38.
「多分ここにあるはず、」
ガタガタと建付けの悪いドアを白は力を込めて勢いよく開けた。正直ドアが外れるんじゃないかと一瞬不安になったが、その必要はなく備品室のドアは大人しく横にズレた。
埃っぽい少しだけ湿った空気が体に纏わりつく。私は目を細めて口に手を当てる。
白は迷うことない足取りで、足元に転がる用具やらいつかに作ったのであろう小道具なんかを器用に避けて進んでいく。私はその後姿を追って、白の足がついた場所に重ね合わせるように私も足をついた。
「ん、あったあった。」
白が視線を上げて向いた先には天井までの高さの棚にずらりとポスターカラーの容器が並んでいた。赤、オレンジ、ピンク、黄色…。私は手に握った青い容器を並べて比べるように眺める。
「あ、これじゃない?」
隣で白の細い腕が伸びた。すぐにその腕は曲げて私のもとに戻り、その手には香織たちからもらった容器の色と同じ真っ青な絵の具が八分目あたりまでたっぷりと満ちていた。薄暗い備品室の中でその絵の具はギラついた。
「それだ、ありがとう白。」
私は白の持っている容器に手を伸ばした。すると、その先にある少しだけ紫色のポスターカラーが目に入る。
目を閉じて浮かんだ香織たちの描く空。それに紫を加えればもっときれいな夜空になるだろう。そう思って白の腕の下をくぐって手を伸ばしたが、私はすぐに腕を伸ばした。
白はそれを見て不思議そうに首を傾かせる。
「どうしたの?」
「いや、紫色も持っていったほうが良いかなって思ったけど、私絵描くの全然役に立ってないし、余計なことしないほうが良いかなって。」
「絵描くの苦手?」
白は紫色のポスターカラーの棚へと手を伸ばした。
「いや、描けないわけじゃないんだけど。」
「だけど?」
白は歯切れの悪い誤魔化そうとした私の言葉を目ざとく拾った。
私はどの言葉を選べばいいのか分からなくてしばらく黙ってしまった。白は紫色のポスターカラーの容器をカタリと棚から取り出し、傾けて絵の具を眺めた。
「…前、お母さんとお父さんが交通事故でなくなったって言ったでしょ。お母さんが絵描き教室やってて、お父さんが絵描きだったの。」
「へえ、すごいね。」
白はポスターカラーの容器から目を逸らし、流し目で私を見た。ただ感想をいうだけで、私の絵について、憶測で話すことはなかった。
「それで、お母さんとお父さんの影響もあって絵はたくさん描いてたんだけど、二人が死んじゃってからは、絵が描けなくなっちゃって。」
「香織たちが劇の背景絵描いてるから、私も手伝いたいんだけど。」と、私が付け加えると、白はポスターカラーの容器を元あった棚に戻し、何も言わないまま歩き出した。
静かな美術室に白の軽い足音が響く。
「白?」
「あった。」
ポトリ、と水滴をこぼすみたいに白が言った。
くるりとターンするように振り返ると、私のもとへ歩いてきて机に真っ白な紙を広げた。
少しだけ丸まった紙の端を平らにするように撫でて、「よし」と声をこぼした。隣に二本鉛筆を置いた。
「光虹、絵、描こう。」
机に置いた鉛筆を一つ握って白が言った。目を反対にした三日月みたいに細め、白い八重歯を覗かせた白の顔は反射光でほわほわと輪っかを作っていた。
「え?」
「なにそれ、絵とかけてるの?」
白はニヤニヤと口角をアシンメトリーに歪ませた。
「描いてみよーよ。描けないなんて、やってみないとわかんないよ。」
そう言って白は紙に何やら描き込んでいく。特に考える素振りも無くサラサラと鉛筆を滑らせていく。
美術室の古びた机の歴史を感じる凹凸に鉛筆の芯が引っかかり、白の手が滑らかに動くのと反して、黒い線はところどころ曲がっていた。
「ほら、ミクも。」
そう言う白に促されるまま鉛筆を受け取る。
しかし、やはり絵を描こうと思えば頭の中が真っ白になって何を描いたらいいのか何もわからなくなる。上顎についた舌が動く。コクリとつばを飲んだ。
小さく震える右手を見て、私は机に鉛筆を置いた。その隣の白い紙には、白の描いた変な生き物のような物が描かれている。
