第8話 幽霊の正体は、旦那様でした
幽霊が戻ってきた。
正確には、戻ってきたらしい。四日目の夜から、またあの足音が聞こえるようになったのだ。
ただ、私が椅子で待ち構えている夜に限って、なぜか来ない。諦めて寝台に入ると、決まってうとうとし始めたころにやってくる。
(あちらも、こちらの様子を窺っているのね)
なかなか手強い幽霊だった。
正面から待ち構えてもだめなら、別の方法を考えるしかない。
「ハンスさん、小麦粉を少し分けてもらえますか?」
「おや奥様、また何か焼くんですかい?」
「いいえ、今日は焼かないの」
首を傾げるハンスさんから小麦粉を一袋もらって、私は部屋に戻った。
夜、使用人たちが寝静まったのを確かめてから、そっと扉を開け、廊下の床に小麦粉を薄く撒いた。部屋の前の、ちょうど影が落ちるあたりに。
(これで足跡が残れば、どこから来てどこへ帰ったのかわかるはず)
幽霊に足跡があるかどうかは、わからないけれど。
私は寝台に入って、目を閉じた。今夜は待たない。いつもどおり、眠ったふりをする。
翌朝。
扉を開けると、白い粉の上に、くっきりと足跡が残っていた。
大きな靴の跡だった。少なくとも幽霊の足ではない。踵がしっかりしていて、つま先の形からして男性の上等な革靴だ。
足跡は、扉のすぐ前でしばらく行ったり来たりしていた。扉に向かって一歩踏み出して、また戻って、また踏み出して――。
(迷ってる……)
それから、来た方向へと帰っていく。白い跡は廊下を進むにつれて薄くなりながら、それでも点々と続いていた。
私は寝間着の上にショールを羽織り、足跡をたどった。
廊下をまっすぐ。角を曲がって――角の柱に、なぜか白い粉が擦れた跡がついていた。またぶつかったらしい。
さらに奥へ。この先は、私がまだ入ったことのない棟だ。
そして足跡は、ひとつの重厚な扉の前で途切れていた。
ちょうどそのとき、扉の前を通りかかったユーグさんが、私と、床の足跡と、その扉を順番に見て――盛大に天を仰いだ。
「……ユーグさん。このお部屋は、どなたの」
「侯爵様の寝室でございます」
(……でしょうね)
足跡のつま先は、まっすぐ寝室へ入っていた。
朝食の席で、アレクシス様の靴の縁に、白い粉がうっすらついていた。
私はスープを飲みながら、その靴をじっと見つめた。
(旦那様が、幽霊)
(毎晩、私の部屋の前に立っていた)
わけがわからなかった。愛さないと言った人が、どうして夜中に妻の部屋の前に立つのだろう。
考えて、考えて、ひとつの答えにたどり着いた。
(……見張られている?)
私が実家から援助を引き出すよう言われていることを、旦那様は知っているのかもしれない。侯爵家の財産に手を出さないか、夜中に怪しい動きをしないか、確かめに来ているのではないか。
だとしたら、毎晩立っていたのも、ノックしなかったのも、声をかけたら逃げたのも説明がつく。
(なんだ、そういうことだったのね)
少しだけ、胸がちくりとした。けれど、疑われても仕方がない立場だ。むしろ、こそこそされるより、はっきり聞いてくれたほうがいい。
その夜。
私は寝台には入らず、扉のすぐ横に椅子を寄せて座った。火かき棒は持たなかった。
真夜中を少し過ぎたころ、足音がやってきた。
こつ、こつ、こつ。
扉の前で止まる。隙間に、影が落ちる。
私は小さく息を吸ってから、扉に向かって声をかけた。
「……旦那様、ですよね?」
影が、びくりと揺れた。
逃げる気配がする。私は慌てて言葉を続けた。
「逃げないでください! また柱にぶつかりますよ」
足音が止まった。
長い、長い沈黙が流れた。暖炉の薪がはぜる音だけが、部屋に響いている。
やがて、扉の向こうから、かすれた声がした。
「……ああ」
やっぱり、アレクシス様だった。
「小麦粉、気づかれましたか?」
「……今朝、靴を見て気づいた。……すまない」
「いいえ。あの、旦那様」
私は膝の上で手を握った。
「私を、見張っていらしたんですよね」
「…………は?」
扉の向こうから、ものすごく間の抜けた声がした。
「実家の父から、侯爵家から援助を引き出すように言われています。旦那様もご存じなんでしょう? だから、私が何か怪しいことをしないか、確かめに来られていたのかと」
「違う」
即答だった。扉越しでもわかるくらい、強い声だった。
「違う。見張りではない。君を疑ったことなど、一度もない」
「では、どうして毎晩?」
「…………」
また沈黙。今度の沈黙は、さっきよりずっと長かった。扉の向こうで、何度も息を吸っては吐く気配がする。
「……見回り、だ」
「見回り」
「城主として、夜の城内を見回るのは、当然の務めだ」
「毎晩、私の部屋の前でだけ、十分以上立ち止まって?」
「…………念入りな、見回りだ」
(苦しい)
さすがに苦しい言い訳だと私でもわかった。けれど、扉の向こうの声があまりに必死で、それ以上は問い詰められなかった。
それに――疑われていたわけではないと知って、胸のちくりとした痛みが、すっと消えていたから。
「……わかりました。見回り、ご苦労さまです」
「…………ああ」
「旦那様、温室の薔薇、蕾がついたんです。トマス――実家の庭師がくれた種なんですけど、北の地でもちゃんと育ってくれて」
なんとなく話しかけてみると、扉の向こうから少し間を置いて返事があった。
「……知っている。昨日、見た」
「ご覧になったんですか?」
「……視察で」
「ふふ。あの薔薇、咲いたら淡い桃色になるんですよ。母が好きだった色で」
「……そうか。咲いたら、教えてくれ」
「はい」
扉一枚を挟んで、私たちはぽつりぽつりと話をした。温室の香草のこと。孤児院の子どもたちのこと。図鑑のこと――「あれは余っていた」と言われたので、「二十冊もですか」と返したら黙り込まれた。
顔が見えない分、なぜかいつもより話しやすかった。
アレクシス様の声は、食事の席で聞くよりずっと柔らかかった。
どれくらい話していただろう。
私が小さくあくびをすると、扉の向こうで影が動いた。
「……もう遅い。休め」
「はい。旦那様も」
「……ああ」
足音が、一歩、遠ざかる。けれどすぐに止まった。
「……クラリス」
「はい?」
「明日も、見回りに来て、いいか」
ずいぶん遠慮がちな声だった。見回りは城主の当然の務めだと、さっき言っていたはずなのに。
私は思わず笑ってしまった。
「はい。お待ちしています」
扉の向こうで、息をのむ音がした。
それから、こつ、こつ、こつ――といつもより少しだけ速い足音が遠ざかっていき、廊下の角のあたりで、ごん、と聞き慣れた音がした。
(……また柱)
私は扉に額を寄せて、くすくすと笑った。
愛さないと言われた旦那様と、扉越しのおしゃべり。
それがどういう意味を持つのか、このときの私は、まだ深く考えてはいなかった。




