45.
「あー、キャストどうする?」
「休んでるんでしょ?」
「もう来ないだろ」
背の低いロングヘアの生徒に、背の高いショートヘアの生徒。ニ人の会話が後ろから前へと立体音響のように移動していく。
私は絵の具の入ったかごを握りしめる手に力を入れた。カタリとかごに入った一つの容器が傾く。衝撃で腕にかかる負荷が変化した。
たしか、瑠夏が主人公のお姫様。遥花がその友人役だったか。彼らもなんとなく亜美たちがもう来ないだろうと考えてるんだろう。ただ代役を決めるなら早い方が良いが、早々に切り替えるのも先生やら周りの目があるから躊躇っているんだろう。
胸の奥に溶け出してすぐに固まった塊のようなものがカツンと当たる。でもすぐにそれは霧消していった。秋の日差しが窓から差し込んで廊下を照らしている。その日差しのせいでできる影がうごめいてるように見えて気味が悪かった。私は早々にその廊下を過ぎて体育館へと入る。光の差さなくなった体育館に入ると、天井に何個も羅列したライトがいろんな角度から当たるせいでさっきまでの一本の影が三つに増えた。
「お、光虹おかえり」
片手を上げて葵が言った。手には白に染まった筆が握られている。私は葵の黒い目に映る自分が見えてしまいそうで目をそらした。
代わりに私は葵の隣に移動してかごを置く。カタカタと軽い容器がかごにぶつかり揺れた。
「順調?」
「そろそろ終わりそうだよ。あとはお城だけ。」
前に座って作業していた香織が答える。白い筆を持って細部を手直ししている。筆の先に丸く絵の具がつかまっていた。
瞑色から天壇青へと変化していく夜空に、くり抜かれたような白い城が浮かんでいる。手前に浮かぶシルエットの山や針葉樹も下の夜空に溶け込んでいる。
私も手伝おうとしてみたが、筆を握ると腕が震えてしまった。私は仕方なく筆を置いて、使い終わった筆やカップを洗いに行くことにした。どうせもう少しで終わるのだから片付けは早く終わらせたほうが後々楽だろう。
周りの生徒たちもせわしなく動きながら指示を出し合い準備を進めていく。なんとなく自分が俯瞰しているような気分になって、第三者みたいな視点でその景色をぼんやりと眺める。絵の具のついていない筆は指先に乾燥した毛を擦り付けた。私は一本だけ束から外れて跳ねた毛を指で引き抜いた。
ふと怪我をしたあのときの怪我がそわつく。順調に治ってきた腕は細かく瘡蓋が覆っていて、亜美たちが学校に来ないおかげで新しい怪我が増えることもない。それに安堵するのは当然だろうと思いつつも、それは亜美達が学校に来なくなったおかげだということがどうしても苦しくて喉が締まった。
「あれ?」
隣で香織が声を上げた。香織の丸い目が後ろの方を見つめている。目の中に私は映っていなかった。
香織の向く方に首を曲げると、担任の先生がこちらに向かって歩いてきていた。少しだけ辺りを見渡したかと思うと、ぱちりと私と目が合い、真っ直ぐに私の方へ歩いてきた。
「光虹、ちょっといいか?」
先生は片手をちょいと自分に向けて揺らし私を呼んだ。なぜ呼ばれたかはわからないが、香織と葵に断りを入れてから先生の後ろをついていく。
後ろで葵が「怒られんなよ―」と冗談交じりに言ってきて、私の方をぽんと叩いた。
表情のない先生の顔は、陰ってるせいか少しだけ怒っているように見える。なんとなく胸の底がざわついた。怒られるようなことはしていないはずなのに。
そのまま先生の紺色のスーツを眺めながら廊下を進んでいくと、一つの個室に案内された。先生は少し薄暗い教室のドアの脇の壁にある電気をパチっと付けた。パッと目を刺すような蛍光灯の刺激的な明かりが私の目を潰した。先生のスーツの紺色も繊維の線の形を残しながらテラテラ光る。私は視線をどこに向けたらいいのかわからず、チラリと意味はないが壁にかかった時計を眺めた。
先生は二つ分斜めに向かい合うように机をずらした。そのうちの一つに私を促して自分ももう一つの黒い布の貼り付けられた椅子に座った。キッと小さな高音が鳴る。
「すまんな、文化祭準備の途中に呼んで。」
うつむいたまま椅子に座っていた先生が顔を上げてこちらを見つめた。私は反射的にその焦げ茶色の瞳から視線を外しつつ「や、大丈夫です」と小さな声で言った。少し声がかすれて明確に伝わらなかったかもしれない。これから何を言われるのか分からなくて一つつばを飲み込んだ。
