57.
今日は卒業式だ。いや、だったのほうが正しいんだろうか。
薄く水でよく溶かれた天藍色をハケで一気に塗り広げたみたいな空に、火照った頬みたいな桜の花びらがまるでクラッカーみたいに散らばっている。
今日は卒業式。今の三年生が卒業してこの高校を離れる日だ。
カオリと葵は部活の先輩たちと話してくる、と少しだけ充血した目で走っていった。
周りの生徒達もみんな「ありがとうございました!」と泣きながら先輩たちと別れを惜しんでいる。混ざり合った周りの話し声は、特に不快だとは思わなかった。
私は、服についた桜の花びらをつまむ。
桜の花びらは中心から端にかけて段々と白くなっていた。陽の光は小さな花びらをも照らしてチラチラと輝いている。
私はそれをふっと息を吹きかけて飛ばす。花びらは一度一気に真っすぐ進んだ後、エンジンが切れたように左右にゆらゆら揺れながら落ちていった。
別れ、か。ふと考えると、自然と白の顔が浮かんだ。白は文化祭が終わった後から、「そろそろ受験勉強をしないとまずいから」と屋上に来なくなった。まあ私も段々とお昼はカオリと葵たちと一緒に過ごすようになったからあまり寂しさは感じなかった。
なんとなく右手を握る。伸びた爪が手のひらに食い込んだ。
自信の持ち方、出会いの作り方、光る人とそうじゃない人の違いとそのなり方。それに、少しだけ思い出した絵の楽しさも。
白が私に教えてくれたこと。私は君からもらったこの星屑たちをどうしようか。
胸がきゅっと締まる。不思議と体の内側が熱くなった。
屋上に行ったら会えるだろうか。なんとなくそう思い足を踏み出したが、ふと思い出した。
式のとき、白はいなかった。
いや、白のことだ。サボっている可能性は十分にある。だけど、名前すら呼ばれなかったのはなぜ?式では卒業証書を渡される時に全員名前を呼ばれていたはずだ。それは、欠席者でも同じだった。
なんとなく、胸が騒ぐような感じがして、私は近くの先生に話しかけた。
「すみません、三年の白って言う人、今日休みですか?」
トクトクと心臓が高鳴る気がした。私は落ちてきた髪を耳にかける。
すると、先生は眉毛を潜めて首を傾げた。
「白?そんな名前の生徒、聞いたことないけど…」
先生は、瞳を右上を持ち上げてしばらく考えていたが、やはりそんな生徒はいないよ、と私に返した。
桜の花びらがひらひら落ちるみたいに、私の頭にふと一つの考えがよぎった。瞬間に身体が全部蒸発したみたいに熱くなって冷たくなる。
私は胸に生えたその考えを払いたくて、先生を無視して屋上に向かって走り出した。周りの生徒が驚いた様子でこちらを見てきたが構わない。私は気にせずに走った。
息が切れる。誰もいない階段は私が走っているせいでいつもよりうるさく聞こえた。四壁に飛び散った自分の足跡が胸を騒ぎ立てるように身体の中に入ってくる。
屋上のドアを人も気にせず思い切り開いた。ガチャンッという大きな音がなると同時に、その場にいた一人の人物がゆっくり振り返った。
「白!!」
息の上がった肺から絞り出した声。それは薄い空に引き伸ばされた。
白はいつもと同じ笑みを浮かべた。だけど、いつも通りじゃなかった。胸が掻き立てられるほどに悲しそうな顔。
うまく、声が出なかった。
「ミク。」
何度も何度も聞いた声。何度も、私の名前を呼んでくれた声。久しぶりに聞いた声は前と違って見えた。
「気づいちゃったんだよね。」
鈴より綺麗で洗練された声。私を抱きしめるようなとろける優しいその声は、空気に触れるとすぐに崩れていってしまった。
その声が、悲しいことに私の頭をよぎった考えを肯定してしまった。
「どうして…」
ほとんどえずくようなその声は、白に届いてくれただろうか。
どうして、どうして。
どうして、白の顔がぼやけてしまっているんだろうか。どうして、瞬きをするたびに白の姿が一瞬消えてしまうのだろうか。
私は、必死に別の言い訳を探した。ばら撒かれた書類をに探すみたいに、大して回らない頭で何度も。
「ごめんね、ミク。」
空気みたいな透き通った声。
今すぐ抱きしめたくなるような、脆くて悲しそうなその体は、この歪んだ世界に呑まれてしまいそうだった。
白はしゃがみ込んで私の頬を両手で包む。
だけど、その何度も私を握ってくれた手の感触はどうしてか無かった。目頭は熱くないし、頭も痛くない。だけど、まるで鼻水が出るみたいに自然と涙が頬を伝った。
「ごめん。僕はね、ミク。」
耳を塞いでしまいそうだった。聞かなければ、また戻れると思ったから。
だけど、
「僕は、この世に生きてないんだよ。あのとき、ミクが作ったんだ。」
あぁ。
