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「星が綺麗ですね」× ∞  作者: 桜凜翠
卯の花色
30/58

30.

 じわりと額に汗がにじむ。

 無風の中、ただただ湿度の高い空気がサウナみたいに充満していて逃げ場がない。

 顎まで滑った汗がパタリと服に落ちた。

 せめてもの抵抗として額の前に手をかざしてみるが、無慈悲にも太陽光は私の肌をジリジリと焼いた。

 眩しさのせいで空を見上げることは叶わないが、きっと不透明みたいな何にも負けない濃い天色の空をしているのだろう。

 足元に伸びる濃い影がそれを教えてくれた。

 強い日差しは頭まで痛くなってきそうで、私は歩くスピードを上げる。

 数日前から夏休みに入り、私は今日『羽のない僕たちは』という本を返しに来た。

 手元を見ると、少しだけ加工されて表面がキラキラ光る本が暑さのせいで歪んで見えた。

 香織と私を繋いでくれた本。

 私はつっとそれを撫でた。

 ふわりと自分の影に四角い大きな影がかかり、ようやく市立図書館についた。

 私はさらに足を速め、外にある返却ボックスを無視して入口に近づく。

 自動ドアをくぐると、体を這った汗がピタリと止まり、汗全てが冷えて氷になってしまいそうなくらい、外とは全く違う別世界だった。

 エアコンの効いた屋内は、夏であることを忘れるような涼しさで、暑さで気分まで溶けてしまった体が息を吹き返す。

 はあ、と思わず息が漏れる。

 ハンカチで額の汗を拭い、なるべくこの涼しさを味わっておこうとゆっくりと歩いて階段に向かう。

 階段に貼られているポスターは前に来たときと違って一新されていて、夏を感じさせる張り紙がたくさん貼られている。

 中には夏祭りの張り紙がでかでかと貼られている。

 そういえば、そろそろか。

 全部で三日間行われる夏祭りは、毎年たくさんの観光客が市外からやってくるので騒がしいな、というくらいの印象しか残っていない。けれど、今年は違う。実は、この間交換した連絡先を使ってカオリから夏祭りに一緒にいかないかと誘われたのだ。今まで友達と出かけたことがなく、浮かれた気持ちのまま美咲さんにそのことを話すと、私以上に喜んだ顔で「これ使って」と着物とお小遣いを渡してきた。流石にそこまでして貰うわけにはと一度断ったのだが、美咲さんは満面の笑みで「いいから、いいから」とまさかの新しい帯まで新調してくれたのだ。

 正直申し訳ない気持ちのほうが強いのだが、初めての同級生とのお出かけ、という響きはすごく魅惑的で、ワクワクしながら楽しみにしている自分がいる。

 自分のことながらここまで子どものように浮かれてしまっている自分が恥ずかしいと半分思いつつ、それでもこれくらいはいいだろうと思ってしまっている気持ちが半分。

 私は夏祭りと書かれた大きな明朝体を指でそっとなぞった。

 二階につくと、やはり夏休みだからか、それとも本来の人数がこれくらいなのか分からないが、以前来た時よりもずいぶんと人がいる。

 カウンター前の席で勉強をする人や本を読んで休憩してる人、パソコンで何やら本を検索してる人など、多種多様な人たちがたくさんいる。

 私は小さい頃からの癖で、すれ違った人などの観察、いわゆる人間観察というのが好きだ。特に何が面白いというわけではないが一歩離れた場所から人々を眺めるのが好きなのだ。

 つい遠くにいる男性を眺めてしまっていて、一瞬だけパチリと目があってしまい、私は慌てて目をそらした。

 目をそらすと同時に、カウンターへ向かって本を返しに行く。そこには爽やかそうな清潔感のある司書さんが座っていた。

 私がカウンターに近づくと、司書さんはこちらに気がついたようにぱっと目線を上げて笑みを浮かべる。

 その顔は営業と割り切ったような笑顔ではなく、優しそうな自然な笑顔で警戒心が解ける。

 初対面の人が苦手だというのは、人間観察の理由の一つにも在るのかもしれない。

 「返します。」

 そう静かに言うと、いつもより高めの声が出て一人で少しだけ気まずくなる。

 「ありがとうございます」と答えた司書さんは私がカウンターに置いた本を両手で預かった。

 一応、バーコードの部分を上に向けておいたが、それでよかったのだろうか?

