第15話 扉を開けたら、旦那様がいました
真夜中を少し過ぎたころ。
私は薔薇を一輪手に持って、自分の部屋の扉の前に立っていた。
(行くのよ、クラリス)
旦那様の寝室は、廊下を進んで角を曲がった先。小麦粉の足跡をたどった、あの重厚な扉だ。
深呼吸をひとつ、ふたつ、みっつ。
(……旦那様も、毎晩こんな気持ちだったのかしら)
扉の前で、ノックしようとして、できなくて。今ならその気持ちが、痛いほどよくわかる。
心臓がうるさい。手のひらに汗がにじむ。初夜のときよりずっと緊張している。
意を決して、取っ手に手をかけ、扉を勢いよく開けた。
その瞬間。
こつん、と額に何かが当たった。
「…………」
「…………」
目の前に、アレクシス様が立っていた。
右手の拳を、ちょうどノックする高さに構えたまま。その拳が、私の額にちょこんと乗っていた。
(……え)
アレクシス様の灰色の目が、これ以上ないほど見開かれていた。
「……な、なぜ、開けた」
「旦那様こそ、なぜここに」
「…………ノックを、しようとしていた」
「ノックを」
「……初めて、叩こうとした。今夜こそ、と。……叩く直前に、扉が開いた」
アレクシス様の拳が、ゆっくりと私の額から離れた。そのまま行き場を失って、宙で固まっている。
私は額に手を当てて、それから、こらえきれずに吹き出した。
「ふ……ふふっ」
「わ、笑うな」
「だって、旦那様……こんなときまで、間が悪いんですもの」
笑いが止まらなかった。緊張していたのが嘘みたいに、肩の力が抜けていく。
アレクシス様は耳まで真っ赤にして、それでも、逃げ出そうとはしなかった。
「……入っても、いいだろうか」
初めて、旦那様がそう言った。
扉の前で立ち尽くすのではなく、扉越しに話すのでもなく。
「はい。どうぞ」
アレクシス様は、まるで敵地に踏み込むような慎重な足取りで部屋に入ってきた。そして、初夜のときと同じように、扉のすぐそばで立ち止まった。
私は、手にしていた薔薇を差し出した。
「旦那様。薔薇が、咲きました」
アレクシス様は、桃色の花をじっと見つめた。
「……咲いたら教えてくれと、おっしゃったので。本当は、私が旦那様のお部屋まで伝えに行くつもりでした」
「……君が、私の部屋に」
「はい。それから、聞きたいことがあって」
薔薇を握る指に、力がこもる。声が震えそうになるのを、なんとかこらえた。
「旦那様。初夜におっしゃった言葉は――今も、本当ですか?」
アレクシス様の喉が、ごくりと動いた。
「君を愛することはない、という言葉は」
長い沈黙が落ちた。暖炉の薪が、ぱちりとはぜる。
アレクシス様は一度目を閉じて、それから、まっすぐに私を見た。
「……あれは、私の人生で、一番の失言だ」
「本当は、続きがあった」
アレクシス様は、ぽつりぽつりと話し始めた。
「君を愛することはない。だから君も、無理に私を愛そうとしなくていい。夫の機嫌を取る必要も、役に立とうとする必要もない。ここでは自由に、心のままに過ごしてほしい。……そう言うつもりだった。何日もかけて考えた」
「……私が、途中で『承知しました』と言ってしまったから」
「言い終わる前に、君があまりに嬉しそうに笑ったから。……続きを言いそびれた」
(そうだったんだ)
あの夜、旦那様が何か言いかけていたのを、私は確かに見ていた。
「母は、愛されない結婚の中で、ずっと待ち続けて死んだ。だから、君に何も期待させたくなかった。期待させて、傷つけるくらいなら、最初から何も約束しないほうがいいと思った」
アレクシス様は、拳を握りしめた。
「だが、君が来て……温室が蘇って、マーサが笑って、城が明るくなって。君が笑うたびに、私は」
言葉が、止まった。
アレクシス様の唇が、何度も動く。言おうとして、詰まって、言い直そうとして。
(ああ、また)
私は待った。急かさずに、ただじっと。今度は途中で「承知しました」なんて言わない。最後まで、ちゃんと聞く。
アレクシス様は、ぎゅっと目をつぶった。
「――君が、好きだ」
絞り出すような声だった。
「好きだ。愛している。毎晩扉の前に立っていたのは、見回りではない。ただ、君の声が聞きたかった。寝言でもいいから」
「寝言……」
「……すまない。それは忘れてくれ」
アレクシス様は、真っ赤な顔のまま続けた。
「手袋は余っていない。図鑑も余っていない。毛布も、苺も、ドレスも、何ひとつ余っていなかった。全部、君のために用意した」
(知ってました)
心の中でそう呟いて、私は泣きそうになりながら笑った。
アレクシス様が、私の前に片膝をついた。
氷の侯爵が、私を見上げている。灰色の瞳が、暖炉の明かりを映して揺れていた。
「愛さないと言っておいて、今さら虫のいい話だとわかっている。君の自由を奪うつもりはない。君がこのまま、愛されない妻でいたいと言うなら、それでも構わない。……いや、構わなくはないが、我慢する」
(正直な方)
「だが、もし許されるなら。……もう一度、最初から、私と結婚してくれないか」
アレクシス様の手が、そっと私の手を取った。結婚式の日と同じように、その指先が小さく震えていた。
あの日は、寒いせいだと思っていた。
(違ったのね。最初から、ずっと)
「旦那様」
私は、その震える手を両手で包み込んだ。
「私、愛されないと言われて、楽だと思っていました。誰にも期待されないなら、頑張らなくていいから」
「……ああ」
「でも、いつの間にか、旦那様の足音を待つようになっていました。来ない夜は、眠れませんでした。夜会で『確かに言った』と聞いたとき、すごく苦しかったんです」
アレクシス様が、息をのむ。
「それって、私も旦那様を好きになっていたからなんだって、今日、やっと気づきました」
涙が、ぽろりとこぼれた。
「だから――はい。もう一度、旦那様と結婚させてください」
次の瞬間、私はアレクシス様の腕の中にいた。
強く、強く抱きしめられる。大きな体が小さく震えていて、耳元で、かすれた声が何度も私の名前を呼んだ。
「……クラリス。クラリス」
「はい」
「これからは、扉を叩いてもいいか」
「はい」
「毎晩でも、いいか」
「はい。……毎晩、お待ちしています」
アレクシス様の腕に、さらに力がこもった。
その拍子に、後ろによろけた旦那様が、開いたままだった扉の角に背中をぶつけた。
ごん、と鈍い音がした。
「……問題ない」
「ふふ。知ってます」
私たちは扉の前で、顔を見合わせて笑った。




