第303話 帳簿の重み
胃の底に落ちた冷水が体温と混ざり、ぬるくなっていく感覚が腹部に残っていた。
私はロビーの水飲み場を離れ、階段を上った。
靴音がタンプ、タンプと鈍く響く。
公会本部の三階、一番奥にある執務室のドアノブに手を掛ける。
金属は冷えていた。
回す。ラッチが外れる感触。
扉を開けると、そこには白い山脈があった。
部屋の中央にある長机の上を、紙の束が埋め尽くしている。
大小様々な羊皮紙、藁半紙、裏紙に書かれたメモ。それらが無秩序なようでいて、日付順という規則に従って積み上げられ、机の木目を完全に隠していた。
年度末の決算資料だ。
一年分の肉、野菜、小麦、薪、修繕費、人件費。
それら全てが、インクの染みた紙片となってここに集結している。
私は溜息を飲み込み、その山の一角にある自分の席へと歩いた。
向かいの席では、アレス様がすでに作業を始めていた。
彼は上着を脱ぎ、ワイシャツの袖を捲り上げている。右手にはペンを持ち、左手は紙の端を押さえている。
カリ、カリ、というペン先が紙を引っ掻く音だけが、部屋の空気を振動させていた。
「……戻ったか」
彼は顔を上げずに言った。
手元の紙に視線を固定したまま、右手のペンをインク壺に浸す。
「はい。試食は終わりました」
私は自分の椅子を引き、座面に体重を預けた。
椅子の脚が床を擦り、ギィと鳴く。
「味は」
「塩が強すぎました。ですが、採用しました」
「そうか」
彼は短く答え、計算済みの書類を左側の箱へ放り込んだ。
バサリ、と紙が重なる音がする。
私も目の前の山から、一番上の束を手に取った。
束ねてある紐を解く。
紙の乾燥した匂いが鼻を突いた。
一番上の紙は、肉屋からの請求書だった。
『豚肉、バラ、五十キロ』。
日付は先月のものだ。
私は手元の元帳を開き、該当する日付の欄を探した。
指先で数字を追う。
納品書の数字と、元帳の数字を照らし合わせる。
合っている。
項目の横に、チェックを入れる。
レ点。
黒いインクが紙に吸い込まれる。
次の紙をめくる。
『タマネギ、三十袋』。
数字を確認する。チェックを入れる。
紙をめくる音。ペンが走る音。アレス様が計算機(手回し式の歯車計算機)のハンドルを回す、ジャリ、ジャリ、という金属音。
それらが不規則に重なり合い、部屋を満たしていく。
一時間が経過した。
あるいは二時間かもしれない。
窓の外の光が、白から橙色へと変わり、机の上に伸びる影が長くなった。
私は首を回した。
頚椎がゴリ、と音を立てる。
肩の筋肉が硬直し、石のように重い。
アレス様が手を止めた。
彼は眉間を親指と人差し指で揉みほぐし、一枚の領収書をつまみ上げた。
「……これは何だ」
彼が紙をこちらに向ける。
汚れた再生紙に、走り書きで『潤滑油、小瓶、一本』と書かれている。金額は銅貨数枚分。
「昨日の朝、裏口の扉を直した時のものです」
私は答えた。
「経費で落とすなら、使途明細を書けと言ったはずだ」
「備考欄に書いてあります。『勝手口蝶番修理用』と」
アレス様は紙を顔に近づけ、目を細めた。
「……字が汚い。読めん」
「レオが書きました。現場で急いで書いたので」
「あいつにペン習字の教本を送るリストに入れておけ」
彼は領収書を承認済みの箱に入れ、計算機のハンドルを回した。
ガチャン、という音がして、数字が加算される。
私は次の束を手に取った。
野菜の仕入れ伝票だ。
その中に、見慣れない項目があった。
『規格外人参、三箱』。
金額はゼロになっている。
備考欄には『農家からの寄付』とあった。
これは、今日の試食会でマルクが使っていた不揃いな人参のことだろう。
形が悪くても、味は変わらない。それをスープにして、労働者たちの腹を満たす。
数字には表れない価値が、この紙切れには含まれている。
私は元帳の『寄付・贈与』の欄に数量を書き込み、金額欄に斜線を引いた。
