35.
私は柵にもたれかかり、透き通った空を吸い込むようにしみじみと欠伸をした。
ぐっと伸びをして首の付け根に柵を当てる。目の前には秋の空。
秋の空は一年の中で一番遠く離れていってしまう。少し前までは頑張れば届くような距離だったのに、今じゃ随分と遠くて、手を伸ばすことすらしようと思わない。
空は少し白色を混ぜた天藍色。その上に細かくちぎった綿がふわふわと乗っている。
どうにも今日は眠くて、私はもう一度澄んだ空気を吸って欠伸をした。
思いっきり腕を伸ばすと、脇腹がチリとハサミで突かれたみたいに痛む。私は上げた腕を振り下ろして、そっと脇腹を撫でた。
これは朝亜美に蹴られた跡だ。昼になった今でもツキツキと地味に痛みが残っている。
私はそれをホコリを払うみたいにパッパッと手のひらでこすった。
すると、ポケットの辺りから重い振動が太ももに伝わる。少しくすぐったくてピクリと足の指を曲げた。
ポケットの中から真新しいケースの付いたスマホを取り出すと、ミサキさんからのメッセージが来ていた。
「今日何食べたい?」
たった七文字の簡潔な文だが、なんとなくミサキさんの優しさが腹に染みる。
「久しぶりにミサキさんのハンバーグが食べたい」
スマホの小さなキーボードを指で擦りながら私はそう打った。さっきまでお弁当を食べ終わったばかりで腹の中はもう随分と満たされているが、頭の中で連想したハンバーグの味が舌に乗って小さな胃の隙間が急に大きくなった。
数秒と待たないうちにミサキさんからの返事が通知音とともに届いた。思わず「早…」と声が漏れる。私は「わかった」とミサキさんから送られたその文字を撫でて、もう一度キーボードをこすった。
「お弁当美味しかったよ」
打ち終わった後、すぐにまた通知音がと届いたが、私はそれを見る前に画面をスライドして閉じた。
ミサキさんは最近わざわざお弁当を作ってくれることが多くて、今日もまた朝仕事が無いからと私の好きなおかずを詰めたお弁当を作ってくれた。
全てのアプリが閉じられたスマホの背景には、夏祭りの香織との写真が写っている。私はミサキさんからもらったひまわりの浴衣で、香織は縞模様の少しモダンな浴衣を着ている。二人とも両手に屋台の料理を握っていて、ぎこちないながらも大きな笑顔を浮かべている。
反射でよく見えない画面は代わりに私の顔を映した。目を下げて口の端がくっと上がった間抜け顔。写真に写っている顔のほうがまだマシだ。
私は少しだけ乾燥した唇を舐めて頬の筋肉を下ろす。
私は今度こそ完全にスマホをきって軽く曲げた背筋を柵に押し付けた。キッと高めの小さな音が背後で鳴る。
夏祭りはすごく楽しかった。目を閉じればまたあの大きな花火の音がする。香織とは夏休み中夏祭りだけじゃなく、新しくできた大きめのお店にも誘われて一緒に出かけた。
私の手のひらに握られた細い金属の塊を包んでいるこのケースも、香織との買い物で香織が選んでくれたものだ。
少しだけ透けたマジックアワーの空を描いたカバーだ。青みがかった紫と濃く光ったピンクのグラデーションは、秋の強い日差しに照らされ一層キラキラと輝いている。私は手に持ったスマホの角度を変えながら、反射する角度で変わるカバーの顔を瞳に映した。
すると、足先の延長線上に付けられた古びて赤錆に蝕まれた屋上の扉がガタリと聞き分けの悪い音を鳴らした。
私はパッとスマホをポケットに戻し、当てのない右手で顔にかかった髪を耳にかけて梳いた。膝が不思議と揺れる。私はもう片方の手で生暖かくなった床をさすった。
扉の向こうには予想通り、白い髪をキラキラと光らせながら片手に本を持ったまま白がゆっくり歩いてきた。
