40.
廊下を過ぎるたびに、流れるように秋の日差しが肌を順番に撫でる。そこだけがほんのりと温かくなった。
薄いグリーングレーの床にも窓枠の形をした光がかたどられている。そこを通ると、私の体の形に光がくり抜かれる。影は少しだけオレンジ色がかっていた。
薄汚れた上靴を前後に動かして私は教室へと向かう。下げた手にはミサキさんが作ってくれたお弁当が握られている。揺らさぬように気をつけてお弁当の水平を保ちながら歩く。
周りを通り過ぎる生徒たちも食堂へ向かっていったり一緒にご飯を食べる約束をしていたり、皆授業の愚痴なんかを口にしながら通り過ぎていく。
「光虹ちゃん!」
木琴を叩くような声。それは私の数メートル先で聞こえた。
「香織」
私が近づいていくと、香織は元気に手を振って私を迎えた。
ドアに体をよりかけるように肩より少しだけ高い位置に手を置いている。
香織の腕をくぐって教室へ入ると、そこには机を三角にくっつけた席で早くも昼食を食べる葵の姿があった。葵の手には大きな焼きそばパンが握られている。購買の人気商品だとかで、すぐに売り切れるから買うのが大変らしい。
「ん、光虹じゃん。やっほ。」
葵は私に気づいてすぐに手を振った。私も葵に向けて手を振り返した。
香織は私の先を歩いて可愛らしいキャラクターデザインのお弁当が乗っかっている机に座った。私も三つのうち余った席に座る。
窓から差し込む光で私の机は真っ二つに割れてしまっている。
「葵食べるの速いって。」
香織はお弁当を開きながら葵に文句を言う。葵は「お腹空いてたんだもん」と説得力のない言い訳を飛ばした。香織の開いたお弁当の中にはうさぎのようなキャラクターを模したハムの乗っかったケチャップライスが詰められていた。
「すごい香織のお弁当。自分で作ったの?」
私もお弁当を開きながらそう言った。香織はそれに反応して照れくさそうに下唇を軽く噛んで笑った。
「そう、今日光虹ちゃんたちとお弁当食べるって約束したから楽しみで。」
小首をかしげながら遠慮がちに香織ははにかむ。
逆光になった香織の顔はいつもよりも大人っぽく見えた。
文化祭の準備で仲良くなった葵はコミュニケーションが上手く、香織と私ともすぐに仲良くなった。それで昨日香織から一緒にお昼ご飯を食べないかと誘われたのだ。
「わざわざ作ったの?すごいね。」
「元々お母さんのお手伝いで料理は好きだからね。五時に起きて作ったんだよ。」
すると葵は驚いたように食らいついていた焼きそばパンを口から離した。
「え、五時?やば、その時間はまだ寝てるわ。」
「私も流石に起きてない。」
卵焼きを箸で掴んで口を放り込む。甘さ控えめの卵焼きは舌にふわりと乗った。
すると香織は食べていたものを飲み込んで小さく手を振った。きれいに切りそろえられた爪が光る。
「私も毎日その時間に起きてるわけじゃないよ。今日はキャラ弁だったから。」
葵はついに最後のひとくちを食べ終わってパンの袋を結んだ。「速い」と香織が野次を飛ばす。葵はそれを無視して結んだ袋のゴミを香織の机に投げつけた。香織の頭にきれいにぶつかった袋を香織は素早く取って葵に投げ返した。顔面に命中した葵は「いてっ」と漏らしながら細い目をさらに細めて笑った。
葵は食べ終わった後も机で三人と話して笑っていた。授業やら休みが短いやら話しながら過ごした昼休みは、久しぶりにゆっくり時間が流れたと思った。しかしその時間も予鈴が鳴って終わってしまった。
その頃には私も香織もお弁当を食べ終わっていて、カチャカチャとお弁当箱を片付けていく。
「はやくはやく」
葵が急かすように手を叩く。
隣で私と一緒にお弁当箱を片付けていたカオリは「うるさいなぁ」と笑いながらぼやいた。
若干うつ伏せ気味になった香織の横顔にはふわふわとした色素の薄い髪が隠すように垂れた。光を通した髪は向こう側だけ明るく見えた。
