32.
「美咲さん」
ドアを開けて、私は口を開いた。
すごく小さな声だったけれど、それでも空間に響いてしまうくらい、ここは静かだった。
きしむ床を優しく踏みながら、私はリビングへと向かった。床の目が、まるで人の顔みたいで、下を向けばたくさんの人に見られているみたいだ。
窓から入る鋭い日差しも、それに反射するキッチンも、目に映る全ての景色がモノクロで、暗かった。
「美咲さん、」
もう一度、今度はさっきよりも大きく喉を震わせて言った。
美咲さんは、涙で目元が滲んで黒くなっていて、綺麗にまとめられていた髪も乱雑に解かれていた。
その目は涙が薄く張っていて、瞳の奥が揺れ動いている。モノクロの世界に立つ美咲さんは、目も髪も黒くて儚くて、怖いけれどきれいだと思った。
この真っ暗な世界は、私のせいで壊れた。だから、また私が直さないといけない。
私は前へと手を伸ばした。
「ごめんなさい。」
声が重なった。
私の声と、美咲さんの声。
皮肉にも、今更血の繋がりを感じた。体がザラリと震える。
でも次に口を開いたのは、美咲さんのほうが早かった。
「ずっと黙っていて、ごめんなさい。」
俯いた顔は、暗くて黒くて、いつものピンと伸びた背筋の美咲さんはその影に吸い込まれてしまってずいぶんと小さくなってしまった。
握りしめている手が、震えているのが見えた。
でも、それを見て私はどうしたらいいのかが分からなくて、手を伸ばすことすらかなわず優しくなんてなれなかった。
私が動けば割れて砕けちゃいそうな空間が、私の小さな声で揺れた。
美咲さんが一つ息を吸い込んだのが空気を伝ってわかった。
「急に家を出ていってごめんなさい、でも、教えてほしい。」
私は、黒く何も見えない美咲さんの顔を見て、それでも目を合わせようと目を開く筋肉に力を入れる。
「あの時、」
美咲さんは、口を開いてまた言葉を選ぼうとして小さな口を閉じた。
掠れて、糸みたいに細い声。
壊れてしまいそうなそれが、どうしようもなく悲しくて、私は一歩前に足を出した。床が悲鳴を上げて、ビリビリとしびれを足に伝えた。
「座って」
水滴一つをこぼすみたいに、でも黒い声で美咲さんは自分の正面の席に促した。
陰って黒く漆みたいに艶めく美咲さんの髪の隙間から、雫が一つ落ちた。その雫さえ黒くて、着地する前にその欠片は砕けてしまった。かすれる視界の隙間でその拳が握られるのが見えた。
「あの日は、私の友達の誕生日だから、一緒に買い物に行こうって大きなデパートに電車に乗って行った。初めて乗る電車にあなたは目を輝かせてた。
デパートの中に入って、いろんなお店に寄って、誕生日だけじゃなくて沢山のものも買った。
それで、あなたがトイレに行きたくなって。でもあなた1人だけ残すわけに行かないから、手を引いてトイレに入って、「少しだけ待っててね。」って言って少しの間だけ離れたの。本当に一瞬だけ。その少しの間だけで、魔法みたいにあなたは消えてた。
すぐにデパート中探し回ったし、店員さんに言ってアナウンスもしてもらった。だけど、それでも見つからなくて、警察に電話した。なかなか見つからなくて、罪悪感で死んじゃいそうだった。もう、死のうと思ったこともあった。だけど、警察のひとりが、何度も私を励ましてくれたの。「絶対に見つけますから。お母さんは迎える準備をしてください」って。本当に救われた。その人がいなかったら、とっくに死んでいたかもしれない。
だけど、結局見つからなくて、警察も捜索を打ち切りにしてしまって。もちろん絶望したし、今度こそ死のうと思った。だけど、同時に良かったとも思ったの。見つからなかったら、少なくとも私の中で生きてることになる。死んでました、なんて報告だけは聞きたくなかったから。
