37.
「あれ、あのペンキ取って!」
「ちょっと!まだそこ乾いてないから触らないで!」
「こんな感じとかどう?」
「ん!めっちゃいい!」
右、左、前、後ろ。さらに上からも。罵声にも似た大声がまるで花火のように乱れ飛ぶ。
注意に称賛、非難など、二クラスのほとんどが、この場で作業しているせいもあり、体育館は私が経験した中で断トツの騒がしさをしていた。しかしそれは耳を防ぐほどのものでもなく、皆楽しそうにしているというのが、言葉一つをぺろりとめくってみるとわかることであって、私はぐるりと周りを見回して口を上げた。
「あれ、絵の具無くなりそう。」
隣で香織がそんなことを口にした。
「あ、マジだね。補充してこなきゃ。」
香織の発した言葉を筋力のある太い腕で拾い上げ、香織のさらに隣にいる生徒が応えた。たしか、名前は葵だったか。
ジャージの首元を途中まで下げて、意外にも肌の白い首元を露わにしている。
彼の手には縁が黄色の軍手がピンとはめられていて、その白い軍手は絵の具でところどころまだらに模様がつけられてしまっている。
私たちが作っているのは劇で使われる背景の絵。遠くに城が見えるような、暗い空に浮かぶ満天の星空。濃い紺青色の上品な空にポッカリと空いたような白い城のおかげでコントラストがよく映える。
私達のやる劇は、色々なお姫様が登場するような御伽噺をモチーフに、オリジナリティを加えたお話だ。
キャストには瑠夏と遥花もいたはずだ。亜美は照明係らしい。
運動会とは違って関わるタイミングが減って少しだけ安堵する。
香織はほとんど空になった絵の具を私にずいと見せてきた。思わず私は首を後ろに伸ばす。真っ青で少し粘土の持ったポスターカラーが遅れてドロリと揺れた。体育館の照明で少しだけ色のついた光がテカるように絵の具に張り付いている。
つい息を止めてしまった。
「光虹ちゃんごめん。この絵の具とおんなじやつ取ってきてくれない?多分備品室か、そうじゃなかったら美術室にあると思うから。」
香織はもう片方の何も持っていない手を縦にピンと伸ばして申し訳無さそうに眉を下げた。
「わかった。持ってくるね。」
私は香織から絵の具を受け取る。香織は「ありがとう!」と私に絵の具を渡して空っぽになった両手を合わせて感謝を伝えた。隣の葵も「大袈裟」と苦笑している。
私は香織たちに一つ断りを入れて散乱した筆の山を越えて廊下を出る。
ふと足元を見た先にあった筆は、比較的新しそうなもので、毛はまだ絵の具で固くなっておらず柔らかそうだった。足先から産毛がそっと逆立つ。
空気の冷たい廊下を進んでいくと、背後からついてくる騒がしさが服の繊維を割いていくように段々と小さくなっていく。
少し古びて剥がれかけたポスターカラーのラベルも親指で擦ってみる。残ったであろう粘着の跡に小さなゴミがへばりついて黒くくすんでいる。
私は秋の光でほんのり黄色に染まった廊下に一つ青く冷たい息を吐いた。
香織と一緒に背景絵を描くことにはなったが、どうしてもやはり筆を持つと直前までこう描こうと考えていた物が霧散してしまう。頭が真っ白になってどう手を動かしたらいいのかがわからなくなってしまうのだ。結局私はまだ絵を描くことが出来ないのか、と少しばかり期待していた淡い泡が小さく割れた。
ポスターカラーの容器をそっと傾けると時間差でまたドロドロとカラメルみたいに流れてくる。自然光に当たるからさっきとはまた違った天色に似た色になった。
後ろから聞こえてきていた生徒たちの声も擦れてしまってもう聞こえない。ピチョンと水滴が落ちる音すら響くくらいにここは静かだった。私は廊下の真ん中を歩いた。
「あ!役立たずじゃん、あそこにいんの。」
「ん、ホントだ〜。」
ジャージをゆるく砕かせて片手に丸めたシナリオを持つ瑠夏と遥花、そして亜美が後ろから歩いてきた。遥花は珍しく髪を下ろしていて、少し乾燥した髪を前にさっと流した。亜美は小さく「うぜぇ」と鋭利な舌打ちをしながらこちらを睨む。
「背景絵描くんじゃないの?香織ちゃんとさ」
遥花は「香織ちゃん」のところだけバカにしたようなやけに強調した調子で言う。
「結局人任せじゃん、一ミリも絵描いてないし。この時間で何したのさ。香織ちゃんかわいそー。」
鬱陶しいくらいに粘度の高い鼻についたような声で瑠夏も遥花に乗るように言った。
最初の方こそ気にしていた、香織が私と仲良くするせいで嫌がらせを受けるんじゃないのかというのはありがたいことに随分前に杞憂に終わった。どうやら香織には多く友達がいるからという理由でどうにも手を出しづらいらしい。
