第300話 最後の晩餐
カチャン、と音が鳴った。
それは食事の終わりを告げる音ではなく、勝利の鐘の音だった。
アレス様がスプーンを置いた。
目の前の深皿は、まるで洗ったかのように白く輝いている。一滴のスープも、一片のパン屑さえも残っていない。
彼はナプキンで口元を乱暴に拭うと、背もたれに深く体を預け、天井を仰いで大きく、本当に大きく息を吐き出した。
「……はあ」
その吐息は、熱かった。
全身の血管という血管に熱い血が駆け巡り、細胞の一つ一つが歓喜の声を上げているのが、隣にいる私にまで伝わってくるようだった。
今日のメインディッシュは、「太陽のスープ」。
私たちが初めて二人でキッチンに立ち、作り上げた魂の料理。
トマトの赤、根菜の黄金、肉の茶色。それらが渾然一体となった濃厚なシチューは、ただの食べ物ではない。この北の地で私たちが戦い抜き、勝ち取ってきた「熱」そのものだ。
かつて「食事など栄養補給に過ぎない」と言い放ち、冷めきった料理を無表情で嚥下していた「氷の公爵」は、もうどこにもいない。
今、私の隣にいるのは、頬を紅潮させ、額に汗を滲ませ、食欲という名の生への執着を剥き出しにした、一人の男だ。
アレス様が体を起こした。
灰色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
その瞳の奥で揺れているのは、理性ではない。もっと原始的で、強烈な渇望だ。
彼は空になった皿を、私の目の前へと突き出した。
ガツン、と皿がテーブルを滑る音がする。
遠慮も、礼儀も、貴族の矜持もかなぐり捨てた、絶対的な要求。
「……レティシア」
彼が私の名を呼ぶ。声が震えている。
「足りない」
彼は言った。
「もっとだ。もっと食わせろ」
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋にゾクリとした戦慄が走った。
ああ、勝った。
私は完全に勝利したのだ。
実家の呪いにも、世間の目にも、そして彼自身の頑なな心にも。
私の料理が、私の愛が、最強の公爵をここまで飢えさせたのだ。
これ以上の快感が、この世にあるだろうか?
「……ふふ」
笑いがこみ上げてくるのを抑えきれなかった。
私は席を蹴るようにして立ち上がった。
ワゴンを引き寄せる。
大きなスープチューリンの蓋を、勢いよく開け放つ。
ボワッ! と白い湯気が爆発的に立ち上り、濃厚なスパイスと肉の香りが私の顔を包み込む。
まだある。たっぷりとある。
お玉を深々と突き入れる。
底から肉の塊と豆を、これでもかというほどすくい上げる。
重い。最高に心地よい重量感だ。
私はアレス様の皿に、それをドボドボと注ぎ込んだ。
皿の底が見えなくなる。縁ギリギリまで水位が上がる。
一杯では終わらない。
おかわり用のパンも、バスケットごと彼の前にドンと置く。
「さあ、どうぞ!」
私は叫ぶように言った。
「全部あなたのものです! 一滴残らず、平らげてください!」
「……ああ、もらうぞ!」
アレス様はスプーンを握り直した。それはまるで、剣を握る戦士の手つきだった。
彼は躊躇なく、熱々のスープの海にスプーンを叩き込む。
すくい上げ、口に放り込む。
熱い。絶対に熱いはずだ。けれど彼は顔をしかめるどころか、喉を鳴らしてそれを飲み下した。
ゴクリ、ゴクリ、と喉仏が上下する。
パンをちぎる。スープに浸す。汁を吸って重くなった塊を、獣のように喰らう。
カチャカチャという食器の音。
咀嚼音。
荒い呼吸音。
それらが混ざり合い、食堂を満たす音楽になる。
私は自分の席に戻り、その光景を眺めながら、残っていたワインを一気に煽った。
美味しい。
最高に美味しい。
窓の外では春の嵐が吹き荒れているかもしれない。まだ雪が残っているかもしれない。
知ったことか。
この部屋は今、世界で一番熱い場所だ。
ここには、私を虐げた家族もいない。冷たい視線もない。
あるのは、私が作った料理を、世界一美味そうに食べてくれる最愛の夫だけだ。
アレス様が二杯目を完食した。
彼はナプキンで口を拭い、私を見た。
その瞳は、満腹感でとろんと潤み、まるで大型犬が飼い主を見るような、無防備で全幅の信頼に満ちた色をしていた。
そして、彼は言った。
物語の最初から、私がずっと聞きたかった、最高の言葉を。
「……愛している」
彼は私の手を取り、指についたソースを舐めとるように口づけた。
「お前も、お前の飯も、全部だ」
胸の奥が熱く爆発した。
私は彼の首に腕を回し、力いっぱい抱きついた。
「私もです! アレス様!」
椅子が倒れる音も気にせず、私たちはキスをした。
スープの味と、ワインの味と、圧倒的な幸福の味がした。
「いい子」の仮面は砕け散った。
我慢も、遠慮も、もう二度としない。
これからは、好きなだけ作り、好きなだけ食べ、好きなだけ愛し合う。
私たちの「美味しい」復讐劇は、これ以上ない大団円で幕を閉じる。
そして明日の朝も、明後日の朝も、私たちは腹を空かせて目覚め、またこう言うのだ。
「……おかわり!」