周りの生徒たちもせかせかと次の準備をしている。九月中は午後からが文化祭の準備になるので、周りと同じように私達も急いで準備をする。
買い物かごのようなものに絵の具やら筆やらが詰め込まれていて、葵はそれを持ち上げた。
「よーし、行くかー。」
香織は片付け終わったお弁当をしまい、大きく腕を上げて伸びをした。香織の脇腹辺りの服に縦にシワが寄った。黒い制服は窓からの日差しでいつもよりも光沢感を増していた。
香織が伸びをすると同時にフルーティーな香りが鼻をかすった。柑橘系だろうか?鼻を少し刺激するような香りだ。
三人揃って廊下を進み、体育館へ向かう。二年生の教室も体育館も一階なので、そこまで歩かなくともすぐにつく。
周りには同じようなかごを持った生徒たちが沢山いる。流石に横並びで歩くのは気が引けて、私は一歩後ろに下がった。
「光虹はいつから絵描いてんの?」
葵は相変わらずええ、と伸ばしながら私に向かって尋ねた。振り返りながら私に声をかけた葵を!香織は「前を向け」と注意した。
「んー、あんまり覚えてないんだよな。物心ついたときにはもうそれっぽい道具に触れてたと思う。」
「まじか。やっぱり上手い人とかは小さい頃からやってるもんなんだ。」
葵は驚いたように、ペロリと乾いた唇を舐めた。
「努力の結晶ってやつだねー。」
香織が両腕を後ろで組んで前かがみで自慢気な顔でそう言った。足を前に動かすたびに香織の髪が光を帯びて動く。
カゴをぐっと胸辺りまで持ち上げて葵が失笑した。短く切りそろえられた髪がふわっと風で持ち上がる。窓から入ってくる冷たい風に私は身震いをした。
「珍しくいいこと言うね。」
首を香織の方へ傾けて私が言うと、香織は心外だとでも言わんばかりに口をとがらせた。
「失礼な。私はいつもいいこと言ってます―。」
語尾を高く上げて反発するように香織が言うと、葵が面白そうにケタケタと笑った。
「香織、今日の名言。”努力の結晶ってやつだねー”。」
葵は香織の声を真似て裏声で話す。私は思わず吹き出してしまった。
「ちょっと、からかわないでよ。光虹ちゃんも笑うな。」
香織は抗議として頬を膨らませてみせた。語気は強いが、香織の口からも笑いが漏れている。
それを見てこらえきれずに三人揃って吹き出した。三人の高低の差のある声が混ざりあって秋の風に乗る。ウッディな秋の香りは私達を包み込んだ。
横を見れば、葵は顎を上げて、香織は口を抑えて笑っている。きっと冷静に考えたら大して面白くないのかもしれない。だけど、多分この三人だから面白いのだろう。そう思うと胸が暖かくなった。
私は胸辺りの布をぐっと握った。力を込めた手のひらがほんのり熱くなる。
すると、聞き覚えのある高い声が聞こえて、香織の隣を瑠夏と遥花が通っていった。
瞬間、さっきまで温められた胸が裸のまま冬の外に放り出されるみたいに冷たくなった。
目が合った気がした。だけど、何もなかったように瑠夏も遥花も通り過ぎていって、香織たちも変わらず笑顔を浮かべている。私はそっと胸をなでおろした。なんとなく、香織たちの前で話しかけられるのはすごく嫌だ。
服の裏地が肌に刺すように、小さな刺激が集団となって私を刺す。私はコクリとつばを飲み込んだ。
体育館につくと、熱意にあふれる生徒たちがもう半分ほど準備を開始していた。キャストたちも、体育館で練習できる日は限られているから急いで準備をして練習をしている。衣装はまだ完成していないが、心の中のやる気や熱意が体を包んでいるように見えた。
「おー、もう結構いるんだね。」
葵が高いものでも眺めるみたいにかごを持っていない方の手で日差しを遮るみたいにして体育館を右から左へ見回した。
「うん、早めに来ておいてよかったね。」