ボタボタと滴る涙で視界が歪んだ。白の顔が見えないのは、涙のせいだと思いたかった。
そうだ。
白は、いや、ハクは。
私があの日作ったんだ。
亜美たちにいじめられて、もう何もかもどうでも良くなって、この屋上から飛び降りようとしたあの日に。
あのとき、私を守るために、自分で作り出したんじゃないか。
あの夜に。
「泣かないで、ミク。お願い。」
ハクは両手を包んだ手を滑らせて私を抱きしめた。それも感触が微塵も感じられなくて、また涙が流れた。
ハクは、私が作った偶像なんだ。
味方も、頼れる人もいなかったあのときの自分が作った、優しい人。
胸が締め付けられるみたいに苦しい。
何よりも、私を抱きしめるハクの顔が、私の知らない顔で、脆くて、同仕様もないくらいに苦しくなる。
「僕が見えなくなっていってるのは、ミクがもう僕を必要としなくなったってことなんだよ。だから、これで合ってるんだ。」
まるで子守唄を歌うみたいに、ハクは私の耳元で囁く。
その声は鼓膜に触れているはずなのに、すぐに消えてしまいそうで怖かった。
「ハクは、もう、消えるの?」
ボロボロ落ちる涙と一緒に揺らいだ言葉も落ちていく。
ハクは何も言わなかった。代わりに、息を飲むだけで。
ハクは、私から少し離れて柵の方へと歩いた。そして、その上に座って、ぶらりと足を揺らした。風がハクの髪を躍らせる。あの夜の日と、同じ光景だった。
「ミク、光ってよ。」
ハクは、私の目の前にスケッチブックと鉛筆、絵の具を放り投げた。パタパタと、画材が落ちる音。私はそれを何も言わずに拾った。
ハクは感触がないのに、このスケッチブックと絵の具たちはちゃんと重みがあった。なんて皮肉なことだろう。
偶像なら、白じゃなくて絵が良かった。鼻の奥が揺らいだ。
ハクは、またいつもみたいに人差し指を立てた。でも、その白肌に乗る顔は全く持っていつも通りじゃない。
「僕からの最後のお願い。」
風に揺られるたびに、ハクが消え入りそうに霞む。
ハクの方に伸ばした手も、すり抜けて冷たい空を掴んだ。手からスケッチブックが落ちる。
「ミク。前に、ミクは光れる人になりたいって言ってくれたよね。」
ハクは私の唇にその人差し指を当てる。
「光れる人になるにはね、夢が必要なんだ。自分の人生を捧げてもいいってぐらいに思える夢。」
ハクが目の前にいるはずなのに、その先の薄い空が見える。空からばら撒かれた桜の花びらが髪に落ちた。
ハクの髪は、もう例えじゃなくて本当に透き通ってしまった。
涙が落ちる。
「ミク、僕はミクなんだ。ミクは僕なんだ。だからね、君がきれいだって言ってくれた僕みたいに、君だって光れるんだよ。だから」
目の前に、ハクはスケッチブックを差し出した。
降った桜の花びらがスケッチブックに乗る。どうして、このスケッチブックは実在するのに。
でも、私は黙ってそのスケッチブックを抱きしめた。紙の擦れる音が胸の中で聞こえる。これは、本物だ。
一瞬だけ、ハクの顔がはっきりと見えた気がした。子どもみたいな、大人みたいな、今にも泣き出しそうな顔。その顔が、胸から湧き上がってくるみたいに愛おしくて、私は口を開いた。
「ハク、私、ハクのこと―」
「ばいばい、ミク。」
遮るように、ハクはそう言った。そして、私のおでこにキスをした。
私が目を開ければ、もうそこにハクはいなかった。
浮かんだ二文字の言葉が、行き場を失って霧散する。
酷い人。これすらも、たった二文字さえも、言わせてくれない。
涙が何度も床に落ちた。何度も何度も。
すべてが溶けて歪んでしまいそうな、景色を破って、私は鉛筆を握った。
胸から飛び出すものを吐き出すみたいに、私は鉛筆を滑らせる。今にもバラバラと崩れてしまいそうな体を、私はたった一本の鉛筆で支えた。
何度もなぞったハクの顔が、頭の中でどんどんと霞んでいってしまう。掴もうと手を伸ばしても、霧のように穴が開く。
どうして。
少し前まで目を閉じればはっきりと浮かぶようなハクの顔。だけど今は、どんどん記憶の中から崩れていくみたいに離れていった。
白いスケッチブックに、何度も何度も水滴を落とす。
絶対に、忘れないように。ハクだけは、忘れたくない。
溶かした絵の具を、黒い下書き線の上に伸ばす。もう手は震えない。筆を紙に触れさせると、しわりと色が乗る。
あの髪を。あの瞳を。全ての色を取り込ませて自分のものにするあの綺麗な姿を、滲む視界で抱きしめた。
「ハク…」
描き終わったハクの絵は、ハクじゃ無かった。描き終わった紙をクシャリと握る。もう白の顔はぼやけてモヤの中に消えていってしまった。
枯れきった涙に、絵の具が飛び散った。




