第7話 言えなかった言葉の続き(アレクシス視点)
母は、待つ人だった。
父がいつか自分を愛してくれる日を、ずっと待っていた。
グレンフォード家と母の実家との政略結婚だった。父は母に一度も愛を囁かなかったし、母もそれを知っていた。それでも母は、父の好物を覚え、父の帰りを玄関で待ち、父が外に囲っていた女性の噂を聞いても、黙って微笑んでいた。
「いつか、きっとわかってくださるわ」
それが母の口癖だった。
温室で花を育てるのが好きな人だった。父に見てもらいたくて、季節ごとに新しい花を咲かせた。けれど父は、一度も温室に足を運ばなかった。
母が病で亡くなったのは、私が十四のときだ。最期まで、父を待っていた。父は葬儀の翌月には、もう別の女性の屋敷へ通っていた。
それ以来、温室は閉ざされたままになった。
期待させることが、一番残酷なのだと思った。
愛してもいないのに、夫という立場が妻に期待を抱かせる。その期待が、母をじわじわと蝕んでいった。ならば最初から、何も期待させなければいい。
陛下から妻を娶れと命じられたとき、私はユーグに相手の身辺を調べさせた。
ヘイウッド子爵家。借金まみれの家。縁談を持ちかけてきたのは子爵本人で、目的は明らかに支度金だった。
「来るのは長女のクラリス嬢だそうです」
ユーグが差し出した報告書には、彼女について淡々と書かれていた。
家の帳簿を一人で管理していること。使用人が辞めたあと、家事を肩代わりしていること。自分の装身具を売って、家族の借金を返していたこと。社交界では「愛想のない姉」と呼ばれ、華やかな妹の陰に隠れていること。
そして、この縁談を本人が望んだわけではないこと。
金のために売られてくるのだ、と思った。
望まぬ結婚を強いられ、見知らぬ北の地へ送られてくる娘。その娘に、私が「夫」として何を求めるというのか。
だから、決めた。
彼女には何も求めない。愛を期待させない。その代わり、ここでは自由に、心のままに過ごしてもらう。実家で背負わされてきたものを、全部下ろしてもらう。
初夜に伝えるべき言葉を、何日もかけて考えた。紙に書いて、何度も読み返した。
『君を愛することはない。だから、君も無理に私を愛そうとしなくていい。夫の機嫌を取る必要も、役に立とうとする必要もない。ここでは自由に、心のままに過ごしてほしい』
完璧だと思った。
そして、初夜。
寝室の扉を開けた瞬間、頭が真っ白になった。
夜着姿の彼女が、寝台の端に座っていた。暖炉の明かりに照らされた亜麻色の髪が、肩でやわらかく揺れていた。
緊張で強張った顔。膝の上で固く握られた手。
(……震えている)
当然だ。見知らぬ男の寝室で、これから何をされるのかと怯えているのだ。
近づいてはいけない、と思った。扉の前から一歩も動けなかった。
何日も練習した言葉は、喉の奥で絡まってなかなか出てこない。天井を見て、床を見て、ようやく最初の一文を絞り出した。
「君を愛することはない」
――よし。ここからだ。
「だから、君も」と続けようとした、その瞬間。
「承知いたしました」
信じられないほど澄んだ声で、返事が返ってきた。
(……え?)
続きを言おうとした。言おうとしたのだ。けれど彼女は、さらに晴れやかな顔でこう言った。
「ご安心ください、旦那様。お邪魔はいたしません。私は私で、好きに過ごしますね」
――笑っていた。
城に着いてから、一度も見たことのなかった顔で。心の底から安心したように、ほっとしたように。
(……伝わった、のか?)
いや、伝わっていない。たぶん半分も伝わっていない。けれど、彼女が自由に過ごすと言ってくれたのなら、結果は同じではないか。
そう自分に言い聞かせて部屋を出た。扉の角に肩をぶつけた。痛かった。
廊下に出てから、しばらく動けなかった。
あの笑顔が、まぶたの裏から離れなかった。
それからの日々は、私にとって予想外の連続だった。
彼女は本当に、好きに過ごし始めた。
閉ざされていた温室の扉を開けた。泥だらけになって土を運び、ガラスを磨き、枯れた鉢を片付けた。母が亡くなってから誰も手をつけなかった場所に、たった数日で光が戻った。
厨房で菓子を焼いた。使用人たちに配った。マーサが笑うのを、十年ぶりに見た。
私のところにも、焼き菓子が届いた。
蜂蜜と胡桃の、素朴な味がした。一つだけ食べるつもりが、気づいたら皿が空になっていた。礼を伝えなければと思って紙を取り、一時間悩んで書けたのが『美味かった。以上』だった。
ユーグには「報告書ですか」と言われた。
町へ出たと聞けば、気になって仕事が手につかなかった。孤児院で子どもたちに囲まれて笑っていたと聞いて、どうしても見たくなって町まで行った。母が建てた孤児院だ。
彼女が見ていたという手袋の店で、「どれを見ていた」と聞いたら店主が答えられなかったので、全部買った。
そして今日、温室で、見知らぬ男と楽しそうに笑っている彼女を見た。
胸の奥が、焼けるように熱くなった。気づいたら、あの男を追い払っていた。
(……何をしているんだ、私は)
愛さないと言ったのは私だ。好きに過ごせと言ったのも私だ。彼女が誰と笑おうと、私に口を出す権利などない。
それなのに、「好きです」と言われた瞬間、グラスを倒した。
植物に詳しい男が好きだというから、今夜は書庫の図鑑を片端から読むつもりでいる。
真夜中。
私はまた、彼女の部屋の前に立っていた。
最初は、ただ確認のつもりだった。寒くないか、眠れているか、それだけ確かめたら戻るつもりだった。
扉の向こうから、ときどき寝言が聞こえる。「薔薇……」とか「蕾……」とか。それを聞くと、どうしようもなく胸が温かくなって、足が動かなくなった。
伝えたいことがある。
初夜に言えなかった続き。いや、もう続きでは足りない。
君を愛することはない、と言った。
――あれは、間違いだった。
そう言いたい。扉を叩いて、謝りたい。けれど拳を上げるたびに、あの夜の彼女の笑顔が浮かぶ。愛されないと知って、心から安心していた顔。
今さら私が何かを言えば、彼女のあの自由を奪うことになるのではないか。
期待させて、傷つけることになるのではないか。母のように。
拳は、今夜も扉に届かなかった。
先日、「どなたですか」と声をかけられたときは、心臓が止まるかと思った。逃げた。柱にぶつかった。花瓶を倒した。翌朝「夜の廊下は暗いので、お気をつけくださいね」と心配されて、死にたくなった。
三日間は我慢した。四日目に、またここへ来てしまった。
(……情けない)
氷の侯爵などと呼ばれている男が、妻の部屋の扉ひとつ叩けない。
私は額を冷たい扉に押し当てて、目を閉じた。
扉の向こうで、彼女が小さく寝返りを打つ音がした。




