第9話 元婚約者候補の令嬢が訪ねてきました
扉越しのおしゃべりは、それから毎晩続いた。
真夜中を少し過ぎたころ、こつ、こつ、こつ、と足音がやってくる。私は扉の横の椅子に座って、それを待つ。
「……見回りだ」
「お疲れさまです、旦那様」
それが合図のようなものだった。
話すのは、他愛のないことばかりだ。今日は温室の香草を摘んだとか、ハンスさんが新しい煮込みを作ったとか、孤児院の子が字を覚えたとか。アレクシス様はたいてい「そうか」としか言わないけれど、ときどき驚くほど詳しい相槌が返ってくる。
「その香草は、乾燥させると香りが強くなるはずだ。図鑑の百二頁に書いてあった」
「旦那様、全部覚えていらっしゃるんですか?」
「…………念のためだ」
何の念のためなのかは、教えてくれなかった。
昼間の旦那様は相変わらず無口で、食事の席は端と端だ。けれど目が合うと、以前のように慌てて逸らすのではなく、ほんの少しだけ頷いてくれるようになった。
(なんだか、少しだけ仲良くなれた気がする)
愛されない妻と、愛さない夫。それでも、こうして穏やかに話せる相手がいるのは嬉しいことだった。
そんなある日の午後、一台の豪奢な馬車が城の門をくぐった。
「クローデル伯爵家のイザベラ様がお見えです」
マーサさんの声が、心なしか硬かった。
応接間に入ってきたのは、燃えるような赤い髪の美しい令嬢だった。深紅のドレスに、首元には大粒の宝石。歩くたびに香水の甘い香りがふわりと漂う。
「はじめまして、侯爵夫人。イザベラ・クローデルと申しますわ」
艶やかな唇が弧を描く。けれど、私を見下ろす緑の瞳は少しも笑っていなかった。
「クラリスです。ようこそいらっしゃいました」
「クローデル領はお隣ですの。アレクシス様とは幼いころからのお付き合いで――まあ、一時は婚約の話も出ていたくらいですのよ」
(婚約の話)
マーサさんが後ろで小さく咳払いをした。あとでこっそり教えてもらったところによると、婚約の話を持ちかけていたのはクローデル伯爵家のほうで、アレクシス様は一度も首を縦に振らなかったらしい。
けれどこのときの私は、そんなことは知らなかった。
「それで、今日はアレクシス様は?」
「領地の見回りから、もうすぐお戻りになるかと」
「そう。なら待たせていただくわ」
イザベラ様は優雅にお茶を口に運び、それから、まるで天気の話でもするように言った。
「ところで、侯爵夫人。お二人は寝室が別だと伺いましたけれど」
ぴたりと、私の手が止まった。
「食事の席も、テーブルの端と端だとか。夜会にもご一緒にいらっしゃらないし、侯爵様が奥様をエスコートしているところを見た方は一人もいない」
イザベラ様は扇を広げ、口元を隠した。
「近隣ではもう、噂になっておりますのよ。氷の侯爵は、借金まみれの子爵家から金で花嫁を買ったけれど、指一本触れていないお飾りの妻だって」
応接間の空気が、すっと冷えた。控えていた侍女が、悔しそうに唇を噛むのが見えた。
けれど私は、首を傾げるしかなかった。
(お飾りの妻……まあ、だいたい合っているのよね)
寝室は別だし、食事の席は遠いし、愛さないとはっきり言われている。噂を否定する材料が、ひとつもない。
「そうですね。おおむね、そのとおりです」
あっさり認めると、イザベラ様の扇がぴたりと止まった。
「……は?」
「旦那様には、初夜に『君を愛することはない』と言われております。ですから、お飾りの妻というのは間違いではないかと」
イザベラ様の緑の瞳が、まん丸に見開かれた。それから、ゆっくりと勝ち誇ったような笑みが広がっていく。
「まあ……まあ、そうでしたの。おかわいそうに」
「いえ、ちっともかわいそうではありません。とても快適に暮らしております」
「強がらなくてよろしいのよ」
(強がってないのだけれど)
本心なのに、まったく伝わらなかった。
そのとき、応接間の扉が開いた。
「戻った」
外套に雪をつけたまま、アレクシス様が入ってきた。その瞬間、イザベラ様がぱっと立ち上がった。
「アレクシス様! お久しぶりですわ!」
ドレスの裾を翻して駆け寄り、アレクシス様の腕に自分の腕を絡める。
アレクシス様は、固まった。
腕を絡められたまま、まるで彫像のように微動だにしない。表情は相変わらず無だけれど、その目がゆっくりと私のほうへ動いた。
助けを求めるように見えたのは、気のせいだろうか。
「……クローデル嬢。腕を」
「まあ、つれないこと。昔はよく一緒に遊んだではありませんか」
「遊んだ覚えはない」
「ひどいわ。ねえ、アレクシス様、今度うちで夜会を開きますの。ぜひいらして? お一人で」
お一人で、のところに妙な力がこもっていた。
アレクシス様は腕を引き抜こうとしているらしいけれど、イザベラ様はがっちり掴んで離さない。力ずくで振りほどくわけにもいかず、困り果てているのが私にもわかった。
「お、お一人では……その」
「だって、奥様はお飾りなのでしょう? 今、奥様ご本人から伺いましたわ。アレクシス様が初夜に、愛することはないとおっしゃったって」
アレクシス様の顔から、さっと血の気が引いた。
ぎぎぎ、と音がしそうなほどぎこちなく、彼の首が私のほうへ回る。
「……言った、のか」
「はい。聞かれたので」
「……そう、か」
アレクシス様は、何か言おうと口を開いた。イザベラ様を見て、私を見て、また口を閉じた。
「事実だ」
絞り出すような声だった。
イザベラ様の笑みが、ますます深くなる。
「でしたら、夜会にはお一人で。お待ちしておりますわね」
イザベラ様はようやく腕を離すと、私に勝ち誇った一瞥をくれて、香水の香りを残して去っていった。
その夜も、足音はやってきた。
けれど扉の前で止まったまま、いつもの「見回りだ」がなかなか聞こえてこなかった。
「……旦那様?」
「…………すまなかった」
「何がですか?」
「昼間のことだ。君に、不愉快な思いをさせた」
「いいえ、全然。噂は本当のことですし」
扉の向こうで、深い深いため息が聞こえた。
「…………本当のこと、か」
それきり、アレクシス様は黙り込んでしまった。いつもより早く、足音は遠ざかっていった。
柱にぶつかる音は、しなかった。
それがなぜか、少しだけ気になった。




