42.
たくさんの声で溢れる外は、いつも以上に気分が悪くて、私はそっと左手で片耳を覆った。
少しくすんだ風の匂いは私の視界までもを薄暗くする。紅葉した木々は道に彩りを加えようと一生懸命に背を伸ばしているが、私のレンズにはただの枯れかけた葉としか映らなかった。少しだけ傷ついた靴は小石をカッと蹴った。ざわりと風で葉が揺れる。
もう少し歩けば学校につく。それがどうしても嫌で、耳鳴りはしないのに耳はジリジリと震えながら冷えていく。
私は溶けたような目で足を眺めながら歩いた。
「おはよう!」
耳の震えは一瞬で身体全体へと広がった。
底抜けに明るい鈴みたいな声。
思わず立ち止まりそうになったが、真新しい制服を翻して歩く声は私の隣を過ぎ去っていき、そしてその後ろ姿は香織ではなかった。
全身の毛穴から汗が溢れるみたいに、遅れて心臓が拍動した。
香織じゃなくて良かったと思った。いつもなら待ち遠しくあのベルみたいな声を待っていたのに。できるなら二人には会いたくない。そう思ってしまうことが屈辱的で、苦しかった。
二人もそう思ってるのだろうか。
私は、風に靡いた髪を押さえ、頭にぐっと力を込めて嫌なものまで潰すようにした。
冷たい朝の風は硬かった。
深い空の青を吸い込む建物はいつもよりも高く見える。私は空の雲を潰すようにした拳を握った。
学校の玄関をくぐると、外よりも少しだけ寒くて、油断した腕が粟立つ。
いつもより遅れて登校してきたせいか、普段より人が少ない。
靴箱へ進み、上靴を覗く。今日は特に何かされているわけでなく、何度も苦痛から耐えて繊維が緩んだ上靴が薄暗い小さな空間できれいに並べられていた。私は上靴のかかとを人差し指と中指でつまみ、両足にはめる。少しだけ余裕のある上靴は足にしっかりとはまり、すぐに足と一体になった。
「光虹さん、おはよう。」
少しだけ籠もった、妙に震えた声。
かかとに差し込んだ人差し指を靴から抜き出し、私は振り返った。
肩くらいで切り揃えられたストレートヘア。タレ目気味の瞳は不安げに揺れていた。
同じクラスの生徒だ。私が振り返ると、「あ…」と気まずそうに音を漏らし、視線を外して靴を履き始めた。雰囲気から話しかけてほしくないという気持ちが伝わってくる。それなら話しかけてこなければいいのに、と私は不審がりながらも無視して教室へ向かった。
挨拶を返せばよかったか、と少しだけ思ったが必要ないだろう。あれだけ気まずそうに話しかけてきたのだから。考えを振り払って教室のドアを開けた。
しかし、教室に入った瞬間、いつもと違う不思議な感覚に肌がぞわりと震えた。亜美たちは一人もいない。私の席に何をされているわけでもない。それでも何故か嫌な視線を感じるような、とにかく不快な空気が満ちていた。まるで、生暖かい無数の目がこちらを見てくるような感覚。
「あ、おはよう、」
クラスのうち一人がそう口に出す。すると、周りの生徒たちも口々に挨拶やら笑みを浮かべ始めた。意味が分からない気味の悪い光景に、私は思わず立ち止まる。
「おはよう」
絞り出した声は思うように大きくできなくて、彼らには聞こえなかったかもしれない。それよりもこの生暖かい視線から逃れたくて、固まった足を動かして自分の席へと早足で向かう。小声で何か会話をしているような気配がする。少しだけ大きな音を出しながら鞄を机に置くと、一人の生徒が私の方へと近づいてきた。
私はそれを可能な限り無視するよう努めたが、残念なことに私が荷物をしまって立ち去るよりも向こうが口を開くほうが早かった。
「凄いね、あんな事するなんて。」
短めな髪を揺らす生徒はぎこちないが明朗な声でそう言った。「あんな事」という言葉が耳に突っかかり、私は顔を上げた。目の前に立つ生徒の口は落ち着きなくもごもごと動き、一度ぺろりと唇を舐めた。
「あんな事って?」
眉をぴくりと下げた。「え、もしかして光虹さんじゃないの?」と少しだけ裏返った声をボールみたいに跳ねさせると、おもむろにポケットからスマホを取り出し何かを探すように太い指を動かしながら「ちょっと待って」と焦ったように言った。気づけば周りの生徒もこちらの様子をうかがっていた。自然と眉間が歪むのが自分でもわかる。一体どういうことだ。
画面を擦る指を止めると、目の前の生徒はパッと私へ向けてスマホの画面を見せてきた。じゃあ画面が教室の電気で気味悪く歪んで光る。
『#拡散希望#いじめ 私のR高校で、一人の生徒がいじめにあってます。暴力を受けたり、悪口を言われたり、物を盗まれたりしてます。いじめをしてる生徒はA美、H花、R夏です。許せないです。』
メッセージ投稿型のSNSに、そんな事が書かれている。ブルーライトが照らつく白い画面には、その下にも大量のコメントが寄せられている。
『こういう奴ら、まじで死んでほしい』
『R高校ってどこ?』
『特定班、頼む』
思わず相手のスマホを掴んだ。ガタガタと椅子が揺れる。「おわっ」と生徒は体を引いたが、私はお構いなしにスマホの画面を凝視する。ブルーライトが鋭く私の目を刺してくるのが分かった。
『私同じ高校かもしれないです。林陽高校で、生徒は多分二年の亜美、遥花、瑠夏だと思います。』
『まじ?』
『同じ高校なんだけど』
『たしかに噂で聞いたかも』
足元から硬直するように悪寒が走る。三人の名前はにじむことなくはっきりと私の目に映った。
どういうこと?
