第302話 弟子のシチュー
廊下の突き当たりにある手洗い場で、私は石鹸を泡立てた。
指の指紋に入り込んだ黒い油汚れを、硬いブラシで擦り落とす。泡が灰色に濁り、排水口へと吸い込まれていく。
水で流し、タオルで水気を拭き取る。
鼻を近づけて匂いを嗅ぐと、鉄錆と油の臭いは消え、代わりに強いミント石鹸の香りが残っていた。
私は袖口を整え、公会堂の二階にある試食室の扉を開けた。
部屋の中には、すでにアレス様が座っていた。
彼は窓際の一人がけの椅子に腰を下ろし、退屈そうに指でテーブルの縁を叩いている。
その向かい側には、レオと、背の低い若い男が直立していた。
若い男は真っ白な調理服を着ているが、サイズが合っていないのか、肩のあたりが浮いている。彼は両手を前掛けの上で組んで握りしめ、視線を床の板目に固定していた。額には脂汗が滲み、喉仏が頻繁に上下している。
「お待たせしました」
私が声をかけると、アレス様が顔を上げた。
「扉は直ったか」
「はい。油を差しましたから、あと半年は鳴きません」
私はアレス様の隣の椅子に座った。
レオが若い男の背中をバンと叩く。
「ほら、マルク。出番だ」
「は、はい!」
マルクと呼ばれた男が、弾かれたように動いた。
彼はサイドテーブルに置かれていた鍋の蓋を取る。
湯気が立ち上った。
匂いが広がる。炒めたタマネギの甘い香りと、焦げた小麦粉、そして強い香辛料の匂い。
彼は震える手でお玉を握り、深皿にシチューをよそった。
具材が皿に落ちる音が、ボト、ボト、と重い。
二つの皿が私たちの前に置かれた。
私はスプーンを手に取る前に、皿の中身を観察した。
茶色く濁ったスープの中に、人参とジャガイモが沈んでいる。
その切り方は、決して美しいとは言えなかった。
人参は乱切りだが、大きさが揃っていない。親指ほどの塊もあれば、小指の先ほどの欠片もある。ジャガイモの角は取れておらず、煮崩れてスープに溶け出している部分と、形を保っている部分が混在していた。
私が教えてきた「均一な火通りのための切り揃え」とは程遠い。
アレス様がスプーンを持ち上げた。
彼は無言でスープをすくい、口に運んだ。
ズズ、という音がする。
私は彼の表情を見た。眉間にわずかに皺が寄る。
私も一口食べる。
舌に乗せた瞬間、強い塩気が味蕾を刺激した。
続いて、胡椒の辛味が広がる。
野菜の甘みはあるが、それを上書きするほどの濃い味付けだ。
ジャガイモを噛む。中心部分は少し硬く、シャリという歯ごたえが残っていた。一方で、小さく切られた人参は舌で潰れるほど柔らかい。
不格好な味だった。
繊細さのかけらもない。労働で汗をかいた後に、水と一緒に流し込むための料理だ。
マルクが息を止めて、私たちの反応を待っている。
アレス様は二口目を口に運び、咀嚼した。
硬いジャガイモを噛み砕く音が、顎の骨を通じて響いているようだ。
彼は皿の半分ほどを平らげたところで、スプーンを置いた。
カチャリ。
マルクの肩が跳ねる。
「……塩が強い」
アレス様が言った。
「野菜の切り方も雑だ。火の通りにムラがある」
マルクの顔色が白くなる。
アレス様はナプキンで口元を拭い、コップの水を飲んだ。
そして、短く息を吐いた。
「だが、体は温まる」
彼は自分の腹のあたりを軽く叩いた。
「気取った味ではないが、現場の石工や荷運び人なら、このくらいの塩気を喜ぶだろう。パンが進む味だ」
マルクが顔を上げ、目を見開いた。
レオが横で小さく頷いている。
私は残りのシチューをスプーンでかき混ぜた。
私のレシピなら、塩はもっと控えめにする。野菜はサイコロ状に切り揃え、見た目の美しさと食感の均一さを重視する。
けれど、このシチューには、作り手の迷いと、同時に「腹一杯食わせたい」という熱量のようなものが詰まっていた。
洗練されてはいない。
けれど、これは間違いなく「温食」だった。
私が作ったものではない、誰かが自分の手で作った味。
私は最後のジャガイモを飲み込み、審査用紙を引き寄せた。
インク壺にペンを浸す。
『承認』の欄にチェックを入れる。
備考欄に『塩分濃度、要調整。具材のカット技術、再研修』と書き添え、最後に署名した。
用紙をマルクに渡す。
「公共食堂のランチメニューとして採用します」
「……え、あ、ありがとうございます!」
マルクが深々と頭を下げた。
「ただし」
私は彼の目を見て付け加えた。
「子供やお年寄りには塩が強すぎます。提供する相手を見て、薄めるための出汁を用意しておくこと。それと、包丁研ぎの練習をもっとしなさい」
「はい! 肝に銘じます!」
レオがマルクの肩を抱き寄せ、小声で何かを言っている。「だから言っただろ、人参がでかすぎるって」という声が聞こえた。
アレス様が立ち上がる。
「行くぞ。喉が渇いた」
私たちは試食室を出た。
廊下を歩きながら、私は口の中に残る濃い後味を確かめた。
私の味ではない。
アレスティード家の味でもない。
それは、この街で育った職人が、自分の感覚で作った新しい味だった。
少し塩辛くて、不格好で、けれど確かな熱を持った味。
それが公会のスタンダードとして混ざっていく。
私は舌に残る胡椒の刺激を感じながら、階段を降りた。
一階のロビーにある水飲み場で、冷たい水を一杯飲む。
水が食道を冷やし、胃の中でシチューの熱と混ざり合った。




