第301話 錆びた蝶番
鉄製のドアノブを両手で握り締め、体重をかけて右に回した。
ガチリ、という硬質な音が手のひらに響く。内部の金具が噛み合った感触はあるが、そこから先へ進まない。蝶番のあたりから、金属同士が擦れ合う高い音が鳴り、ドア板が枠に張り付いたまま沈黙した。
私は一度手を離し、手袋の掌についた赤茶色の粉を払った。
扉の向こう側から、ドンドンと板を叩く音がする。
「奥様、外からはびくともしません」
くぐもったレオの声が聞こえた。
さらにその奥から、御者が馬をなだめる声と、荷車の車輪が砂利を噛む音が重なる。
公共食堂の裏口、食材搬入用の勝手口だ。冬の間の結露と春の雨が、鉄の蝶番を侵食していたらしい。今朝の配達でキャベツの木箱を運び込もうとした矢先、この扉は開くことを拒否した。
私は廊下の壁に立てかけてあった工具箱を足元に引き寄せた。
留め金を外す。中には油紙に包まれたスパナや金槌、そして小瓶に入った潤滑油が整然と収まっている。
メインホールの方へ向かおうとしていた若い給仕が、私を見て足を止めた。
「あの、誰か呼びましょうか。工兵隊の方とか」
「いりません。人が来るのを待っていたら、葉野菜が萎れます」
私は工具箱から平たいタガネと金槌を取り出した。
スカートの裾を捲り上げないように気をつけながら、扉の蝶番の前にしゃがみ込む。
赤錆が浮いた金属の筒の中に、太い芯棒が通っている。ここが固着しているのだ。
タガネの先を芯棒の頭に当てた。
金槌を振り上げる。
カーン。
乾いた衝撃音が廊下に反響する。
錆の粉がパラパラと床に落ちた。
芯棒は動かない。
もう一度。カーン。
今度は少し鈍い手応えがあった。芯棒の頭が数ミリ浮き上がる。
「レオ、扉を持ち上げて。少し浮かせるだけでいいわ」
扉越しに声をかけると、「はい」という短い返事とともに、扉全体がガタガタと揺れた。彼が外側から取っ手を持ち上げている。
蝶番の継ぎ目に隙間ができた。
私はそこへ油を差した。粘度の高い琥珀色の液体が、錆の隙間に吸い込まれていく。
再びタガネを当て、金槌を振るう。
カーン、カーン、ガン。
音が重くなる。
芯棒が下から抜け落ち、床の煉瓦に転がった。カラン、という軽い音がする。
上側の蝶番も同じように外す。
これで扉は枠から自由になった。
ガタン、と扉が外側へ傾く。
レオがそれを支え、ゆっくりと開いた。
外の光が差し込み、土埃が舞う。
レオは額に汗を浮かべ、袖口で拭った。
「開きました。……すごい音でしたね」
「錆が回っていました。全部磨いて、油を馴染ませないとまた固まります」
私は床に転がった芯棒を拾い上げた。表面はザラザラとして、赤い粉が指に付着する。
外には、野菜を積んだ荷馬車が待機していた。
御者が帽子を取り、安堵したように息を吐く。
「助かりました。次の配達が詰まっていたんで」
「すぐ降ろせます。通してください」
レオが指示を出し、厨房スタッフたちが木箱を運び込み始める。
キャベツの青い匂いと、土の匂いが廊下に満ちた。
活気のある足音が、私の横を通り過ぎていく。
私はその場を動かず、腰に下げていた布を取り出した。
外した芯棒と、蝶番の受け口に残った錆を拭き取る作業が残っている。
布に油を含ませ、金属の表面を強く擦る。
布が黒く汚れていく。
赤茶色だった金属肌から、鈍い銀色の地金が見え始めた。
地味な作業だ。
魔法で直すわけでも、新しい扉に付け替えるわけでもない。ただ、古くなった油を拭い、新しい油を差す。
その繰り返しだけが、この建物を維持する。
レオが荷運びを終え、戻ってきた。
「手伝います」
彼は布の端を持ち、反対側の蝶番を磨き始めた。
二人の手が動く音と、油の匂いだけがする。
「……こういうのも、公爵夫人の仕事ですか」
レオが手を動かしながら、視線を落としたまま尋ねた。
「建物の管理は所有者の責任です」
私は芯棒を穴に戻し、金槌で軽く叩いて収めた。
「それに、開かない扉の前で立ち尽くすのは嫌いなんです」
レオが小さく笑った。
「奥様らしいです」
彼は磨き終えた蝶番に油を塗り込み、余分な液を拭き取った。
金属が黒光りしている。
私たちは扉を枠に戻し、芯棒を完全に打ち込んだ。
レオがノブを握り、扉を動かしてみる。
音もなく、滑らかに扉が閉まった。
カチャリ、とラッチが収まる。
もう一度開く。軽く、抵抗がない。
「完璧です」
レオが言った。
私は汚れた布を畳み、工具箱にしまった。
手袋を外し、ポケットに入れる。素手には油のぬるりとした感触と、鉄の臭いが残っていた。
厨房の奥から、野菜を刻む音が聞こえ始める。
滞っていた血流が、再び巡り始めた音がした。
私は工具箱の取っ手を握り、立ち上がった。
膝の関節を伸ばす。
次の予定は、公会堂の二階で行われる試食会だ。
私は油のついた手をスカートで隠すことなく、廊下を歩き出した。




