25.
練習が終わり、私は開始前に置いておいたハチマキを取りに向かった。
「おい」
すると後ろから、太くて低い、不快感をあらわにした声が聞こえる。
亜美だ。何度も聞いたその声は振り返らずとも分かった。体を後ろに向けると案の眉をひそめ目を細めて三白眼のようになった亜美の顔があった。
私は何も言わずに黙って次の言葉を待つ。
まだ先生の目が届く範囲だから暴力を振るわれることはないだろうが、それでも背筋は冷たくなった。
瑠夏も遥花もいない、亜美だけだ。
すっと深く息を吸う。
「あんま調子のんなよ。」
亜美は口の端を下げたその口を上げることなく開いてそう言った。言い終わったあとでも変わらず亜美はこちらを睨みつけ、この場から去ろうとしなかった。
目をそらしたら何故かだめな気がして、私はさっきみたいに言い返すことも出来ずただ血管の透けた亜美の瞳を見つめ返した。
亜美の眉間のシワがさらに一つ増えた。
「死ねよ。偽善者。」
銃みたいな、恐ろしく重い声。
ついに亜美が目をそらし、そう言い捨てて帰っていった。
ヘビに見つめられたカエルみたいに、硬直していた体がどっと脱力する。
「偽善者」亜美はよくこの言葉を浴びせてくる。耳のこびりついたそれを私は瘡蓋を剥がすみたいにゆっくりとめくった。
偽善者なら、傍観者と貫いているクラスメイトや先生方のことを言うんじゃないだろうか。
私は踵を返してハチマキの方へと駆け寄った。
幸い誰かに取られることもなく最初の綺麗に畳まれた状態と何も変わっていなかった。
乾いてしまったせいで土が黒くなってしまい白いハチマキがまるで黒いハチマキのようになってしまっている。
私はそれを掴んで校舎の中へと進んでいく。
大半の人がすでにいなくなっているせいで、いつも騒がしい廊下はずいぶんと静かだった。先生に注意されるのではと少し焦ったが、別に完全下校でもないのだからおそらく大丈夫だろう。
玄関から一番近い手洗い場でハチマキを開いて蛇口をひねる。
ジャーという音とともに蛇口の口から連なった水が流れてきて、タン、タン、と大きな雫が落ちていく。
静かな廊下にその音が嫌に響く。
この状況で誰かにあったら気まずいな。そう思って廊下に響く音を出す雫に少しばかりいらだちを募らせた。
ある程度湿ったハチマキをこすりつけ泥を落とす。塊になった泥は簡単に落ちるが、染み込んだ色はなかなか取れない。
目を凝らしてみれば繊維の一本一本にまだらに色がついている。
繊維の糸と糸とをこすりつけるが、縦と横にきれいに広げられた糸の組み合わせが崩れていくだけで、時間だけが過ぎていく。
しばらくの間、なかなか落ちない汚れに悪戦苦闘していたが、誰もここを通らなくて気づけば安心しきっていた。
「あれ?」
その音が耳に届いた瞬間、廊下の中にこだまするその音が何度も頭の中で反芻された。
手の動きも水も水滴も、景色も全て止まった。
今流れる水道水よりも透き通って滑らかな声。
振り返らなくてもわかる。何度も何度も聞いた言葉。声を発した人物が次の言葉を紡ぐ前に、私は口を開いた。
「白」
そこには予想通り、白がいた。
薄暗い廊下のせいで、白の白い肌は素直に青やら緑やらの色を乗せている。
それでも透き通って見える白の頬がくいと上がり、三日月みたいなきれいな笑顔を浮かべた。
「久しぶり。でも、二日だけか。すごい長く感じる。」
胸の底から、なにかせり上がってくるみたいだった。
でも、それは気持ち悪いものじゃない。
朝の、香織と話してたときと同じ胸の苦しさ。
「久しぶり。」
私がそう言うと、白はまたあのきれいな笑顔でニコリと笑った。
それを、目に焼き付けるみたいに見つめた。電気のついていない薄暗い廊下でも、白の瞳は薄くて少ない光を取り込んでキラキラしていた。
クラスの彼らみたいに真っ黒じゃない。透明で透き通った瞳だ。
「どうして最近いなかったの?」
そう聞いてみたが、白は三日月の口を横に引き伸ばして頬を丸く突き出した。
「なに、僕がいなくて寂しかった?」
白は首を少し傾けてはぐらかす。
