第30話 死を巻き戻す少女、そして護衛任務のはじまり
空気が、裂けていた。
耳をつんざくような轟音も、爆発もない。ただ、空間そのものが歪み、押し潰されるような圧迫感だけが周囲を満たしている。
それでも、人は倒れる。
「――ぐ、ぁ……っ……!」
アスファルトに叩きつけられた男が、血に濡れた手を震わせた。見えていないはずの“何か”に弾き飛ばされた結果だと、誰もが理解できずにいる。ただ、現実として、彼の体は無惨に裂かれていた。
胸部には深い裂傷。肋骨は歪み、呼吸のたびに泡混じりの血が喉から漏れる。腹部は抉れ、内臓が覗きかけている。
助からない。
医療の知識がある者でなくても、それは直感で分かる傷だった。
「た、す……け……」
誰に向けたものかも分からない声が、かすかに零れる。
その瞬間。
ふわり、と。
世界に“色”が差し込んだ。
「――間に合いましたわ」
柔らかな声が、場違いなほど穏やかに響く。
光だった。
いや、正確には“光をまとった少女”。
白と淡い金を基調とした衣装。風もないのに揺れるスカートの裾。長い髪は柔らかく波打ち、その一房一房が淡く輝いている。
その瞳は、まるで祈りを宿したように静かだった。
彼女――ヒーリング・ルクスは、倒れている男の傍へ膝をつく。
「もう大丈夫ですわ。安心なさってください」
恐怖に引きつった顔を、そっと覗き込みながら微笑む。
その仕草は、戦場のそれではない。
まるで、日常の中で誰かを気遣うような、当たり前の優しさ。
だが、その手が触れた瞬間。
世界の法則が、書き換わった。
「――回帰、開始」
彼女の指先から、光が溢れる。
優しい光だった。温かく、柔らかく、包み込むような光。
けれどそれは、“癒し”という言葉では足りない。
肉が、戻る。
裂けた皮膚が、時間を巻き戻すように閉じていく。飛び散った血が逆再生のように吸い寄せられ、傷口へと帰っていく。
折れていた骨が、音もなく正しい位置へと組み上がる。
露出しかけていた内臓が、何事もなかったかのように体内へと収まり、筋肉と皮膚がその上を滑らかに覆っていく。
「……ぁ……?」
男の喉から、信じられないという息が漏れた。
さっきまで感じていた激痛が、消えている。
呼吸が、できる。
肺に空気が入る。
「これは……」
声が出る。
それだけで、奇跡だった。
ルクスはその様子を見て、小さく頷く。
「痛みはもうございません。後遺症も残りませんわ」
その言葉通り。
男の体には、傷一つ残っていなかった。
衣服だけが破れ、血に汚れていることが、先ほどまでの現実を辛うじて証明している。
「な、なんで……」
震える声で問う男に、ルクスは少しだけ困ったように微笑む。
「説明は……難しいですけれど」
言葉を選ぶように、一拍置いて。
「“元に戻した”だけですの」
その声音は、あまりにも自然だった。
まるで、壊れたものを直したと言うかのように。
だがそれは。
本来、絶対に人の手では触れられない領域――“時間”そのものへの干渉。
常識の外側にある奇跡だった。
ふわり、と。
彼女の背後で、再び空間が歪む。
見えないはずの“何か”が、まだそこにいる。
空気が震え、見えない圧力が周囲を薙ぎ払おうとする。
その瞬間。
ルクスは、ゆっくりと立ち上がった。
スカートの裾がふわりと広がり、淡い光がその輪郭をなぞる。
「……さて」
その声音は、先ほどまでと変わらず穏やかで。
けれど、その奥にほんのわずかだけ、芯の強さが宿る。
「治療は終わりましたので――次は“止める”お時間ですわね」
彼女の指先に、再び光が集まる。
優しく、しかし確かに“何か”を拒絶する光。
見えない敵に向けて、静かに手を掲げる。
そして――
その瞬間、空間の歪みがわずかに揺らいだ。
まるで、“理解した”かのように。
(……これは)
まだ始まったばかりだと。
そう告げるかのように。
ルクスは一歩、前へ踏み出した。
その足取りは迷いなく、静かで、そして確かだった――。
空間が、軋む。
音はない。だが確かに“そこ”に何かがいると、肌が理解する。
見えない圧力が、地面を抉るように叩きつけた。
――ドンッ!
