第5話 旦那様は、なぜか町にいらっしゃいます
幽霊の正体を突き止める決意は、その後三日間、空振りに終わった。
真夜中を過ぎても、足音がやってこないのだ。
(逃げたきり、来なくなっちゃった)
ほっとしたような、少し物足りないような、妙な気分だった。椅子に座って火かき棒を握ったまま、朝まで眠ってしまった日もあった。
「奥様、また椅子でお休みになったのですか」
朝、マーサさんに見つかって、ため息をつかれた。
「お体を冷やします。……それに、その、待たずとも、いずれまた参りますよ」
「幽霊がですか?」
「……さあ、どうでございましょう」
マーサさんは私の肩に毛布をかけながら、やっぱり目を合わせてくれなかった。
その日の午後、私はマーサさんに付き添ってもらって、初めて領地の町へ出かけることにした。
温室の土を増やしたかったし、肥料や道具も見てみたい。実家の領地とは違う北部の植物にも興味があった。
城から馬車で少し下った先に、グレンフォード領最大の町がある。雪かきされた石畳の通りに、木組みの家々と店が並んでいた。人々は厚い毛皮の外套に身を包み、白い息を吐きながら行き交っている。
「わあ……!」
市場には、見たことのない品物があふれていた。干した木の実、燻製の魚、雪の下で育つという赤い根菜。軒先には毛糸の手袋や、木彫りの小物がぶら下がっている。
「奥様、あまり走られますと」
「ごめんなさい、マーサさん。でも見て、この蕪、真っ赤!」
「雪蕪でございますね。甘くて煮込みに向いております」
一軒一軒覗いて回るうちに、店の人たちが不思議そうな顔で声をかけてきた。
「お嬢さん、見ない顔だね。どちらから?」
マーサさんが一歩前へ出て、背筋を伸ばす。
「こちらは侯爵様の奥方、クラリス様です」
市場が、しんと静まり返った。
(あ、まずかったかしら)
氷の侯爵の妻。きっと怖がられるに違いない――そう思って身構えたのに、次の瞬間、店主たちはわっと集まってきた。
「侯爵様の! あの侯爵様が、とうとう!」
「まあまあ、こんなにお若くて可愛らしい方が!」
「奥様、これ持っていってくださいな、うちの干し林檎!」
「いえ、あの、お代は――」
「いいんですよ。侯爵様には、冬のたびに薪と食糧を配っていただいてるんです。そのご恩に比べたら、こんなもの」
気づけば、両腕いっぱいに品物を抱えていた。
(旦那様、町ではこんなに慕われているのね)
あの無表情からは想像もつかない。けれど、北の厳しい冬に領民が飢えないよう気を配っているのだと思うと、少しだけ胸が温かくなった。
町の外れに、小さな孤児院があった。
マーサさんによれば、先代の奥様――アレクシス様のお母様が建てたものだという。
「よろしければ、少し寄ってもいいですか? お菓子を持ってきているんです」
今朝焼いた胡桃の焼き菓子を、たくさん籠に詰めてきていた。もともと市場の人に配るつもりだったけれど、すっかり逆にもらってしまったので余っている。
孤児院の扉を叩くと、年配の修道女と、十人ほどの子どもたちが出てきた。
「侯爵様の奥様が? まあ、なんてこと」
子どもたちは最初こそ遠巻きに見ていたけれど、焼き菓子の籠を開けた途端、目を輝かせて群がってきた。
「おいしい!」
「おくさま、これどうやってつくるの?」
「蜂蜜と胡桃をね、こうやって混ぜて――」
身振り手振りで説明しているうちに、いつの間にか私は床に座り込んで、子どもたちに囲まれていた。小さな女の子が膝の上によじ登ってくる。
「おくさま、また来てくれる?」
「ええ、もちろん。今度は一緒に焼きましょうか」
「やったあ!」
歓声を上げる子どもたちを見ていると、自然に笑みがこぼれた。実家では、こんなふうに誰かに喜ばれたことがあっただろうか。
(ここに来て、よかったな)
孤児院を出たときには、空が茜色に染まり始めていた。
馬車へ戻る途中、市場の角を曲がったところで、私は足を止めた。
通りの向こう、毛織物の店の前に、見覚えのある長身の人影が立っている。
濃紺の髪。黒い外套。額に、まだうっすら残る赤い痣。
「……旦那様?」
アレクシス様だった。
彼はこちらに気づくと、びくりと肩を震わせ、なぜか毛織物の店の看板を熱心に見上げ始めた。
「旦那様、町にいらしていたんですか?」
近づいて声をかけると、アレクシス様は看板から目を離さないまま答えた。
「……視察だ」
(また視察)
「偶然ですね」
「偶然だ」
「…………」
後ろでマーサさんが、ものすごく小さな声で「朝から三度、奥様の行き先をお尋ねになったくせに」と呟いた気がしたけれど、たぶん聞き間違いだろう。
「町の方たち、とても親切でした。旦那様がずっと領民を大切にされてきたからなんですね」
素直にそう伝えると、アレクシス様はようやく私を見た。灰色の瞳が、ほんのわずかに揺れる。
「……君は、楽しかったか」
「はい、とても! 孤児院の子たちとも約束したんです。今度一緒にお菓子を焼くって」
「……そうか」
それだけ言って、アレクシス様はまた黙り込んだ。
その視線が、私の腕の中の荷物に落ちる。それから、通りの毛糸の手袋を売る露店へ移った。昼間、私が「可愛い」と言って眺めていた、雪の結晶模様の手袋の店だ。
アレクシス様は無言でその露店へ歩いていき、店主に何か告げた。
店主の目が、まん丸になった。
城に戻った翌朝、私の部屋の前に、大きな木箱が置かれていた。
中には、雪の結晶模様の手袋がぎっしり詰まっていた。色違いで、全部で三十組。
「ユーグさん……」
「余っていたそうです」
ユーグさんは、もはや何の迷いもなく言い切った。
(露店の在庫、全部では?)
さすがに私でもわかる。わかるけれど、なぜこんなことをするのかがわからない。
結局、手袋は孤児院の子どもたちと、城の使用人たちと、市場の人たちに配った。それでも余った一組――淡い水色のものを、私は自分の手にはめてみた。
ふわふわと柔らかくて、温かかった。




