また起きたこと
長い移動のせいで、時間の感覚があいまいになるくらい疲れきっていた。目はずっしり重く、飛行機の座席に何時間も体を折りたたんでいたせいで、肩もこわばっていた。搭乗橋を出た瞬間、空港内のひんやりとした空気が顔に触れて、磨き上げられた床の匂いと、緑茶を煮出しすぎたような、どこか甘い匂いが混じって漂ってきた。
周りの景色はすっかり普通で、落ち着いていて、特に変わったところは何もなかった。読めない文字で書かれた光る看板の下を、旅行客たちがスーツケースを転がしながら通り過ぎていく。まるで、ここに来るまでの間に何も奇妙なことなど起きなかったみたいだった。
それでも、朝早くに起きたあの出来事が、頭の片隅からずっと離れなかった。新しい景色や音が次々と押し寄せてくるあいだも、その記憶だけは何度も浮かび上がって、ぼくの意識を引っ張った。
あれは朝の六時くらいだった。空はまだ薄暗くて、灰色の光がうっすらと筋を引いていた。ぼくたちはフセイン・サストラネガラ国際空港へ向かっている途中だった。
冷たい車の窓に額を押し当てて、街灯が半分閉じかけた目の前を流れていくのをぼんやり眺めていたのを覚えている。予約していたグラブの車が、パンドゥ墓地のそばを通りかかったとき、突然故障した。エンジンが一度、二度と咳き込むような音を立てたあと、完全に止まってしまった。エンジン音がふいに消えたせいで、車内が不気味なほど静まり返った。
運転手は何度も鍵を回しながら、ハンドルを握るこぶしが白くなるほど力を込めていた。エンジンがかからないたびに、小さな声で謝りながら舌打ちしていた。ぼくの隣で、お母さんが落ち着かない様子で身じろぎし、霧の向こうにかろうじて見える墓地の鉄の門をちらりと見ていたけど、何も言わなかった。
結局、ぼくたちは車を降りて、別の車を探すしかなかった。冷たい朝の空気の中、道端に立って、リュックを胸にぎゅっと抱きしめながら、次々と通り過ぎるヘッドライトが、ひび割れた歩道に長く揺れる影を落としていくのを見ていた。ジャケットの下に寒さが忍び込んできて、気づけば無意識のうちにお父さんのそばへ寄っていた。
とはいえ、それほど深くは考えなかった。
きっとたまたま車が壊れただけだ。自分にそう言い聞かせながら、乗り換えた車の窓越しに、墓地の門が少しずつ小さくなり、灰色の朝霧の中へゆっくり溶けていくのを見送った。
空港に着くと、お父さんとお母さんは出国の手続きをてきぱきとこなしながら、カウンターの間を忙しく移動していた。ぼくはリュックのストラップを握りしめたまま、その一歩後ろをついていった。目の前を通り過ぎる見知らぬ顔の群れ、転がるスーツケース、いくつもの言語が重なり合う低いざわめきを、ただぼんやり眺めていた。
そのあと、搭乗の時間まで待った。混み合ったターミナルの椅子に座って、頭上を流れるアナウンスが半分だけ分かる言葉で響くなか、プラスチックの椅子の下でぼくの脚は落ち着きなく揺れていた。
ラウンジでしばらく待ったあと、ようやく搭乗が許された。細い通路を一列になって進むうちに、エンジンの低い唸り声が一歩ごとに大きくなっていって、スニーカーの底にかすかな振動が伝わってきた。
離陸から少し経って、飛行機が分厚い雲の上で安定した頃、客室乗務員が食べ物と飲み物を積んだワゴンを押しながら近づいてきた。小さな揺れのたびに、カートの上の飲み物がかすかに音を立てた。彼女は一人ひとりに丁寧に声をかけながら、慣れた様子で通路を進んでいった。その笑顔は礼儀正しく変わらず、明るい声のトーンもどの乗客に対しても同じだった。