香織がそう言ったので私もコクリと頷いた。耳にかけた髪が一房零れ落ちる。
舞台上に瑠夏と遥花が見えたが、私は目が合わないようにすぐに目を反らした。しかし、目をそらすと逆にこちらを見つめられているような気分になって私はゆっくり深呼吸をして葵の隣に立った。葵はちらりとこちらを見たが、特に気にした様子もなく小さくはにかんだ。
「じゃあ、始めますか。」
そう言った葵の声に私と香織はうなずき、かごの中から道具を出していく。葵は背景絵の大きな模造紙を広げて丸まった四角を抑えるように撫でた。
ぺろりと広げられた紙の中には綺麗なグラデーションの夜空が広がっている。後は城と星を描いたら完成だろうか。
体育館のライトの光をテラテラと反射する少し厚みの増した絵を撫でながら考える。すると香織が絵の具を両手いっぱいに抱えながらこちらへ寄ってきた。タプタプと絵の具が細かく波打っている。
「光虹ちゃん、お願いがあるんだけどさ。」
香織は抱えていた絵の具たちを地面に近づけると勢いよく囲んでいた腕を離した。ガタガタと音を出しながらポスターカラーの容器たちが放射線状に散らばっていく。パッケージにライトの色を乗せてネオン的な色合いに染まった絵の具達を見て葵は肩をすかした。
私は勢いよく香織が絵の具たちを落としたことに驚きながらも、顔を香織の方へ向ける。香織は散らばった絵の具の中から黒色の絵の具を取り出して言った。
「この絵の手前に黒い山とか描いたら奥行き出ないかなって思うんだけど、どう?」
香織の小さな指が紙の左下あたりを横長くぐるりと囲む。
葵もこちらの会話に気がついたのか近づいてきた。
「あー、確かに。黒いって影のシルエット的なことだよね?」
「そうそう!」
「黒い山」という香織の言った抽象的な表現を自分なりに噛み砕いて確認してみると、的が当たったのか香織は手を一度パンっと叩いて強く頷いた。話を聞いていた葵も同意するように口の端を片方だけ持ち上げて頷いた。
「じゃあ私描いてみるよ。」
私は香織から黒い絵の具を受け取る。ずっしりと絵の具の重みが両手にのしかかる。
「いいの?」と言う香織に向けて一度うなずく。
「じゃあ私はお城の下書きしちゃおうかな。葵も手伝って。」
香織は振り返って葵の顔を見る。葵は眉を引き上げて頷いた。
段々と生徒たちも集まってきて、予冷が鳴る頃には大半の生徒が集まっていた。またあのときのようにたくさんの音と色で溢れていく。皆自分の声を主張しようと声を張り上げた。そこら辺に沢山の色が撒き散っていく。教室とはまた違った雰囲気に不思議と心臓の鼓動が早くなった。
私はくっと絵の具を握る。ペコっと容器の真ん中が凹んで間抜けな音を鳴らした。
また新しいカップを用意して、少しの水と黒い絵の具を注いだ。チョコレートに似た光沢を放つそれをしっかり混ぜて私は細い筆に持ち替えて山のアウトラインを引いていく。紙の細い凹凸が光を掴んで放った。かすかに紙を滑る心地良い音を聞きながら、私は迷わずに線を引いていく。周りの音が少しだけ小さくなった。
紙の左下を細長く連なる山を描き、私はそのさらに手前に針葉樹をまたもや黒いシルエットで描く。少しだけ掠れさせた筆で細かく枝の様子を書き込んでいく。テラテラと光る黒い絵の具は角度に寄って色が変わった。青みがかった色、紫がかった色に赤、黄色がかった色。全部の色を取り込んだ黒色だって、取り囲む環境によって色が変わるんだな、とぼんやりと思った。
カタン。
小さな音が聞こえて振り返ると、急に自分の体操服のズボンの裾が重くなった。
「あ、ごめん。前見てなかった。」
黒く濁った声。視線を上げると、そこには薄ら洗を浮かべる遥花がいた。体操服にはカップが倒れたようで黒い絵の具が染みていっている。紺色の繊維を飲み込むように黒が侵食していく。その黒色はもう光っていなかった。
