第14話 愛されないはずだったのに
騒動から数日が過ぎて、城にはいつもの穏やかな日々が戻ってきた。
けれど私の心は、少しも穏やかではなかった。
――彼女を軽んじる者は、誰であろうと許さない。
――お前に、彼女の何がわかる。
あの日のアレクシス様の言葉が、何度も耳の奥で繰り返される。そのたびに胸が熱くなって、それから、ずきりと痛む。
(旦那様は、優しい方だから)
責任感の強い方だから。妻を侮辱されて、侯爵家の名を汚されて、黙っていられなかっただけ。
そう自分に言い聞かせても、どうしても消えない問いがあった。
(だったら、どうして)
どうして毎晩、扉の前に立っていたの。どうして露店の手袋を全部買ったの。どうして一晩で図鑑を二十冊も読んだの。どうして、私の母が好きだった色のドレスを仕立てたの。
見回りだ、余っていた、視察だ。
全部、旦那様の苦しい言い訳だった。
(……愛することはない、って、おっしゃったのに)
あの夜以来、扉の前に足音は来ていない。
私が「もう来なくていい」と言ったのだ。旦那様はそれを、律儀に守っている。
そして私は毎晩、椅子に座ったまま、来ないとわかっている足音を待っていた。
「奥様、少しよろしいですか」
温室で薔薇の鉢を眺めていると、マーサさんがお茶を持ってやってきた。
蕾は大きくふくらんで、先端がほんのりと桃色に色づき始めている。あと一日か二日で咲きそうだった。
マーサさんは私の隣に腰を下ろし、しばらく黙って薔薇を見つめていた。
「……先代の奥様のお話を、してもよろしいでしょうか」
「アレクシス様の、お母様の?」
マーサさんは頷いて、静かに語り始めた。
先代の侯爵夫妻が、愛のない政略結婚だったこと。先代の奥様が、夫に振り向いてもらえる日をずっと待ち続けていたこと。温室で花を育てて、一度も見てもらえなかったこと。最期まで、待ち続けたまま亡くなったこと。
「坊ちゃまは――旦那様は、それをずっとおそばで見ておられました」
(……だから)
ようやく、わかった気がした。
愛することはない。あの言葉は、突き放すためのものではなかったのだ。
「奥様がこちらにいらっしゃる前、旦那様はおっしゃいました。望まぬ結婚を強いられてくる方に、期待を抱かせて苦しめたくはない、と。何も求めず、自由に過ごしていただくのだと」
マーサさんは、薔薇の蕾にそっと指を伸ばした。
「この温室は、先代の奥様が亡くなってから十年間、閉ざされたままでした。旦那様が一度も足を踏み入れなかった場所です」
「……でも、旦那様は何度も視察に」
「ええ。十年ぶりに」
マーサさんは、私を見て微笑んだ。
「奥様が来られて、旦那様は十年ぶりに温室の扉をくぐられたのです」
その日の午後、私は書庫で一人、引き出しの奥にしまっていた紙を取り出した。
『美味かった。以上』
角張った、几帳面な字。
あのとき、私はこれを報告書のようだと思った。でも今ならわかる。この短い言葉を書くのに、旦那様がどれほど悩んだのか。
紙を胸に当てて、目を閉じた。
(愛されないと言われて、楽だと思った)
誰にも期待されないなら、失望されることもない。役に立たなくても、居場所を失わない。だから、あの夜、心から安心して笑った。
けれど、いつからだろう。
扉の向こうの足音を待つようになった。食事の席で目が合うと、嬉しくなった。不器用な「そうか」に、勝手に温かいものを感じるようになった。
夜会で「確かに言った」と聞いて、胸が痛んだ。
――あれは、愛されないことが悲しかったんじゃない。
(私が、旦那様を好きになっていたから)
好きになった人に、愛さないと言われていることが、苦しかったのだ。
気づいてしまったら、もう、なかったことにはできなかった。
夕方、温室に戻ると、薔薇が咲いていた。
朝はまだ固かった蕾が、ほどけるように花びらを開いている。淡い、やさしい桃色。北の冷たい空気の中で、それでもちゃんと、春の色をしていた。
「……咲いた」
トマスの種。母の好きだった色。そして――。
――咲いたら、教えてくれ。
扉越しに、旦那様がそう言ったのを覚えている。
(教えなきゃ)
けれど、どうやって? もう来なくていいと言ったのは、私だ。旦那様は今夜も来ない。
だったら。
私は薔薇の前に立ったまま、ぎゅっと拳を握った。
いつも扉の前に立っていたのは、旦那様だった。ノックできずに、言えずに、毎晩立ち尽くしていたのは、旦那様のほうだった。
(今度は、私の番だ)
待っているだけでは、先代の奥様と同じになってしまう。旦那様が一番恐れていたことを、私がなぞってしまう。
今夜は、私から扉を開けよう。
旦那様の部屋まで行って、薔薇が咲いたと伝えよう。そして――聞くのだ。
愛することはない、という言葉は、今もまだ本当ですか、と。
答えがどうであっても、いい。もう、聞かずに笑っているのは嫌だった。
私は咲いたばかりの薔薇を一輪、そっと摘み取った。
夜が、ゆっくりと降りてくる。