私はどの言葉を選んでもなんだか上手く表現できない気がして否定も肯定もしなかった。
寂しかった。どうだろうか。今考えると練習のときに白を探したり屋上へ言った理由が自分でもわからなくて思考が停止する。
「ところで何してるの?」
その時の私の顔はどんなものだったのだろう。
私を見て白は水道水が滴る手元に視線を滑らせる。
白の透明な瞳には細部までもが見られてしまっているようで、肌がこそばゆくて粟立つ。
消えていた水道水が手洗い場の銀色の部分を叩きつける音が鼓膜に再び帰って来た。
私は流しっぱなしにしていた蛇口のことを思い出し、慌てて蛇口を反対側にひねって止めた。
それでも急に止まることのできなかった雫たちはポタポタと蛇口からこぼれ降りていく。水滴には湾曲した私達のいる景色が映っていて、それは重力によってグニャグニャ曲がりながら分散していった。盛りも下げもしないありのままのこの景色を映す丸い鏡のかけらたちは薄暗い中でもパチパチと光りながら跳ね上がる。
私は薄く黄色の残ったハチマキを親指でこすった。
「これ、練習のときに水たまりに入ってた。土が固まって黒くなっちゃったけど、結構きれいになったよ。」
別にこの運動会の僅かな間だけで使うものだ。たいして綺麗にしなくてもいいだろう。そう思って私は早々にハチマキを絞り始めた。
「あ!」
ぽんと跳ねるピンポン玉のような声。
顔は見えないが白の口を縦に伸ばした顔が想像できる。
「ん?」と私が顔を少しだけ白の方へ向けると、「最近知ったんだけど」と白が続けて話し始める。
「黒と白って、どちらも語源はblackなんだって。」
自信の満ちた声で豆知識を披露する白の声は少し離れたところからでもよく聞こえた。
「そうなの?」
引き絞られてシワの寄ったハチマキからは、もう水分は抜けきったようで、私はハチマキをひらいて白の方へ体を向けた。
ハチマキのせいで湿った指は、乾いた空気に中途半端に乾かされ、柔くなった肌でハチマキを引き伸ばした。
白はそのハチマキに指を当ててすうっと撫でた。近づいた白の頭からかぶさった白い髪は相変わらず綺麗で、私はそっとそれに触れてみた。
冷たいけれど、つるつると滑る髪には艶があった。白が瞳だけを上に上げて私の顔を上目遣いでなぞる。その瞳は優しく柔和な視線だったが、反対に鋭くもあって私はその目から逃れられずに口を開いた。
「知らなかった。」
白は頬を持ち上げて、目尻を山のような線で描かせた。
「そう、びっくりするでしょ。」
白は顔を持ち上げて廊下に座り込み、膝を持ち上げてあぐらをかいた。その顔には意気揚々とした表情が乗せられている。上半身をゆらゆらと揺らしながら、両手で足の関節部分を握っている。
「でも、色は全部混ぜたら黒のなるけど、光は全部混ぜると白になるから、たしかにって思わない?」
白、か。白と言ってしまえば白が真っ先に浮かび上がった。自然と白と視線が合わさる。私は素直に頷いた。
黒はやはり亜美たちが浮かんだ。でも、クラスメイトたちも黒ではないけれど明度の高い原色たちが混ざって濁ってしまったような色にしか見えなかった。
そして白はくるぶしから手を離して人差し指をピンと立てた。
もはや合図となったその動作を視界に捉え、私は白の次の言葉を予想した。
立ち上がった私に視線を合わせるように白は線の細くシャープな顎を上げてこちらを見つめ返す。
白が床に座っているせいで、自然にうつむきがちになった視界の端を重力に従い垂れた髪が覆い隠した。
玄関から廊下までを通って薄くなっていった光が白の顔半分に当たって、右から左へと白の肌にグラデーションが完成させる。
私はハチマキを畳み込んで手のひらに収めさせ、白の隣に静かに腰を下ろした。
体操服越しにひんやりとした感触が足を撫でる。もう少しで夏だと言うのに、さっきまでの暑さは消え去ったように空気は程よく冷めていた。
目の前の景色こそ違うけれど、白の隣りに座ってしまえばこの冷たい廊下はいつもどおりの屋上だった。
「でもこれ、人もおんなじだな―って思って。」
