第11話 夜会で、旦那様が私の前に立ちました
クローデル伯爵家の夜会の招待状が届いたのは、それから十日ほど経ったころだった。
宛名は「グレンフォード侯爵閣下」。私の名前は、どこにもなかった。
「……行かない」
朝食の席で、アレクシス様は招待状を一瞥するなりそう言った。
「よろしいのですか? お隣の領地ですし、お付き合いもあるのでは」
「…………」
アレクシス様は招待状を見つめたまま、しばらく黙り込んでいた。それから、テーブルの端と端の距離を越えて、まっすぐ私を見た。
「……君が行くなら、行く」
「私は招待されておりませんが」
「夫婦で出るのが当然だ。招待状の書き方が悪い」
(書き方の問題かしら)
けれど、アレクシス様の目は真剣だった。
「……一緒に、来てくれないか」
その言い方があまりに不器用で、遠慮がちで、私は思わず頷いていた。
夜会の三日前、私の部屋に仕立て屋が呼ばれた。
さらにその翌日、宝石商が来た。
「旦那様からです。……余っていたそうです」
ユーグさんが、もはや悟りを開いたような顔で言った。
仕立てられたのは、淡い桃色のドレスだった。温室で咲くのを待っている、あの薔薇と同じ色。胸元には、小さな真珠が星のように縫い付けられている。
「……どうして、この色を」
「扉越しに、奥様のお母様がお好きだった色だとお話しになったでしょう。侯爵様は、一言一句覚えておいでです」
ユーグさんは眼鏡を押し上げながら、さらりとそう言った。
胸の奥が、きゅっと締めつけられるような気がした。
夜会の当日。
クローデル伯爵家の大広間は、近隣の貴族たちでにぎわっていた。シャンデリアがきらめき、楽団が華やかな曲を奏でている。
アレクシス様の腕に手を添えて入場した瞬間、ざわめきがぴたりと止んだ。
「グレンフォード侯爵だ……」
「本当に夫人をお連れになったのか」
「お飾りだと聞いていたけれど」
ひそひそと交わされる声が、あちこちから聞こえてくる。添えた手に、思わず力がこもった。
すると、アレクシス様の腕がほんのわずかに私のほうへ寄った。何も言わない。表情も変わらない。けれど、私の手を包むように、少しだけ。
(……あたたかい)
「まあ、アレクシス様! いらしてくださったのね」
人垣を割って現れたのは、深紅のドレスのイザベラ様だった。その後ろに――私は目を疑った。
ベアトリスがいた。
「お姉様、ごきげんよう」
妹は、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。新しい、明らかに高価なドレスを着ている。
「イザベラ様がご親切に招いてくださったの。わたくしたち、とても気が合うのよ」
(……なるほど)
背筋がすっと冷えた。家族を追い返したあと、ベアトリスはイザベラ様に近づいたのだ。そしてイザベラ様は、私の家族の口から、私の境遇を全部聞いたのだろう。
イザベラ様が、扇を広げて声を張り上げた。わざと周囲に聞こえるように。
「皆さま、ご存じかしら。こちらの侯爵夫人は、借金のかたに売られてきた方なのよ。しかも初夜に、侯爵様から『愛することはない』と言われたのですって」
大広間に、どよめきが広がった。
「実家では愛想がなくて、家族にも疎まれていたそうよ。妹君から伺いましたわ。お金のために嫁いできて、愛されもせずお飾りの妻だなんて――おかわいそうに」
くすくすと、あちこちから笑い声が漏れる。哀れむような視線。好奇の視線。蔑むような視線。
(大丈夫。全部、本当のことだもの)
そう思うのに、顔が熱くなっていく。うつむきそうになる。
ベアトリスが、とどめを刺すように言った。
「ねえ、侯爵様。こんな愛想のない姉より、イザベラ様のほうがずっとお似合いですわ」
その瞬間。
私の前に、黒い背中が立ちはだかった。
アレクシス様だった。
私をかばうように一歩前に出て、イザベラ様とベアトリスを見下ろしている。
大広間の空気が、凍りついた。比喩ではなく、本当に温度が下がったような気がした。シャンデリアの下で談笑していた貴族たちが、一斉に口をつぐむ。
「……クローデル嬢」
低い声だった。地を這うような、冷え切った声。
「私の妻を、侮辱するな」
イザベラ様の笑顔が、引きつった。
「で、でも、アレクシス様ご自身が、愛することはないと――」
「言った」
アレクシス様は、はっきりと答えた。
「確かに言った。だが」
そこで、言葉が詰まった。
「だが、それは……その、そういう……意味では、なく」
大広間中の視線が、アレクシス様に集まっていた。
氷の侯爵が、言葉に詰まっている。拳を握り、口を開いては閉じ、何度も何かを言い直そうとしている。
「彼女は……私の、妻で……温室の、薔薇を……いや、そうではなく」
(旦那様……?)
「とにかく」
アレクシス様は、ぐっと奥歯を噛みしめた。
「彼女を軽んじる者は、誰であろうと許さない。……グレンフォードの名にかけて」
その声だけは、少しも揺らがなかった。
イザベラ様が青ざめて一歩下がる。ベアトリスは扇を取り落とした。周囲の貴族たちが、気まずそうに目を逸らしていく。
アレクシス様は振り返って、私に手を差し出した。
「……踊ってくれ」
「え?」
「夫婦で来たのだ。一曲も踊らずに帰るのは、おかしい」
楽団が、戸惑いながらも円舞曲を奏で始めた。
アレクシス様のダンスは、意外なほど上手だった。
大きな手が私の腰をしっかり支えて、迷いのない足取りでくるくると導いてくれる。大広間の真ん中で、桃色のドレスがふわりと広がった。
周囲の視線はもう、哀れみではなかった。驚きと、戸惑いと、ほんの少しの羨望。
「……旦那様、ダンスがお上手なんですね」
「……三日、練習した。ユーグ相手に」
(ユーグさん……)
思わず笑ってしまった。アレクシス様の耳が、また赤くなる。
かばってもらえた。人前で、はっきりと。嬉しかった。胸がいっぱいになるくらい。
けれど同時に、胸の奥のどこかが、ちくりと痛んでいた。
――確かに言った。
大勢の人の前で、旦那様ははっきりそう言った。愛することはない、と言ったことを、否定しなかった。
(そうよね。わかっていたことだもの)
妻として守ってくれる。大切にしてくれる。それは侯爵としての責任感で、きっと、愛とは違う。
ずっと、それでいいと思っていた。愛されないことが、楽だと思っていた。
それなのに。
(どうして今、こんなに苦しいんだろう)
くるりと回ったとき、アレクシス様の灰色の瞳と目が合った。何か言いたそうな、切実な目をしていた。
私は、うまく笑えなかった。




