53.
はあぁー、と、肺の中の空気を全部吐き出すみたいに隣で香織が大きなため息を吐いた。
つられて私も強張った心臓が冷える。
車通りの多い車道は曇り空の青黒い影に呑まれた。私は道端の小石をカツンと蹴った。
「緊張する…」
ボソリと呟いた香織に、私は大丈夫じゃないだろうけれど「大丈夫?」と聞いた。案の定香織は眉をひそめる。
「大丈夫、ではない。」
香織はまた大きく肺の中の空気を吐き出した。いつか体中の空気が抜け出して萎んでしまうんじゃないだろうか。
曇った天気の割れ目から差す光が、私たちに届くまでにすっかり滲んでぼんやりとカオリの頭を照らした。
私たちが今向かっているのは亜美の家。この先を進んだ住宅街にあるらしい。
亜美の家に向かってる理由は、ネットの書き込みについて謝るためだ。これは少し前にカオリから提案された。
「悪いことをしたのは分かってるし、ちゃんと謝らないと。」
そう言ってカオリは真剣そうに言ったのを思い出す。
「すごいね、カオリは。」
私は隣でため息を吐くカオリに向かって言った。カオリはくるりと首を曲げる。いつもと違って真っ直ぐに伸びた髪が肩から滑り落ちた。曲線を描くように髪の艶も揺れる。
「どういうこと?」
「謝るの勇気いるじゃん。しかも直接なんて。」
カオリはキョトンと丸い目で私を見つめた後、眉をハの字に曲げて言った。
「すごいわけじゃないよ。ただ、もう勝手に許されようと思うのは止めたいと思って。」
カオリは頭を振って髪で表情を覆い隠した。私に向けて寄りかかって手を握る。拍子に私服のカオリの服がゆらゆら揺れた。私もカオリの手を握り返す。
「ミクちゃんも、付き合ってくれてありがとね。」
カオリは胸を落ち着かせるよう撫で下ろした。段々と冷たくなってきた風にカオリの巻いてない髪が首の後ろへと下がった。
カオリは強張ったような、でもどこか吹っ切れたような顔をしていた。
そのまま歩いていくと、紺色の平たい屋根のついたマンションに着いた。
「ここだよね」
そう聞いた私にカオリが頷く。
思ったよりも周りに人が少なくて、見慣れない二人が歩いていても誰にも気にされずここまでついた。少しだけ古びたようなマンションは、一部改装がされているのか、右下あたりの部屋が工事されている。つなぎ姿の作業員が何人かこちらを見た。
一つ息を吐いて、私たちはマンションの階段を上る。錆びついた赤い階段は薄くて、歩くたびにカンカンと高い金属のような揺れる反響音を鳴らした。
順番に部屋番号を目で追いながら、事前に聞いた亜美の部屋を探す。
「あった」
二〇五号室。そう書かれた部屋は二階の真ん中あたりに位置していた。
私がチャイムを鳴らそうと腕を伸ばしたが、カオリはそれを止めるように首を振ってチャイムを鳴らした。
謝るのは自分だから、全部自分でやろうとしてるんだろう。私は半歩後ろに下がった。
すぐに「はーい」とノイズ混じりの声が聞こえる。しかし、その声は聞き取りづらいものではあったが亜美の声とは違う気がした。
「あの、亜美さんの同級生なんですけど…」
カオリがチャイムに口元を近づけて話す。私は舌を動かした。
カチャリ、とドアが開いた。
中から出てきたのは、亜美でも亜美の親でもなくて、髪を下ろした瑠夏だった。後ろには遥花もいる。
まだ数週間しか経っていないが、前に比べて随分やつれているように見える。二人の目の下には隈ができていた。
遥花たちは私たちを見て大きく目を見開いた。
「は、え?なんで、」
私たちを見た瞬間に、 瑠夏は眉と目をぐっと近づけて反射的にドアを閉じようとした。
慌ててカオリがそのドアを押さえる。
「待って!私は亜美たちに謝りに来ただけで…!」
私もカオリが怪我をしないようにドアを押さえる。
「は?謝りに来たって、何が。」
鈍い金属を落としたような声。遥花はカオリを睨みつけて聞いた。その声でカオリは少しだけ怯んだように目を開いたが、気合を入れるように眉にぐっと力を入れて、少しだけドアに込める力を強めた。