私は無言で白の輪郭線のきれいな横顔を眺める。
白の言った言葉がなんとなく予想していたセリフと近しいもので、少しだけ嬉しく感じる。口の端がほんの少しだけ上がったのが自分でもわかった。
「小さい子たちとかって、すごく純粋できれいに見えない?反対に、疲れた大人は暗く見えるし、純粋とはあまり言わないでしょ?」
白は立てた人差し指を制服で綺麗に包まれた膝に押し当てた。肉の感じられないその足はやはり反発する肉など無くただ硬い骨にカツンと当たった。
「さて、ミクに問題です。」
突如、白は体を私の方へ傾けて、よくいるクイズ番組の司会みたいな話し方で問いかけてきた。
白の肩の感触が私の肩に触れた。その感触は冷たいけれど骨みたいに硬い。白の髪がサラリと私の頬を撫でる。艶のある髪は耳に擦れてこそばゆかった。
「子供から大人になるにつれて、純粋とか、無垢とか言えなくなっていくのは、何が消えるからでしょーか。」
白は語尾を元気よく伸ばし、まるで小学生のように朗らかに問題を述べる。
白が純粋だと感じるのは小学生みたいだからなんじゃないだろうか。そんな考えがよぎった。
私は人差し指を顎の下に当てて、白の問いについて考えてみる。
消えるもの?考えてみてもあまりしっくりくる答えが浮かんでこない。頭の中をふわふわといびつなものが浮かんでは混ざって消えていく。
そのどれもが掴みどころのない物体ばかりで、変わらずぐるぐると頭の中を回っている。
「世の中の汚い部分を見ちゃうから…?」
結局答えがわからず、間違っているだろうが素直に思ったことを言ってみる。
白は目を丸く開いたあと、ハハハ、と、空気を吐き出しながらきれいな音で笑った。
間違っているだろうとは考えていたが、笑われるとなんとも恥ずかしくて口の中を軽く噛む。
私が黙っても白は変わらず笑っていた。
「でも、惜しいかも。答えはね、”光”を失うからだよ。」
「光?」
「そ。光のある人は皆、何を見ても何を経験したとしても光ってるからその見たものや経験したものを全部混ぜて色は白に近づいてく。だけど、光を失っちゃったら色にもみくちゃにされて黒くなっちゃうんだよ。」
今まで白が言ってきた中で一番、「たしかに」と思った。
白は更に上を見上げて顎をくいとあげた。
シャープだけれども先の方は丸く持ち上がる白の輪郭線に光があたって白くなる。
「白は白いね。」
そういった私の声は白に拾われることなく静かな廊下の空気に染みていった。
白はあげた顎を下ろして私の方へ鼻先を向けた。
さっきまで細められていたアーモンド型の瞳が一回り大きくなっていて、クリアーな白の瞳がよく見えた。
「え?」
キョトンとお約束の音が聞こえてしまいそうな、白の困惑した顔は珍しくて私はふっと鼻から空気が漏れる。
「そう?光ってるってこと?」
白は口をわずかに開き、首を後ろに引き伸ばして目線を泳がせながら言った。
ふっくらとした唇に人差し指をふわりと触れさせて、白は目線を反らした。
「よくわかんないけど、ありがとう。」
「ありがとう」と言った白の声は少しどもっていて、伝染するように私も気恥ずかしいような気分になる。
白は瞳だけちらりと横にスライドしたが、私と目が合うとすっと反らして顔を下にうつむかせた。
髪の隙間から覗く綺麗に描かれたEラインは髪よりも白く透き通っていた。
白は私の手の中にあるハチマキを取り出し、サラリとハチマキを広げた。
そのまま繊維を軽く広げるように親指で薄く汚れた部分を見つめている。
手元の寂しくなった私の手のひらが空を掴んで、四本の指を滑らすように握った。薄くなった瘡蓋がところどころささくれみたいに剥がれていて、その部分からピンクに寄った赤色の皮膚が覗いているのを見て私は目を細めた。
私の頬を撫でるこの場所の空気が、温かい青色に染まっていった。
白の髪も青っぽく光っている。でも、右上あたりは緑がかった薄めた影浅葱で、部分部分で色が変わっている。
どれだけ染まってもやはり白を表す色は白でしかないなと思い、頭の片隅の、卑しい部分が私もそうなりたいと信号を送った。
