第2話 初夜、旦那様に「君を愛することはない」と言われました
結婚式は、屋敷の中にある小さな礼拝堂で行われた。
招かれた客はほとんどいない。私の家族も、「北は遠いから」という理由で誰も来なかった。並んでいるのは侯爵家の使用人たちと、近隣の領主が数人だけ。
(まあ、うちの家族が来たら来たで、支度金の話しかしないものね)
むしろ静かでありがたいくらいだった。
祭壇の前に立つアレクシス様は、昨日と同じく完璧な無表情だった。銀糸の刺繍が入った黒の礼服がよく似合っていて、見た目だけなら物語の王子様のようだ。
神官が誓いの言葉を促す。
「アレクシス・グレンフォード。汝はこの者を妻とし、生涯を共にすることを誓いますか」
「……ちか、います」
声が、裏返った。
ほんの一瞬だったけれど、確かに裏返った。礼拝堂の後ろのほうで、誰かがごほんと咳払いをする。たぶんユーグさんだ。
アレクシス様は何事もなかったような顔で前を向いている。けれど、耳の先がほんのり赤い。
(寒いのかしら。礼拝堂、冷えるものね)
続いて指輪の交換になった。アレクシス様が私の左手を取り、銀の指輪をはめようとする。
その指先が、小刻みに震えていた。
一度、指輪が私の爪に当たって滑る。二度目は関節で止まる。三度目でようやく、するりと薬指に収まった。
「……すまない」
「いえ」
(やっぱり寒いのね。北の方でも、寒いものは寒いんだわ)
私は勝手に納得して、自分の手で彼の指に指輪をはめた。こちらは一度ですんなり通った。
アレクシス様は、自分の指に光る指輪をしばらくじっと見つめていた。何を考えているのかは、まったくわからなかった。
その夜。
湯浴みを終えて、用意された夜着に袖を通した私は、広すぎる寝室の寝台の端にちょこんと腰かけていた。
暖炉には火が入っていて、部屋は驚くほど暖かい。調度品はどれも上等で、実家の私の部屋の三倍はある。
(初夜。……初夜、なのよね)
政略結婚とはいえ、夫婦になったのだ。何をするのかくらいは知っている。母からは「侯爵様の機嫌を損ねないように」としか言われなかったけれど。
心臓がうるさい。手のひらに汗がにじむ。
そのとき、扉が三回、きっちり同じ間隔で叩かれた。
「……入るぞ」
「は、はい」
入ってきたアレクシス様は、まだ礼服のままだった。そして扉を閉めると、その場から一歩も動かなかった。
寝台から、ずいぶん遠い。部屋の端と端だ。
「…………」
「…………」
また、あの長い沈黙。
アレクシス様は何度か口を開きかけては閉じ、視線を天井へやったり床へやったりしたあと、意を決したように私を見た。
「クラリス嬢」
「はい」
「君を愛することはない」
はっきりと、そう言われた。
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜる。
アレクシス様は言い終えたあと、なぜか続きを探すように唇を動かしていた。何かを付け足そうとしているらしい。
けれど私の頭の中は、それどころではなかった。
(愛することはない。……ということは)
(夫婦らしく振る舞わなくていい? 機嫌を取らなくていい? 笑顔を作らなくていい?)
(ご飯は出るのよね? この暖かい部屋も使っていいのよね? つまり――)
三食、暖炉つき、昼寝つき。誰の請求書も回ってこない生活。
(最高では?)
「承知いたしました」
気づけば、ものすごくいい声で返事をしていた。
アレクシス様の目が、わずかに見開かれる。
「……いや、その。だから、君は――」
「ご安心ください、旦那様。お邪魔はいたしません。旦那様は旦那様のお好きなように。私は私で、好きに過ごしますね」
にっこり笑ってみせる。実家ではうまく笑えなかったのに、今夜は自然に頬が緩んだ。
アレクシス様は、何か言いたげに口を開けたまま固まった。
「…………そう、か」
長い長い間のあと、彼はそれだけを絞り出した。
「……必要なものがあれば、言え。……いや、言ってくれ。ユーグにでも、侍女長にでも、誰にでもいい」
「ありがとうございます」
「……それと、部屋は寒くないか」
「とても暖かいです」
「……そうか」
アレクシス様はくるりと背を向けて扉を開け――開けた扉の角に、思い切り肩をぶつけた。
ごん、と鈍い音がした。
「だ、旦那様?」
「問題ない」
振り返りもせずにそう言って、彼は廊下へ出ていった。扉が静かに閉まる。
(……今の、すごく痛そうだったけれど)
しばらく扉を見つめていたけれど、足音はなかなか遠ざからなかった。たぶん、肩をさすっているのだろう。
一人になった部屋で、私は寝台に仰向けに倒れ込んだ。
ふかふかの羽毛布団が、全身を受け止めてくれる。
(愛さない、って言われたのに)
(全然、悲しくない)
むしろ肩の荷が下りたような気分だった。誰かに好かれようと頑張らなくていい。期待されないなら、失望されることもない。
実家にいたころ、私はずっと「役に立つ娘」でいようとしてきた。役に立たなければ居場所がなくなる気がして、帳簿をつけ、頭を下げ、妹の後始末をしてきた。
ここでは、それをしなくていいのだ。
(明日から何をしよう。庭はあるのかしら。トマスにもらった薔薇の種、植えられる場所があるといいな)
考えているうちに、まぶたが重くなってくる。
旅の疲れと、式の緊張と、思いがけない解放感。それらがまとめて押し寄せてきて、私はいつの間にか深い眠りに落ちていた。
だから、そのとき扉の向こうで足音が止まったままだったことに。
それがずいぶん長いあいだ、動かなかったことに。
私は、まったく気づいていなかった。