「白ごめん、やっぱり無理だ。何描けばいいかわからない。」
頭の中が空っぽのまま描くのは怖い。何も無い虚無の空間で腕を動かすのと同じだ。
白は鉛筆を動かす手を止めなかった。少し胴長の身体に、何やらコブのような物が二つつながってついている。
描き終えたのか、相変わらず私を無視したまま堪えきれず、といった様子で笑った。
「待って、傑作!」
ころころと玉を転がすみたいに白は楽しそうに笑った。そして、自分の描いた生き物のようなものの隣に、小さく「ペガサス」と書いた。
「え、ペガサスなの?」
つい私は白にそう言った。
「そうだよ。どこから見ても完全無欠のペガサスじゃん。」
白は描き終わった紙を私の前に広げてみせた。
その白い紙のど真ん中に、ふにゃふにゃした線で百歩譲って馬のように見える絵が張り付いている。さっきのコブのようなものは羽か。
白は自慢げに私にその絵を突きつけると、絵を机に戻して私の置いた鉛筆を握った。
「ミクもペガサス描いてよ。どっちが上手いか比べよ。」
そう言って私に鉛筆を握らせ、また子どもみたいに絵を描き始めた。その姿は純粋に絵を楽しんでいるようで、白の描く線は白黒なのに何故かカラフルに見えた。白の白い髪は光を閉じ込めてふわふわと優しい光を纏う。
私も、こんなふうに絵を描いていたのだろうか。
いつも私が絵を描く所を見ていてくれたお母さんとお父さんを思い出す。「うまいね」と毎回褒めてくれた二人の温かい笑顔が大好きだった。
私はぐっと鉛筆を握った。
HB鉛筆の太い芯が紙にカツと当たる。細く冷たい息を一度吐いた。
ふは、と隣で笑い声が聞こえた。またハクは自分の絵に笑っているらしい。さっきまで棒だった馬の脚が肉を持っていて別種の足のついたキメラのような物が出来上がっている。
つい私も息が漏れた。
固くなった右手もふるりと緩んだ。白の口の隙間から上ずった笑い声が漏れ出ていた。
私は鉛筆をシャッシャッと動かしながらペガサスを描いていく。優しく紙に芯が擦れていく。トクトクと振動が胸を叩く。
久しぶりに感じる絵を描く感覚。鉛筆がこすれる様々な音。机に引っかかってカツンとなる音。美術室に染み込んだ画材の香りも、鉛筆を描き始めた瞬間急にふわりと鼻に入ってきた。
鉛筆を少し寝かせて影をつける。等間隔に斜線を細かく描いて色を塗る。
「え、すごい!ペガサスだ!」
なんの振動も捉えなくなっていた耳に白の声がふわっと触れた。ピクリと手が震えた。
鉛筆を止めて白の方を見ると、いつもよりも大きな目をした小学生みたいなキラキラした白の顔があった。
私の描いた絵の線をなぞるように人差し指でなぞる。白は自分の頬を机にくっつけ、腕を伸ばして寝そべった。白の頬が制服に埋もれる。
「ペガサスってこんな感じか。僕のとは全然違うね。」
へへ、と白は口を横に伸ばして擦るように息を漏らした。肩に白の滑らかな髪がさらり、と垂れ落ちた。揺れた髪が湾曲しながら光を反射する。白の髪には円を描いた光の輪が出来ている。窓から差し込む光は花びらのようにサラサラと降っていて、白い紙の部分に集まり大きな光となった。白の黒い制服も、照らされて紫色になっている。
白は私の方へ手を伸ばした。
「ミク」
優しい日向みたいな声。白の顔には濃いオレンジに黒を少し混ぜたみたいな影が落ちた。
太陽が雲に隠れてさっきまでの光は影へと変わった。ツンと鼻に美術室の絵の具の匂いが通った。
「ミクの描いた劇の絵、楽しみにしてる。」
そう言って白はまどろんだいつもよりも線のぼやけた笑顔になった。また一房白の髪が垂れた。
私は一つ喉に溜まったつばを飲み込む。喉がゴクリと動く。白のとろけるようなキャラメル飴みたいな瞳をまっすぐに見つめて、私は頷いた。
「頑張る。白を驚かせるくらいきれいな絵を描くよ。」
白は頬を少しだけ浮かして私の顔の前に手のひらを広げた。「頑張れ」と小さく口を動かす白に、私は強く手のひらを合わせた。
白の手はほんのり温かくて、それでいて冷たかった。