彼女は英語で話しかけてきたけど、言葉が早すぎて、音が繋がりすぎていて、ぼくにはほとんど聞き取れなかった。結局、目についた食べ物と飲み物を指差すだけにした。自分の沈黙に、少し恥ずかしさを感じながら。支払いはもちろん両親の役目だった。こういう旅行のとき、ぼくは自分のお金を持ち歩いたことがなかったから。
でも、隣に座っていたお母さんの様子が、少しおかしかった。
まだワゴンを押していた客室乗務員が、お母さんに直接話しかけようとしていた。一度、二度と繰り返して、少し身を乗り出しながら。けれどお母さんはただ黙って座ったまま、表情はどこか空っぽで、それでいて妙に穏やかだった。
答える代わりに、お母さんはゆっくりと顔を横に向け、機内のどこかをぼんやりと見つめながら、微かに遠い笑みを浮かべた。まるで、ほかの誰にも見えない何かが、そこに映っているみたいだった。視線は客室乗務員の脇をすり抜けて、焦点の合わないまま漂っていた。
それなのに、お母さんはイヤホンをつけていなかった。耳を覆うものなんて、何ひとつなかった。
ぼくは手を伸ばして、お母さんの腕をそっと揺すった。小さな指先が、袖の柔らかい生地に沈み込んだ。
「お母さん?」
反応はなかった。視線は客室乗務員の肩の向こう、どこか遠いところに固定されたままだった。まるで見えない糸が、彼女の意識を機内の壁を越えて、翼の外の、雲の中まで引っ張っていってしまったみたいだった。
胃のあたりが、心配でぎゅっと締めつけられた。もう一度、今度は少し強めに腕を揺すった。指先が少し食い込むくらい力を入れたのに、お母さんは同じように静かなままで、同じように遠くにいた。まるで、薄いガラス一枚を隔てて、こちらの手が届かないところにいるみたいだった。
とうとう、ぼくは座席を振り返って、後ろの列に座るお父さんに声をかけた。膝の上には雑誌が開かれていたけど、読んではいなかった。
「お父さん、お母さんぼーっとしてる。起こしてくれる? これ、お金払わないといけないんだ」
選んだお菓子と飲み物を持ち上げて見せてから、まだ辛抱強く待っている客室乗務員のほうを指差した。カートが通路の床でかすかに音を立てていて、彼女の片手はその縁に軽く添えられていた。
お父さんは迷わず雑誌を置いて、身を乗り出した。お母さんの名前を呼びながら、肩をしっかりと触れた。指先には、いつもより強い力がこもっていた。まるで、彼女を覆っている何かの霧を突き破ろうとしているみたいだった。
お母さんは、はっと大きく体を震わせた。まるでずっと遠くの場所から、勢いよく引き戻されたみたいに、肩がびくっと跳ね上がり、息を呑む音が聞こえるほどだった。
「わっ! びっくりした」
お母さんは何度もまばたきをして、まずぼくのほうを見た。混乱した表情のまま、それからゆっくり客室乗務員のほうへ顔を向けた。
「ごめんなさい。ぼーっとしてて、声が聞こえなかったの」
お母さんは急いで財布を取り出し、慣れない外国のお金に少し戸惑いながら、眉根を寄せて硬貨を二回数え直した。それから、ようやく正しい金額を客室乗務員に手渡した。
そのときは、あまり深く考えなかった。客室乗務員は丁寧にうなずいて、次の列へと進んでいった。カートの車輪が通路の床で、きしむような音を立てながら遠ざかっていった。
お母さん、きっとぼんやり考え事してただけだよね。自分にそう言い聞かせながら、座席にもたれ直した。飛行機は静かに雲を切り裂きながら、日本へと進んでいく。窓の外には、太陽の光が真っ白な雲の海に降り注いでいた。翼の下に広がる雲は、まるで柔らかくて半分生きているみたいに、ゆっくりと流れながら、どこまでも続いて、やがて淡い地平線に溶けていった。




