第6話 出入りの商人と話していたら、旦那様が冷たいです
温室の薔薇が、小さな蕾をつけた。
トマスからもらった種を植えて、ひと月あまり。北の地で本当に育つのか不安だったけれど、暖炉のおかげで温室はいつも春のように暖かい。
「リック、見て。蕾よ」
「本当だ! 奥様、すごいです!」
庭師見習いのリックと二人で、鉢の前にしゃがみ込んではしゃいでいると、温室の入り口から明るい声がした。
「こんにちは。苗のお届けに参りました」
振り返ると、荷車を引いた若い男性が立っていた。くせのある栗色の髪に、そばかすの散った人懐っこい顔。年は私と同じくらいだろうか。
「バートン種苗店のニールと申します。奥様が温室を蘇らせたと町で噂になっていて、ぜひ一度ご挨拶をと」
「まあ、ありがとうございます。クラリスです」
ニールさんが運んできてくれたのは、北部でも育つ寒さに強い香草の苗と、珍しい球根だった。
「これは雪の下でも花を咲かせるんです。春を待たずに、冬の終わりに真っ白な花が」
「素敵! どれくらいの深さに植えればいいんですか?」
「拳ひとつ分くらいですね。それと、水はけをよくするために砂を少し混ぜて――」
ニールさんの説明はわかりやすくて、植物への愛情があふれていた。気づけば私たちは、土の配合や肥料の話で夢中になっていた。
「それなら、薔薇の根元にも同じ砂を混ぜたらいいのかしら」
「ええ、きっと喜びますよ。……あ、蕾がついてますね。南の品種をここまで育てるなんて、奥様は本当に腕がいい」
「ふふ、褒めすぎです。昔から実家で庭の世話をしていたので」
思わず声を上げて笑った、そのときだった。
温室の中の空気が、すっと冷えた。
暖炉は燃えているのに、背筋に冷たいものが走る。リックがひっと小さく悲鳴を上げて、私の後ろに隠れた。
入り口に、アレクシス様が立っていた。
「……旦那様?」
アレクシス様は、表情ひとつ変えずにこちらへ歩いてきた。足音が、やけに重い。
そして私とニールさんのあいだに、すっと割って入った。
「納品か」
「は、はいっ! バートン種苗店の――」
「納品は裏口だ」
低い声が、温室の空気をさらに凍りつかせた。
「受け取りは使用人がする。今後、品物は裏口へ届けろ。……温室に直接来る必要はない」
ニールさんの顔から、さっと血の気が引いた。
「し、失礼いたしました!」
「旦那様、ニールさんは私に植え方を教えてくださっていたんです」
慌てて口を挟むと、アレクシス様は私のほうを見た。灰色の瞳が、何か言いたげに揺れる。
「……植え方なら、本で調べられる。書庫にある」
「でも、実際に育てている方の話を聞くのが一番わかりやすいんです」
「…………」
アレクシス様の口が、開きかけて閉じた。
ニールさんは青い顔のまま、帽子を胸に当てて深々と頭を下げた。
「お、奥様、また裏口からお届けに上がります! 失礼いたしました!」
荷車ががらがらと音を立てて、逃げるように去っていく。
温室には、私とアレクシス様と、私の後ろで震えるリックだけが残された。
(……何も、あんな言い方をしなくても)
むっとして見上げると、アレクシス様はニールさんが去った方向をじっと見つめていた。その横顔は、いつも以上に硬い。
「旦那様。ニールさんに何か問題でもあったんですか?」
「……ない」
「なら、どうして」
「…………」
長い沈黙のあと、アレクシス様は小さく息を吐いた。
「……邪魔をした」
それだけ言うと、彼はまたくるりと背を向けて温室を出ていった。
入り口の段差で、少しつまずいていた。
その日の夕食の席は、いつにも増して静かだった。
長いテーブルの端と端。聞こえるのは、食器の触れ合う音だけ。
(怒っていらっしゃるのかしら)
勝手に商人を温室に入れたのが気に障ったのかもしれない。考えてみれば、ここは侯爵家の城だ。私が好きに過ごしていいとはいえ、人の出入りには気を配るべきだったのだろう。
(愛さないと言われたからといって、迷惑をかけていいわけじゃないものね)
私はスプーンを置いて、背筋を伸ばした。
「旦那様。今日は申し訳ありませんでした」
アレクシス様の手が止まった。
「……何がだ」
「勝手に外の方を温室に入れてしまって。今後は気をつけます。旦那様のご迷惑にならないよう――」
「迷惑ではない」
思いがけず強い声で遮られた。
アレクシス様自身も驚いたように口をつぐみ、それからフォークを置いて、しばらくテーブルクロスを見つめていた。
「……迷惑、では、ない。君は、好きにしていい。そう言ったはずだ」
「でも、怒っていらしたでしょう?」
「怒ってはいない」
「では、どうして」
アレクシス様の喉が、ごくりと動いた。視線が天井をさまよい、壁の燭台をさまよい、最後に私のところへ戻ってくる。
「……クラリス」
名前を呼ばれたのは、初めてだった気がする。
「君は、ああいう男が……その」
「はい」
「…………好き、なのか」
(はい?)
意味がわからなくて、私は瞬きを繰り返した。
ああいう男。ニールさんのことだろうか。好き? 植物に詳しくて、話がわかりやすくて――。
「はい、好きです」
がしゃん、と音がした。
アレクシス様の肘が、水の入ったグラスを倒していた。テーブルクロスにみるみる染みが広がっていく。給仕の侍女が慌てて駆け寄った。
「植物に詳しい方は、みんな好きです。話が合いますし、色々教えてもらえますから」
私がそう続けると、アレクシス様は、倒れたグラスを見下ろしたまま動かなくなった。
「…………植物に、詳しい方は」
「はい」
「…………そうか」
濡れたテーブルクロスが取り替えられるあいだ、アレクシス様はずっと、何かを考え込むように眉間に皺を寄せていた。
翌朝、書庫の私がよく座る席の机に、真新しい本が山積みになっていた。
『北部植物図鑑』『薔薇栽培の手引き』『寒冷地における温室管理』『球根植物大全』――全部で二十冊近くある。
そして、ユーグさんがこっそり教えてくれた。
「侯爵様は昨晩、夜明けまでこれをお読みになっていました。今朝は目の下にクマが」
「……旦那様、植物にご興味があったんですね」
私が感心してそう言うと、ユーグさんは眼鏡の奥で、遠い目をした。
「ええ、まあ。……急に、ものすごく」




