第3話 愛されない妻の、自由で快適な毎日
翌朝、目を覚ますと、部屋にはすでに朝の光が差し込んでいた。
(……寝坊した?)
飛び起きて、それから思い出す。ここは実家ではない。帳簿も、請求書も、誰かの朝食の支度もない。
(寝坊、していいんだわ)
もう一度布団に潜り込んで、ごろりと転がってみた。なんて贅沢な朝だろう。
扉が叩かれ、年配の女性が入ってきた。背筋がぴんと伸びた、厳しそうな顔立ちの人だ。
「おはようございます、奥様。侍女長のマーサと申します。本日より奥様のお世話をさせていただきます」
「おはようございます、マーサさん。よろしくお願いします」
マーサさんは私の顔をじっと見て、それから小さく眉を上げた。
「……ずいぶんと、よくお休みになられたようで」
「はい、とても」
「左様でございますか」
その声には、どこか探るような響きがあった。
(初夜に夫が出ていった花嫁が、ぐっすり寝ていたら変に思うわよね)
けれど事実なのだから仕方がない。私は気にせず身支度を整えてもらい、朝食の間へ向かった。
長いテーブルの端に、アレクシス様が座っていた。
私は反対側の端に案内される。遠い。会話をするには声を張らなければならない距離だ。
「おはようございます、旦那様」
「……おはよう」
アレクシス様は手元の書類から目を上げずに答えた。右肩をかばうように少し傾いているのは、昨夜ぶつけたせいだろうか。
黙々と食事が進む。焼きたてのパンは香ばしく、スープは温かく、果物まで添えられている。
(美味しい……! 毎朝こんなものが食べられるなんて)
夢中で食べていると、ふと視線を感じた。顔を上げると、アレクシス様がこちらを見ていた。目が合った瞬間、彼は勢いよく書類へ視線を戻した。
(何かしら。食べ方が下品だった?)
少し気をつけようと思いながら、私は思い切って口を開いた。
「旦那様、ひとつお願いがあるのですが」
ぴくり、とアレクシス様の肩が揺れた。
「……なんだ」
「屋敷の裏に、使われていない温室がありますよね。昨日、馬車の窓から見えたのですけれど。あそこをお借りしてもよろしいでしょうか」
「温室?」
「はい。庭いじりが好きなんです。種も持ってきていて」
アレクシス様は、しばらく黙り込んだ。
「好きにしろ」
ぶっきらぼうな一言だった。突き放すような声音に、控えていた使用人の何人かが気まずそうに目を伏せる。
「ありがとうございます」
私が頭を下げると、アレクシス様は少し慌てたように付け足した。
「……いや。好きにしていい、という意味だ」
「はい?」
「突き放したわけではない。好きに使っていい。……そういう意味だ」
「は、はい。承知しました」
(同じ意味では?)
首を傾げる私の視界の隅で、壁際に立つユーグさんが肩を震わせていた。
温室は想像以上に荒れていた。
ガラスは曇り、ところどころ割れていて、鉢植えの植物はほとんど枯れている。けれど骨組みはしっかりしているし、日当たりもいい。
「よし」
私は袖をまくり、エプロンをつけた。マーサさんが目を丸くする。
「奥様、まさかご自分でなさるおつもりですか」
「ええ。慣れていますから」
枯れた鉢を運び出し、土を入れ替え、ガラスを拭く。実家で何年もやってきたことだ。体が勝手に動く。
最初は遠巻きに見ていた庭師見習いの少年が、そのうち手伝ってくれるようになった。昼過ぎには厨房の料理番がお茶を差し入れてくれて、夕方にはマーサさんまで黙って割れたガラスの破片を片付けてくれていた。
「奥様は、変わったお方ですね」
マーサさんがぽつりと言った。
「侯爵夫人が泥だらけになって温室を掃除するなど、聞いたことがございません」
「ごめんなさい、はしたなかったかしら」
「いいえ」
マーサさんは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……先代の奥様も、この温室がお好きでした」
それ以上は何も言わなかったけれど、その声はどこか寂しそうだった。
そんな日が数日続いたころ、温室にアレクシス様がやってきた。
「旦那様?」
「……視察だ」
アレクシス様は入り口に立ったまま、腕を組んで温室の中を見回した。土を入れ替えた花壇、磨かれたガラス、芽を出し始めた鉢植え。
「……寒くないか」
「平気です。日中はお日様が入るので、ぽかぽかしていますよ」
「そうか」
「…………」
「…………」
(また沈黙)
アレクシス様は何か言いたそうに私を見て、私の泥だらけの手を見て、それから花壇を見た。
「……では」
そしてまた、くるりと背を向けて帰っていった。
(何をしに来たのかしら)
翌朝、温室には真新しい鉄製の暖炉が据えつけられていた。
さらに部屋に戻ると、寝台の上に毛布が積み上がっていた。数えてみたら、十二枚あった。
「ユーグさん、これは……」
廊下で捕まえたユーグさんに聞くと、彼は満面の笑みで答えた。
「侯爵様からです。『余っていたから使え』と伝えるように、とのことでした」
「余っていた……?」
どの毛布にも、仕立て屋の値札がついたままだった。
(新品よね。どう見ても新品よね)
「侯爵様は、余らせるのがお得意なのです」
ユーグさんは真顔でそう言った。私はよくわからないまま、とりあえずお礼を伝えてもらうことにした。
お礼といえば、と思いついて、その日の午後は厨房を借りた。
料理番のハンスさんに頼み込んで、蜂蜜と胡桃を使った焼き菓子を作る。実家でベアトリスのお茶会用によく焼いていたものだ。
焼き上がった分を使用人のみんなに配り、残りをお皿に盛って、マーサさんに託した。
「旦那様に。毛布と暖炉のお礼です、とお伝えください」
マーサさんは「かしこまりました」と受け取ってくれた。
翌朝、空になったお皿が私の部屋の前に置かれていた。
その上に、一枚の紙が添えられている。角張った、几帳面な字だった。
『美味かった。以上』
(以上……)
報告書のような感想だった。けれど、お皿にはパンくずひとつ残っていなかった。
私はその紙をしばらく眺めて、なんとなく捨てられずに、引き出しの奥へしまった。




