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【完結】「君を愛することはない」と言われたので気ままに暮らしていたら、不器用な旦那様が毎晩部屋の前で立ち尽くしています  作者: フトダマノミコト


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9/16

第9話 元婚約者候補の令嬢が訪ねてきました

 扉越しのおしゃべりは、それから毎晩続いた。


 真夜中を少し過ぎたころ、こつ、こつ、こつ、と足音がやってくる。私は扉の横の椅子に座って、それを待つ。


「……見回りだ」


「お疲れさまです、旦那様」


 それが合図のようなものだった。


 話すのは、他愛のないことばかりだ。今日は温室の香草を摘んだとか、ハンスさんが新しい煮込みを作ったとか、孤児院の子が字を覚えたとか。アレクシス様はたいてい「そうか」としか言わないけれど、ときどき驚くほど詳しい相槌が返ってくる。


「その香草は、乾燥させると香りが強くなるはずだ。図鑑の百二頁に書いてあった」


「旦那様、全部覚えていらっしゃるんですか?」


「…………念のためだ」


 何の念のためなのかは、教えてくれなかった。


 昼間の旦那様は相変わらず無口で、食事の席は端と端だ。けれど目が合うと、以前のように慌てて逸らすのではなく、ほんの少しだけ頷いてくれるようになった。


(なんだか、少しだけ仲良くなれた気がする)


 愛されない妻と、愛さない夫。それでも、こうして穏やかに話せる相手がいるのは嬉しいことだった。




 そんなある日の午後、一台の豪奢な馬車が城の門をくぐった。


「クローデル伯爵家のイザベラ様がお見えです」


 マーサさんの声が、心なしか硬かった。


 応接間に入ってきたのは、燃えるような赤い髪の美しい令嬢だった。深紅のドレスに、首元には大粒の宝石。歩くたびに香水の甘い香りがふわりと漂う。


「はじめまして、侯爵夫人。イザベラ・クローデルと申しますわ」


 艶やかな唇が弧を描く。けれど、私を見下ろす緑の瞳は少しも笑っていなかった。


「クラリスです。ようこそいらっしゃいました」


「クローデル領はお隣ですの。アレクシス様とは幼いころからのお付き合いで――まあ、一時は婚約の話も出ていたくらいですのよ」


(婚約の話)


 マーサさんが後ろで小さく咳払いをした。あとでこっそり教えてもらったところによると、婚約の話を持ちかけていたのはクローデル伯爵家のほうで、アレクシス様は一度も首を縦に振らなかったらしい。


 けれどこのときの私は、そんなことは知らなかった。


「それで、今日はアレクシス様は?」


「領地の見回りから、もうすぐお戻りになるかと」


「そう。なら待たせていただくわ」


 イザベラ様は優雅にお茶を口に運び、それから、まるで天気の話でもするように言った。


「ところで、侯爵夫人。お二人は寝室が別だと伺いましたけれど」


 ぴたりと、私の手が止まった。


「食事の席も、テーブルの端と端だとか。夜会にもご一緒にいらっしゃらないし、侯爵様が奥様をエスコートしているところを見た方は一人もいない」


 イザベラ様は扇を広げ、口元を隠した。


「近隣ではもう、噂になっておりますのよ。氷の侯爵は、借金まみれの子爵家から金で花嫁を買ったけれど、指一本触れていないお飾りの妻だって」


 応接間の空気が、すっと冷えた。控えていた侍女が、悔しそうに唇を噛むのが見えた。


 けれど私は、首を傾げるしかなかった。


(お飾りの妻……まあ、だいたい合っているのよね)


 寝室は別だし、食事の席は遠いし、愛さないとはっきり言われている。噂を否定する材料が、ひとつもない。


「そうですね。おおむね、そのとおりです」


 あっさり認めると、イザベラ様の扇がぴたりと止まった。


「……は?」


「旦那様には、初夜に『君を愛することはない』と言われております。ですから、お飾りの妻というのは間違いではないかと」


 イザベラ様の緑の瞳が、まん丸に見開かれた。それから、ゆっくりと勝ち誇ったような笑みが広がっていく。


「まあ……まあ、そうでしたの。おかわいそうに」


「いえ、ちっともかわいそうではありません。とても快適に暮らしております」


「強がらなくてよろしいのよ」


(強がってないのだけれど)


 本心なのに、まったく伝わらなかった。




 そのとき、応接間の扉が開いた。


「戻った」


 外套に雪をつけたまま、アレクシス様が入ってきた。その瞬間、イザベラ様がぱっと立ち上がった。


「アレクシス様! お久しぶりですわ!」


 ドレスの裾を翻して駆け寄り、アレクシス様の腕に自分の腕を絡める。


 アレクシス様は、固まった。


 腕を絡められたまま、まるで彫像のように微動だにしない。表情は相変わらず無だけれど、その目がゆっくりと私のほうへ動いた。


 助けを求めるように見えたのは、気のせいだろうか。


「……クローデル嬢。腕を」


「まあ、つれないこと。昔はよく一緒に遊んだではありませんか」


「遊んだ覚えはない」


「ひどいわ。ねえ、アレクシス様、今度うちで夜会を開きますの。ぜひいらして? お一人で」


 お一人で、のところに妙な力がこもっていた。


 アレクシス様は腕を引き抜こうとしているらしいけれど、イザベラ様はがっちり掴んで離さない。力ずくで振りほどくわけにもいかず、困り果てているのが私にもわかった。


「お、お一人では……その」


「だって、奥様はお飾りなのでしょう? 今、奥様ご本人から伺いましたわ。アレクシス様が初夜に、愛することはないとおっしゃったって」


 アレクシス様の顔から、さっと血の気が引いた。


 ぎぎぎ、と音がしそうなほどぎこちなく、彼の首が私のほうへ回る。


「……言った、のか」


「はい。聞かれたので」


「……そう、か」


 アレクシス様は、何か言おうと口を開いた。イザベラ様を見て、私を見て、また口を閉じた。


「事実だ」


 絞り出すような声だった。


 イザベラ様の笑みが、ますます深くなる。


「でしたら、夜会にはお一人で。お待ちしておりますわね」


 イザベラ様はようやく腕を離すと、私に勝ち誇った一瞥をくれて、香水の香りを残して去っていった。




 その夜も、足音はやってきた。


 けれど扉の前で止まったまま、いつもの「見回りだ」がなかなか聞こえてこなかった。


「……旦那様?」


「…………すまなかった」


「何がですか?」


「昼間のことだ。君に、不愉快な思いをさせた」


「いいえ、全然。噂は本当のことですし」


 扉の向こうで、深い深いため息が聞こえた。


「…………本当のこと、か」


 それきり、アレクシス様は黙り込んでしまった。いつもより早く、足音は遠ざかっていった。


 柱にぶつかる音は、しなかった。


 それがなぜか、少しだけ気になった。

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