第16話 今夜も、扉は開けておきます
春が来た。
北の春は遅い。雪が解けて、黒い土がのぞき、木々の枝先にようやく小さな芽が膨らみ始める。けれど温室の中は、ひと足早く花であふれていた。
桃色の薔薇は、あれから次々と蕾をつけた。ニールさんに教わった白い球根の花も、冬の終わりにちゃんと咲いた。
「奥様、ニールさんがお見えです。……裏口に」
リックが、なぜか声をひそめて報告に来た。
「裏口に?」
「はい。旦那様が、正面から来てもいいと言われたそうなんですが、ニールさん、怖くて裏口からしか来られないそうで」
(旦那様、いったい何をしたのかしら)
あとでユーグさんに聞いたところ、アレクシス様はニールさんの店へ自ら出向き、「あのときは失礼した」と頭を下げたのだという。
ただし、無表情で。無言の時間が十秒以上あって。最後に「……妻が世話になっている」とだけ言い残して帰ったらしい。
ニールさんは、その日のうちに店の看板を磨き直したそうだ。
温室の入り口に、見慣れた長身の影が立った。
「……視察だ」
「お疲れさまです、旦那様」
アレクシス様は、今ではもう入り口で立ち止まらない。まっすぐ私のところまで歩いてきて、隣にしゃがみ込み、鉢植えを覗き込む。
「この香草は、そろそろ摘み頃だな。図鑑の百二頁に――」
「乾燥させると香りが強くなる、ですよね」
「…………覚えていたのか」
「旦那様が教えてくださったことは、全部覚えています」
アレクシス様の耳が、ぽっと赤くなった。この人は、ずいぶん表情が豊かになったと思う。少なくとも、私の前では。
「午後から、孤児院へ行くのだったな」
「はい。みんなで焼き菓子を作る約束をしているんです」
「……私も行く」
「旦那様も?」
「生地を混ぜるくらいなら、できる。……たぶん」
その日の午後、孤児院の厨房で、氷の侯爵は粉まみれになった。
子どもたちに「こうしゃくさま、へたっぴ!」と笑われ、それでも真剣な顔で生地をこね続け、最後には小さな女の子に「がんばったね」と頭を撫でられていた。
帰りの馬車の中で、アレクシス様の髪から小麦粉を払いながら、私は笑いが止まらなかった。
「……あの日の小麦粉の仕返しか」
「違いますよ」
「……そうか」
そう言いながら、アレクシス様は私の手を取って、そっと握った。
馬車の窓の外では、雪解け水が小川になって、きらきらと光っていた。
実家のことは、ユーグさんから時々知らせが届く。
爵位を返上したヘイウッド家の両親は、遠縁を頼って小さな町へ移り、そこで細々と暮らしているという。ベアトリスは、見初められそうだったという伯爵家の子息に縁談を断られ、今は町の仕立て屋で働いているそうだ。
「……あの子が、仕立て屋で」
「客の注文に合わせてドレスを縫うのは初めてだそうで、毎日針で指を刺しているとか」
ユーグさんは淡々と報告して、それから眼鏡を押し上げた。
「奥様。何か、お手紙など送られますか」
少し考えてから、私は首を横に振った。
「いいえ。……いつか、あの子が自分の手で何かを作れるようになったら。そのときに考えます」
イザベラ様は、社交界への出入りを禁じられたあと、クローデル領の奥にある別邸へ移されたらしい。それ以上のことは、もう聞かなかった。
私の居場所は、ここにある。
その夜。
湯浴みを終えて部屋に戻ると、暖炉にはもう火が入っていた。寝台の上には、相変わらず毛布が十二枚。
(さすがに減らしてもらおうかしら)
そう思いながら椅子に座ったところで、廊下から足音が聞こえてきた。
こつ、こつ、こつ。
扉の前で、止まる。
扉の下の隙間に、影が落ちる。
――そして、そのまま動かなくなった。
(……また)
私は思わず笑ってしまった。
あれからアレクシス様は、毎晩私の部屋に来る。扉を叩いてもいいかと聞かれて、はいと答えた。それなのにこの人は、今でもなぜか、扉の前で一度立ち止まる。
ノックをする前に、深呼吸をしているのだと、前に教えてくれた。
「毎晩、君に会える前は、緊張する」
真顔でそう言われて、私のほうが真っ赤になったのを覚えている。
一分。二分。
影はまだ動かない。たぶん、今夜は三回目の深呼吸の途中だ。
私は立ち上がって、扉に歩み寄った。
取っ手に手をかけて、そっと開ける。
拳を構えたままのアレクシス様が、目を丸くしてそこに立っていた。今夜は額に当たらなかった。
「……クラリス」
「旦那様、今夜も立ち尽くしていらっしゃいましたね」
「…………深呼吸を、していた」
「知ってます」
私は笑って、扉を大きく開いた。
「どうぞ。お待ちしていました」
アレクシス様は少しだけ困ったように眉を下げて、それから、ほんのわずかに口元をほころばせた。
氷の侯爵と呼ばれた人の、私しか知らない、やさしい笑顔だった。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
大きな手が、私の手を包む。旦那様が部屋に入ってきて、扉が静かに閉まる。
愛することはない、と言われた初夜から、季節がひとつ巡った。
不器用で、言葉が足りなくて、間が悪くて、すぐ柱にぶつかる旦那様。毎晩私の部屋の前で、律儀に立ち尽くしている旦那様。
明日の夜も、きっと足音が聞こえてくる。
だから私は、今夜も扉の鍵をかけずにおく。
いつでも、すぐに開けられるように。
(完)




