31.
どこをどうして家に帰ってきたのかはわからない。
でも、太陽は真上に上がっていて、服は汗を吸って湿っている。全身から汗が吹き出したみたいに、服はずいぶんと濡れていて、私は多分今すごくひどい顔をしてる。
汗も、体の中をうごめくものも私の気分を気持ち悪くさせた。
ドアのカギは閉まっていなかった。
かすかにドアの向こうから音が聞こえる。きっと、美咲さんが帰ってきたんだ。
私はドアを開けた。
肌に柔らかい冷気が触れる。
部屋の中は、程よくエアコンの効いた涼しい空間だった。でも、中身の無くなった私の腹はどんどん冷えていった。
気持ち悪い。
腹の底から、何か酸っぱいものが喉を目指してせり上がってくる。
苦しい。
ぐるぐると回る頭も平衡感覚を失って上手く歩けない。
「おかえり。」
優しくて、目を閉じればあたかも柔らかく抱かれるような声。
視界が、嫌にひらけた。
動画の設定の高画質のボタンをタップしたみたいに、古びた床の染みも、美咲さんの薄くシワのできた肌も全部、気持ちが悪いほどきれいに目に入ってきた。
美咲さんは様子のおかしい私を見て、「どうしたの?」と首を傾げた。
その声はどこまでも優しくて、そして、耳障りだった。
「美咲さん」
気づいたら、口と喉が動いた。
美咲さんは何も知らないまま、ただ自然に眉を上げて私の言葉を待った。
アニメーションみたいに、ゆっくりと動く景色。それが全部、私の肌を逆撫でるみたいだった。
次の言葉は、しばらくそこに出せなかった。
言ってしまえば、全部壊れると思ったから。もういっそのこと、このまま家に上がってなんてことなかったようにあの新聞のことも全部忘れられないだろうか。
でも、言わないなんてことは、どうしてかできなかった。きっと、美咲さんが否定してくれれば、全部丸く収まる話だから。
「お母さんとお父さんは、誘拐犯だったの?」
小さな、小さな声だった。
だけど、キーンと耳鳴りがするほど、私の声はこの空間に痛いほど響いた。
なんとなく、”私の”お母さんとお父さんとは言えなかった。
泣きそうだったけど、泣けなかった。
たった数秒の間だったけど、私は強く願った。意図がわからず困惑した表情の美咲さんを。突拍子もない私の話に驚く顔でもいい。なんなら、不謹慎なことを言う私に怒る顔でも。
だけど、美咲さんの顔に浮かんでいたのは私の望んだものではなかった。
その瞬間、これ以上開けられないほど美咲さんは目を見開いた。顔から血の気が引いていってるのがわかる。いつもの力強い吊った目は、皿のように丸くなった。
「なんで…」
絞り出したみたいな、かすれた声。いつものよく伸びた声じゃなかった。
その声に、全部が詰まっていた。
「私の名前、栞って言うの?」
美咲さんは、固まったまま動かなかった。いや、動けなかったのかもしれない。
頭を叩く棘も、腹からせり上がる液体も、もう消えていた。
もう、何も残ってなかった。
私はガチャンッと盛大な音を出しながらドアを開けて外に出た。
「光虹!!」
後ろから、美咲さんの叫び声が聞こえる。
初めて、名前で呼ばれた。
思い返したら、一度もその名で呼ばれなかった。
じゃあ、なんで今その名前で呼んだの?
どうして私に言わなかったの?