私のせいで香織が嫌な思いをしなくて済む、というのは心の底から安心したことだが、やはりこの学校という名の社会にも、立場は大事で数が全て、と言うのは否が応でも頭の一隅を通り過ぎていく。
とはいえ、実際に香織たちに迷惑をかけているのは事実なので、私は無視することもできず立ち止まった。
パシャリ、と頭から背中に冷たいものが被さっていく。すぐに無視してでも歩みを進めるべきだったと軽い後悔が胸を刺した。
ハハハ、と耳にとって不快な高い音を出しながら瑠夏と遥花は笑った。亜美もまるで私を対等な存在だと見ていないとでも言うような目で失笑する。
「やっぱ、他人に迷惑をかける悪いやつはには罰が無いとね〜」
遥花はブラブラと水が滴る空の水筒をまわした。隣で瑠夏も堪えるように笑いを漏らす。
逆光のせいだけではない。三人の顔が黒く見えた。白いところといえば、それこそ逆光で照らされた輪郭線だけだ。
秋の日差しも、匂いも気づけば身の回りに当たり前のように散らばる一部になってしまった。
目の前の明度が下がる。
「おい、手出せよ。」
急に亜美が口を開く。
言った意味を理解するよりも先に、亜美がぐっと私の右腕を引き寄せた。肩だけが遠ざかるみたいに骨が微かになるような音とともに体が大きく揺れる。抵抗しようとするが、亜美の手を抜けることはできなくて、肌にひんやりとした感触が当たった。ぐらりと体勢を崩したせいで私はつい目を瞑ってしまったが、冷たい金属のようなものにはたくさんの突起がついていた。
すぐにビリビリと尖った冷たい痛みが腕に広がる。肘を思いっきり壁にぶつけたような、腕の内側から細かく揺らされるような鈍い痛みと一緒に、肌の表面から細い電流が駆け巡る。
「いっ…!!」
反射的に出してしまった声は自分でも思ったより大きくて、廊下の見える範囲の向こう側まで響いた。
亜美の手にはやすりが握られていて、それで腕を擦られたようだ。
亜美がヤスリを私の腕から離しても痛みは継続的に続いていく。所々の薄い皮膚が剥がされて赤くきれいな皮膚の部分が外に出され、窓から入ってくる風で乾かされる。そのせいで、乾燥した空気も相まってまたヒリヒリと痛む。ささくれみたいに皮がめくれていて、端からはじくじくと真っ赤で少しピンクがかったような小さな血の玉がにじみ出ている。すぐにその玉は大きくなって耐えきれずに腕をつたい、その血が流れるところですら脳は痛いと判断してしまうかのように、ビリビリ震える腕を私はもう片方の手で押さえた。
行き場をなくしたポスターカラーはカランと床に落ち、虚しく沈黙を生み出した。
「うわ、亜美えっぐ…」
流石に驚いたのか瑠夏と亜美は顔を歪ませたが、顔面に貼り付けた笑顔がくしゃりと握られただけで笑顔は消えていなかった。
私は地面と、顔の横に垂れる髪だけを見つめ、なるべく痛みに意識が向かないよう必死に抵抗するが、それでも傷口に集まった細い神経たちは私に何度も何度も痛みを訴えてくる。
堪えようと唇を噛むと自分の歯型がよくわかった。
「そろそろ行こ、遅れちゃうし。」
そう瑠夏が言ったのを合図に、三人は私と反対方向に進んでいく。
私は血流までも止めてしまうんじゃないかというほど強く腕を握る。それでも身体の中に入った電流のような痛みを外に出すことはできなくて私はしばらく廊下に座り込んで悶え続けた。
はっはっと息が自然と荒くなっているのがわかる。私は痛みをごまかそうと舌を強く噛んだ。
しばらく腕を握っていると、痛みが少しだけ引いたのと同時に、手の流れが止まったように腕が冷たくしびれた。
ジャージにつかないよう傷から細く線を引いて流れる血をティッシュでポンポンと拭く。皮膚が完全に剥けて赤い下の層が見えてしまっている場所は、風で中途半端に乾かされティッシュが引っかかってしまい私はまた舌を噛んだ。
絵の具を先に回収して戻るか迷ったが、仕方なく私は一先ず保健室で手当して貰うことにした。
歩く時に擦れる風で傷がスースーと痛む。私は傷の前に手を立ててなるべく風が当たらないようにした。
さっきまで心地よかった静けさも、今は穴の空いた体を静かに触られるようで気味が悪い。
香織たちが待っているから早く手当をしてもらおうと、少し強めに保健室のドアを引いた。
前にも見た懐かしい保健室の中は、変わらず棚といくつかのベッドが並んでいた。
「あれ、ミク?って、え、その腕どうしたの!?」