「でも、光を失っちゃった人も、努力すれば取り戻せるんだよ。」
今考えていたことが無意識のうちに漏れてしまっていたのかと動揺したが、白は変わらず前を見ているだけだった。
足の指にきゅっと力が入った。
「努力の仕方は色々あるけど、一番効果があるのは人にやさしくすること。」
そう言った白の言葉で、香織の言っていた「周りの人が喜んでもらえることを意識してやってる。」という言葉が思い出された。
周りの人にやさしくして、優しくすることに喜べるようになったら。だから香織は白に近いピンクみたいな雰囲気がしていたのかもしれない。
「人の悪いところを見つけて、それを口に出せば、それは自分に跳ね返って色を汚してく。」
まさに亜美たちのことだと思った。亜美たちも最初は白だったんだろうか。想像ができなくて瞳だけが右上へと登っていく。
でも、それは自分もなのかもしれないと喉の奥が酸っぱくなった。
人の悪いところを見つければ黒くなる。だからこそ誰かの良いところを見つけるのはすごく難しい。だけど、それが難しいからと諦めるのは、白の前では怠惰な気がしてしまってならなかった。
だけども、亜美たちのいいところなんて見つけて何が変わるのかなんて思ってしまって腹の底を平手で押されるような気分になる。
誰よりも憎くて嫌いな彼らのいいところなんて見出せる自信も柔らかいプライドもなくて、同時に自分の惨めさが浮き彫りにされたようで苦しくなる。
「人の悪いところじゃなくて、いいところを探すってこと?」
白が頬にかかった私の黒髪を耳にかけると、白の冷たい指が肌に触れた。白の髪と私の髪が混ざりあう。
白の触れたところから、慰められたみたいに苦しさがふっと開放されていく。
「大丈夫だよ。いきなりミクをいじめる人たちのいいところを見つけろなんて言ってない。身近な好感度の高い人からでいい。そうすればいつもより楽しく一日を過ごせるから。」
語りかけるような、優しい声。
白の私の心まで汲み取ったような言葉に、恥ずかしいけれども安心させられた。
私は寄りかかった白の肩に触れるように、首を傾けた。私の髪と白の髪とが混ざり合って胸へとすり抜けるみたいに髪が垂れた。
白と触れたところから温かさが伝わってきて、私は乾いた目を閉じる。
「あとは、初心に戻るのも大事かな。小さい頃大好きだったこととか、諦めたものをもう一度チャレンジしてみたりするの。」
閉じた瞼に染み込む白の声。
「諦めたもの」それで真っ先に浮かんだのはやはり絵だった。
今まで思い出さないようにしていたそれをいつものように反射的に隅へ避けてしまって、それを白に取り戻されてしまった。
胸から首にかけて、ぐわりとした悪寒とは少し違うけれど不快な感覚が包み込んだ。
今更、絵を描く自分の姿が想像できない。
描きたいものだってないし、キャンパスを広げればまたお母さんとお父さんのことを思い出してしまう。
白の方を見ることが出来なくて、私は足先をじっと見つめた。
「そろそろ帰らなきゃ。ごめんねミク、先に帰る。」
隣で白が立ち上がり、制服と壁がこすれて音を出す。
「さよなら」
私は特になにか言えるわけじゃなくて、片手を上げて白に振り返した。白の顔は逆光となっていて表情が見えづらい。
それでも指の感覚を揃えた細い指が私に向けて左右に揺れた。
「またね」
そう言って白は、ほとんど足音を立てることもなく玄関へと去っていった。
白の背中が見えなくなるまで、こちらをが振り返るわけでもないけれど手を振り続けた。
そして完全に白が見えなくなって、この空間に完全に一人となった。
家に帰ったらスケッチブックを取り出そうか、と考えがよぎったが、どうしても出来ない気がしてせめて運動会が終わったらにしよう、と頭の中の重しをどけた。白に言われてまでした絵を描く事を、やはり無理だからと諦めるのは後味が悪くて、私はそれをごまかすために自分を説得させた。
薄い光でできた薄い自分の影の輪郭をなぞるように眺める。
白色も黒色も同じ。なら、亜美たちは白色とも言えるんだろうか。