「光虹ちゃん、これ。」
と、香織がティッシュを差し出してくれる。「ありがとう」と礼を言って私は一先ずカップを元通りに起こした。ティッシュを体操服に当てると、くっついてくるように黒い絵の具が張り付いた。すくうように絵の具を取り除いていくしかないらしい。私は袖を持ち上げて黒い絵の具を取り除いていく。
「あれ、光虹ちゃん、その腕どうしたの?」
香織が私の腕を指差してそう聞いた。はっと私は反射的に腕を隠した。
腕を覆った手のひらに、まだ治りきっていない細かい瘡蓋のかぶさった傷の感触が伝わった。あの時の亜美にやられた傷だ。
私が香織にこの傷の理由を説明しようと口を開くよりも先に、遥花が声を出した。
「あれ、まだ治ってなかったんだ、その怪我。ごめんね、私達の不注意だったばっかりに。」
ドロドロした泥水みたいに、遥花は言う。
「不注意ってどういうこと?」と今度は葵が反応した。
背中に冷たい水をかけられたみたいに、どんどんと冷えていくのがわかる。急に、今までどうやって呼吸していたのかがわからなくなってしまって、ゆっくりと息を吸って、ゆっくりと息を吐き出した。
それでも遥花はお構いなしに話し続ける。
「私達がヤスリでちょっとやっちゃったんだよね。ね、光虹。」
遥花は私の方にぽんと手を置いた。瞬間、ゾワゾワと大きな泡が広がるみたいに鳥肌が立った。アレルギー反応みたいに、遥花に触れられた場所がドクドクと大きな音で血液を鳴らす。
香織と葵は不審そうに、説明を求めるかのように私を見つめた。しかし私はその視線が怖くて目を合わせることが出来ず、それでいて遥花の話にうなずくことも出来なかった。やめて、名前で呼ぶな。今すぐにこの手をはねのけたかった。遥花が何を考えて香織たちに話しているのかがわからない。
どうすることも出来なくて、私は黙って体操服に染みた絵の具をティッシュで拭く。ダラダラと黒い髪が顔を隠すみたいに顔の横に落ちてきた。
「てか、光虹って友達いたんだ。や、友達じゃないのかな。クラスメイト全員に嫌われてるもんね。」
香織と葵が、顔は見えないけど一つ息を吸った音が聞こえた。
見ないで。
目の前の先に広がるテカった床がぐにゃりと歪んだ。目に何か入ったみたいに、痛くもないのに私は何度も瞬きをした。
呼吸が荒くなってくるのがわかる。苦しい。
「懐かしいなー。運動会とかもひどかったよね。朝来たらミクの机がビチョビチョになってたもん。」
キャハハ、とまるで映画の悪役みたいに、割れた楽器のような声でハルカが笑った。
やめて。喉元まででかかった声が突っかかって出ない。渇いた喉は奥から出てくる唾液で被せられ、それが酸っぱくて私は舌を止めた。
香織と葵は今、どんな顔をしているんだろう。二人には、今私がどんな風に見えてるんだろう。
惨めに見える?可哀想に見える?
体の中が全部氷で詰められてるみたいに、どんどん冷えていってもう感覚もなくなっていく。
「あとはあれか、この前も亜美に殴られてたし…」
「やめて!」
舌にまで乗った声は、思ったよりも大きくて、遥花の手が一瞬震えた。
私は声を発するとほぼ同時に駆け出した。カップがまた足に引っかかって倒れた気がした。
もうこの空間に居たくない。後ろから聞こえてくる声が急に全て私に襲いかかってくる。裾に絡みついた絵の具みたいに、それら全部が私を覆って動きづらい。
香織と葵にだけは知られたくなかった。私がいじめられていることを。なんでかなんてわからないし考えることだって出来ない。
もう今はとにかくここから消えたい。誰の目からも見えない場所に行きたい。私は息継ぎするみたいに上ずった呼吸のまま走った。顔に自分の髪が当たって痛い。今になって乾燥した秋の空気が苦しい。
過去に戻りたい、と私はこのとき本気でそう思った。




