第1話 売られるように嫁ぐことになりました
ヘイウッド子爵家の朝は、私が帳簿を開くところから始まる。
まだ誰も起きていない屋敷の小さな書斎で、ランプの明かりを頼りに数字を追う。数えても数えても、結果は変わらない。
(今月も赤字。……知ってた)
父は見栄のために賭け事の席へ通い、母は流行のドレスを仕立て、妹のベアトリスは毎週のように夜会へ出かける。そのすべての請求書が、最後には私の机へ回ってくる。
使用人の多くはお給金が払えずに辞めていった。残っているのは、年老いた庭師のトマスと、通いの料理番だけだ。だから掃除も洗濯も、手が空いた者がやる。そして手が空いているのは、たいてい私だった。
窓の外が白み始めたころ、階段を下りてくる軽やかな足音がした。
「お姉様、また朝から数字とにらめっこ? そんな顔ばかりしているから、縁談のひとつも来ないのよ」
扉から顔を覗かせたのはベアトリスだった。蜂蜜色の巻き毛に、大きな青い瞳。笑えば花が咲いたようだと、社交界でもてはやされている自慢の妹だ。
「おはよう、ベアトリス。今日の夜会のドレス代、来月まで待ってもらえるよう仕立て屋に頼んでおいたから」
「まあ、ありがとう。さすがお姉様、そういうのは得意よね」
それだけ言うと、妹はひらりと身を翻して朝食の間へ消えていった。
(そういうの、しか得意じゃないと思われているのよね)
私は笑うのが下手だ。愛想を振りまく前に、明日のパン代を考えてしまう。両親はそんな私を「可愛げのない子」「愛想のない長女」と呼び、いつの間にか家のことは何でも押し付けられるようになっていた。
不満がないわけではない。けれど、言ったところで何も変わらないことも知っている。
その日の午後、私は珍しく応接間に呼ばれた。
父は上機嫌で、母はどこか落ち着かない顔をしていた。テーブルには、見慣れない立派な封蝋の手紙が置かれている。
「クラリス、喜べ。お前に縁談だ」
「……私に、ですか」
「グレンフォード侯爵家からだ。北部の当主、アレクシス・グレンフォード侯爵。陛下から早く身を固めるよう言われているそうでな、家柄の釣り合う娘を探していたらしい」
グレンフォード侯爵。その名前には聞き覚えがあった。
北の国境を守る名門の当主で、若くして家を継いだ切れ者。けれど夜会にはほとんど姿を見せず、たまに現れても誰とも踊らず、話しかけた令嬢を一言で凍りつかせるという。ついたあだ名は「氷の侯爵」。
「本当はベアトリスに来た話なのだけれど」
母が扇で口元を隠しながら言った。
「あの子が、北の果てなんて絶対に嫌だって泣くものだから。あなたなら文句も言わないでしょう?」
(ああ、なるほど)
妙に納得してしまった。妹が嫌がったものは、昔から私に回ってくる。古いドレスも、面倒な挨拶回りも、今回は縁談だっただけの話だ。
「侯爵家からは、支度金として相当な額をいただけることになっている。これで借金はすべて片付く」
父は手紙を愛おしそうに撫でた。
「いいか、クラリス。向こうでうまく気に入られて、少しでも多く援助を引き出すんだ。それが長女としての務めだぞ」
つまり私は、借金の返済と引き換えに北へ送られるらしい。
(売られる、っていうのよね。こういうの)
胸の奥が、少しだけ冷たくなった。けれど不思議なことに、悲しみはあまり湧いてこなかった。
北部は寒いと聞く。侯爵は冷たい人だと聞く。それでも――毎朝赤字の帳簿を開いて、家族の請求書に頭を下げて回る暮らしと、どちらがましだろう。
「……承知いたしました。お受けします」
私がそう答えると、父は満足そうに頷き、母はほっとしたように息を吐いた。誰も、私がどう思っているかは聞かなかった。
出立の朝は、ひどくあっさりしていた。
両親は「侯爵様によろしく」とだけ言って屋敷の中へ戻り、ベアトリスはまだ寝ていた。見送りに出てきてくれたのは、庭師のトマスだけだった。
「お嬢様、どうかお体に気をつけて。……向こうでは、ちゃんと笑ってくださいよ」
「ありがとう、トマス。庭の薔薇、よろしくね」
皺だらけの手から、小さな布袋を渡された。中身は、私がいつも手入れしていた薔薇の種だった。
(……泣かない。泣いたら馬車の中で目が腫れる)
侯爵家から差し向けられた馬車は、驚くほど乗り心地がよかった。座席には厚い毛布と、温かい石を詰めた足温器まで用意されている。
北へ向かうにつれて、窓の外の景色は少しずつ色を失っていった。緑の畑が枯れ草色の野に変わり、やがて白い雪が地面を覆い始める。
一週間の旅の終わりに、雪の向こうから灰色の石造りの城が見えてきた。
グレンフォード侯爵邸。高い塔と分厚い城壁を持つ、要塞のような屋敷だった。
馬車が止まり、扉が開く。冷たい空気が頬を刺した。
玄関前には使用人たちがずらりと並び、その先頭に、一人の男性が立っていた。
背が高い。黒に近い濃紺の髪に、冬の湖のような薄い灰色の瞳。整いすぎた顔立ちには、表情というものがほとんどない。
(この方が、アレクシス・グレンフォード侯爵様……)
噂どおり、本当に氷みたいな人だった。
私は裾をつまみ、教わったとおりに礼をした。
「ヘイウッド子爵家長女、クラリスでございます。このたびは――」
「……遠いところを、よく来た」
低い声が、私の挨拶を途中で遮った。
顔を上げると、侯爵様は私の少し横、何もない雪の地面を見つめていた。
「…………」
「…………」
沈黙が長い。使用人たちも、誰ひとり身じろぎしない。
(え、何? 何か続きがあるの?)
侯爵様の唇がわずかに動いた。何か言いかけて、やめて、また動いて――。
「……では」
それだけ言うと、侯爵様はくるりと背を向け、さっさと屋敷の中へ入っていってしまった。
「え」
思わず声が漏れた。
(それだけ? 本当に、それだけ?)
取り残された私の隣で、眼鏡をかけた若い男性が、こらえきれないように口元を押さえていた。
「失礼いたしました、奥様。私は侯爵様の補佐をしております、ユーグと申します。……侯爵様は、その、たいへん緊張しておられまして」
「緊張……ですか?」
あの無表情のどこに緊張が隠れていたのだろう。
首を傾げる私の前で、ユーグさんは「明日の式の準備がございますので」と、やけに楽しそうな顔で屋敷の扉を開けてくれた。
こうして私は、氷の侯爵様の花嫁になるために、北の城へ足を踏み入れたのだった。