「白」
私がそう問いかけると、白は随分と本に集中していたのか、驚いたように足を止めて、今度はさっきよりも早く私の方へと足を速めた。
「もう来てたんだ。珍しいね、ミクが先に来てるの。」
白は親指で止めていた本のページをしおりも挟むことなくパタリと閉じて、私の隣へと座った。私はさっきまで床をかい撫でていた手を膝の上に置いて、なんとなく白に触れないようにした。
白は持っていた本を両膝に寝そべらせて、柵をぐいと押すように寄りかかって揺れた。
柵は、私のときとは打って違った、まるで人みたいな苦痛の叫び声を鳴らした。
「んー、なんか良いな、こういうの。」
「こういうのって?」
私は背伸びして背中をゆるゆると丸める白に聞き返した。
「屋上に行ったら、必ずミクがいるみたいな、こういう状況?」
「なにそれ」
空に浮かんだうろこ雲みたいに、ポンポン音を出す白の横顔を見る。あい変わらず一切の迷いなく引かれた綺麗な輪郭線は思わず見惚れてしまうくらいきれいで、だからこそ急にかしこまって言う白が面白くて笑いをこぼした。
それを見て白もカラメルを溶かしたみたいなドロドロした声で笑い、私は柵に寄りかかった体を起こし、両手の二の腕を膝に預けるように座った。
「そういえば、ミクのクラスは文化祭なにするの?」
少しだけ粘り気のある声で、白は私に問いかけた。
文化祭。十月にある大きな行事。毎年劇やら飾りつけ、模擬店とか色々な催し物をする。ここの高校はわりと自由度の高い物ができるので、最近は生徒たちが楽しそうに文化祭の話題で話してる様子を何度か見かけた。今は九月上旬だが、今月は丸々文化祭準備となるだろう。
「二クラスずつ合同で劇をやる。白のところは?」
「え?分かんない。話聞いてなかったから。」
溶けた声で言う白はあっけらかんと言う。自分のクラスに興味はないんだろうか。白がどうであれ高校最後の文化祭くらいちゃんとしたらどうだろう。そう言いかけたがどうせ無駄かと思って口を噤む。
「二クラス合同か。あれ、香織ちゃんって子は一緒なの?」
「うん、そう。だから、一緒の係やろうって話してる。」
白は不意に私の肩をくいと寄せて自分の身体にもたれかけさせた。
白のパリッとしていてよく手入れされているのがわかる制服が、私の背中を反発した。
私は白の顔を見上げてみると、いつもの笑顔であったが、一瞬だけさみしげに見えた。それも一瞬で、揺らんだ瞳はぱっと消えてすぐに白は片頬だけ持ち上げて不敵そうな笑みを浮かべる。
「いいね、たのしそう。劇見に行くよ。」
「私は多分裏方だよ。見に来ても分からない。」
白は少しだけ考えるように尖った顎に指を滑らせた。
「んーじゃあ、ミクがやった裏方作業今度教えてよ。それだけ穴開くくらい見ててあげるから。」
わしゃりと白は私の髪をかき混ぜる。
私はそれに抵抗するように白の髪を掴んだ。「痛いよ」と訴える白の顔を、人差し指でつつく。もちみたいな柔い肌は、まだまだ残暑の残るこの暑さだというのに冷たくて気持ちいい。
私は体をぐるりと回転させて、白と向き合うような形でみにゅっと両頬を平手で包んだ。
白の薄い唇が縦にすぼめられていて、真ん中に寄せられた頬はふわふわしていて柔らかい。その顔はなかなか面白くて私は鼻から息を漏らして笑った。
すると白は頬を包む私の手首をひしと握って、腕を引き寄せるようにそのままコツリと私の額に自分の額を押し当てた。白のオーロラみたいな髪がまつげに触れる。驚いて私が顔を勢いよく引くと、白は面白そうに私の様子を見ておどけて笑った。




