第10話 実家の家族が押しかけてきました
イザベラ様の訪問から五日後、アレクシス様は国境の砦へ視察に出かけることになった。
雪解け前の点検で、戻るのは四日後になるという。
出発の朝、玄関まで見送りに出ると、アレクシス様は馬の手綱を握ったまま、しばらく私を見下ろしていた。
「……留守を、頼む」
「はい。お気をつけて」
「……夜は、ちゃんと寝ろ。椅子ではなく、寝台で」
「ふふ、はい」
「…………温室の暖炉の薪は、三日分を運ばせてある」
「ありがとうございます」
「…………それと」
「旦那様、皆さまお待ちです」
護衛の騎士たちが、馬上で困ったように顔を見合わせていた。ユーグさんに至っては、すでに門の外で遠い目をしている。
アレクシス様は咳払いをひとつして、ようやく馬の腹を蹴った。
門を出る直前に一度振り返り、それからまた振り返り、三度目に振り返ったところで、門柱に馬ごと近づきすぎて、ユーグさんに手綱を引っ張られていた。
(大丈夫かしら、あの方)
小さくなっていく背中を見送りながら、私はなんとなく、今夜は扉の前に足音が来ないのだと思った。
それが、思っていたより寂しかった。
事件が起きたのは、アレクシス様が発った翌日だった。
「奥様、大変です! ヘイウッド子爵家の方々が!」
リックが温室に駆け込んできた。
(……え?)
慌てて玄関へ向かうと、見慣れた顔が三つ、大広間に並んでいた。
父と、母と、ベアトリスだった。
「クラリス! 久しぶりだな!」
父は両手を広げて、上機嫌に笑っていた。母は大広間の装飾を値踏みするように眺め回し、ベアトリスは目を輝かせて天井の吊り燭台を見上げている。
「お父様……どうして、ここに」
「娘の顔を見に来たに決まっているだろう。それに、侯爵様にもご挨拶をしなければな」
「旦那様は今、国境の視察に出ておられます」
「なんだ、留守か。まあいい」
父はどかりと長椅子に腰を下ろした。マーサさんが、氷のような目でそれを見ている。
「それで、クラリス。どうだ、侯爵様にはうまく取り入っているか?」
(来た)
胸の奥が、すっと冷たくなる。
「……どういう意味でしょう」
「とぼけるな。援助の話だ。支度金で借金は片付いたが、屋敷の修繕も必要だし、ベアトリスの社交界での支度もある。侯爵家なら、これくらい痛くもないだろう」
父が懐から取り出した紙には、目を疑うような金額が書かれていた。
「お姉様、聞いて。わたくし、王都の伯爵家のご子息に見初められそうなの。でもドレスが足りなくて。お姉様は侯爵夫人なのだから、少しくらい融通してくださるでしょう?」
ベアトリスが、昔と同じ甘えた声で言った。
母は母で、扇で私の格好を指した。
「それにしても、なあに、その地味なドレス。侯爵夫人ともあろう者が。こんなに大きなお城なのに、宝石のひとつも買ってもらっていないの?」
(ああ、変わらないな)
ここに来て、ひと月以上が経った。私は温室を蘇らせて、お菓子を焼いて、町の人たちや子どもたちと笑い合って――そうやって、自分の居場所を少しずつ作ってきた。
それなのに家族は、私をまだ、金を引き出すための道具としか見ていない。
けれど、不思議と悲しくはなかった。
実家にいたころの私なら、きっと黙って頭を下げていた。何とかします、と言って、自分の装身具を売りに走っていた。
今は、違う。
「お断りします」
大広間に、私の声が響いた。
父の笑顔が、凍りついた。
「……今、なんと言った」
「お断りします、と申しました。侯爵家のお金は、旦那様のものです。私が勝手に融通することはできません」
「なっ……お前、誰のおかげで侯爵夫人になれたと思っている!」
父が立ち上がって怒鳴った。昔なら、この声だけで体がすくんでいた。
「お父様のおかげではありません。私は借金の代わりに、ここへ送られてきたのです」
「クラリス! 親に向かってなんて口を!」
母が金切り声を上げる。ベアトリスは目を丸くして私を見ていた。私が言い返すところなど、一度も見たことがなかったのだろう。
「それに、ご存じかもしれませんが」
私は背筋を伸ばして、まっすぐ父を見た。
「私は旦那様に、愛することはないと言われております。お飾りの妻です。取り入るも何もありません」
一瞬、大広間が静まり返った。
そして、ベアトリスがくすくすと笑い出した。
「やだ、お姉様ったら。お飾りなの? 愛されていないの? 北の果てまで来て、結局誰にも愛されないのね」
その言葉は、思っていたより深く胸に刺さった。
(……誰にも、愛されない)
知っている。わかっている。実家でも、ここでも。それでいいと思っていたはずなのに。
ほんの一瞬、扉越しの穏やかな声が耳の奥によみがえって――私は小さく首を振った。
「お引き取りください」
そのとき、私の後ろにマーサさんが進み出た。続いてハンスさん、リック、侍女たち、騎士たち。気づけば城中の使用人が、私の背後に並んでいた。
「ヘイウッド子爵様」
マーサさんの声は、北の吹雪のように冷たかった。
「奥様がお引き取りをとおっしゃいました。お見送りいたします」
家族が去ったあと、私は温室の片隅でしゃがみ込んでいた。
桃色の薔薇は、まだ蕾のままだった。
(言えた。ちゃんと、断れた)
それなのに、手が震えていた。ベアトリスの笑い声が、まだ耳に残っている。
マーサさんが、黙って隣に温かいお茶を置いてくれた。
「奥様は、ご立派でした」
「……ありがとう、マーサさん」
「先代の奥様に、見ていただきたかったくらいです」
マーサさんはそれだけ言って、私の肩にそっと毛布をかけてくれた。
その夜、もちろん扉の前に足音は来なかった。
旦那様は、国境の砦にいる。
わかっているのに、真夜中を過ぎても、私は椅子に座ったまま扉を見つめていた。
三日後の夜遅く、予定より一日早く、アレクシス様が戻ってきた。
ユーグさんの話では、砦で城からの早馬の知らせを受け取るなり、夜通し馬を飛ばしてきたのだという。
その夜、久しぶりに足音が聞こえた。
こつ、こつ、こつ――ではなかった。だっ、だっ、だっ、と、ほとんど走るような足音だった。
扉の前で止まって、荒い息づかいが聞こえる。
「……クラリス。起きて、いるか」
「はい。……おかえりなさい、旦那様」
「……話は、マーサから聞いた」
長い沈黙。扉の向こうで、何度も言葉を探している気配がする。
やがて、ぽつりと声が落ちてきた。
「…………よく、頑張った」
たったそれだけだった。
それだけなのに、あの日からずっと胸につかえていたものが、すうっと溶けていくのがわかった。
「……はい」
声が震えた。扉越しでよかった、と思った。
「それと、ひとつだけ言っておく」
「はい?」
「君は――」
アレクシス様の声が、そこで止まった。
続きを待った。けれど、いつまで待っても、続きは聞こえてこなかった。
「…………いや。今夜は、休め」
足音が遠ざかっていく。
(君は――何?)
その夜、私はなかなか眠れなかった。