アスファルトが砕け、破片が宙へと跳ねる。
「……」
ルクスは動かない。
ただ、その場に静かに立ち、わずかに目を細めた。
彼女の周囲だけ、空気の流れが違う。
柔らかな光が、彼女を中心に薄い膜のように広がっている。
次の瞬間。
再び、不可視の衝撃が襲う。
今度は横から。
建物の壁が内側から殴り飛ばされたかのように歪み、瓦礫が崩れ落ちる。
だが――
ルクスの前で、それは“止まった”。
「……やはり」
彼女は静かに呟く。
目前、数センチの位置で、崩れ落ちるはずだったコンクリート片が空中で静止している。
まるで時間が切り取られたかのように。
「単純な破壊行動……でも、位相が少しズレていますわね」
その言葉に応じるように。
ぴたり、と。
空中に止まっていた瓦礫が、すっと元の位置へと戻っていく。
崩れていたはずの壁が、何事もなかったかのように再構築される。
「――回帰」
それは、先ほど人間に対して行ったものと同じ。
いや、それ以上に精密な操作。
“破壊された事実そのもの”を、なかったことにしている。
だが。
敵も、止まらない。
見えない“何か”が、今度は明確な殺意をもって突進してくる。
空気が裂ける。
直線的な圧が、ルクスの胴体を正確に貫こうとする。
その瞬間。
「……少し、強めにいきますわね」
彼女は、片手を軽く前に出した。
指先が、すっと揃う。
光が、収束する。
「“拒絶領域”」
言葉と同時に。
空間が、弾かれた。
――ギィンッ!!
金属でもぶつかったかのような異質な音が、周囲に響く。
見えないはずの何かが、確かに“そこ”で止まり、押し返された。
空気の流れが逆転する。
目に見えない衝撃波が、周囲へと拡散した。
「……触れさせませんわ」
ルクスの声音は変わらない。
穏やかで、優しいまま。
だが、その足元。
半径数メートルの空間だけが、完全に別の法則に支配されている。
侵入を拒む領域。
干渉を無効化する結界。
それは防御というより――“世界の書き換え”だった。
敵は、それを理解したのか。
一瞬、攻撃が止まる。
次の瞬間。
空間が、大きく歪んだ。
これまでとは比べ物にならない密度の“圧”が収束する。
周囲の空気が引き寄せられ、視界すらわずかに揺らぐ。
「……あら」
ルクスは、ほんの少しだけ目を見開いた。
「その程度の知性は、ありますのね」
逃げ場のない一点集中。
防御ごと押し潰すための、最大出力の一撃。
それが、放たれる。
――――ッ!!
音すら置き去りにした衝撃。
地面が沈み、周囲の建造物が軋む。
だが。
その中心で。
ルクスは、ただ静かに立っていた。
「……では」
彼女は、ゆっくりと息を吸い。
そして、優しく吐き出す。
まるで、何かを“元の位置に戻す”かのように。
「終わりにいたしましょう」
両手を、胸の前で重ねる。
光が、集まる。
先ほどまでとは比較にならない密度。
それは“治癒”の光ではない。
もっと根源的な――“存在への干渉”。
「――全域回帰」
その瞬間。
世界が、巻き戻った。
歪んでいた空間が、正される。
圧縮されていた力が、霧散する。
そして。
そこに存在していた“何か”が。
最初からいなかったかのように――消えた。
静寂。
さっきまでの異常が嘘のように、空気が落ち着く。
ルクスは、ゆっくりと手を下ろした。
「……これで、大丈夫ですわ」
誰に言うでもなく、そう呟く。
その顔には、達成感も、緊張もない。
ただ、当然のことをしただけという、穏やかな表情。
だが――
彼女は、わずかに視線を空へと向けた。
ほんの一瞬だけ。
その瞳に、静かな警戒が宿る。
(……今のは)
“ただのヴォイド”ではない。
確かに、何かが違った。
わずかな違和感。
だが、それは確実に――これから先の戦いを予感させるもの。
ルクスは、その感覚を胸に収めるように、そっと目を伏せる。
そして。
「……帰りましょうか」
何事もなかったかのように、くるりと踵を返した。
その背中は、小さく見えて。
けれど、確かに――
この戦場のすべてを、守りきった者のそれだった。
――そしてこの直後。
彼女のもとへ、“正式な要請”が届くことになる。
――――――
柔らかな光が差し込む、静かな応接室だった。
壁は白を基調とし、余計な装飾はない。だが一目で分かる。ここが“普通の施設ではない”ということを。
空気が整いすぎているのだ。
まるで、乱れそのものを許さないかのように。
その中央に置かれたソファに、橘透花は背筋を伸ばして座っていた。
両手は膝の上で揃えられ、指先まできちんと意識が行き届いている。
緊張しているわけではない。
だが――気を抜く場ではないと、理解している姿勢だった。
「……お待たせして申し訳ありません、橘さん」
向かい側の扉が静かに開き、一人の女性が入室する。
白峰朱音。
