第4話 夜ごと、廊下に誰かの気配がします
グレンフォード邸での暮らしは、驚くほど快適だった。
朝はゆっくり起きて、温かい朝食をいただく。午前中は温室で土をいじり、午後は厨房でお菓子を焼くか、書庫で本を読む。夕食のあとは暖炉の前で刺繍をして、眠くなったら寝る。
誰にも怒られない。誰にも急かされない。
(愛されない妻って、こんなに楽しいものだったのね)
使用人のみんなとも、すっかり打ち解けた。庭師見習いのリックは私を「温室の奥様」と呼ぶし、ハンスさんは新作のお菓子ができるたびに味見をさせてくれる。厳しそうだったマーサさんも、最近は私の髪を結いながら昔話をしてくれるようになった。
アレクシス様とは、相変わらず食事のときに顔を合わせるだけだ。
ただ、ときどき不思議なことが起こる。
書庫の、私の手が届かなかった高い棚の本が、翌日には下の段に移されている。温室に新しい植木鉢が増えている。私が「北部の苺が食べてみたい」とマーサさんに話した三日後、季節外れの苺が南から取り寄せられて食卓に並んだ。
そのたびにユーグさんは言う。
「余っていたそうです」
(グレンフォード家は、何でも余っているのね)
私はそういうものなのだと思うことにした。
異変に気づいたのは、北の城で暮らし始めて半月ほど経ったころだった。
その夜は、なかなか寝つけなかった。昼間に温室で植え替えた薔薇の苗のことが気になって、何度も寝返りを打っていた。
時計が真夜中を回ったころ。
廊下の向こうから、足音が聞こえてきた。
こつ、こつ、こつ。
規則正しい、落ち着いた足音だった。巡回の騎士だろうか、と思ったけれど、足音は私の部屋の前でぴたりと止まった。
(……え?)
息をひそめる。
扉の下の隙間から、廊下のランプの明かりが細く漏れている。その光の帯に、黒い影が差していた。
誰かが、扉のすぐ向こうに立っている。
ノックはない。声もない。ただ、じっと立っている。
一分。五分。十分。
影は動かなかった。
私は布団を頭まで引き上げて、ひたすら息を殺していた。心臓の音が、扉の向こうまで聞こえてしまいそうだった。
どれくらい経ったのだろう。やがて影がゆらりと揺れ、足音が遠ざかっていった。
こつ、こつ、こつ。
完全に聞こえなくなってから、私はようやく大きく息を吐いた。
(今の、何?)
それから毎晩、同じことが起きた。
真夜中を少し過ぎたころ、足音がやってきて、私の部屋の前で止まる。扉の隙間に影が落ちる。そしてしばらく動かずに立ち尽くしたあと、静かに去っていく。
ある夜は、影が扉に近づいて、何かを持ち上げるような気配がした。ノックをする直前のように、拳を構えたような。
けれど、結局その手が扉を叩くことはなかった。
(泥棒……?)
それにしては、毎晩同じ時間に来て何も盗らないのはおかしい。
(それとも――幽霊?)
古いお城だ。何百年も続く家柄だ。一人や二人、さまよっている方がいてもおかしくない。
私は思い切って、朝の身支度の最中にマーサさんに聞いてみた。
「マーサさん。このお屋敷に、幽霊って出ますか?」
櫛を持つマーサさんの手が、ぴたりと止まった。
「……幽霊、でございますか」
「ええ。夜中に、部屋の前に誰かが立っている気がするんです。毎晩」
鏡越しに見たマーサさんの顔は、なんとも言えない表情をしていた。困ったような、呆れたような、笑いをこらえているような。
「……奥様。その方は、何か悪さをいたしましたか」
「いいえ。ただ立っているだけです」
「でしたら、害はございませんでしょう」
マーサさんはそれだけ言って、再び私の髪をとかし始めた。目は、私と合わせてくれなかった。
(害はない、って……やっぱり何か知っているのね?)
その日、ユーグさんにも同じことを聞いてみた。
ユーグさんは書類の束を抱えたまま、三秒ほど固まった。それから眼鏡を押し上げ、真剣な顔で言った。
「奥様。その件については、私の口からは何とも」
「ユーグさんも知っているんですか?」
「何とも申し上げられません。……ですが、ひとつだけ」
ユーグさんは声をひそめた。
「その者は、奥様を傷つけるようなことは決していたしません。それだけは、私の首にかけてお約束いたします」
(首にかけるほど?)
ますますわけがわからなかった。
こうなったら、正体を確かめるしかない。
その夜、私は寝台に入らずに、扉の近くの椅子に座って待つことにした。手には念のため、暖炉の火かき棒を握っている。
(幽霊に火かき棒が効くかはわからないけれど)
時計の針が、ゆっくりと真夜中を越える。
こつ、こつ、こつ。
来た。
足音が近づいてきて、扉の前で止まる。隙間に、影が落ちる。
私は火かき棒を握りしめ、そっと扉に近づいた。扉一枚を隔てたすぐ向こうに、誰かがいる。かすかに、息づかいまで聞こえる気がした。
深呼吸をひとつ。
「……どなたですか?」
小さな声で、問いかけた。
その瞬間。
扉の向こうで、息をのむ気配がした。影が大きく揺れる。そして――。
だだだだっ、と、ものすごい勢いで足音が遠ざかっていった。
さっきまでの落ち着いた足取りが嘘のような、全力の逃走だった。
直後、廊下の角のほうで、ごん、と鈍い音が響いた。何か硬いものに、思い切りぶつかったような音。
続いて、花瓶が倒れて転がる音。
それから、静寂。
「…………」
私は火かき棒を握ったまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。
(逃げた。……幽霊が、逃げた)
(しかも、何かにぶつかった)
幽霊は、柱にぶつかるものなのだろうか。
翌朝。
朝食の間に入ると、アレクシス様はいつものようにテーブルの端で書類を読んでいた。
そして、その額には、くっきりと赤い痣ができていた。
「旦那様、そのお顔……どうなさったんですか?」
アレクシス様は、書類から目を上げなかった。
「……柱にぶつけた」
「まあ。大丈夫ですか?」
「問題ない」
壁際のユーグさんが、ものすごい勢いで咳き込み始めた。マーサさんは無言で窓の外を見ている。給仕の侍女は、お盆で顔を隠していた。
(みんな、どうしたのかしら)
私は首を傾げながら、席についた。
(それにしても、このお屋敷は柱が多いものね。旦那様もぶつけるし、幽霊もぶつけるし)
「旦那様。夜の廊下は暗いので、お気をつけくださいね」
心からそう言うと、アレクシス様の手から書類がばさりと落ちた。
「……ああ。気を、つける」
耳の先が、なぜか真っ赤だった。
(やっぱり、この城は冷えるのね)
私は温かいスープを口に運びながら、今夜こそ幽霊の正体を突き止めてみせると、ひそかに心に決めたのだった。




