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39.

「遅れてごめん!」

 体育館に入ると、休んでいた鼓膜にたくさんの音が触れた。さっきよりも人が多くなっていてまた一段と騒がしい声で溢れていた。

 早足で香織たちの方へ向かうと、振った腕がビリと痛んだ。私はそれをそっとさする。

 「ん、大丈夫だよ。見つかった?」

 「ごめんね、わざわざ。」

 カオリと、その隣で右頬が青く色づいた葵が笑って私を迎えてくれた。葵はくいと軍手で自分の頬を拭った。

 「あったよ。青と、あと紫も混ぜたらいい感じになると思ってこれも。」

 香織と葵は私の手に持つ紫色のポスターカラーの容器を見上げた。

 背中がさわりと粟立つ。

 私は香織と葵の目の前に青と紫のポスターカラーを並べた。コツンとポスターカラーの容器から重量のある音が鳴る。二つの色は体育館のライトでさっきと色が違うように見えた。

 「紫か。たしかに良いかもね。」

 葵は絵の具で汚れた軍手を外して紫のポスターカラーを握った。容器いっぱいに満たされた絵の具がトクリと揺れて艶めく。

 葵の言葉にホッと胸を撫で下ろす。余計なことだと思われなくてよかった。

 「じゃあ、光虹ちゃん。」

 香織が開きかけた手を伸ばして私を呼んだ。

 「ん?」と私が香織の方に顔をずらすと、香織は唇を少しすぼませたような顔で言った。潤った香織の唇がツルリと半円を描くように艶めく。

 「紫の空とかは光虹ちゃんに任せていい?」

 俯瞰の角度で見る香織はいつにも増して愛らしく見える。

 喉がくっと小さく鳴った。私はそれを飲み込んで強く頷いく。ぐわりと髪が揺れた。

 「任せて」

 そう私が言うと、香織は「頼もしい」とはにかんだ。葵も「任せた!」と少しおどけて言った。

 心臓が一つ大きく拍動した。すぐにきゅうっと胸が縛られる。その縄はとても柔らかくて温かかった。

 私は胸の前を軽く掴んで絵の具を混ぜる用のカップを手に取った。そして、さっき取ってきた青と紫のポスターカラーをカップの隣にセットする。

 少しだけ水の入ったカップの中にまずは青いポスターカラーを注ぐ。どくどくと波打ちながら絵の具が半透明のカップの中に入っていき、ライトに照らされてそれはギラギラと光った。 私はその中に今度は紫のポスターカラーを注いでいく。波紋を描くように青の絵の具の真ん中へ紫色が滑り込んでいった。 私が紫のポスターカラーの容器を持ち上げて注ぐのを止めると、手にぐっと重さがかかった。

 次に私は筆を取ってカップに入った絵の具をぐるぐると混ぜた。真ん中が凹んで逆三角みたいに波紋が何層にも描かれていく。最初は青色しか見えないが、暫く経つと紫が現れて段々と青から紫がかった色へと変化していった。

 私の好きだったこの瞬間。お父さんはいつもアクリル絵の具を広げて私にこの色とこの色を混ぜたら何色になるでしょうとクイズを出してくれた。それは赤と青を混ぜたら紫とか簡単なものじゃなくて、オレンジがかった赤に緑を混ぜたらどうなるのかとか、はたまた三色混ぜるとどうなるのかとか、難しいものばかりだった。

 でも、あのお父さんの血管の浮き出たたくましい太い指が筆を動かすと、全然違った色が混じり合って一瞬できれいな色が生まれる。その魔法みたいなあの瞬間。この色と色が混じり合って新しい色が生まれる瞬間が好きなのだ。お父さんはいつもどれだけ濁った色が生まれても、「この色も綺麗だな」と毎回日に焼けた頬を持ち上げて白い紙にばっと塗り拡げていた。

 私は少しだけまぶたを閉じた。

 暫くかき混ぜると、青と紫が混じりきって綺麗な青紫色になった。

 私は筆を五本の指でしっかりと握り、大きな背景絵の前に立った。うっすら下書きの描かれた大きな紙に綺麗な天藍色が塗り拡げられている。

 私は一つ大きく深呼吸をして、厚い紙の上にばっと筆を広げた。あのときのお父さんみたいに、豪快だけど、かつ繊細に。このきれいな色を壊さないように丁寧に、ダイナミックに私は腕の動くまま色を塗っていく。掠れず毛並みの揃った筆は、紙の上に一瞬で空をかぶせた。

 気づくと隣では香織と葵が私の腕を見ていた。

 段々と掠れていった筆を見て、私はなんの色もついていない筆を取り出して色の境目をその筆で撫でた。すると、色の境目がきれいに混ざっていき、紅掛空色のきれいなグラデーションの深い夜空が出来あがった。

 「え、すごい!」

 隣で私の腕を見ていた香織が手をたたきながら「すごいすごい」と連呼する。パチパチと肌のこすれるような小さな音が細かく鼓膜に触れた。

 「まじですごい。絵上手かったんだね。」

 葵は絵の発音をえぇと少し息を伸ばしながらそう言った。

 私は絵の具が垂れないようカップを上手く使って筆を回収した。「大したことないよ」と葵に向けて小さくそう言う。

 すると葵は「いやいや」と否定するように声をかぶせた。

 「十分すぎるでしょ。だってカオリと二人で中々夜っぽい空にならなくて困ってたもん。」

 葵は軍手をはめた手で新しい筆を手に取る。葵の黒髪は漆のようにライトで照った。

 「お父さんとお母さんか絵描いてた人だったから。」

 二人があまりにも大袈裟に褒めたくるものだから、私はなんだか気恥ずかしくなってそう言った。ごまかすように続けて筆を動かしていく。少しだけ筆を持つ手が揺れた。

 「え、そうなの?」

 「子が子なら親も親ってことか。」

 二人は私の方を見て驚いたように目を開いた。香織は別だが葵の細めを開いた顔は初めて見た。茶色の混ざっていない黒い目は鏡のように光を反射する。

 「じゃあ光虹ちゃんに相談すれば最高の絵が描けるね。」

 香織が突然そんなことを言い出す。私は驚いて何か口に出そうとしたが、筆を握っているせいで取り乱すことはできない。

 葵も困惑した私の顔を面白そうに見ながら強く頷いた。

 青色のついた香織の毛先が揺れる。葵もまだ頬に絵の具をつけたままだ。香織はそのことを指摘しなかったのか。

 香織も葵も楽しそうに笑顔を浮かべてカップをかき混ぜていく。

 絵を描くのは楽しいことだったな、と私は二人を見てぼんやりと思った。自然と頬が緩む。

 体育館の大きな窓から差し込む光が二人の髪に大きな天使の輪をかけた。


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