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43.

 クラスメイトの私たちに対する態度は百八十度反転した。皆普通に話しかけてこようと授業中やら休み時間やら近寄ってきて、貼り付けたような黒い笑みを浮かべる。その度に吐きそうになったが、もう胃から出てくるものは尽きたようで、空っぽの胃が余計に乾くだけだった。

 私はそっと喉元をさする。喉の奥に異物が挟まったような、苦しくはないけれど不快な気分になる。

 ふと急に斜め前からキャハハ、と高い声やら低い声やらが混じった不協和音のような割れたラジオに似た笑い声が飛び込んできた。見ると、亜美の机の中を漁っている。筆箱を見つけたのか、彼らはペンで落書きを始めた。どうせ、「死ね」「消えろ」「キモい」なんかの罵詈雑言だろう。彼らが何を書こうとしてるかなんて手に取るように分かる。

 頭の中に色んな物がぐちゃぐちゃと混じり合ったように、混沌となった脳はぐるぐると回って気持ちが悪い。

 私は見ていられなくて教室から出た。しかし、いつものように屋上に行く気分にもなれず、取り敢えずこの階から出ることにした。なんとなく、今は白と会ってはいけない気がする。

 廊下を歩いていると、まるで見世物のように周りの視線が刺さる。あれだけ沢山のコメントが押し寄せていたのだ。自分の通っている高校の名前が出ていれば、この学校の生徒達がそのことを知っているのは当然だろう。そして、亜美たち三人のことが知られたということは、自動的に私のことも知れ渡ったということだ。

 私の知らないところで顔も知らない奴らに自分のことを調べられる。想像した途端空っぽの胃がぐるりと揺れた。

 押さえつけるようにお腹に手を当てる。息を吸うけれど、焼け石に水を注ぐだけで肌は粟立ち、視線が刺さる肌すら気持ち悪くて、私は腕を強くかいた。爪の跡が赤々と残って徐々に消えていく。ヒリヒリとした痛みが少しだけ気持ち悪さを緩和した。

 それでも周りの視線は変わることなく私に注がれ、その泥水のような視線から逃れようと早足で人のいない方へと向かった。カツカツと上靴と床が当たる音が耳に入るよりも、周りの生徒たちの会話のほうが耳にこびりつく。いっそ音が聞こえなければいいのに、と私はひんやりとした耳たぶをさするように一度触った。

 「光虹ちゃん」

 鼓膜を振動させるような静かな声。

 ざわついた心臓は一瞬で、沸騰したように轟いた。

 「光虹ちゃん!」

 振り向く事も出来ず、馬鹿みたいに立ち止まる。固まった体とは反対に、心臓はバクバクと拍動した。

 少しだけ悲しみの混じった声。細い廊下の四壁にその声が響いた。私はさすっていた耳をぐっと掴んだ。血流が止まったように耳が熱くなる。

 その横を、息を少し乱した香織が顔を出した。

 私はその丸い目から視線をそらすこともできず、化石のように固まった。喉の奥の異物がゴクリと唾液に押しやられる。

 私の隣に並んだ香織の細い髪はいつもと違って外巻きにカールしている。香織の大きなアーモンド色の瞳の奥はどこか揺らいで見えた。

 「えっと、あの…」

 気持ちだけが体を置いてきたように、香織は口を開いては閉じてを繰り返した。さっきまで私を真っ直ぐに刺していた視線は下へ下へと下がっていってしまう。

 私は耳から手を離した。冷たい空が指の隙間を通る。

 「ごめん、」

 私は目を閉じて揺れる声で言った。会いたくない、見つかってしまったという気持ちは香織の顔で拭かれ、私は香織に向き合った。ぐっと目を閉じて、私は唇を離す。

 「いじめ、のこと、黙ってて。」

 昨日の事を曖昧に伝えるのは躊躇われて、私は「いじめ」という言葉を選んだ。たった三文字の言葉でさっきの投稿の文面が頭をよぎり、顎の付け根がツンと酸っぱくなる。

 すると香織は急に目を大きく開いて、私に飛び込んだ。咄嗟のことに驚き私は体勢を崩してしまう。背中に冷えた壁が張り付いた。

 胸の中で、香織がすんと鼻を鳴らした。

 「謝らないで。」

 いつもより線の細い声。その声に腹の底がぐるりと歪んだ。

 「ごめんね、気づかなくて。友達なのに。」

 友達。香織はそう言った。気だるくて気持ち悪い体も、気味の悪い空気も私のことを覆ってきた。だけど、不思議とその声はしっとりと胸に染みた。

 香織は私を見上げた。丸い鼻の頭がほんのり赤く色づいていて、香織はもう一度鼻を鳴らした。

 ふと、香織はぐっと眉を目に寄せて、珍しく険しそうな表情を浮かべた。一呼吸置いて私から少しだけ離れる。すると、香織の背中さえ触れられなかった私の腕を香織は握りしめ、階段へと私を連れて行った。香織の柔らかい手のひらは、いつもより硬く感じた。

 香織は、私の手を引いて何段かのぼったところで足を止めた。窓から離れた階段は、薄暗く明度が低いが反射した光をペンキみたいに塗りつけていた。風も来ない階段は少しだけ湿気が多く感じる。