全部、全部。
涙はやっぱり出なかった。
ただただがむしゃらに走った。もしかしたら、徒競走の時よりも速く走ったかもしれない。
日差しも、暑さも、汗も、もう何も感じなかった。
五感が全部消えたみたいに、目の前は何も見えなくて、何も聞こえなくて、何も感じなかった。
でも、走った。そうじゃないと、今すぐにでも身体がバラバラになって壊れて飛んでいきそうだったから。
糸が絡まったみたいに何もかもわからなくなって、どうして家を出たのかも、どうしてこんなに胸が苦しいのかもよくわからないけれど、やっぱり声は出なかった。代わりに、真っ黒な視界の中でまぶたを閉じればまたお母さんとお父さんの顔が浮かぶ。
ふっと、誕生日の日に苦手な料理を頑張ってケーキを作ってくれたお父さんの顔を思い出した。
カラフルにしたかったからって、染色剤をたくさん使おうとしてお母さんに「絵と違うんだから」って怒られてた。でも、二人ともすごく楽しそうで、私も心の底から笑った。「ありがとう」って、ちゃんと立派に伝えた。
アトリエで絵を描くお母さんの横顔は、世界の何よりも美しかった。私がアトリエに入ると、どんなに集中してても私に駆け寄って抱きしめてくれるあの月みたいな笑顔も大好きだった。
授業参観には、いつも来てくれた。
お祭りも、毎年一緒に回った。
怖い夢を見た時は、一緒の布団に入って三人で寝た。
急に、お母さんもお父さんも、全て偽物のように感じた。信じたくないし信じられないけれど、一番近くにいた私でも知らないことなんて沢山あるだろう。お母さんとお父さんが私のことをどう思っていたかなんて。
当然のように、私は愛していたし、根拠なんて無く当たり前のように愛されていると思った。だけど、それが偽物だったら?それこそ根拠のない考えが頭によぎった。
胸に残る三人での思い出の写真が、ガラスが割れるみたいにバラバラと崩れていく。
全部、嘘だったの?
いつも「大好き」ってお母さんがおでこにキスしてくれて、お父さんが太くて力強い腕で抱きしめてくれたのも。
全部、いつも、全部。
気づいたら、転んだ。
真っ黒でなにもない世界に。
さっきまで何も感じなかったくせに、電流みたいな痛みが走った。
身体が、バラバラと落ちていく。
もう、どうでもいいや。
学校も、美咲さんも、カオリとの夏祭りも。頭が冷えていく。もう、全部がどうでも良くなった。
ーーミク。
「ミク」
瞬間、私を包んだ暗闇が明るくなった。なにもないのは変わらない。だけど。
「ミク。」
目の前に、手が差し伸べられた。
白くて、細い手。何よりも透き通った声。そして、周りの色を全て乗せる、綺麗な白髪。
白。
とっさに声は出なかった。だけど、代わりに白が口を開いた。
「どうしたの?」
全部見通したような瞳。そのくせ、いつも遠回しに聞いてくる。
視界が、歪んだ。
ポタリと、雫が一つ落ちた。ぼたぼたと、次々に落ちた。
あれだけ泣けなかったのに、どうして、君の前では泣けるんだろう。
視界がまた暗くなった。だけど、さっきみたいに真っ暗になったんじゃなくて、温かいものに包まれた。
「大丈夫だよ。僕がいる。僕が、君の言葉を全部聞いてあげるって、言ったでしょ。」
背中に回されたハクの腕が、私の背中をなでた。我慢できずに溜め込んだ感情が、全て嗚咽となって出ていく。鼻水も、涙も、きっと私は今ひどい顔をしてるだろう。でも、白は私を抱きしめる腕をほどかなかった。
なんで白がここにいるのか、私がどこにいるかなんて、今はどうでもよかった。ただ、白がここにいるというだけで暴れまわる破裂して溢れそうなものがぐっと身体の中にとどまってくれた。
私は枯れて酸っぱい喉を動かした。
「白、助けて。」
「うん」
白の声は、世界で一番綺麗な音だと思った。