魔法少女協会、日本支部――関東支局長。
かつて最前線に立っていた者特有の、穏やかさと鋭さを同時に感じさせる気配を纏っている。
「いえ、お気になさらないでくださいませ、白峰さん」
透花はすぐに立ち上がり、丁寧に一礼する。
その所作は、どこかおっとりしていながらも、芯の通った美しさがあった。
白峰はそれを見て、わずかに口元を緩める。
「相変わらず、きちんとしていますね。座ってください」
「はい」
二人は向かい合う形で腰を下ろす。
短い沈黙。
だが、それは気まずさではない。
互いに、“これからの話の重さ”を理解しているからこその間だった。
白峰が先に口を開く。
「単刀直入に言います」
その声音は、穏やかでありながら迷いがない。
「橘透花さん。あなたに、任務を依頼します」
「……はい」
透花は静かに頷く。
驚きはない。
魔法少女である以上、“任務”という言葉は日常の一部だ。
だが――
次の言葉は、予想の外だった。
「現在、天霧市において特別警戒対象が確認されています」
「天霧市……」
透花の瞳がわずかに揺れる。
聞き覚えのある地名ではない。
だが、白峰の口調がそれを“ただの地方都市ではない”と物語っていた。
「ヴォイドの出現頻度が高く、なおかつ――」
白峰は一拍、間を置く。
「通常とは異なる反応を示す個体が確認されています」
「……それは」
透花の指先が、わずかに力を帯びる。
戦場で感じた違和感。
つい先ほどの戦闘を思い出す。
あれと、同じ種類のものだと直感が告げていた。
「ええ。あなたも感じているはずです」
白峰はそれを見逃さない。
「これは単なる“数の問題”ではありません。質が変わり始めている」
静かに、だが確実に。
状況の深刻さを伝える言葉だった。
「……それで、わたくしに何を」
透花は問い返す。
すでに、ある程度の予想はついている。
だが、それでも確認する。
白峰はまっすぐに透花を見据えた。
「天霧市へ、移動していただきます」
「……移動、ですか」
「正確には、“引っ越し”です」
その一言で、空気がわずかに変わる。
透花は、ほんの少しだけ目を瞬かせた。
「長期……ということですの?」
「はい。期間は未定です」
即答だった。
つまり、それだけの重要任務だということ。
「現地に常駐し、ある人物の護衛にあたっていただきます」
「護衛……」
その言葉に、透花は小さく首を傾げる。
自分は回復役。
戦場での支援が主であり、“護衛専門”ではない。
その違和感を、白峰は当然理解している。
「理由はシンプルです」
白峰は静かに言い切る。
「あなたほど、“死なせない”ことに特化した魔法少女はいない」
「……」
透花の表情が、わずかに引き締まる。
「どれだけの戦力があっても、人は死にます。ですが――」
白峰の視線が、鋭くなる。
「あなたがいれば、“それをなかったことにできる”」
言葉は静かだった。
だが、その意味は重い。
透花の持つ、究極の魔法。
“ルクス・リバース”。
死亡すら巻き戻す、絶対の回帰。
白峰は、それを理解した上で言っている。
「対象は、それほど重要な人物ですのね」
「ええ」
即答。
「現時点で、最優先保護対象です」
透花は、しばらく黙り込む。
視線を落とし、指先をそっと重ねる。
考えている。
任務の重さも、責任も、すべて理解した上で。
そして。
ふっと、小さく息を吐いた。
「……分かりました」
顔を上げる。
その表情は、柔らかいままだが。
瞳の奥には、確かな決意が宿っている。
「わたくしに務まるのであれば、お引き受けいたします」
その言葉に、白峰は静かに頷いた。
「ありがとうございます」
短い言葉。
だが、それ以上は必要ない。
信頼があるからこそのやり取りだった。
「詳細は後ほど共有しますが――」
白峰は、わずかに視線を和らげる。
「現地では、その人物の“すぐそば”にいてください」
「……すぐそば、ですか」
「ええ。できる限り、常に」
透花は、その意味を理解する。
距離が近ければ近いほど。
“万が一”の際に、間に合う。
「……かしこまりました」
静かに頷く。
その仕草は、どこまでも丁寧で。
けれど、その内側には。
命を預かる覚悟が、確かにあった。
「では――準備が整い次第、天霧市へ」
白峰の言葉で、すべてが動き出す。
透花は立ち上がり、深く一礼した。
「行ってまいります、白峰さん」
その背中を見送りながら。
白峰は、ほんのわずかに目を細める。
(……これで、最低限の保険は整った)
あとは――
“あの少年”が、どう動くか。
それ次第で、すべてが変わる。
静かな部屋に、再び沈黙が落ちた。
そして物語は――
天霧市へと、収束していく。
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