ゼロはゼロだ。
けれど、このゼロが公会の利益率を支えている。
日が落ちた。
手元が暗くなり、文字の判別が難しくなる。
アレス様が立ち上がり、壁際のガス灯の栓をひねった。
シューというガスの流れる音がして、マッチの火を近づける。
ボッ、と青白い炎が灯り、ガラスのホヤの中で安定した光に変わった。
部屋の四隅に影が濃くなる。
私の手元のインク壺が、黒い鏡のように光を反射した。
残りの書類は、あと十分の一ほどだ。
山が低くなっている。
目薬をさしたい衝動に駆られたが、手を止めるのが惜しくて瞬きで誤魔化した。
乾燥した空気が眼球を刺激する。
アレス様が、分厚い修繕費の束を片付けた。
彼は大きな伸びをした。背中の骨がパキパキと鳴る。
「……あと少しだ」
「はい。こちらの仕入れ伝票も、最後の月に入りました」
ペン先が乾いてきた。
インクをつける。
最後の伝票。
『薪、ナラ材、五十束』。
冬の終わりの日付だ。
数字を確認する。
元帳の数字と照合する。
一致。
最後のレ点を打ち込む。
私はペンを置き、元帳の合計欄に計算結果を書き込んだ。
アレス様も計算機のハンドルを止め、表示された数字を紙に書き写す。
「出たか」
「はい」
私は自分の計算した支出合計額を読み上げた。
アレス様が手元の数字を見る。
沈黙。
古時計の振り子の音だけが響く。
「……合っている」
彼が静かに言った。
一コッパーのズレもない。
膨大な紙の山、数万回の取引、数百人の労働。それらすべてが、この瞬間に一つの確定した数字へと収束した。
私は背もたれに体を預け、肺の中の空気をすべて吐き出した。
重力が倍になったように体が重い。
けれど、胸の奥には、ねじがぴったりと噛み合った時のような、静かで硬質な達成感があった。
アレス様が席を立ち、サイドボードの方へ歩いた。
水音がする。
ポットの湯を注ぐ音。
茶葉が開くのを待つ間、彼はカップを二つ用意した。
カチャ、とソーサーが置かれる。
彼はカップを持って戻り、一つを私の前に置いた。
湯気からは、草いきれのするような渋い香りが漂っている。
彼が好む、発酵の強い茶葉だ。
「飲め」
彼は自分の席には戻らず、私の机の縁に腰掛けた。
私はカップを両手で包み込んだ。
陶器越しに伝わる熱が、冷え切った指先を解凍していく。
口をつける。
熱い液体が舌を焼き、喉を通り抜ける。
渋みが口内を収縮させ、その後にほのかな甘みが戻ってくる。
疲れ切った脳に、カフェインと熱が染み渡る感覚。
私はほうっと息を吐いた。
「……効きます」
「そうか」
アレス様も一口飲み、カップの中身を揺らした。
褐色の水面が渦を巻く。
「来年は」
彼がポツリと言った。
「事務官を増やそう。三人……いや、五人は要る」
私はカップの縁から彼を見上げた。
「賛成です。この量を二人で検算するのは、もう限界です」
「俺たちがやるべきは判断だ。計算ではない」
彼はもっともらしい理屈をつけたが、その声には明らかな疲労が滲んでいた。
公爵と公爵夫人が、深夜まで伝票の山と格闘している図など、効率的とは言えない。
けれど、この労働の共有が、嫌いではなかった。
同じ数字を見て、同じ疲れを感じ、同じ茶を飲む。
言葉を尽くすよりも確かな、共有の時間がここにある。
私は茶を飲み干した。
カップの底に残った茶葉が、何かの模様のように張り付いている。
アレス様が私の空のカップを取り上げ、自分の分と一緒に重ねた。
「帰るぞ」
彼は机の上の明かりを消した。
部屋が闇に沈む。
窓の外には月が出ていた。
私たちは暗い廊下に出た。
アレス様が扉に鍵をかける。
カチャリ、という金属音が、今年度の業務の終了を告げた。
肩が触れ合う距離で並んで歩く。
私の歩幅に合わせて、彼が足を運ぶ音がする。
疲れた体を引きずりながら、私たちは寝室へと続く長い廊下を、ゆっくりと進んでいった。