椅子がキ、と小さく囁く。
「早速なんだが、亜美と遥花、瑠夏が最近休んでるのは知ってるな?」
ドクリ、と大きく心臓が高鳴った。一瞬、あまりにも大きな心臓の音が先生に聞こえてしまったのではないかと不安になる。
当たり前だか私の心音は先生に聞こえておらず、代わりに少しカールした清潔感のある黒髪の下の健康的な肌の上に、グリグリ塗られた先生の目が鎖となって私の心臓を縛った。縛られた心臓は抵抗しようと大きく拍動する。少しだけ胸が苦しくなった。
廊下はすごく静かで、そのせいもあってうまく声を出せず、代わりに私は首を縦に振った。
先生は私のその様子を少しだけ見つめたが、すぐに口を開き話し始めた。
「その理由が、ネットの書き込みが原因らしい。本名が特定され、いじめの加害者として叩かれている。」
私はジャージの裾をぐっと指先に引き伸ばした。自然と目線が下がる。薄いカーテンで閉じ込められた教室は薄暗くて、逆光になった先生の顔の半分が薄暗くこちらを見つめた。
「それで、そのいじめの被害者として、光虹が噂されている。」
光虹、と先生が言った途端、ドクリとまた大きく心臓が拍動した。顔を上げたが、やはりどうしても先生の目を見ることはできず、すぐに窓の外へ視線を移してしまった。
「…」
先生はそこまで言って黙った。この場の沈黙も私を縛るように纏わりつく。私は静かにゆっくりと息を吸った。
「お前じゃないのか?ネットに書き込んだのは。」
重い金属みたいな声。
内容を理解できず、すぐには答えられなかった。
「え?」
コンマ一秒遅れて、かすれた小さな声が漏れた。私は先生の顔に視線を合わせた。
すると今度は先生が私から少しだけ目をそらした。私は黙る。
私がネットに書き込んだ?先生はそう思っているのか。ぐるぐる回っていた頭が急に冴えるように、ただ一つ私が先生に疑われているという事実だけが浮かんだ。
頭の中で、プツンと何かが弾けた。
「そんなわけないです。」
今度は掠れていない背伸びした声が出た。遅れて胸が揺れる。
先生は「そうか」とだけつぶやいた。
ふわりとカーテンが少しだけ風で揺れた。薄い生ぬるいような風が腕に触れた。
「ごめんな時間取らせて。」
そう言って先生は椅子から立ち上がった。私も椅子を引く。
先生のほうが私よりも身長が高くて、座っているときは同じくらいだと思ったが立ち上がると急に目線がずれるように感じた。
「文化祭の準備、頑張ってな。」
そう言った先生に頷くことは出来なくて、私はただ背筋を曲げて教室から出た。
バタリと閉じた戸に背中を軽く当てて、息を吐いた。「ネットに書き込んだのはお前じゃないのか?」さっきの先生の声が耳の奥で聞こえた。
どうして、私がいじめられていたかもしれないことについては何も言わなかったんだろうか。腹の底に弾けた泡に気づいて、私は戸から離れた。
今まで、彼ら教師が私を見たことはあっただろうか?腕の傷が這いずるように痛んだ。ジャージの厚い生地を伝って腕を撫でる。
子どもを守る”大人”は結局は何かが起こってからじゃないと動いてくれない。それまでは無視をしたままだ。助ければ自分が損をすると分かっているから。
どうして、”被害者”の私が損をしなきゃいけない?ふと、香織の「罰を受けるのは当然でしょう?」と、あのときの階段で言った声が背中をヘビみたいに登ってきた。
目には目を歯には歯を。
ふと、腹の底で弾けた泡が大きくなった。
そうだ。私がこれだけ苦しんだのだから、亜美たちが苦しむのは当然だ。私の苦しみ以上のものを味わえとは言っていない、私の同じ量の痛みだけだ。
人を殺した人が捕まるのと、何が違う?人の人生を変えたんだ。亜美たちが居なければ、私は今頃もっと幸せだった。クラスメイトたちだって亜美たちが居なくなった途端私に優しくなったじゃないか。
大股で廊下を進む。興奮した心臓が血液を身体に勢いよく循環させ火照った頬を手で仰いだ。
胸の奥のわだかまりが、すっと掃除されたみたいだった。
変に罪悪感を覚える必要なんてない。ただ制裁を与えるだけだ。刑罰と何ら変わらない。私は”被害者”なのだから、罰を与える権利がある。
ふと窓の隙間から風が吹いた。秋の陽はまだ生温かかった。