 本を司書さんに預けたあと、このまま帰るのもなんだかもったいないような気がして本棚の方へと歩みを進めた。

 とりあえず、どこにどんな本があるのかよくわからず、棚全体を眺めてみる。

 前はそこまで見る余裕はなかったが、いざ改めてみると、棚のあちこちに作者名と書かれ、作者の一文字目が「あ」だったり「さ」だったりと五十音で印付けられた紙が挟まっている。

 さっきの本の作者。なんだっただろうか。

 本を読むことを進んですることなんてないから、作者名など気にもしていなかった。

 初めて「美しい」と思った本だ。作者名くらいは覚えておこう。

 そう思って記憶の棚の戸をガタガタと漁ってみる。

 しかしフルネームを思い出すことはできず、なんとか思い出したのは一文字目の「黒」だった。

 「黒」だから「く」と書かれたところ。

 私は五十音順を追って探してみる。

 「あった。」

 そう小さい声が漏れてしまい思わず口を覆う。

 ふわりとこもった空気が口元に触れた。

 「黒」から始まる作者の本は一つしかなかった。

 『黒澤粋』これが作者名か。多分、記憶に残っているあの表紙にも、この字が書いてあったはず。

 読んでみようかな。

 また、あんなふうに感動する物語とで会えるかもしれないと、胸がパチパチ淡く高鳴るような期待を込めて、そっとその本を取り出した。

 題名は、『愛したいのに愛せない』。真っ白ななにもない表紙に、何の変哲もない明朝体でそう書かれていた。

『羽のない僕たちは』とはずいぶん違う様子の表紙だ。

 でも、真っ白だからこそ、ここにどんな色が乗るのだろうかと下腹のあたりからふつふつと期待の泡がせり上がってきた。

 一先ず、この本を借りよう。

 そう思い私は踵の向きを変え、再びカウンターへと向かった。

 カウンターはさっきまで空いていた席にも司書さんがいて、その人は何やら忙しそうにパソコンに向き直っていた。

 邪魔をしてはいけない。そう思って私はもう一度あの爽やかな司書さんの方へ本を運んだ。

 「借ります。」

 そう言って私は持っていた本と、前の本を借りる時に作ってもらった図書カードを差し出した。ザラザラとした本の質感が指先から離れる。

 司書さんは笑顔で、かつ手際よくバーコードをスキャンし、出てきたレシートのようなものを挟みながら「じゃあ、また二週間後に返してくださいね。」と言って私に本を差し出した。

