第12話 撤回の仕方がわからない(アレクシス視点)
帰りの馬車の中、クラリスは一言も話さなかった。
窓の外の夜の雪景色を、ただじっと見つめていた。ときどき口元を緩めて「楽しかったです」と言うけれど、その笑顔はどこかぎこちなかった。
城に着くと、彼女は小さく礼をして自室へ戻っていった。
私は玄関に立ち尽くしたまま、閉まった扉を見つめていた。
(……失敗した)
何がいけなかったのかは、わかっている。
「全部です」
執務室で、ユーグは容赦なく言い切った。
「侯爵様。大勢の前で『確かに言った』と認めておいて、そのあとの説明が『そういう意味では、なく』『温室の、薔薇を』では、何ひとつ伝わっておりません」
「…………わかっている」
「わかっておられるなら、なぜあそこで言わなかったのですか。『愛することはないと言ったのは間違いだった』と」
「……人前だった」
「人前でなければ言えるのですか」
「…………」
言えない。言えていたら、とっくに言っている。
毎晩扉の前に立って、毎晩言おうとして、毎晩言えなかった。扉越しに話せるようになっても、肝心のことだけは喉の奥で凍りつく。
「怖いのだ」
ぽつりと、口からこぼれた。
ユーグが、眼鏡の奥の目を瞬かせた。
「初夜に、彼女は笑った。愛さないと言われて、心から安心したように笑った。あれは、彼女が実家で背負わされてきたものを下ろせたからだ。誰かの期待に応えなくていいと知って、ようやく息ができたからだ」
だから、温室を蘇らせることができた。好きなだけ菓子を焼いて、子どもたちと笑って、家族に「お断りします」と言えた。
「今さら私が『愛している』と言えば、それはまた彼女に何かを背負わせることになる。夫の愛に応えなければならないという重荷を。……母のように」
ユーグはしばらく黙っていた。
それから、深々とため息をついた。
「侯爵様。一つ申し上げてもよろしいですか」
「なんだ」
「今夜、奥様は笑っておられませんでしたよ」
胸を、殴られたような気がした。
「夜会で侯爵様が『確かに言った』とおっしゃったあと、ダンスの最中も、帰りの馬車でも。奥様が今、何を背負っておられるのか、侯爵様は考えたことがおありですか」
「…………」
「愛さないと言われて楽だった方が、愛さないと言い直されて傷つくのは、なぜでしょうね」
ユーグはそれだけ言うと、一礼して執務室を出ていった。
私は机に肘をつき、両手で顔を覆った。
撤回の仕方が、わからなかった。
机に紙を広げ、羽根ペンを取る。初夜のときのように、言うべき言葉を書き出してみることにした。
『初夜に言ったことは撤回する』
――命令のようだ。却下。
『君を愛することはない、というのは誤りであった』
――報告書だ。ユーグにまた言われる。却下。
『あの言葉には続きがあった。君を愛することはない、だから君も無理に――』
――そもそも、その続き自体が今となっては間違っている。却下。
『君が温室で笑っているのを見ると、胸が苦しい』
――病気のようだ。却下。
『君の焼いた菓子が好きだ』
――菓子の話ではない。いや、菓子も好きだが。却下。
『君の寝言が』
――論外だ。
気づけば、机の上は丸めた紙で埋まっていた。窓の外は、とうに真夜中を回っている。
私は立ち上がった。
紙はもういい。書いても、どうせ言えない。それでも、今夜は扉の前に行かなければならない気がした。
廊下は冷え切っていた。
こつ、こつ、こつ。
いつもの足音で、いつもの道を歩く。角の柱は、もう体が覚えているので避けられるようになった。
彼女の部屋の前で、足を止める。
扉の下の隙間から、明かりが漏れていた。まだ起きているのだ。
「……見回りだ」
いつもの言葉を口にする。
返事は、すぐには来なかった。
しばらくして、扉のすぐ向こうから、かすかな声がした。
「……旦那様」
「ああ」
「今夜は、ありがとうございました。かばっていただいて」
「…………当然のことだ」
「はい。……旦那様は、お優しいですね」
その声が、ひどく遠く聞こえた。扉一枚のはずなのに、いつもよりずっと分厚い壁を隔てているような。
「妻として、ちゃんと守ってくださる。それだけで、私はじゅうぶんです」
(違う)
「愛さないと言われたのに、こんなに大切にしていただいて。これ以上望んだら、罰が当たります」
(違う、そうではない)
「だから、旦那様。もう、無理に見回りに来てくださらなくても大丈夫です」
拳を握った。爪が手のひらに食い込んだ。
「お仕事でお疲れでしょう? 今夜からは、ゆっくりお休みください」
扉の向こうで、彼女が小さく笑う気配がした。
その笑い声は、初夜のときとはまるで違っていた。
「……おやすみなさい、旦那様」
扉の下の明かりが、ふっと消えた。
私は、その場から動けなかった。
拳を上げる。扉の数寸手前で止まる。
叩け。叩いて、言え。間違いだったと。君を愛していると。
――言えば、また彼女に何かを背負わせる。
――言わなければ、彼女はこのまま笑わなくなる。
拳は、震えたまま扉に届かなかった。
どれほどそうしていただろう。廊下の向こうから、早足でやってくる足音がした。
「侯爵様」
ユーグだった。眼鏡の奥の目が、いつになく険しい。
「夜分に失礼いたします。至急お耳に入れたいことが」
差し出された書類に目を落とした瞬間、全身の血が冷えた。
ヘイウッド子爵家が、グレンフォード侯爵家の名を使って、王都の金貸しから多額の借金をしていた。保証人の欄には、クラリスの名前の署名がある。
彼女の筆跡ではなかった。
「……それと、もう一件」
ユーグは声を低くした。
「借金の仲介をしたのは、クローデル伯爵家です」
私は書類を握りしめた。
背後の扉の向こうで、彼女が眠っている。何も知らずに。
――もう、迷っている暇はなかった。