私はさらに下のコメントへと指を滑らす。
本名が判明し、コメントはさらに過激な怒りに変化していった。
『#林陽高校#いじめ#拡散希望 二年の亜美、遥花、瑠夏は犯罪者。絶対許すな。』
『生きてる価値ないだろ。』
『顔写真とかないの?』
『高校のホームページとかいったらワンチャン』
視界がゆがむ。堪えきれずに私はスマホを押し付けるように返すが、指先がカタカタと震えていた。
私は口から息を吸った。喉の奥が空気と触れて薄くなる。乾燥した口はヒリヒリと痛んだ。
「もしかして、ほんとにこれ光虹さんじゃないの?」
生徒は首をかしげ、眉尻を下げながら言った。
「違う、なにこれ…」
震える声は思ったよりも大きくて、静かな教室に響いた。周りは完全に私がやったのかと思っていたのかざわつき始める。
心臓が静かに拍動するのに、手は止められずずっと震えている。
「昨日の夕方くらいに投稿されてたんだけど、てっきり光虹さんだと思ってた。」
頭をかきながら、私の様子をうかがうように話す。黒髪の間をかいて動く手の隙間からは乾燥した白髪が一つ覗いた。
するともう一人クラスの生徒が近づいてきた。
緊張したような、口の手前あたりを噛んだような歪んだ口は、少しだけ震えている。頭を少しだけ振って髪がパラパラと動いた。その生徒は制服を撫でながら震えた口を開いた。
「光虹さん、今までごめんなさい。」
何の変哲もない声。
その声は、ざわつき始めた教室に水をかけるように静かにさせた。周りの生徒もこちらの様子をチラチラと見つめる。皆眉を寄せて不安そうな、何か恐れているような複雑な顔を浮かべていた。
「この投稿が光虹さんじゃなくても、嫌だったのは事実だろうし、亜美たちが怖かったとはいえ、一緒になっていじめてごめんなさい。」
視線を泳がせながら謝る生徒は、一度も私の方を見なかった。その何か特徴があるわけでもない、少しだけ滑舌を良くしたような声がものすごく不快に感じた。腹の奥に小さなものが刺さるような、そんなストレスを感じた。
目の前の生徒が言ったセリフを聞いて、これまで私達の様子を伺っていたクラスメイトたちも、次々に立ち上がって口々に謝りだした。
「ごめんなさい」
「亜美たちが怖くて」
「これからは仲良くしよう」
そう私を無視して音を出すクラスメイトたちの顔は、クレヨンで塗りつぶされたように真っ黒に染まっていく。彼らが口を開くたびに、黒いもやが浮かび上がり教室の精度を奪っていった。どんどんと集まるクラスメイトたちは私の机の周りに群がり、気づけば視界いっぱいに黒い顔が広がった。
つばを飲み込むと、痛いほど喉の奥が酸っぱい。彼らの黒いもやが私の中にも入ってきたように胃の中がぐるぐると回る。まるでそこだけ切り離されたみたいな感覚。気持ち悪い。
堪えきれなくなって、私はクラスメイトをかき分けて廊下へ出た。
人口密度の高い教室の籠もった空気が体から離れて、少しだけ澄んだ空気が身を包んだ。
「うっ…」
胃からせり上がってくる生き物のようなそれに、私の喉は音を漏らす。心臓が冷え、急いでトイレに駆け込み個室に入った。
「うぇ、あ…」
喉からせり上がるそれは白い便器の中へ落ちていき、喉は自然とえずく。
気持ち悪い、気持ち悪い。全て吐き出してしまいたいのに、どれだけ喉を開いてもこれ以上は何も出てこない。喉を押し出しすぎてゲホゲホとむせ返ると、思い出したかのように心臓が早鐘を打ち始め、それが気持ち悪くてまたえずく。苦しくて目を閉じてしまうと、また彼らの真っ黒な顔が映って仕方ない。耳に残った彼らの声は泥水みたいで、私は暫くそこから離れられずにいた。