 「ありがとうございます。」

 受け取った本の厚みが指に乗る。でもそれは期待の重さだった。

 私は笑顔を浮かべる司書さんに会釈してカウンターから離れる。

 空からこぼれるカーテンをも貫通する日差しは、繊維の間を通ってろ過され、先端の丸くなったずいぶんと柔らかい光となっていた。

 手のひらを上に向けると、光の綿がほわほわと乗ってくる。

 温められた手のひらの半分はずいぶんと薄くなっていて右から左へとグラデーションになっていく。

 薄く血管の覗く手首は光のせいでより透き通って見えて、紫の血管が細々と見えた。

 私は特に用はないけれど、まだここから出たくないな、と思い自分の背より数十センチほど高い棚に囲まれながら奥へ奥へと進んでいく。

 棚のすぐ横を通るときだけは光の綿が遮られ、そこから一歩踏み出すとまた黄色い光が片頬を照らす。

 床は棚の影と光とで縞模様ができていた。

 グレーがかった床は黄色が混ざって暖色へと姿を変える。

 奥へつくと、そこにはドアがありもうちょっと向こう側へ行けるようだ。。

 立入禁止というわけではなさそうで、扉の横には「新聞・雑誌」と書かれている。どうやら過去の新聞などを保管して利用者が読めるようになってるらしい。

 知らない場所を切り開くような興味本位で、私はドアを開けて中にはいってみる。

 「おお…」

 そこは紙やインクの匂いで満ちていて、所狭しと新聞が丁寧に置かれている。

 秘密基地のような、自分だけしかいないこの状況に少しだけ胸がそわりとした。

 本とはまた少し違ったこの匂いも、心が休まるような心地いい香りで、私は一度大きく息を吸ってみた。

 肺いっぱいにこの香りが満ちて、胸が熱くなる。肺から送られた空気が体を回って私もこの部屋の一部になったような感覚だ。

 さらに奥に進むと、古い新聞などは縮印版となっていて、小さなポスターのようになっている。

 見てみると、記憶に残っていないものがほとんどだけれど、ちょっと昔の歴史の片鱗に触れたようで指がシュワシュワする。

 どこまで古い新聞があるのか気になって、私は奥へと進んでみる。

 新聞でもデザインがちょっとずつ違ったりしていて、考えられて作られているんだな、とおもった。

 すると、そこを通りかかったとき、一瞬だけ見覚えのある文字が見えた気がして足を止めた。

 それは、一枚の縮印刷だった。

 「児童誘拐6年ぶりの親子再会」

 黒い背景にデカデカと書かれた白いゴシック体の目立つ文字。その新聞の中には、「佐藤美咲(27)」と書かれていた。

 途端に、目の前の新聞以外から視線を外せないような、それ以外見えないくらいに周りが真っ暗になった。

 身体が硬直して、ピクリとも動かない。

 体の中身が全部吹っ飛んで、自分が抜け殻みたいになった感覚。

 腹の底に心臓は無いのに、ドクドクと大きな音を鳴らしながら冷えていく。

 「美咲さん…?」 

 絞り出した声は、震えていた。

 私は、その新聞に触れることができなくて、でも目をそらすこともかなわずただ食い入るように新聞に敷き詰められた小さな文字を見つめた。

 その真ん中に、知らない名前と、私のお母さんとお父さんの名前があった。

 「当時二歳半だった佐藤栞ちゃんは、美咲さんとデパートで買い物をしていたところ、はぐれてしまいそのまま容疑者夫妻に誘拐された。そのまま六年の歳月が経ち、五月二日未明、容疑者夫妻が交通事故で亡くなった。それがきっかけでこの事件が…」

 誘拐。

 私の視界は、ついに真っ暗になった。

 新聞に向かって伸ばした手も空を切る。

 違う。違うはずだ。

 佐藤美咲だって、お母さんとお父さんの名前だってよくある名前だ。それに、私は佐藤栞じゃない。光虹だ。

 目の前も、床も、立っているのにそこには何もなくて、私は膝をついた。

 膝にはなんの感触も触れなくて、もう、何がなんだかわからなくなった。

 混沌の渦となった頭の中にお母さんとお父さんの顔が通り過ぎる。

 誰でもいい。ただ、否定してほしい。

 身体は思うように動かないのに、頭の中だけがぐるぐると棘のようなものが回って、ガンガンと内側から私を叩く。

 鋭い痛みが神経を破るような勢いで通って全身に訴えてくる。

 手も足も胸も腹も全部がビリビリと痛くて、もうどこが痛いかなんて分からない。

 目頭がこれ以上ないくらい痛くて熱いのに、どうしたって涙が出てこなかった。

 胸が、苦しい。 

 もう、自分の姿さえ見えなくなって、世界に全部飲み込まれていった。


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