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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第299話 小指の温度

 暖炉の中で、太い薪が崩れる音がした。

 炭化した木材が熱に耐えきれずに裂け、赤い火の粉が炉床の灰の上に散らばる。パチ、パチ、という乾いた破裂音が、静まり返った書斎の空気を微かに震わせた。

 私は膝の上に広げた本のページをめくった。

 厚手の紙が擦れる音がする。

 指先には、まだ紙のざらついた感触が残っていた。

 活字を目で追う。インクの黒い列が、暖炉のオレンジ色の光を受けて揺らいで見える。

 足元には毛足の長い絨毯が敷かれている。靴を脱いだ爪先を、その柔らかな繊維の中に沈めた。

 昼間、雪道を歩いて冷え切っていた足の裏が、今は炉の熱を受けてじんわりと熱を持っている。皮膚の下で血管が拡張し、血液が巡る感覚がくすぐったい。


 肘掛け椅子の革が軋む音がした。

 隣に座っているアレス様が、足を組み替えた音だ。

 彼もまた、分厚いハードカバーの本を膝に乗せている。

 私の位置からは、彼が読んでいるページの内容は見えない。ただ、彼の手が規則的に動き、紙をめくる動作だけが視界の端に映る。

 めくる。

 読む。

 また、めくる。

 そのリズムは一定で、壁時計の振り子が刻む音と重なっていた。

 ふと、そのリズムが止まった。

 紙をめくる音がしない。

 アレス様が本を閉じ、膝の上に置いた気配がした。

 私は視線を自分の本から外さず、次の行へと目を移した。

 サイドテーブルには、二つのティーカップが置かれている。

 湯気はもう出ていない。

 水面は静止し、部屋の明かりを黒く反射していた。

 アレス様の腕が動いた。

 彼がカップに手を伸ばすのかと思ったが、陶器が鳴る音はしなかった。

 代わりに、彼の右手がサイドテーブルの縁に置かれた。

 私の左手が置かれている場所のすぐ近くだ。

 私は本を持ったまま、左手の人差し指でページを押さえていた。

 彼の手の甲には、浮き出た血管と、古い剣だこがある。

 薬指にはまった艶消しの銀の指輪が、暖炉の火を鈍く照り返している。

 その手が、わずかにスライドした。

 テーブルのニス塗りの表面を、皮膚が擦る音がする。


 コツン。

 硬いものが当たった。

 私たちが結婚式の日に交換した、あの銀の指輪同士が接触した音だ。

 金属の冷たさはなかった。

 アレス様の体温を吸い込んだ銀は、私の指輪と同じ温度を持っている。

 接触はそこで止まった。

 彼は掌を開き、力を抜いてテーブルの上に放置している。

 ただ、小指だけが、私の左手の小指の側面に触れていた。

 点での接触。

 皮膚と皮膚が触れ合う面積は、硬貨一枚分にも満たない。

 けれど、そこから伝わってくる熱量は、暖炉の炎よりも鮮明だった。

 ドク、ドク、という脈動が、指の腹を通じて伝わってくる。

 私の心臓の音と、彼のリズムが、指先という一点で交差する。


 私は本から目を離さなかった。

 顔を上げて彼を見ることも、言葉をかけることもしない。

 ただ、左手の小指にわずかに力を込めた。

 押し返す。

 彼のアレス様の小指に対して、同じだけの圧力をかける。

 彼の指が、それを受け止めて動かない。

 拒絶もしなければ、握り返してくることもない。

 ただ、そこにある。

 その不動の圧力が、肯定の合図だった。

 ――ここにいる。

 ――分かっている。

 かつて晩餐会のテーブルの下で決めた、二人だけの暗号。

 言葉にするほどでもない、けれど確認せずにはいられない微細な安心感が、指先から腕を伝って胸の奥へと流れ込んでくる。

 外では風が吹いている音がする。

 窓ガラスがガタガタと鳴り、屋根に積もった雪が滑り落ちる音が遠くで響く。

 世界は寒く、騒がしい。

 けれど、この半径数メートルの空間だけは、薪の爆ぜる音と、指先の熱だけで満たされていた。


 アレス様が再び動いた。

 小指が離れることはない。接触を保ったまま、彼は右手でカップを持ち上げた。

 冷めた紅茶を一口飲む。

 カップをソーサーに戻す。

 カチャリ、という音がして、彼は再び膝の上の本を開いた。

 ページをめくる音が再開する。

 ザラリ。

 私もページをめくった。

 ザラリ。

 二つの音が重なり、また離れる。

 小指の側面には、まだ彼が押し付けてきた熱の余韻と、銀の指輪の硬い感触が残っていた。

 私は栞紐を挟み、本を閉じた。

 背表紙を撫でる。

 夜はまだ長い。

 暖炉の薪がもう一度、パチリと音を立てて崩れ落ちた。

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