 振り返った香織は、悲しそうな、苦しそうな表情を浮かべていた。逆光でもないのに輪郭線すら暗く見える。

 「気づけなかったなんて、私は気にしてないよ。…ただ、あんな風に格好悪いところ見られたら嫌われちゃったかもと思った。」

 昨日の二人の目。それは今の香織の目と似ているけれど、少しだけ違った。

 私が一段階段を上った音がカツンと響く。学校のはじっこに位置するこの階段は生徒一人も通らなくて息の音が聞こえちゃうくらいに静かだった。

 「嫌いになるわけないし、格好悪くなんても思ってないよ。」

 香織は私の両肘を掴んで訴えた。その目には少しだけ薄く涙が張っていて、目尻を歪ませていた。

 「だって、光虹ちゃんは悪くないでしょ?悪いのはあいつらだよ。」

 悪いのはあいつら。自分の中で今までそうやって消化していたことも、そう声に出して言ってくれる人は少なかった。

 香織の真っ直ぐな声に、私は目の奥が熱くなった。

 「よかった。」

 ポツリと吐いた言葉で、香織の顔を包んだ。自分でも、表情筋が緩み、涙がこぼれそうに目の淵に引っかかっているのが分かる。

 その顔を見て、香織も気まずそうに固まった顔が緩んだ。

 「葵も、光虹ちゃんの事心配してたよ。私と同じように気づけなかったこと悔やんでた。」

 細い息を漏らすと、香織も応えるように目尻を下げた。

 「私たちは、何があっても光虹ちゃんの味方だよ。」

 ふわりとした、日向みたいな声。

 白があの日私の話を聞いてくれたときみたいに、香織の顔はとてもきれいで優しかった。

 私は香織が離した腕を掴んで、そのまま滑らすように抱きついた。香織の柔らかい髪が頬に触れる。私は香織の髪を撫でた。

 「ありがとう、二人とも。大好き。」

 声が震えたのは、涙のせい。香織は私を優しく抱きしめ返した。その体は私よりも小さいのに、今は私よりもずっと大きく感じる。

 「私は光虹ちゃんの味方。だからね。」

 耳元で囁く香織の声。綿あめみたいな柔らかくて溶け出す声は、私の背中を撫でた。

 「光虹ちゃんのこと、絶対に守るから。」

 突然、香織が私にスマホを向けた。抱きしめていた腕が離れ、温もりの消えた胸が少しだけひんやりと冷えた。

 香織のたくさんのキーホルダーのついたスマホ。そのキーホルダーの中には私と一緒に買った花のキーホルダーもついていた。連なったキーホルダーがチャリ、と揺れた。

 私は香織の差し出したスマホを見る。薄暗い廊下で青光る画面には見覚えがあった。

 『#拡散希望#いじめ 私のR高校で、一人の生徒がいじめにあってます。暴力を受けたり、悪口を言われたり、物を盗まれたりしてます。いじめをしてる生徒はA美、H花、R夏です。許せないです。』

 すっと氷水をかけられたみたいに心臓が冷たくなる。体が全部、水で流されたように階段の下へと段々に落ちていった。

 「知ってる、けど」

 私がそう言うと香織は眉を上げてスマホの画面を自分の手元に戻した。スマホをきゅっと両手で握ると、香織は階段に座り込んだ。緩く外巻きにされた細い髪が柳のように揺れる。

 「それ、私がやったんだ。」

 金属がぶつかったような声が、耳に触れたあとしばらく経って脳が情報を処理した。

 「…え?」

 私の声は短く噛み砕かれるように空気の中へ砕け散っていった。

 あの投稿は、香織が?

 周りの景色が香織以外ぼやけていくように、一瞬で画質が落ちた。

 香織は初めて見るくらいに真剣な顔で私に向き合った。顔の上に青い影が落ちてより怖いような顔に見える。

 「許せないんだ。光虹ちゃんをいじめてるやつらが。」

 香織の声はいつもより冷たくて硬いのに、とぷんと辺りに溶け込んでいく。私は香織の隣に座り込むことができなかった。

 「光虹ちゃんはあんなにもひどい怪我を何度も負わされて何度も傷つけられてきたのに、あいつらがなんの罰もなく過ごしてるなんて、おかしいでしょ?」

 香織は私の前に亜美にやすりでやられた怪我の辺りを指さして真っ直ぐ私の目を見つめた。そのアーモンド色の瞳の奥がくすんで見えて、背筋を冷たいものでなぞられるような感覚になる。

 「そんなの犯罪と変わらない。人の人生を変えてんだから。」

 いつもと違う低い香織の声が、さらに喉でこすれた。その声は肌をそわりと撫でて、香織は私の手をすくうように握った。

 「だから、そんな奴らにはちゃんと罰が必要でしょ?」

 香織は、滑らかな手で私の両手を掴んで真っ直ぐに私を見つめた。その顔がクラスメイトたちのように黒くなっていき、周りにもやが漂っていく。香織のそのまっすぐに私を見つめる真摯な瞳が怖くて、私はただ目をそらしながら「ありがとう」頷くことしか出来なかった。


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