ベルみたいな滑らかだけど聞き惚れるような鼓膜に響く音。その音はすぐに割れてしまって乱れて揺れた。
ドアを開くとそこには先生が居らず、代わりに白がいた。
ハクはベッドの上で体を前後に揺らしていたが、私が入ってきたのに気づき顔を緩ませるとすぐに私の腕を見て目を見開いた。
白は急いで私の方へ駆け寄り、乳白色の壁に反射した光を受けてピンク色っぽくなった髪を大きく揺らした。
「なんでこんな、ひどい怪我…」
白は私の腕に両手で包むようにふわりと触れた。ピリリとしびれが走る。
私はもう片方の手でサラリと腕をこすった。乾燥した空気に腕を触れさせないよう傷口からは黄色透明の滲出液がジリジリと溢れ出ている。たらりと湾曲した腕の肉の形に沿って、斜めに液が滑り落ちていく。産毛にも絡みついていくせいで腕がゾワゾワと粟立って思わず腕を曲げた。
「ちょっと待って、先生今日居ないから僕が手当する。」
慌てて白が棚のものを漁りながら絆創膏や消毒液を取り出した。カタカタと小さなものが倒れていく。
「ミク、そこの椅子に座って、腕出して。」
白は棚から落ちた湿布やら絆創膏を適当に棚に押し込み、踵を返して私の手を掴んだ。
「ごめん、染みると思うけど我慢してね。」
小さなコットンに消毒液がしみて繊維が倒れていく。それをピンセットで摘んで白は私の傷に優しく当てた。
ビリビリと紙を破るみたいに傷口から針みたいな痛みが刺さる。きつい痛みに堪えられずに噛み締めた歯の隙間から息が漏れた。
白は「ごめん」と繰り返しながら丁寧に傷を消毒した。ビリビリとしびれる腕が段々と麻痺したように感覚が遠ざかる。それを塞ぐように白は大判の絆創膏をピタリと傷口に触れないよう端のところだけをおして貼り付けた。
外界から切り離された傷は安堵したように少しだけ痛みが引いた。粟立った肌もだんだんと落ち着いていく。
「ありがとう」
白に一言礼を言うと、白はもどかしそうに眉を下げて口の端を歪ませた。窓から差し込む明るい陽が白の白い紙をほんのりと暖かく染めた。
「なんでそんな怪我したの?」
そう言う白の目はいつもより細くて、表面積が狭い分取り込む光の多さも少なくなり少しだけ怖く見えた。
「亜美たちに、やられた。でも、そんな心配するほどの物じゃないよ。明日になればもうきっと瘡蓋になってる。」
傷を食い入るように見て顔を歪ます白の顔がなんとももったいなくて、私は白の顔によったシワを伸ばすように言った。
すると白は傷を見つめていた瞳をぐっとこちらに向けた。三白眼のようになった白の薄い瞳は私をまっすぐ打つように貫いていて、初めて見る白の顔を怖いと思った。はあっと音がなるほどに大きく息を吸って私に向かって何か言おうと口を開いたが、すぐにそれは小さくなって視線を外した。小さくため息をつく白に、何か怒らせてしまったのかもしれないと胸の中がざわつく。
「もしかして、替えの絵の具探し中だった?」
白は私の持っていたポスターカラーの容器を持ち上げ、私の方を振り返った。その顔は無表情で、何を考えているかわからない目の前の白が怖くて私は頷いた。
「一緒に行こう。」
空気みたいな透明な声。
何色でもないその声は私の胸のざわつきを煽った。
「ごめん、」
白が保健室のドアを開けて廊下に出たとき、私は耐えきれずに言った。私が発した声は、保健室の壁と廊下とで複雑に反響する。
「何が?」
白は顔を半分だけこちらを向けて振り返る。
「いや、怒らせたかもって」
よくよく考えれば謝る理由すらわからないのにその場を収めたくて一先ず謝るなんて、逆に怒りを煽ることになるかもしれない。胸がキュウッっとしまった。
はあっと白の口から長い溜息が聞こえた。ビクリと背中が震える。
白は自身の髪をかき上げる。白の細くて白い指の隙間からサラサラと細い髪が束になって落ちていく。その髪の隙間から覗く白の顔はさっきよりも柔らかくて胸を縛ったものがゆるゆるとほどける。
「僕こそごめん。」
白は「いや、」と語句にどもりながら私の方を向いた。
「怒った、とかじゃなくて、ただ、ミクが自分のことを粗末にしてるのがなんか嫌だった、と言いいますか。」
気まずそうに白は語尾を何故か敬語にしてみせた。にへら、と口角を緩ませ、白は私の怪我をしていない方を引き寄せた。
「ごめん、行こ。」
窓から差し込む温かい光のせいか、白の頬がほんのりと赤く染まった。私もなんとなく白の瞳から目線を逸らし立ち上がった。まだ腕の怪我はヒリヒリと痛む。