私は、喘ぎながら「助けて」と言い続けた。白は、その一つ一つの言葉を全部だきしめて頷いてくれた。
何一つ形となって浮かんでくれない頭の中で、手のひらを広げてなにかをがむしゃらに取り出すみたいに、私は喘ぎながら白に言った。
お母さんとお父さんが誘拐犯だったかもしれないこと。二人は私が小学三年生のときに交通事故で無くなったこと。親代わりで私を育ててくれていた美咲さんが実の親だったかもしれないこと。
話している内容も順番もぐちゃぐちゃで、支離滅裂だったけど、白はちゃんと私の声に耳を傾けてくれた。揺れる白の髪から甘いムスクみたいな香りが漂った。うつむいた下がぽっかりと穴が空いたみたいに生い茂った草木が顔尾を出してきた。
私は抱きしめてくれている白の腕をぐっと引き寄せて、口からあふれる言葉とも言えないような感情をベチャベチャと吐き出した。えずいて喉がぎゅっと酸っぱくなり私は大きく咳き込んだ。だけど喋り続けないと身体が内側から割れてしないそうで私はえずきながら言葉を吐き出していく。
「ミク、落ち着いて。」
いつもとは打って違った硬い声だった。
「ミク。」
白はぐっと私の顎を掴んで自分の顔を見させるように上に引き上げた。白は無表情で、何を考えてるかわからなかった。端正な顔がより際立ってむしろ怖くも見える。私はえずく喉を鳴らした。
「大丈夫。ミクのお母さんとお父さんはちゃんと愛してくれてたよ。それは偽物じゃない。」
白は真っ白で日焼けのない白目の奥で瞳を揺らした。
「どうしてわかるの。」
そう言った勢いで、私はせり登る苦しさで堪えられずにむせ返す。白は抱きしめていた片方の腕で私の背中を撫でる。目の淵に溜まった大粒の涙がこぼれる。
「ミク自身がその何よりの証拠でしょ。」
白はそう影の落ちた顔で言う。長い瞼が白の瞳により濃い影を作る。私は意味がわからず咳き込みながらも手を伸ばして白にしがみつく。白はその手を優しく包みこんだ。
「お母さんとお父さんはミクのことを愛していたからここまで育ててくれたんでしょう?美咲さんもお母さんもお父さんも、偽物も本物も関係ない。親なんて肩書がなくたって、美咲さんは美咲さんだし、お母さんとお父さんもお母さんとお父さんだ。光虹は自分が与えられた愛が偽物だと思うの?」
白の顔がぐらぐらと歪んで色と色が混ざり合って滑る落ちる。そしてすぐにピントが合う。
「愛は嘘をつけないんだよ。人間の一番強い感情だから。」
黒く塗りつぶされていた世界が、白によって破り捨てられた。空には燦々と輝く太陽。弱った目には痛いほど眩しくて、私は目を閉じた。その拍子に押し出されるように涙がこぼれる。この空が、本物じゃなくてもいいと思った。何よりも強い天色に、薄く引き伸ばされた雲が包むみたいに引き詰められている。閃光みたいに私の目にまっすぐ届く光は、白の光にかき消されて霧散していく。そこから光の欠片がパラパラとこぼれていく。また視界が歪んだ。
「ミクはミクだよ。」
風が横から殴るみたいに吹いた。夏になって、久しく感じていなかった肌の感覚。白の髪がぶわりと浮かんで、まっすぐ通った眉が覗いた。
涙が、溢れた。
さっきまで泣きはらしたというのに、枯れずに私の涙は流れ続けた。まるで白が私に涙を注ぐみたいに。
「栞でも、光虹でもない。君はミクだ。僕が名付ける。君が誰か分かるように、僕は君の名前をずっと呼ぶよ、ミク。」
この世界で、一番の音。
何よりも透明で、何よりも輝いてる音。
その声で呼ばれる私は、なんて幸せなんだろうか。
白は、何度も私を読んでくれた。名前じゃなくて、私を。
私は、生まれたばかりの赤ん坊みたいに、声を出して泣いた。喉が枯れるまで、ずっと泣いた。
白は、ずっと私を抱きしめてくれていた。
きっと、この瞬間、私はこの世界に生まれたんだって、そう思った。そう思いたい、と。