だから、見つからなくても絶対に生きてるって信じ続けた。馬鹿みたいだけど、親子の絆があれば大丈夫だと思った。きっといつか感動的な再開を果たして抱き合えるって。
そしたら、何年も経って急に電話がかかってきて「見つかりました。」って。しかも、誘拐犯は交通事故で死んでしまったって。誘拐犯に一言何も言えなかったのは悔しかったけど、やっぱり親子の絆があれば、悪は滅びるんだって本気で思った。
それで、ついに自分の娘と再会できるってなって、警察の人に案内されてドアを開けたの。その瞬間、「お母さん」って声が聞こえると思って。でも、中にいたのは面影はあるし、正真正銘私の子供だったけど、目に光がなくて、口を開いて最初に「誰…?」って。」
そこまで言って美咲さんは黙った。美咲さんの口からこぼれる言葉の欠片は煌めきながら崩れていく。何度も何度も涙を堪えるように眉を歪ませて綴った。私は、何も言えなかった。
「ああ、この子にとって私はもうお母さんじゃないんだって。なら、もうこのことは言わなくていいかって思ったの。この事を言うことで、目の前の子の”お母さんとお父さん”を汚してしまうなら。だから、ずっと黙ってた。本当に、ごめんなさい。」
そう言って、美咲さんは背中を丸めて私に礼をした。
すぐには、何の行動も取れなかった。「気にしてないよ。」「大丈夫です。」なんて言えるわけがないから。
美咲さんはどんどん遠ざかって小さくなっていくようだった。気づいたように体が動いて、私はひび割れた空間を容赦なく踏んで美咲さんに抱きついた。そうじゃないと、宝石みたいに割れて消えていってしまいそうだったから。美咲さんに、謝らせたらいけないと思ったから。
「ごめんなさい。」
なにが「ごめんなさい」なのかわからないけど、私は美咲さんにそう言った。
涙が、美咲さんの髪にポタリと落ちた。
そこから、モノクロの世界が色づいてくみたいに、あの何度も見た赤味のある茶色が覗いた。
想像なんてつかないけれど、私が知らないだけで、美咲さんはどれだけ苦しい思いをしたんだろう。
たかが数十年生きた高校生には、美咲さんの背中に乗ったそれは重すぎて、私は手を添えることすらできなかった。
「私は、もう栞には戻れないし、美咲さんのことをお母さんとはきっと呼べない。誘拐犯だとしても、どうしても私の親はお母さんとお父さんなんだ。」
「うん」涙で滲んで震えた声で美咲さんは頷く。私はそっと美咲さんの髪を撫でた。白が、私にやってくれたみたいに。
「だけど、だけどね。」
鼻の奥が熱くなる。
なんだ、白の前じゃなくても、ちゃんと泣けるじゃないか。私は瞳に浮かんだ涙を指にそっと乗せた。指を使って指の間へと水滴は滑り落ちていく。
「大好きだよ、ミサキさん。」
ふるり、とミサキさんの小さくなった背中が震えた。
「ミサキさんは、私の大切な人だよ。お母さんなんて肩書きはいらない。私の大事な家族だ。」
堪えられずに、声が震えて、空に溶けてった。
涙はぼたぼたと零れ落ちていく。
ミサキさんも、顔は見えないけれど、背中を震わせながらきっと泣いていた。
穴の空いた体から、溢れる声が混ざって静かな部屋に響く。
涙が落ちるだびに、そこに鮮やかな色が生まれていく。それは、もともとあった色より何十倍も美しくて、涙でボロボロになった顔で笑うミサキさんの顔も全部、抱きしめたいと思った。
何一つ零さないように、ミサキさんと違って筋肉のない細い腕を大きく広げて抱きしめる。
窓から差し込む夏の痛い日差しが、初めて温かくて良いものだと思った。