「えっと、とりあえず中に入れてもらってもいい?」
カオリがそう言うと、遥花は少しだけ噛み締めるように目を細めたが、目を閉じて仕方なくドアを開けて私たちを中に入れるために数歩下がった。
タイルの張られた玄関には靴が三足。もしかしたら亜美もいるのかもしれない。
瑠夏はドアから手を離したものの、すぐに睨みつけてカオリに喰らいついた。
「で?どういうこと?」
睨みつけて三白眼のようになった瑠夏の眼は、まつ毛で隠され黒く見えた。
カオリは一度すっと息を吸い、遥花と瑠夏に向かって口を開いた。かすかに服の裾を握りしめているのが視界の隅に映った。私は香りの背中にそっと手を触れた。香りの背中がふるりと揺れる。カオリは小さく喉を鳴らして口を開いた。
「あの、ネットの書き込み、私がやったの。それを、今日謝りたくて…」
そうカオリが言いかけた瞬間、パンッと大きな音が響いた。紙を勢いよく破いたような鋭い音が薄緑の壁に跳ね返った。カオリの頬にある瑠夏の手の隙間から見えるカオリの肌が段々と滲むように赤くなっていく。
時間差で瑠夏がカオリの頬を叩いたのだと理解する。
カオリも、痛みより驚きが勝ったようで、呆然と対策している。私は香りの背中に当てた手の力を強めた。
「ふざけんなよ!!」
途端に瑠夏が叫んだ。
歯を噛み締めてカオリを睨みつける瑠夏を、私は眺めることしかできなかった。
「瑠夏!」
慌てたように遥花がカオリの首元まで伸ばそうとした瑠夏の手を掴んで引き剥がした。カオリは一瞬のことに混乱したように固まったままだ。
「人の人生をめちゃくちゃにしておいて、謝りたい!?ふざけるのも大概にしろよ!!お前のせいで…!」
瑠夏の目の端が少しだけ赤くなっていた。
瑠夏の体から溢れた激情が、音となって溢れ出る。それが肌に触れると痺れるように痛んだ。
「お前のせいで!顔写真だってばら撒かれて、散々叩かれて!そのせいで苦しんだ私たちの気持ちなんて微塵もわかって無いだろ!」
裏返ったようなガサガサした声で瑠夏が叫ぶ。いつもの瑠夏の顔と随分と違って丸出しの感情を吐き出すような顔が閉じたまぶたにも映った。
「瑠夏!落ち着いてって!」
遥花は瑠夏の肩を掴んで制止した。そして、「出てって。」と短く私達に吐き捨てると、私たちを外に追いやってドアを閉めた。
私とカオリは、追い出されたドアの前で、唖然と立ち尽くすことしかできなかった。
数刻の間、時間が止まったように固まる。あまりに勢いよく、一瞬のことだったから、何も言えず追い出されてしまった。
すると隣で急に、カオリが顔を覆ってしゃがみ込んだ。
「カオリ?もしかして、さっきの頬…」
もしかしたらさっきの頬の傷が痛むのかもしれないと思います、慌ててカオリに駆け寄る。しかしカオリは私の言葉に反応しなかった。
耳にかかったカオリの髪が一房こぼれた。
「分かってたのに。」
詰まったような湿った声。腕の中に吐き出したカオリの声は少し聞き取りづらかった。
「許されるとか、甘いことは考えてなかったけど、だけど、ちゃんとわかってなかった。」
私がカオリの隣に同じようにしゃがみ込むと、カオリは襲いかかるみたいに私に抱きついた。ずび、と鼻をすする声が耳をかする。
「私がしたのは、悪いことだって。人の人生を潰すようなことだって、ちゃんとわかってなかった。わかったふりしてるだけだった。なんで、謝れば少しは良くなるかもって漠然と考えてたんだろう。」
カオリは、私の背中に回した手で服をぐっと握りしめた。カオリの柔らかい髪が、私の耳を引っ掻いた。
人生を潰すようなこと。
ふと、私が屋上から飛び降りようとしたときのことを思い出した。
瑠夏は、「人の人生をめちゃくちゃにしておいて」って言っていた。亜美たちも、私と同じような気持ちになっていると言うんだろうか。
カオリの倒れそうな背中を、私は撫でた。
「カオリ。」
私の声に、カオリは少しだけ震えた。
「帰ろう。」
今は、頭に浮かんだどの言葉もカオリにあげるのにふさわしいものだとは思えなくて、私はただそう言った。




