58.
「これで、全部ですかね。」
目の前に、沢山の画材を握った細腕が広げられる。
空っぽになったみたいな身体が、はっと我に返ったように戻ってきた。
懐かしい思い出だった。
私は一度自分の掌を眺めて握る。灯りで青みがかった手のひらは少しだけ小さく見えた。
そんな私の様子を不審に思ったのか、白髪の青年は不思議そうにこちらを見つめていた。
「あ、ごめんね。ありがとう。」
そう言って青年から画材を受け取る。手の中でコロコロと筆が滑った。私はそれを優しく包む。
ひんやりとした感覚が冷めた手のひらに広がった。
すると青年は何か気になったように、私が抱えた絵を眺めた。綺麗な黒目が揺れた。
「もしかして、画家さんなんですか?」
「画家ってほど凄くはないけどね。」
カバンの中に青年から受け取ったものをしまいながら答える。青年はへぇー、と呟いて、私の絵を撫でた。愛でるような、そんな目がネオンの夜に浮かんだ。
「すごいですね。とっても綺麗。」
空気に染みるような声が、ハケで絵の具を薄く引き伸ばしたように響いた。
私はその声を手のひらですくうように拾った。
「もしよかったら、展覧会開いてるんだけど来る?助けてくれたお礼ってことで入場料は貰わないよ。」
ちょっとした思いつきで、私は言ってみた。少しだけ遠慮した声が聞き取れ息とともに揺れた。気温の低い冬の空気にうっすらと白い息の靄が広がった。
カバンの中の画材がカタカタと揺れる。
すると足年は少しだけ警戒したように表情を硬くしたが、私の持っている絵をちらりと見て頷いた。
「それじゃあ」と、青年を連れて展覧会場へと向かう。
警戒されないように、一応それなりに距離を置いたまま歩いた。青年の重ためのスニーカーが、少し大きいのかカポカポと鳴る。私は青年が離れていないか横目で時々確認した。
通り過ぎる人たちには、私と青年はどう見えているんだろうか?ふとそんなことが気になった。
足元を星が照らした。
数分歩くと、会場に到着した。小さな会場。私の初めての展覧会場だ。
展覧会の準備以外ではここに来ていなくて、私は建物をなぞるように眺めた。白い建物は、紺青色の星空のコントラストを受けて、より一層きれいに見える。水の中に筆を入れた時のように、胸にじわりと桃色が広がった。
中に入ると、まだギリギリやっているようで、受付の人に名刺を渡すとすんなりと入れてくれた。
長い廊下を囲むように、私の絵がずらりと並んでいる。
私はその中をゆっくりと眺めながら、一枚一枚描いたときのことを思い出しながら進んだ。
柔らかい灯りが、絵の色を損なわない程度に引き立てる。 床には丸くライトの跡ができていた。その円の中に足を踏み入れると、ふんわりと熱を帯びた。黒地の革靴に黄色い光が照った。
「全部、同じ人なんですか?」
絵を見て回っていると、青年が尋ねた。
青年の目線の先には、屋上の柵に腰掛ける白髪の少年が描かれている。その隣は、晴天の空、こちらを見下ろすような角度の白髪の少年。その隣も、その隣も。
何度も忘れぬように描いた、あの人の絵だ。
「そうだね」
私は息を吐くように、小さく少年に答えた。ふ、と開いた口の端から空気が漏れる。
「知り合いの人とかですか?」
青年はあくまで絵から目線を外さないまま、私に問いかけた。青年の綺麗に脱色された髪がライトを浴びてさっきとは違う、私は明るい檸檬色を薄めたような髪色に変わった。
「私の大切な人だよ。人生を変えてくれた。」
記憶は、聴覚の次に視覚を忘れるらしい。何度も何度も描いたあの人の絵は、本人に比べればどの一枚も似ていない。
「でも、さっき持ってた絵にはこの人いなかった気が…」
青年は眉を少しだけ下げてこちらを振り返った。拍子に髪がさらりと揺れた。少しだけ傷んだ髪が光を跳ね返す。やっぱり、髪も顔もあの人とは全然違う。
私は、背負ったカバンを撫でた。
「もう、必要無いんだ。その人は。次は、自分一人の力で展覧会を、もっと大きな場所で開かないといけないから。」
私は前を向いたまま、青年に言った。
青年は、よくわからないとでも言うように首を傾げる。小さく「そうですか…」と独り言のように呟いた。
まるで納得していないようなその様子に、思わず笑みが漏れた。
私はもう一度視線を戻す。
薄暗い階段の上で、ブワブワと足を揺らす白髪の少年の絵。それはこちらに語りかけるように、ほころんだ笑みをこちらに向けていた。
人は、何を持って存在している、というのだろう。
目の前で白い髪を揺らし、ゆっくりと絵を眺める青年の後ろ姿をぼんやりと眺めた。ゆらゆらと髪が揺らめくたびに、曲線を描くように光が落ちた。
照らされた灯りに髪が当たる度にベージュ色のような髪色に変わる。
例えば目の前の青年が存在していることを証明するにはどうしたらいいのだろう。
実体を持っていたら?会話ができて触ることができたら?
それなら、ハクだって半分くらいは存在していたと言えるだろう。
でもきっと違う。きっと、誰かの人生に影響を与えることができるのなら、その人は生きてると言えるんだ。誰かから愛され、愛すことができるなら。人は、誰一人として影響をおよぼさず生きることができない。
だから、ハクは生きていた。
例え、ハクが私から生まれた存在だとしても。
私は胸の前にそっと手を置いた。花が咲くように彩度の高い色が広がっていく。心臓がトクリと鳴った。
もし、ハクを描いていない、私の描きたいものだけの絵で、大きな会場を彩ることができたら、ハクは、お母さんとお父さんは、喜んでくれるだろうか。
私はすっと息を吸った。
青年の隣に並ぶ絵には、満天の星空の上で、愛顔で笑うハクがいた。
題名は―
『星が綺麗ですね。× ∞』




