰かと思えば、手前か。阿保息子」
縦にも横にも大きな体格で、のっそり立ち上がって振り向くさまは、熊を連想させる。
「仕事場でも煩いんだな、阿保親父」
職業、警察官。役職、警部。
氏名、八王子吾郎。
正真正銘、俺の父親がそこに居た。




